春の訪れを告げるカーニバル

祭りに託した人間の願い


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春の訪れを告げる
カーニバル

リオのカーニバル (Carnaval do Rio de Janeiro)


※マルコによる福音書(ふくいんしょ:イエスの言語禄) 第1章9節〜13節
 「口語 新約聖書」 日本聖書協会、1954年


  そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、

  ヨハネからバプテスマ(Baptisma:入信の洗礼)をお受けになった。

  そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、

  聖霊がはどのように自分に下って来るのを、ごらんになった。

  すると天から声があった、

  「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

  それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。

  イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。

  そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。





キリストの復活を記念するイースター(Easter:復活祭)は、キリスト教に

とって最も大切な日。そのイースター前には四旬節(しじゅんせつ:Lent)

とばれる準備期間があります。四旬節はイエスが荒野で40日間の断食を

したことに由来し、この間は日曜を除いて肉を断つ義務があったとされます。



その四旬節が始まる前に行われるカーニバル(謝肉祭:しゃにくさい)。

カーニバルの語源は、ラテン語の「carne vale」に由来し「肉よさらば」という

意味があります。40日間にわたる禁制を前に、大いに肉を食べ、酒を飲み、

冬の陰気さを吹き飛ばす無礼講の習慣が生まれ、それがカーニバルとして

定着したといわれます。ちなみにカーニバルは教会とは関係のない行事だそう。



カーニバルといえば良く知られるのが「リオのカーニバル」。

ブラジルの宗教は約65%がカトリック、約22%がプロテスタントであり、

人口では世界最大のカトリック国家だといわれます。

(ブラジル地理統計院、2010年、外務省ブラジル基礎データ)



○神秘な遺跡・情熱のタンゴ|多様な文化が交差する南米


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Rio Carnival 2017 [HD] - Floats & Dancers (Extended Version)
The Best of Brazilian Carnival

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毎年日にちが変わる
カーニバルの時期

「ゴンドラでの水上パレード」 ヴェネツィア・カーニバル


イースター(復活祭)は春分後初の満月の次の日曜日に行われます。

四旬節はイースターの前日からさかのぼり安息日を除いた40日間。

四旬節の始まりは「灰の水曜日」と呼ばれています。



カーニバル(謝肉祭)は、灰の水曜日前の3日間で行われます。

最終日となる火曜日(灰の水曜日の前日)は「太った火曜日」と呼ばれ、

イタリア語では「grasso:グラッソ⇒太った)と呼んでいます。



このようにカーニバルは毎年日にちが変わる移動祭日であり、

2018年は2月11日(日)〜2月13日(火)の3日間で行われます。



※2018年の日程

 ○カーニバル (謝肉祭) 2月11(日)〜13(火)の3日間
 ○太った火曜日 (カーニバルの最終日) 2月13(火)
 ○灰の水曜日 (四旬節の初日) 2月14日(水)
 ○レント (四旬節) 2月14日(水)〜3月31日(土)
 ○聖木曜日(イエスが使途たちと最後の晩餐をとった日) 3月29日(木)
 ○聖金曜日(磔刑による受難) 3月31日(金)
 ○イースター (復活祭) 4月1日(日)



※2019年の日程

 ○カーニバル (謝肉祭) 3月3(日)〜5(火)の3日間
 ○太った火曜日 (カーニバルの最終日) 3月5(火)
 ○灰の水曜日 (四旬節の初日) 3月6日(水)
 ○レント (四旬節) 3月6日(水)〜4月20日(土)
 ○イースター (復活祭) 4月21日(日)



○Carnevale di Venezia|新たに甦る有翼の獅子

○地中海の風に誘われて 宝石のような街並みへ

○生命の跳躍|海洋を統合的に理解する


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近づきつつある春の訪れを祝い
豊作を祈る

「プリマヴェーラ(春)」 1482年頃 サンドロ・ボッティチェッリ
ウフィッツィ美術館、フィレンツェ


カーニバルの時期は「サトルナーリア(サトゥルヌス)」という農耕神を祭る祝日でも

あり、農村では近づきつつある春の訪れを祝い、豊作を祈ったと伝えられます。



また、古代ローマ時代には、春のきざしが感じられるこの時期、奴隷たちは解放され、

年に一度の無礼講が許され、貴族や市民たちは馬鹿騒ぎを楽しんだそう。



○食・農・里の新時代を迎えて|新たな潮流の本質

○プリマヴェーラ|悲劇によって道義を知る「虞美人草」


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身分や価値観の転倒
カーニバルの起源

「我が子を食らうサトゥルヌス」(1819-1823年)
フランシスコ・デ・ゴヤ プラド美術館


カーニバルの起源については諸説あるそうですが、その一つとして、

古代ローマにおいて農耕の神であるサトゥルヌス(Saturnus)を祝った

冬の祭り「サトルナーリア(Saturnalia⇒サトゥルヌス祭・農耕祭)」を

キリスト教が取り入れたとする説があります。



サトルナーリアでは、主人と奴隷の社会的役割が入れ替わり、

飲めや歌えやの大騒ぎをしたとされ、身分や価値観など秩序

が転倒するところに特徴があります。



実際には秋に収穫した作物が少なくなってくる時期に、

食べ物を節制する意味があったのではないかと考えられています。



○画家ゴヤが見つめてきた人間の光と影


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身分や価値観の転倒
道化の王

王様の政策に懐疑的な表情を見せるポーランドの宮廷道化師スタンチク
「プロイセンの臣従」 (1882) ヤン・マテイコ クラクフ国立博物館(ポーランド)
(絵画の一部、スタンチクの部分を拡大)


カーニバルでは祝宴の王と王妃(偽の王:mock king、放縦王:Lord of misrule)

