潮風に導かれ
開国ロマン溢れる浦賀へ


多様性と異質性を受け入れる


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「水上を自由に動く城」に度肝を抜かれた日本人
黒船来航

1853年に訪れた際の旗艦 サスケハナ USS Susquehanna


1853年7月8日(嘉永6年)、

計4隻の巨大な船が、相模湾を横切って三浦半島に近づきます。

霧の晴れ間から富士山が見え、63門に及ぶ大砲は装弾を終え、

臨戦態勢にありました。



浦賀(うらが)沖に投錨(とうびょう)したのは午後5時ごろ。

旗艦「サスケハナ号」(全長78メートル、2450トン)と、

「ミシシッピー号」の2隻が蒸気船で、他の2隻は帆船です。



その頃の日本の船は、大きいものでも100トン程度にすぎません。

「水上を自由に動く城」とも形容された黒船に、

江戸っ子たちがどれほど度肝を抜かれたかは、想像にあまりあります。




※<鎖国日本とペリー来航> 第1回 なぜペリーは日本に来たのか(部分)
  カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE) 2016年08月10日

※1853年に訪れた4隻の黒船
 @サスケハナ号(旗艦)・Aミシシッピー号・Bプリマス号・Cサラトガ号



○生命の跳躍|海洋を統合的に理解する


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慌てふためく幕府への皮肉
狂歌

ペリー公園 (横須賀市久里浜:よこすかし くりはま)


「泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たつた四杯で夜も寝られず」



「上喜撰(じょうきせん)」は宇治の高級茶のことで、

かつてお茶は眠気を覚ます薬として用いられたといわれます。



この句は、お茶の「上喜撰(じょうきせん)」と黒船の蒸気船をかけて、

4杯(隻)の船がやってきただけで夜も寝れなくなるほど

慌てふためいている幕府を皮肉ったものだそう。



○急激な近代化を遂げてきた日本|近代化の象徴 競馬

○風刺や失敗談など「滑稽」を表現する 狂言


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久里浜に上陸した
ペリー

ペリー提督の久里浜(くりはま)上陸の図 ハイネ


1852年11月23日にアメリカ・ノーフォークを出航したペリー艦隊は、

中国(香港)・沖縄(那覇)を経由して、1853年7月8日に浦賀沖に姿を現します。



江戸幕府は、大統領フィルモアの親書を受け取るため、

久里浜(くりはま)にペリーを迎える応接所を建て、

1853年7月14日、ペリーは久里浜に上陸します。



ペリーの日本に対する態度は、特派大使として

交渉の権限を持った外交官僚以外と会うことを拒絶するなど、

以前に渡来したアメリカの艦隊の場合とは全く違っていたといいます。



確固たる態度と自信。

それが、日本の鎖国の扉を開ける名誉をペリーに与えたのです。

ペリーは無理押しせずに、大統領フィルモアの親書に対する返事を

直ちに要求しませんでした。

しかし、再度来航の時に備え、江戸湾の測量を怠りませんでした。



※ペリー記念館 案内文より



○世界から独立国と認識されていた琉球王国

○哲学からみた人間理解|自分自身の悟性を使用する勇気を持つ


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大船製造禁止令の解除
浦賀造船所の開設

2003年に閉鎖された浦賀ドック(住友重機械工業渇Y賀工場)