が選ばれ、期間中やりたい放題に振る舞いますが、カーニバルが終わると

追放されてしまいます。かつては本当に殺したといわれます。



現在では祝宴の王の代わりとして人形を用いる地域も見られ、

カーニバルの終わりには、みんなで蹴ったり踏みつけたりした後、

裁判にかけた結果有罪となり、火で焼き殺すといった儀式が行われています。



○日本の伝統文化を受け継ぐ街 秋葉原|パラダイムシフトの可能性


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ゲーテが見たカーニバル
老若貴賤の別なく馬鹿騒ぎする

「ローマ近郊におけるゲーテの肖像」(1786)
ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン


ドイツの詩人・劇作家、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

(Johann Wolfgang von Goethe、1749-1832年)。



1786年、37歳となったゲーテは憧れの地イタリアに旅行し、後に「イタリア紀行」

を刊行します。その中にはローマで見た謝肉祭について記しています。


  謝肉祭は民衆がみずから催す祭りであって、何人も思うままに馬鹿げた騒ぎを

  して構わず、殴打や刀傷沙汰(にんじょうざた)以外のことなら、ほとんど許される。



  貴賤の別(きせんのべつ⇒身分の高い低いの階層)は、暫時(ざんじ)のあいだ撤廃され、

  ローマ人お得意の呪いの言葉である「Sia ammazzato(殺されてしまえ)」という声が

  あらゆる隅々から繰り返し聞こえてくる。老若貴賤の別なく、人々は互いに乱暴する。

  人々は、十二分に用意された餐宴(きょうえん)に列して、まもなく禁制となる肉類を

  真夜中まで夢中に味わおうした。



  種々の悪戯に対し、まじめになって抵抗しようとするのは非常に危険なことであろう。

  というのは、仮装している者は犯しがたきものとされ、衛兵はいずれも彼らに味方

  するように命令されているからである。


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人間の最大の悲惨
「気晴らし」なしではいられないこと

アポロン(太陽)に扮するルイ14世


彼らが気晴らしをしているものを取り除いてみたまえ。

彼らは退屈のあまり身をすり減らしてしまうだろう。

そこで彼らは、そうとは気がつかないまでも、自分の虚無を感じるだろう。

自分というものを眺めるほかなく、そこから気晴らしをすることができなくなるや、

堪えがたい悲しみに陥ることこそ、まさに不幸であるからである。



※人間の気晴らし 「パンセ」 ブレーズ・パスカル




ブルボン王朝の最盛期を築いた太陽王ルイ14世。

当時の王侯貴族は音楽とダンスのできることが不可欠で、

ルイ14世自身、若いころアポロンに扮して宮廷舞台で踊ったとされます。



パスカルのいう人間の気晴らしでは、

権勢を誇る国王でさえも、自分の荘厳な栄光を眺めて満足するより、

臣下と催す舞踏会のためにダンスのステップを上手にとることの方に

心が占められていると指摘します。



仮に国王を一人ぼっちにし、何の気晴らしも与えないでおいたら、

彼はみずからの虚無に向かい合う悲惨な人間に陥ってしまうため、

そのような状態を避けるようにと細心をつくし、その役目を果たすならば、

他愛ない遊びであろうと、重大な国務であろうと同じことのようです。



このようなパスカルの言葉は、日々スマートフォンにしがみつき、

イベントに群れ集う、現代人の心のありようをえぐりだしているようにも見えます。



○人間の弱さと限界、そこからの可能性|パスカル「パンセ」


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社会の安定に寄与する娯楽
熱狂しストレスを発散する

円形闘技場 コロッセオ(Colosseo)


紀元前1世紀のカエサルから4世紀の東西ローマに分裂するまで

約400年続いたとされる古代ローマ帝国(皇帝が支配する国家)。



ローマ市内には、帝国時代の中心地フォロ・ローマーノやコロッセオ、

凱旋門といった古代ローマ時代の建設された建造物が今も残されています。



ローマ帝国の政策としてよく知られるのは「パンとサーカス」。

パンは小麦といった食料を、サーカスは娯楽を指し、市民に

無償で提供されました。



娯楽の代表であるコロッセオは、約5万人を収容できるローマ帝国最大

の円形闘技場で、舞台では剣闘士による戦いが繰り広げられ、

負ければ死が待っている命がけの戦いに観客は熱狂したといいます。



客席は身分によって分かれており、舞台にあがる剣闘士のほとんどは

奴隷階級に属していました。舞台の主な内容は剣闘士同士の戦いと

剣闘士と猛獣による戦いでしたが、時には罪人の公開処刑の場ともなりました。



観客を熱狂させストレス発散につながる娯楽は、

社会への不満を抑制できるため盛んに行われました。



○そよ風に乗ってローマの街並みへ


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善と悪の両面を備える
仮面

フェーダーハンネスが長い杖を使って荒々しくしく飛び跳ね作物の豊穣を祈る
ドイツ・ロットヴァイル(Rottwail)のファスナハト(カーニバル)


カーニバルの特徴の一つである仮面には、クマやキツネ、コウモリやカタツムリ

といった動物をあしらったもの、トウモロコシといった作物をあらったもの、魔女、

死霊といった穢(けが)れを表したものといったように様々な種類があります。



ヨーロッパの厳しい風土では、飢えと寒さにおびえて生きていた人々にとって、

農作物の枯死(こし)する冬はまさに死の世界であり、例えばカタツムリは冬の

貴重な栄養源となり、これを食べると病気にならないと信じられていたそうです。



一日も早く、緑におおわれる春を迎い入れるために、農民は仮面をつけて

冬の悪魔とたたかい、冬を追放し、あるいは冬を焼き殺す「火祭り」や

「冬の埋葬」という葬儀を行ったとされます。



仮面はラテン語では「persona(ペルソナ」と呼ばれ、元々古典劇における役者

が用いた仮面を指し、英語で言う「person:人」、「personality:人格」の語源に

あたります。



分析心理学(ユング心理学)の創始者ユングのいうペルソナは「外界に対する

心理的構え・姿勢」を指し、その反対のゼーレ「seele(独)、soul(英)、こころ・魂」

は「内界に対する心理的構え・姿勢」を意味しています。



仮面(ペルソナ)には、人間の内面をも変身させる不思議な力があり、

神と悪魔、夏と冬など、あらゆる善と悪の両面を備えているようです。



※「図解 ヨーロッパの祭り」 谷口幸男, 遠藤紀勝 河出書房新社 1998
 第4章 冬の追い出しと夏迎え p41-56
※精神分析とユング心理学 大場登, 森ちさ子 放送大学教材 2011



○森と湖が広がる北欧の国 フィンランド|不屈の精神から新たな地平へ


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人間の利己と愚かさが描かれる
謝肉祭と四旬節の喧嘩

「謝肉祭と四旬節の喧嘩」 ピーテル・ブリューゲル
「The Fight Between Carnival and Lent」 (1559) Pieter Bruegel the Elder
Kunsthistorisches Museum, Vienna


絵画の中央から左側にカーニバル(謝肉祭)、右側には四旬節が

描かれている「謝肉祭(しゃにくさい)と四旬節(しじゅんせつ)の喧嘩」。

絵画の中央下から直ぐ左には、樽にまたがって頭の上にはパイ、

手には肉の串焼きをもつ男(謝肉祭)が、その反対側(中央下から

直ぐ右)には、椅子に座って2匹の魚を乗せた長いしゃもじを手に

する痩せた人物(四旬節)が描かれ、馬上に例えられ戦っているようです。




謝肉祭はプロテスタントを指し、四旬節はカトリックを指していると考えられ、

作者のブリューゲルが住んだブリッセル(現オランダ)は、1567年、

スペイン王フェリペ2世によってプロテスタントに対する激しい弾圧を行った

とされ、ブリューゲル自身その光景を目の当たりにしたようです。



ヨーロッパの本質的な混迷は、カトリックとプロテスタントのどちらが正しい

といったことではなく、対立していることこそに原因があったとされ、この絵

には人間の利己主義と愚かさが表現されているようです。


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精神の高まり
ダンテ「神曲」

フィレンツェ出身の詩人・哲学者・政治家 ダンテ・アリギエーリ
(Dante Alighieri、1265-1321)|サンドロ・ボッティチェッリ(1495年)


※神曲(しんきょく、La Divina Commedia) ダンテ・アリギエーリ 寿岳文章(訳)
 集英社文庫ヘリテージシリーズ 地獄篇(Inferno) 第一歌


  ひとの世の旅路のなかば(⇒現代の寿命80歳とすると40歳)、ふと気がつくと、

  私はますぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。ああ、その森

  のすごさ、こごしさ(⇒険しさ)、荒涼ぶりを、語るのはげに(⇒本当に)難しい。

  思いかえすだけでも、その時の恐ろしさが戻ってくる!



  その経験の苦しさは、死にもおさおさ(⇒ほとんど)劣らぬが、そこで巡り

  あったよきことを語るために、私は述べよう、そこで見たほかのことどもをも。





イタリア・フィレンツェ出身の詩人、ダンテ・アリギエーリの代表作「神曲」は、

地獄篇 (Inferno)・煉獄篇 (れんごくへん:Purgatorio、天国に至る前に苦しみを

受ける場所、浄罪界)と天国篇 (Paradiso)の3部から構成されます。



  1300年、ある男(⇒ダンテ)は聖木曜日(復活祭前の木曜日、イエスが使途たち

  と最後の晩餐をとった日)に、暗い森に迷い込み、そこで古代ローマの詩人

  ウェルギリウスと出会います。聖金曜日、ウェルギリウスに導かれ地獄へと

  旅立ち、地獄の九圏を巡り、地球の中心部・魔王ルチーフェロが幽閉されて

  いるところに至ります。



  そこから反対側に突き抜け煉獄山に辿り着き、ダンテは、煉獄山を登るにつれて

  罪が清められてゆきます。そこで再会したベアトリーチェの導きで天界へと昇華し、

  復活祭の前夜再び地上の人となります。





「新生」を契機として昇華したダンテのヴェアトリーチェへの愛は、一切のものの

根本である神の愛に高められ、地獄では絶対の正義として、煉獄では絶対の謙譲

として、天国では絶対の平和として現れる過程が描かれています。

その一方で、ダンテが生きていた時代のイタリアの政治への痛烈な批判と、

どうあるのが国家として正しい姿であるかを世間に警告しているようです。



○生と死のはざ間にある「時」を歩む

○英国500年の美術に触れるテート・ブリテン

○深く、恐ろしく真実を語るものであれ|近代彫刻の父 オーギュスト・ロダン


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神聖な女性のイメージ
マリア

「マリアたちの祭り」 ヴェネチア・カーニバル
「Corteo della Festa delle Marie」 Carnevale di Venezia


ヴェネチア・カーニバルで行われる「マリアたちの祭り」は、いわゆるミスマリアを

選ぶコンテスト。18歳から25歳までの美しい女性12人が選ばれ、サン・ピエトロ・

ディ・カステッロ教会(San Pietro di Castello)を出発し、サンマルコ広場まで

観客の前を華やかに行進します。



翌日には12人の女性の中から

優勝者の1人ミスマリア(Maria dell'anno)が選ばれます。



○セクシュアリティとジェンダー|文学にみる女性観


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コート・ダジュールに春を告げる
カーニバルの女王

Carnaval de Nice - bataille de fleurs
ニース・カーニバル - 花合戦


南フランスのコート・ダジュールに春を告げるニース・カーニバル。

見どころの一つ「花合戦(bataille de fleurs)では、バラやミモザ、

ガーベラ、アイリスなどの花々で飾られた山車に乗った女性たち

が観客に花々を投げかけます。



○ため息を春風に変えて|自然からの贈り物 春の花言葉


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Carnaval de Nice 2017 - Bataille de Fleurs

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ミロのヴィーナスのような美しさ
好色な男たち

 


※カラマーゾフの兄弟(上) ドストエフスキー 原卓也(訳) 新潮文庫
 第1部 第3編 好色な男たち 10.二人の女が同時に


  グルーシェニカが嬉しそうに笑いながら、テーブルの方に近づいてきた。

  アリョーシャの内部で、さながら何かがひきつったかのようだった。

  彼は視線を吸いよせられ、目をそらすことができなかった。

  これがあの女なのだ。三十分ほど前に兄のイワンが《けだもの》と形容した、

  あの恐ろしい女なのだ。それにしても目の前に立っているのは、一見

  ごく普通の平凡な人間のように思われた− 善良なかわいらしい女性で、

  かりに美人だとしても、世間大勢いるほかの美しい、だが《ごく普通の》

  女性となんら変わるところがなかった!

  なるほど、彼女は非常に、むしろとびきりと言ってよいほど美しく、

  多くの男に熱烈に愛されるロシア的な美人だった。


  (中略)


  すばらしい豊かな栗色の髪や、黒い濃い眉(まゆ)、睫毛(まつげ)の長い魅力的

  な灰色がかった青い目などは、たとえどこか群集の中や、行楽地や、雑踏

  の中であろうと、どんな無関心なぼんやりした男でさえ必ず、この顔を見れば

  思わず立ちどまり、いつまでも記憶に刻みつけるにちがいないほどだった。

  その顔の中でいちばんアリョーシャの心を打ったのは、子供のようなあどけ

  ない表情だった。彼女は子供のような目をし、子供のように何かを喜んでいた。


  (中略)


  みごとな、豊満な肉体だった。ショールの下に、広いふくよかな肩と、高く

  張った、まだまったく若々しい乳房とがうかがわれた。この身体なら、

  ことによるとミロのヴィーナスの肢体(したい)を約束するかもしれなかった。


  (中略)


  ロシアの女性美の玄人(くろうと)たちは、グルーシェニカを見て、この新鮮な、

  まだ若々しい美しさも、三十歳くらいまでには調和を失って、線が崩れ、

  顔そのものもたるんで、眼尻や額にきわめて早く小皺(こじわ)があらわれ、

  顔の色も濁って赤紫になるかもしれないし、一口に言って、ロシア美人に

  往々にして見かける、束の間の美しさ、はかない美しさにほかならないと、

  的確に予言したにちがいないだろう。



○人間の心のあり方を理解する|日本人の精神性を探る旅


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恵まれた女よ おめでとう
生まれながらにして罪を背負った人間

「無原罪の御宿り」 (1662年頃) バルトロメ・エステバン・ムリーリョ プラド美術館
「Maria Immaculata」 Bartolome Esteban Perez Murillo


※ルカによる福音書(ふくいんしょ:イエスの言語録) 1章28節〜38節
 「口語 新約聖書」 日本聖書協会、1954年


  御使がマリヤのところにきて言った、

  「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。



  この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、

  このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。



  すると御使が言った、

  「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。

  見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。

  その子をイエスと名づけなさい。

  彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。

  そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、

  彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。



  そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。

  わたしにはまだ夫がありませんのに」。



  御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなた

  をおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、

  となえられるでしょう。あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。

  不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。

  神には、なんでもできないことはありません」。



  そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり

  この身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。


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キリストの花嫁
First Holy Communion

初聖体拝領 (First Holy Communion)


子どもが7歳頃に行うキリスト教徒になるための儀式、

初聖体拝領(はつせいたいはいりょう:First Holy Communion)。



儀式に参列する少女たちは、「キリストの花嫁」をあらわす

純白のドレスとヴェールに身を包みます。


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救いの恵みに感謝する
花婿が奪い去られる日

「曠野(こうや)のイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)」 (1872)
イワン・クラムスコイ