ペリーが来航した同じ年である1853年(嘉永6年)、

江戸幕府は大船建造禁止令を解除し、浦賀に造船所が開設されます。



その後、農商務大臣であった榎本武揚(えのもとたけあき)らの

提唱によって1897年(明治30年)に浦賀船渠(うらがせんきょ)が設立されます。



※船渠(せんきょ)⇒Dock
※産業遺産見学会
 レンガドック活用イベント実行委員会・ドックと浦賀の歴史を愛する会



○よこすか はじめて物語|近代化の礎を築いた横須賀製鉄所


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日本最初の洋式軍艦
鳳凰丸



黒船の来航を受けて、

翌年の1854年に竣工した日本最初の洋式軍艦「鳳凰丸(ほうおうまる)」。



しかし、蒸気船の急速な普及のため旧式化し、

実際には軍艦としては活躍されなかったといわれます。



○平和な世にのみ姿を表す伝説の霊長 鳳凰


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黒船再来時の旗艦
ポーハタン号

1854年に訪れた際の旗艦 ポーハタン USS Powhatan


1854年、ペリーはポーハタン号にて日本を再び訪れます。

この2度目の来航では、交渉の場は浦賀から横浜に移され、

横浜にて日米和親条約が調印されます。



その4年後の1858年には、ポーハタン号艦上で、

米駐日総領事ハリスと下田奉行・井上清直、目付・岩瀬忠震

との間で日米修好通商条約が締結されます。

幕府は、日米修好通商条約の批准書交換をワシントンで行うため、

日本側代表使節派遣の迎船をハリスに要請し、

また、別船派遣を行うことを決定します。



この時、日本側代表使節を乗せ太平洋を横断したのが、

アメリカ海軍ポーハタン号で、別船として随行したのが咸臨丸だったそう。



○開放的で自由な街に、心地よい風が吹きぬける OPEN YOKOHAMA


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日本人初の太平洋横断
咸臨丸



江戸幕府がオランダに発注した軍艦、咸臨丸(かんりんまる)。

3本のマストを備えた木造スクリュー蒸気船で、推定乗組員は95人。

汽走時の速力は6ノット(11km強/h)だったといわれます。



時は幕末の1860年(安政7年)1月。

勝海舟(かつかいしゅう)を艦長格とする咸臨丸は、日米修好通商条約

の批准書(ひじゅんしょ)を取り交わすため、遣米使節の随伴艦として

浦賀から出航し、日本人初の太平洋横断を成し遂げたそう。



ポーハタン号には、日本側代表使節として、正使・新見豊前守 正興(まさおき)、

副使・村垣淡路守 範正、目付・小栗上野介 忠順(ただまさ)らが乗っていました。



ポーハタン号は、咸臨丸より大きく速度も速かったため、

咸臨丸が浦賀を出帆した3日後に、横浜を出帆しました。



ポーハタン号一行は、マスト修理でハワイ経由となり、

安政7年3月9日(米国時間1860年3月29日)にサンフランシスコに到着。

先についていた咸臨丸乗組員とともに熱烈な歓迎を受けます。



○海運が支える日本の豊かな暮らし

○空と海の間で暮らすような旅|クルージング時代の到来


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咸臨丸に乗船した
福沢諭吉



前列左から浜口興右衛門(運用方)、肥田浜五郎(蒸気方)、福沢諭吉(木村摂津守従者)、

後列左から根津欽次郎(運用方)、小永井五八郎(公用方下役)、岡田井蔵(蒸気方)。



この一行は1860年4月18日から21日にかけてサンフランシスコ市街へ

買い物に来ていたので、写真はその時に撮ったものと思われています。

場所はモンゴメリー街113番地のショー写真館だそう。



なお、福沢は後日の「雨の降る日」にここへ1人で訪れ、

写真屋の娘と一緒に写真を撮っているそうです。



※産業遺産見学会
 レンガドック活用イベント実行委員会・ドックと浦賀の歴史を愛する会
※横浜開港資料館所蔵「万延元年遣米使節図録」
※福翁自伝 福沢諭吉 岩波文庫 1978
※福沢諭吉と写真屋の娘 中崎昌雄 大阪大学出版会 1996



○江戸から近代へ激動の時代を生きた 福沢諭吉


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港町として興隆した
浦賀

京急本線の終着駅 浦賀駅


東京と神奈川県の三浦半島をつなぐ京浜急行電鉄。

本線は、泉岳寺(港区)から三崎口(三浦市)と思いがちですが、

泉岳寺から浦賀(横須賀市)間が本線なのだそう。

(浦賀と三崎口に分岐する堀之内から三崎口までは久里浜線と呼ぶそうです)



陸地深く入り込んだ天然の良港である浦賀は、古くから港町として栄え、

江戸時代に伊豆の下田奉行所を浦賀に移してからの隆盛は

目を見張るばかりであったといいます。



かつて浦賀駅の利用客は、浦賀ドックに通う人たちが多かったそうですが、

今では東京・横浜方面への通勤・通学の人たちがほとんどだといいます。



※京浜急行電鉄 浦賀駅案内文より



○SO HAPPY 大連|北方の良港と呼ばれる港街


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立ち遅れていた造船技術の向上
海運国への発展

2003年に閉鎖された浦賀ドック(住友重機械工業渇Y賀工場)


浦賀湾を囲む場所に建つ住友重機械工業樺ヌ浜造船所浦賀工場。

広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。



この造船所は、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、

陸軍要塞砲兵幹部練習場の施設及び民有地を取得して設立準備を進め、

1897年(明治30年)の会社設立登記をもって発足したものです。

資本金は百万円でした。



そのころの日本は、日清戦争などの影響もあって、

外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。



一方、造船界は、技術面や設備面で大きく立ち遅れていました。

その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に

次々と造船所を造っていきました。この造船所もそのなかの一つで、

ドイツ人技師ボーゲルを月給150円で雇いドックを築きました。



1902年(明治35年)、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブロン号を水進させました。

創業以来手がけてきた船は、いずれも国内の企業から受注した工場用運搬船

のたぐいばかりでしたが、14隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を

世に送りだしました。



この浦賀造船所で建造した艦船は、戦前・戦後を通じ約1,000隻にのぼります。



※横須賀風物百選 浦賀造船所 案内文(1977)より


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レンガ造りでそのままの形態を今に残す
日本唯一のドック

浦賀ドック(住友重機械工業渇Y賀工場)