※マルコによる福音書(ふくいんしょ:イエスの言語禄) 第2章13節〜20節
 「口語 新約聖書」 日本聖書協会、1954年


  イエスはまた海べに出て行かれると、

  多くの人々がみもとに集まってきたので、彼らを教えられた。



  また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのを

  ごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。

  すると彼は立ちあがって、イエスに従った。



  それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。

  多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。

  こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。



  パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を

  共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、

  「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。

  イエスはこれを聞いて言われた、

  「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。

  わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。



  ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、

  イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが

  断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。

  するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、

  断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。

  しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。



○光は闇の中で輝く|世代とジェンダーを越えて発展する


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人間のあらゆる出来事の源
性欲

「ヴィーナスとアドニス」(1597年頃) バルトロメウス・スプランヘル
「Venus and Adonis」 Bartholomeus Spranger


※「ヰタ・セクスアリス」 森鴎外 1909(明治42)年


  あらゆる芸術は Liebeswerbung (独:リーブスヴェルブング⇒求愛)である。

  口説(くどく)のである。性欲を公衆に向って発揮するのであると論じている。

  そうして見ると、月経の血が戸惑(とまどい)をして鼻から出ることもあるように、

  性欲が絵画になったり、彫刻になったり、音楽になったり、小説脚本になったり

  するということになる。



  金井君は驚くと同時に、こう思った。こいつはなかなか奇警(きけい⇒奇抜)だ。

  しかし奇警ついでに、何故この説をも少し押し広めて、人生のあらゆる出来事

  は皆性欲の発揮であると立てないのだろうと思った。

  こんな論をする事なら、同じ論法で何もかも性欲の発揮にしてしまうことが出来よう。

  宗教などは性欲として説明することが最も容易である。

  基督(キリスト)を壻(むこ)だというのは普通である。聖者と崇(あが)められた尼

  なんぞには、実際性欲を perverse (英:パーヴァース⇒正常に反した)の方角

  に発揮したに過ぎないのがいくらもある。

  献身だなんぞという行(おこない)をした人の中には、Sadist(サディスト) もいれば

  Masochist(マゾヒスト) もいる。性欲の目金(めがね)を掛けて見れば、

  人間のあらゆる出来事の発動機は、一として性欲ならざるはなしである。

  Cherchez la femme (仏:シェルシュ・ラ・ファム⇒事件の陰に女あり、ことわざ)は

  あらゆる人事世相に応用することが出来る。




※Sadist(サディスト) … 加虐性愛者
 フランスの作家、マルキ・ド・サド(Marquis de Sade,1740-1814)に由来
※Masochist(マゾヒスト) … 被虐性愛者
 オーストリアの作家、ザッヘル・マゾッホ(Sacher-Masoch, 1836―1895)に由来
※Cherchez la femme (仏:シェルシュ・ラ・ファム⇒事件の陰に女あり、ことわざ)
 chercherは「〜を探す」、femmeは「女」、直訳すると「女を探せ」



○困難を伴う自我の開放|森鴎外「舞姫」にみる生の哲学


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カーニバルのお菓子
コンフェティ

「色紙の紙吹雪」という意味がある「コンフェティ」


焼いたパスタ生地に粉砂糖を振りかけて作るカーニバルのお菓子、

コンフェティ(Congetti:伊、ドラジェ:dragee:英)。



ヨーロッパでは出産や洗礼、婚礼などの慶事に配られる菓子で、

直訳すると「お祝いにまく色紙の紙吹雪」という意味があるそうです。



カーニバルではコンフェティを投げ合ったといいます。


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カーニバルに託した
人間の願い

サンタ・クルス・デ・テネリフェのカーニバル(スペイン領カナリア諸島)
Carnaval de Santa Cruz de Tenerife


カーニバルの特徴的な要素として、@「仮面(仮装)」、A「山車(だし)」、

B「神霊が宿る形代(かたしろ、例えば人形)」、C「無礼講での大騒ぎ

(酒・音楽・踊り・笑い)」、そして、D「火」の5つが挙げられています。



「仮面(仮装)」は、貧民が貴族に、貴族は貧民に変身したり、

男は女に、女は男に変身したりといったように現実の世界を

転換する意味あいがあるようです。



「山車(だし)」や「形代(かたしろ)」は、悪や死といったものの具現化、

「無礼講での大騒ぎ」は、停滞した現実状態を打ち破り活性化を導き、

「火」は、罪や穢(けが)れといった悪を火で焼き殺すことで再生を願った

と考えられています。



※イタリア音楽紀行−春の祭りカーニバルの音楽と踊り− 2017.09
 講師 金光真理子 先生 (横浜国立大学 教育学部准教授)



○自分の中にその存在を認める|オペラ「ドン・カルロ」にみる人間観


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生と死のパトス
危険・混沌状態からの生の活性化

スイス・スイスヴァレー州ローヌ谷の村レッチェンタールの謝肉祭では、
死霊を思わせるロイチェクタと呼ばれる妖怪が練り歩きます


快楽や苦痛といった感情を表す言葉「パトス(pathos)」。

英語のシンパシー(Sympathy)はパトスを語源とし、

「sym(共に、同時に) + pathos(感情)」に分けることができ、

日本語では「思いやり」や「あわれみ」と訳されています。



カーニバルは、死と隣り合わせであった冬の厳しさや、

混沌とした世の中の緊張した秩序を停止させ、悪を一時的に取り込み

追放することで生の活性化を願ったといわれます。



○苦しみに満ちている人間の生からの救済|ショーペンハウアー

○絶望から美しさを見い出す|太宰治「人間失格」


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カーニバルにおける音楽の役割
日常時間に裂け目をつくる

イタリア・カンパーニア地方に伝わる舞曲
タランテラ(tarantella)を踊る女性(1846年)


イタリア・カンパーニア地方(州都はナポリ)に伝わる舞曲タランテラ。

カンパーニア州の町モンテマラーノのカーニバルでは、

タランテラがお祭りのあいだ中、鳴り響きます。



カーニバルにおける音楽の役割は、日常の規則的・周期的な流れとは

異なる時間感覚を生み出し、日常時間に裂け目をつくる意味があると

いわれます。



○命から生まれた嘆き・希望・美しさ|世界の民族音楽


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Carnevale di Montemarano - 7 febbraio 2016

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限りない世界の愛
わたし自身、だれよりも汚れた人間

「Pieta」 Michelangelo St. Peter's Basilica


※カラマーゾフの兄弟(上) ドフトエフスキー 原卓也(訳) 新潮文庫
 第2部 第4編 病的な興奮 1. フェラボンド神父


 (死を迎えつつあるゾシマ長老)


  死の瞬間を前にして、一生のうちに言いつくせなかったことを、

  すべて言っておきたい、もう一度何もかも話しておきたい、それも

  単に説教のためだけでなく、自分の喜びと感激をみなと分かち合い、

  生あるうちにもう一度心情を吐露しておきたいと渇望するかのようであった…



  神の民を愛しなされ。わたしらは、ここ(修道院)に入ってこの壁の中にこもって

  いるために、世間の人たちより清いわけではなく、むしろ反対に、ここに入った

  人間はだれでも、ここに入ったということによってすでに、自分が世間のすべて

  の人より、この世の何よりも劣っていると、認識したことになるのです…


  (中略)


  とにかく、われわれの一人ひとりがこの地上の生きとし生けるものすべてに

  対して疑いもなく罪を負っていることを、それも世界全体の一般的な罪という

  だけでなく、各人一人ひとりが地上のあらゆる人たち、すべての人に対して

  罪を負っていることを、わきまえなければなりません。



  この自覚こそ、修道僧の修行の、そしてまた地上のあらゆる人の栄誉にほか

  ならないのです。なぜなら修道僧とは何も特別な人間ではなく、地上のすべ

  ての人が当然そうなるべき姿にすぎんのですからの。

  そうなってはじめて、われわれの心は満つることを知らぬ、限りない、世界の

  愛に感動することでしょう。そのときこそ、あなた方の一人ひとりが愛によって

  全世界を獲得し、世界の罪をおのが涙で清めることが可能になるのです…



  だれもが自分の心のまわりを歩み、たゆみなくおのれを懺悔することです。

  自分の罪を恐れることはありませぬ。たとえそれを自覚しても、後悔しさえ

  すればよいので、神さまと取りきめごとなどしてはなりませぬぞ。



  くりかえして言いますが、おごりたかぶらないことです。

  小人に対しておごりたかぶらず、大なる者に対してもおごりたかぶらぬことです。

  あなた方を斥(しりぞ)ける者、辱(はずかし)める者、そしる者、中傷する者を憎んで

  はなりません。無神論者、悪を説く者、唯物論者など、彼らのうちの善き者ではなく、

  悪(あ)しき者をさえ憎んではいけない。とりわれ今のような時代には、こんなふうに

  祈ってやるのです。

  主よ、だれにも祈りをあげてもらえぬ人々をお救いください、主に祈りを捧げようと

  思わぬ人々をもお救いください、とな。そして、さらにこう付け加えるといい。

  主よ、わたしはおごれる心からこう祈るのではございません、なんとなれば

  わたし自身、だれよりも汚れた人間だからです、と…



○最も進んでいないイノベーション|人間に関する知識

○人類から遠く離れた孤独の中に住む 世界の本質


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自らへの確信があるからこそ
他者との対話が可能となる



宗教改革(16世紀)は、宗教的にも世俗的にもヨーロッパ史にとって重大な出来事でした。

しかし、グローバル化、世界規模のコミュニケーション・システム、深刻な政治的・経済的

緊張の中にある現代世界において、宗教改革は意味を持つのでしょうか。また、

ルターの聖書観は、キリスト教以外の諸宗教や無神論と対話する上で有効でしょうか。

宗教改革が残した遺産のうち、現代でもなお意義を持つものとは何でしょうか。

マルティン・ルターとの対話は、刺激的で生産的なものとなるでしょう。



※「現代世界における宗教改革の意義」 2017.09
 講師 ハンス=マルティン・バルド 先生 (ドイツ・マールブルク大学名誉教授)
 司会 廣石望 先生 (立教大学文学部キリスト教科教授)
 宗教改革500年 記念ウィーク「宗教改革が問いかけるもの」記念講演会
 主催 一般財団法人 日本聖書協会
 会場 有楽町朝日ホール




アドルフ・フォン・ハルナック(ドイツの自由主義神学者)の父テオドシウスが言うように、

ドイツ人にとってルターは、「彼を批判する者であっても、また賞賛する者であっても、

他と比べようもない偉大な人物である」。



だからこそ、ルターの生涯や思想を論じることは、ドイツの歴史やナショナリズムと

切り離すことはできないし、政治の側でもルターの宗教運動や思想を、自らの立場

を正当化するために利用してきた。

そのためであろう、一方ですべての歴史は偉大なるルターへと流れ込み、

すべてはルターから始まったのだ、というようなルター像が描かれたりする。

他方で、そのようなルター解釈にうんざりした歴史家たちが、

ルターの仕事を執拗に相対化し、非神話化してみせる。



ハンス=マルティン・バルト教授は、ルターと対話しながら自らの思想を構築して

きた神学者である。バルト教授のルター研究の特徴は、ルターの思想を相対化し、

対話するための手法であろう。



バルト教授の主張はもちろん宗教はいずれも同じだ、などというものではない。

寛容や尊敬、相互理解のための対話は当然なことである。彼の考えは、

自らの宗教的伝統への確信があるからこそ、他者と対話が可能になり、

他者を他者として受け止めることができるというものであろう。



かつてルターの改革自体がすぐに直面した、異なった宗派がどのように共存し、

ひとつの社会的共同体を作ることが出来るのか、という問題と

彼も今日の社会のコンテクストの中で取り組んでいるのである。



※宗教改革500年記念の講演によせて「マルティンがマルティンから学んだこと」
 深井智朗 先生 (東洋英和女学院副院長)
 本のひろば 2017年7月号 掲載記事より



○ありのままの自分|Here I stand and here I'll stay


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日本の祭りと舞踊曲
三社祭

三社(さんじゃ)祭り (台東区)


毎年5月、多くの人々で賑わう三社祭り(浅草神社の例大祭)。

浅草神社(あさくさじんじゃ)は、浅草寺(せんそうじ)のご本尊である

観音様を網で引き上げた2人の兄弟漁師とその主人の3人を祀って

いることから「三社(さんじゃ)」と呼ばれようになったそうです。



清元作曲、歌舞伎の演目で知られる「三社祭り(1832年初演)」は、

別名「善玉悪玉」と呼ばれています。

浅草寺の観音像を網で引き上げた2人の漁師に天から善玉と悪玉が

降りて来て二人に乗り移ります。乗り移った善玉・悪玉は軽快に踊り、

やがてこの世は思い通りにならないと悟り去ってゆきます。



当時(江戸時代中期)には、人間が善人や悪人になるのは、善玉・悪玉の

どちらかが魂となって体に入りこむからだと考えられていたそうです。



○日本の伝統演劇|舞台芸術の根源的な魅力

○日本固有の神道と外来仏教との融合 神仏習合

○心躍る軽快なリズム|アメリカ軽音楽の巨匠 ルロイ・アンダーソン

○活気に満ちた下町の情緒 浅草


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仮面で顔を隠して踊った
盆踊り

盆踊り


※「ヰタ・セクスアリス」 森鴎外 1909(明治42)年


  僕の国は盆踊の盛な国であった。(※森鴎外の出身は石見国、現・島根県)

  旧暦の盂蘭盆(うらぼん)が近づいて来ると、今年は踊が禁ぜられるそうだ

  という噂があった。


  (※明治元年より行われた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によりこのような噂が

  広まった。廃仏毀釈は仏教を廃し、神と仏を分離する政策。お盆は仏教行事

  であるため、禁止されるのではという噂が広まった。)


  しかし県庁で他所産(たしょうまれ)の知事さんが、僕の国のものに逆うのは

  好くないというので、黙許(もっきょ)するという事になった。



  内から二三丁ばかり先は町である。そこに屋台が掛かっていて、夕方になると、

  踊の囃子(はやし)をするのが内へ聞える。踊を見に往(い)っても好いかと、

  お母様に聞くと、早く戻るなら、往っても好いということであった。

  そこで草履を穿(は)いて駈け出した。これまでも度々見に往ったことがある。

  もっと小さい時にはお母様が連れて行って見せて下すった。



  踊るものは、表向は町のものばかりというのであるが、皆頭巾(ずきん)で

  顔を隠して踊るのであるから、侍(さぶらい)の子が沢山踊りに行く。

  中には男で女装したのもある。女で男装したのもある。

  頭巾を着ないものは百眼(ひゃくまなこ⇒仮面)というものを掛けている。

  西洋でする Carneval (カーニバル) は一月で、季節は違うが、

  人間は自然に同じような事を工夫し出すものである。

  西洋にも、収穫の時の踊は別にあるが、その方には仮面を被(かぶ)ることはないよう

  である。大勢が輪になって踊る。覆面をして踊りに来て、立って見ているものもある。

  見ていて、気に入った踊手のいる処へ、いつでも割り込むことが出来るのである。



○困難を伴う自我の開放|森鴎外「舞姫」にみる生の哲学


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平安時代の恋のプロセス
のぞき見から始まる

飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上を垣間見(かいまみ)する源氏
「若紫」 土佐光起 「源氏物語画帖」