1899年(明治32年)に完成したという浦賀ドック。

レンガで造られたドックで、その形態を残しているのは日本ではここにしかないそうです。



フランス積みで組まれたドックには、

およそ215万個のレンガが使用されているといわれます。



○日本の近代化遺産 日本最古のドライドック


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日本に2基しかない
レンガ造りのドック

ゲートが解放され、海と一体化している川間ドック跡
横須賀市西浦賀


日本には2基しか残されていないといわれるレンガ造りのドック。

その一つは浦賀ドックでもう一つは川間ドック。

川間ドックはゲートが解放されていて海と一体となっています。


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国防の最前線を担った
浦賀奉行所跡

浦賀奉行所の跡地に立つ住友重機械工業の閉鎖された社宅 


1720年(享保5年)に奉行所が下田から浦賀へ移されました。

その業務は、船改め(船の積み荷の検査)をはじめとして、

海難救助や地方役所としての仕事などを行いました。



また、1804〜1830年(文化・文政)のころから、

たびたび日本近海に出没するようになった異国船から江戸を防備するため、

海防の最前線として、さらに重要な役割を果たすようになりました。



現在では、奉行所を取り囲む堀の石垣と、

表門の前にかかっていた石橋の伊豆石が4〜5枚あるだけで、

当時の様子を偲ぶことはむずかしくなっています。



※浦賀観光協会 案内文より


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人々の生活を支えてきた
浦賀湾の渡し船

横須賀市営の交通事業 浦賀街道
浦賀湾を渡り東と西をつなぎます


室町時代に、聖護院准后道興(せいごいんじゅんこうどうこう)が著した紀行文

「廻国雑記(1486」)に以下のような文章があります。



  「…浦川の湊といへる所に至る。ここは昔頼朝郷の鎌倉にすませ給ふ時、

  金沢、榎戸、浦河とて、三つの湊なりけるとかや…」



この文章が現在の浦賀港を指すものであるかどうかについては、

歴史家の間に疑問があるようです。

しかし「浦賀みなと」の名称そのものが、書物の中にみられる最初のものです。

いずれにしても、浦賀港が三浦一族や後北条(小田原北条)によって

使われていたことは確かなようです。



この良港に注目した徳川家康は、ここを外国貿易の根拠地にしようと考えました。

英人ウィリアム・アダムを逸見(へみ:横須賀にある地名)に住まわせ、

しきりにイギリスとオランダなどの商船をこの港に引き入れるよう努めさせました。



1720年(享保5年)、浦賀奉行が置かれると、江戸湾に出入りする船は、

すべて浦賀で船改め(船の積み荷の検査)をすることが義務づけられました。

そのために、浦賀の町は大いに栄えました。



浦賀港は、湾が約1.5kmも入り込み、東西両岸の住民が往来するのには、

渡船を利用することが最も便利でした。

したがって、渡船は早くから開かれていたようです。



※横須賀風物百選 浦賀港と渡船 案内文(1977)より


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源氏の再興を願い、平家の滅亡が叶った
叶神社

浦賀湾を挟んで西側にある叶(かのう)神社 (西叶神社)


「アリャアリャ、ありがたや、叶明神の威徳をもって、虎もやすやす従えたり、

皆々いさんでカッピキュー」



これは、享保五年(1720)から当地に伝えられているといわれ、

毎年九月の祭礼に奉納される県指定無形民俗文化財「虎踊り」に

登場する和藤内のせりふの一節です。



叶明神は、平家の横暴ぶりを憤った文覚上人が、上総国(現在の千葉県)

鹿野山(かのうざん)にこもり、はるかに山城国(現在の京都府)石清水八幡宮

(いわしみずはちまんぐう)に源氏の再興を願って叶(かな)えられたことから、

養和元年(1181)にそのみ霊(たま)をこの地に迎えて祭ったことに始まると

伝えられています。



※横須賀風物百選 案内文(1977)より(部分)



○源氏の守り神 鶴岡八幡宮


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勝海舟が断食をしたと伝えられる
叶神社

浦賀湾を挟んで東側にある叶神社 (東叶神社)


浦賀港を挟んで東側にある叶神社(東叶神社)。

社務所の裏には井戸があり、勝海舟が咸臨丸での太平洋横断前に、

この井戸で水垢離(みずごり:冷水浴び)をした後、

明神山山頂で断食をしたと伝えられています。



○東京湾・浦賀 歴史探索シーカヤック


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江戸時代の灯台
燈明堂

当時の外観に復元された燈明堂(とうみょうどう)