※若紫巻(わかむらさきのまき) 源氏物語


  きよげなる大人二人ばかり、さては童(わらは)べぞ出(い)で入り遊ぶ。

  中に、十(とを)ばかりやあらむと見えて、白き衣(きぬ)、山吹(やまぶき)

  などの萎(な)えたる着て走り来たる女子(をむなご)、あまた見えつる子

  どもに似るべうもあらず、いみじく生(お)ひ先(さき)見えてうつくしげなる

  容貌(かたち)なり。髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤く

  すりなして立てり。



  きれいな大人の女房(つき従う人⇒侍女)が二人ほど、それから女童

  (めのわらわ)が出入りして遊んでいる。その中に、十歳ほどであろうか

  と見えて、白い下着に山吹襲(やまぶきがさね)などの糊(のり)の落ちた

  表着(うわぎ)を着て、走って来た女の子は、たくさん見えた子どもたち

  には似ても似つかず、はなはだ将来の成長ぶりが期待される様子で、

  可愛らしい顔立ちである。髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、

  顔はまことに赤く手でこすった様子で立っている。






平安時代の姫君たちは、容易に男たちの前に姿を見せません。親や夫以外は、

兄弟であっても几帳(きちょう)や御簾(みす)を隔てて対面しました。外出はめった

にせず、祭りや物詣(ものもうで)くらいしか機会がありませんでした。ですから、

男たちに見えるのはわずかに、姫君の装束(しょうぞく)の裾(すそ)や袖口や、

御簾を隔てた透き影でした。



男たちは、もろもろの雰囲気から姫君の品定めをしたのです。さぞ豊かな想像力

が鍛えられたことでしょう。ですから、男たちが何よりもまず望んだのは「垣間見

(かいまみ)」です。現代では、近所のきれいなお姉さんをのぞき見なんぞしていま

すと、警察に通報されてしまいます。しかし、平安時代の物語では、男女の出会い

といえば、まず垣間見なのでした。



平安時代の結婚に至るまでのプロセスは、男は噂を聞くなどして心惹かれた女性

ができますと、仲立ちの人に頼んで、先方の気持ちをひそかに打診します。同時に、

男性は女性に求愛の文を遣わします。何度も重ねて和歌を贈るうちに、最初は

返事ももらえず無視されていた手紙に、次第に代作や代筆であれ返事がくるように

なり、やがて、ご本人の直筆のお返事がもらえるようになればしめたものです。

その文面が少々意地悪でも、ご本人からお手紙が来たことに勇気を得て、さらに

何度も文を贈る。そのうち、正式に両家の両親の認めるなか、縁起の良い日を

選んで通い始める、といった段取りになります。



※平安文学でわかる恋の法則 高木和子 ちくまプリマー新書 2011
 第一部 憧れの人にアプローチ
 第一章 噂と垣間見から始まる恋 ・ 第二章 文のやりとりから結婚へ



○人間の幸不幸を凝視する物語文学|源氏物語


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怠け心を戒め、豊穣を願う
なまはげ

なまはげ館 秋田県男鹿市


大晦日の晩、それぞれの集落の青年たちが「なまはげ」に扮して、

「泣く子はいねがー、親の言うこど聞がね子はいねがー」

「ここの家の嫁は早起きするがー」

などと大声で叫びながら地域の家々を巡ります。



男鹿(おが)の人々にとって「なまはげ」は、怠け心を戒め、

無病息災・田畑の実り・山の幸・海の幸をもたらす、年の節目にやってくる

来訪神です。ナマハゲを迎える家では、昔から伝わる作法により料理や酒

を準備して丁重にもてなします。



ひとくにちなまはげと言っても付ける面の材料や、身にまとう装束・持ち物など

はさまざまで、各地区により異なった特徴を持っています。



※なまはげ館 案内文より (秋田県男鹿市)



○足元に目を向けるゆとり 秋田美人


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自然を神として謙虚に祈る姿勢
シャマンの仮面

北海道立北方民族博物館


3つの顔が描かれているシャマンの仮面。一番上の小さい顔は人間の世界を表し、

真ん中のフクロウは動物の世界、下の大きな顔は精霊を表しているといいます。



シャマンとは、超自然的存在と直接接触する役割を担う

呪術者や巫(かんなぎ≒神主)、祈祷師のことだそう。



アイヌは「人間」を意味し、アイヌ民族の祖先は、

北海道の地をアイヌモシリ(人間の静かなる大地)と呼んだといいます。



自然界をカムイ(神々)として謙虚に祈り、自然の恵みに感謝をし、

「カムイありて我あり、我ありててカムイあり」との互助精神で、

自然を改造・破壊・汚染することなく生活してきたそうです。



○釧路と網走をつなぐ釧網線の旅

○鶴の舞|釧路川キャンプ & カヌーツーリング


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非日常的・異常的な出来事
穢れ

「餓鬼草紙(がきぞうし)」の中の一枚「伺嬰児餓鬼(しえいじがき)」 国宝
平安時代 12世紀 東京国立博物館
生まれたばかりの嬰児(赤ちゃん)を食べるよう宿命つけられた餓鬼


穢(けが)れとは、汚穢(おあい)・不浄にかかわることで、一般に「血・死・糞尿」を指し、

一定の穢れに関わってしまうことは触穢(しょくえ)と呼ばれます。



穢れの概念は、古くから宮廷や神事にみられ、祓(はら)いや

物忌み(ものいみ:不浄を避けて心身を清浄に保つこと)で消滅したとされます。



民俗学者・柳田國夫は、

冠婚葬祭などの非日常を「ハレ」、労働を行う日常を「ケ」と表し、

両者の循環の中に人々の生活を捉えることができるといいます。

ケガレは「ケ(日常)」が枯れた状態だとする考え方があるそう。



日本人にとっての「穢れ」を解釈して言うならば、

怪我や病気を患った時に見られる「血」、

出産や月経の時にみられる「血」、

いつまでもずっと側に居て欲しい愛する者の「死」、

生きていたいと思っているのに訪れてしまう自分の「死」、

肉を食べるために殺す牛や豚の「血」や「死」、

かつて「アイドルはトイレに行かない」などと表現されることがあった「糞尿」など、

非日常的・異常的な出来事を指す一方、避けて通ることができないもののよう。



このような状態から日常的・正常的な状態に復帰するために、

「忌(い)み」や「祓(はら)い」という「清め」のプロセスが必要になったようです。



○日本人の心を形成してきたもの|これからを生きる指針となるものを探る


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日常時間に裂け目をつくる
悲しみと穢れ 葬送

日本のお葬式 (Funeral of Japanease style)


死は人生の大きな悲しみである一方、穢れでもあり、死は黒不浄と言われ、

死穢(しえ:死の穢れ)の観念は時代が遡るほど強かったといわれます。



葬送儀礼(⇒葬式)は非日常的な出来事であり、

そのために儀礼の多くが普段とは異なる作法に満ちています。

たとえば湯灌(ゆかん:葬儀に際し遺体を入浴させ洗浄すること)の逆さ水、

通常、水の温度を調整する時は、お湯に水を入れますが、

湯灌の際は水にお湯をいれて調整するそうです。

他に、死者の着物は左前に着せる、足袋は左右反対に履かせるなど、

葬儀が非日常的世界の出来事であることを演出しているようです。



○私たちの生涯|生と死の狭間にある「時」を歩む


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沖縄に伝わる長寿祝いの儀式
トーカチ

「琉球人舞楽之図」 (1710〜18年頃) 宮川長春
シカゴ・ウェストンコレクション


沖縄に伝わる長寿祝いの儀式「トーカチ」。

数え年88歳となった旧暦8月8日に、親戚一同を招いて盛大なお祝いをするそうです。



「トーカチ」でもう一つ大切なのは「カタチヌメー(枕飯)御願」と呼ばれる模擬葬式。

「トーカチ」前夜の深夜に、その老人に白装束を着て寝てもらい、

枕飯を供えて葬式の真似事をするそうで、

「人間の寿命は88歳が最大でこれ以上生きると、その分シーが取られて子孫の

命が縮まる。だからもういい寿命だから子孫のためにも昇天して下さい」などの

唱え事を行うといいます。



そして、日付が変わり三線と太鼓の音色が鳴り響くと、

本人が飛び起きて皆とカチャーシーを踊り、

新しい誕生とこれまでの長寿を喜び合うのだそうです。



平均寿命が伸び長寿も一般化している現代。かつて老人に対する通過儀礼は、

寿命の区切りというマイナスの一面を含んだものから、長寿を祝い、再生を願う

プラスの側面を注目するものに変わってきているようです。



○みんなで創る美ら島|大切にしてきた「うちなー」のアイデンティティ

○球美の島、久米島


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観戦に訪れる人々のストレスを
喜びに変える

横浜F・マリノスのコレオグラフィー(振付け・人文字)
ニッパツ三ツ沢球技場 (横浜市)


2017年現在、Jリーグに加盟しているチームは50以上あるといい、

各地域の活性化に貢献されています。



サポーターは応援するチームのユニフォームを身にまとい

リズムに合わせて歌いながら選手たちを後押しします。



観戦する人たちは、学生や会社員・主婦など様々だそうですが、

普段は各々の立場を務め、ストレスが溜まる事も少なくないと思います。

競技場へ足を運ぶ人たちの背景に目を向けることはとても大切なのだそう。



素晴らしいプレーを目の当たりにする、応援するチームが勝利する、

歌い体を動かす、一体感を楽しむ。



プロ・サッカーは、ホームとする地域の人たちのために行うスポーツであり、

観戦に訪れる人々のストレスを喜びに変えることに基盤があるといわれます。



○America’s Passion フットボール

○闘争と叡智、畏敬が宿る ラクビー

○開放的で自由な街に、心地よい風が吹きぬける OPEN YOKOHAMA


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2017 J1 第22節 横浜F・マリノス vs サガン鳥栖 コレオグラフィ

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HAMABLUE
三ツ沢を青にそめよう

2017 J2リーグ 第36節 横浜FC vs アビスパ福岡
ニッパツ三ツ沢球技場 (横浜市)


横浜FCは、Jリーグ開幕の1993年から98年まで存在した横浜フリューゲルス

の消滅を受け、新たな市民クラブとして創設されたチームだそうです。



ホームスタジアムである三ツ沢球技場は、横浜FCのチームカラーである

「HAMA BLUE(青/スカイブルー)」に染まり、一体となってJ1昇格を目指しています。



○横浜最大の緑地 つながりの森

○空と海の間で暮らすような旅 横浜港


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球音・打撃音を楽しむ
鳴り物のない新鮮さ

ベイスターズ球場 (横須賀市)


横浜ベイスターズの練習場であるベイスターズ球場。

2017年はイースタンリーグ公式戦が開催されていました。



ベイスターズのファーム(Farm:農場⇒育成の場⇒2軍)が本拠地

とする横須賀スタジアムや平塚球場では鳴り物(太鼓やトランペット)

による応援がありますが、ベイスターズ球場での試合は鳴り物が

なかったので、投手が投げる球の音、バットに球があたる音、

審判の掛け声が響き、とても新鮮でした。



試合の途中でラッパの音が聞こえたので音源を探してみると、

隣接する横須賀港に停泊する護衛艦の艦上からでした。



○日本最大の軍港都市として発展した よこすか

○よこすか はじめて物語|近代化の礎を築いた横須賀製鉄所

○潮風に導かれ開国ロマン溢れる浦賀へ

○潮風が駆け抜ける海辺を楽しむ湘南スタイル


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ダンスミュージックファンを熱狂させる
音楽フェスティバル

「ULTRA JAPAN」の入場ゲート 2017.09 (お台場)


2017年9月、3日間の日程で開催された

ダンスミュージックフェスティバル「ULTRA JAPAN」。



「ULTRA」は、アメリカのマイアミで開催されている音楽フェスティバルで、

日本では2014年から開催され2017年は4回目だそう。



入場料は一日券で13,000円、3日間通し券で39,000円、VIP一日券は30,000円

(いずれも2017年)。昨年2016年は3日間で延べ12万人が熱狂したそうです。



○日本人の音楽的アイデンティティ|新たな響きが奏でる未来

○未来を創るつながりのはじまり|臨海副都心

○大井埋立地にみる森里海のつながり


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NICKY ROMERO - Live@ - Ultra Japan 2017

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知覚の拡張、現実世界の多次元性
ロック・ミュージック

Chuck Berry (1957)


1950年代から1970年代にかけて世界中で流行したロックン・ロール(Rock'n Roll)。

そこには当時の社会情勢が色濃く反映されているといいます。


○1950〜60年代 アメリカにおける公民権運動
  1954 ブラウン判決
  1955 モントゴメリー・バス・ボイコット事件(ローザ・パークス)
  1963 ワシントン大行進、「I Have a Dream」 キング牧師の演説
○1964〜73 ベトナム戦争
○1966 イギリスのロックバンド「ビートルズ」来日
      フランスの哲学者ミシェル・フーコー「言葉と物」発表
○1967 イギリスの女優「ツイッギー」来日
○1968 パリ5月革命(学生・民衆運動)
      フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ「差異と反復」発表
○1969 東京大学 安田講堂事件



ロックには、既成にある共通感覚的なものへの批判や、

システムとしての社会からの解放(Drop out)が託され、

知覚を拡張し、現実世界の多次元性を表現しようとした音楽だといわれます。



※ロック・ミュージックと現代思想 2017.10
 講師 鈴木泉 先生 (文学部准教授)
 司会 柴田元幸 先生 (文学部特任教授)
 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部
 集英社高度教養寄付講座 第11回講演会


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Chuck Berry - Johnny B. Goode (Live 1958)

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安定感や静けさをもたらす
反復の美学

pixabayより


バロック時代の協奏曲にみられるリトルネロ(Ritornello)は、イタリア語の

ritorno(復帰)から派生した音楽用語で、楽曲中に反復循環する部分を指すそうです。



ロックやジャズなどにおいて使われる音楽用語 リフ(riff)も、

反復する部分を指しています。



反復は、クラシック、ジャズ、ロック、そしてカーニバルの音楽にもみられますが、

その意味についてフランスの哲学者ドゥルースとガタリは以下のように述べています。



  暗闇に子供が一人。怖くても、小声で歌をうたえば安心だ。

  子供は歌に導かれて歩き、立ち止まる。

  道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、

  覚束(おぼつか)ない歌を口ずさんでどうにか先に進んでいく。

  歌とは、言わば静かで安定した中心の前触れであり、

  カオスの只中に安定感や静けさをもたらすものだ。



※「千のプラトー」 ジル・ドゥルーズ, フェリックス・ガタリ 第11プラトー冒頭


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T-Rex - 20th Century Boy HQ

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ビジネスセミナーにおける
ストレス解消

pixabayより


ビジネスセミナーでは、受講者がグループを作りテーマに沿って

話し合いをするという場面がしばしばあります。



受講者にとってグループ・ディスカッションのメリットの一つは、

自社の抱えている悩みについて、他社はどう捉えているか、

どう対応しているかを聴くことができる点が挙げられます。

(その為、受講者には守秘義務が課せられます。

また真実を話すかどうかは保証されません。)



一方で隠れたメリットには、自分の悩みや仕事の成果を、

直接的に利害関係がない他者に話すことで

ストレスを解消できる側面があるといわれます。



話し合った結果を発表した後の受講者たちの顔には、

すっきりとした様子が伺え、また連帯感のようなものも醸成されるようです。



○イノベーションは内生的・自発的に生まれる|健全な経営を目指す会社

○進化するテクノロジー 人間のフロンティア


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権力を尊く敬い、
礼儀を失わないよう控えめに振る舞う庶民

東洋のルソーといわれた中江兆民(なかえ ちょうみん)
1847年-1901年


※中江兆民 「東洋自由新聞」 明治14年4月


古(いにしえ)より民の乱を作(な)すは、

其(その)初め必ずしも乱を作(な)すことを欲するに非(あら)ざるなり。

蓋(けだ)し民なる者はその最も暴悍(ぼうかん)なるものといへども

自ら好みて乱を作すに非ず。

独(ひと)り乱を作すことを好まざるに非ずして乱を作すことを畏るるなり。

彼れその初め乱をなすことを畏れて、而(しか)して遂に乱を作すに至る者は何ぞや、

勢然(しか)らしむるなり。

勢なる者は人心の自然に発するといへども、

そもそも在上(ざいじょう)の人の力その多きに居る。

在上の人自らその勢を激して民をして乱をなすに至らしむるときは、

これ其(その)罪(つみ)民に在(あ)らずして在上の人に在るなり。



  昔から庶民が反乱を起こすのは、

  その初めから必ずしも反乱すること求めているからではない。

  確かに庶民は最も荒々しいものといえるが、

  自ら好んで反乱を起こすのではない。

  単独で反乱するのを恐れているのではなく、権力を尊く敬い畏れているのである。

  反乱を起こすことを畏れているにも関わらず、遂に反乱を起こすのはどうしてか、

  勢いがそうさせるのである。

  勢いは人の心に自然に発生するといえるが、

  そもそも上にいる人の力が大きな原因となっている。

  上にいる人が自らその勢いを激しくさせ、庶民が反乱に至る時には、

  その罪は庶民にあるのではなく上にいる人にあるといえる。



※斜字体はホームページ管理者の意訳



○ルソー「人間不平等起源論」


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参  考  情  報


○カトリック中央協議会

○イタリア政府観光局(ENIT)公式サイト

○ドイツ観光局

○スイス政府観光局

○西洋絵画、西洋美術の画像・壁紙と解説 : サルヴァスタイル美術館

○文化デジタルライブラリー|独立行政法人日本芸術文化振興会

○森鴎外 - 青空文庫

○歌舞伎公式サイト | 歌舞伎美人(かぶきびと)

○歌舞伎演目案内 - Kabuki Play Guide -

○横浜DeNAベイスターズ|ファーム情報

○ULTRA JAPAN - Official Site

○無料の写真 - Pixabay

○パブリックドメインの写真 - フリー写真素材

○Imagebase: 100% Free Stock Photos

○フリー百科辞典Wikipedia

○イタリア音楽紀行−春の祭りカーニバルの音楽と踊り− 2017.09
 講師 金光真理子 先生 (教育学部准教授)
 会場 横浜国立大学教育文化ホール
 主催 横浜国立大学教育学部

○レクチャーコンサート:ピアノ曲からみた音楽と社会 2017.09
 交響曲をピアノのソロで!?−編曲の世界
 講師 金光真理子 先生 (教育学部准教授)
     森野かおり 先生 (教育学部講師)
 会場 横浜国立大学教育文化ホール
 主催 横浜国立大学教育学部

○図解 ヨーロッパの祭り 谷口幸男, 遠藤紀勝 河出書房新社 1998

○イタリア紀行 ゲーテ , 相良守峰(訳) 岩波文庫 1960

○祝祭都市 象徴的人類学的アプローチ 山口昌男 岩波書店 1984
 旅とトポスの精神史

○日本の祭りを読み解く 真野俊和 吉川弘文館 2001
 歴史文化ライブラリー125

○祝祭日の研究−「祝い」を忘れた日本人へ 産経新聞取材班 角川書店 2001

○女と男の時空 日本女性史再考 (全13巻) 藤原書店

○魂の退社 会社を辞めるということ。 稲垣えみ子 東洋経済新報社 2016

○2016年 J2リーグ第35節(2016年10月8日)
 ジェフユナイテッド市原・千葉 vs 京都サンガF.C. (フクダ電子アリーナ)
 解説者のコメント

○2017年 J2リーグ第36節 2017.10
 横浜FC vs アビスパ福岡 (ニッパツ三ツ沢球技場)

○2017イースタン・リーグ公式戦 2017.09
 横浜ベイスターズ vs 東京ヤクルトスワローズ (ベイスターズ球場)

○平安文学でわかる恋の法則 高木和子 ちくまプリマー新書 2011

○東京大学ホームカミングデイ文学部企画
 「文(テクスト)の学びとは何か」 2016.10
・文学部長挨拶 熊野純彦 先生 (東京大学文学部長)
・ディスカッション
 司会 野崎歓 先生 (言語文化学科教授・フランス文学)
 菊池達也 先生 (思想文化学科准教授・イスラム学)
 勝田俊輔 先生 (歴史文化学科准教授・西洋史学)
 高木和子 先生 (言語文化学科准教授・国文学)
 佐藤健二 先生 (行動文化学科教授・社会学)
 熊野純彦 先生 (思想文化学科教授・倫理学)
・会場 東京大学法文2号館1番大教室

○ロック・ミュージックと現代思想 2017.10
 講師 鈴木泉 先生 (文学部准教授)
 司会 柴田元幸 先生 (文学部特任教授)
 会場 文学部法文2号館1番大教室
 東京大学大学院人文社会系研究科・文学部
 集英社高度教養寄付講座 第11回講演会

○エルヴィスが社会を動かした―ロック・人種・公民権
 マイケル・T. バートランド, 前田絢子 (訳) 青土社 2002

○ラバーソウルの弾み方 佐藤良明 平凡社 2004

○これがビートルズだ 中山康樹 講談社現代新書 2003

○知覚の扉 オルダス・バクスリー 今村光一(訳) 河出書房新社 1984

○千のプラトー 資本主義と分裂症 ジル・ドゥルーズ, フェリックス・ガタリ,
  (訳) 宇野邦一, 小沢秋広, 田中敏彦, 豊崎光一, 宮林寛, 守中高明
  河出文庫 2010

○マゾッホとサド ジル・ドゥルーズ, 蓮實重彦(訳) 晶文社 1998

○恋する西洋美術史 池上英洋 光文社新書 2008

○ヰタ・セクスアリス 森鴎外 新潮文庫 1949

○神曲 ダンテ・アリギエーリ 寿岳文章(訳) 集英社文庫ヘリテージシリーズ


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