1648年(慶安元年)、幕府の命により造られ、菜種油で灯(とも)された光は

海上4海里(7.4km)を照らしたといわれています。



元禄(1688-1704年)の頃から、最盛期を迎えた東浦賀の干鰯問屋(ほしかどんや)

の負担で維持管理を行い、1872年(明治5年)に廃止されるまでの220年間、

一日も休まずに航路の安全を守ってきたといいます。



建物は明治20年代まで残っていたといわれていますが、

風雨で崩壊し石垣だけが残っていたそう。

1988年(昭和63年)に、残った石垣の上に現在の建物が、

当時の外観に復元されたそうです。


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首切場と呼ばれた
浦賀奉行所の処刑場跡

幕末期の燈明堂周辺の絵図 久保木実氏所蔵


燈明堂の背後の山には平根山台場がつくられ外国船に備えられました。

平根山台場は1837年(天保8年)、日本人漂流民を送り届けに来航した

米商船モリソン号を最初に砲撃した台場として知られています。



ここから海岸沿いに海に突き出たところには幕末期に、

千代ケ崎台場がつくられました。



燈明堂付近には供養碑などが立ち並び、かつてここが

首切場と呼ばれた浦賀奉行所の処刑場だったことが偲ばれます。



※燈明堂 案内文より



○江戸時代の処刑場 鈴ヶ森刑場遺跡


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犯罪的傾向が進んだ少年を収容する久里浜少年院
私たちは何ができるか少し考える

横須賀刑務支所(以前は横須賀刑務所)に隣接する久里浜少年院
かつてこの地には旧海軍の対潜学校があったそうです


久里浜少年院の篤志面接委員(とくしめんせついいん)を務め、

全国の少年院や刑務所、拘置所への慰問活動も行っている落語家の桂才賀 師匠。

出会った少年たちについて以下のように述べています。



  久里浜少年院ってのは、特別少年院と言って、少年院の中でもイケイケのワルを

  収容するところ。少年院の世話になるのが、二度目、三度目なんてのも中にはいて、

  少年院の中のエリート校とも、東大とも呼ばれているんだ。

  とにかく、ちょっとやそっとの悪ガキじゃあ、とてもじゃないが入れない。

  チンピラレベルじゃ無理だったりするのが現実よ。


  (中略)


  まず、彼らに共通して言えるのは、やっぱり家庭に大きな問題があったということ。


  (中略)


  「うちは愛情をかけてます」って言う親御さんにも、ちょっと考えてもらいたいことがある。

  本人は愛情をかけてるつもりかも知れないけど、それは体面や世間体を気にして、

  自分の都合のいいように子どもをコントロールしようとしているだけじゃないかい?

  逆に、「うちは放任主義なんです」っていう親御さん。

  それは単なる無関心じゃないかねぇ?


  (中略)


  誤解があっちゃいけないので、最後に断っておきますが、何も私は少年院の

  子どもたちが罪を犯したのは、すべて回りの大人の責任だと言っているわけでも、

  大目にみてやってくれと言ってるわけでもないですよ。

  実際、特別少年院である久里浜少年院の少年たちは、ほとんどが再犯で

  舞い戻ってきた連中です。もっといえば、刑務所の世話になっている受刑者

  たちの四分の一は少年院経験者であるという現実もあります。



  アタシの言いたいのは、、それをふまえた上で、じゃあ、我々、

  大人は何ができるのかを、少し考えてみたっていいんじゃないかってこと。

  目の前にいる自分の子どもたちはもちろん、親戚や近所の子どもたちに、

  何を教えていけばいいのか。

  本当に正しいかどうかなんて、まったく分かりませんが、アタシがこの目でみて、

  この耳できいてきたことが、少しでも少年院のアイツらのお役に立てればいいかな、

  なんて、恰好つけた言い方にはなりますが、そう思っているわけです。



※刑務所通いはやめられねぇ 〜笑わせて、泣かせる落語家慰問〜
 桂才賀 亜紀書房 2008 6章 少年院のこどもたち p187-215

※子供を叱れない大人たちへ 2013.07
 講師 桂才賀 先生 落語家・少年院篤志面接委員
 第78回円覚寺夏期講座

※2014年6月の少年院法制定により、少年院の種類は見直しされています。


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空間的にも、精神的にも余裕のない
刑務所

横須賀刑務所(現 横須賀刑務支所) 法務省矯正局より


※刑務所通いはやめられねぇ 〜笑わせて、泣かせる落語家慰問〜
 桂才賀 亜紀書房 2008 あとがき p218-219


  受刑者も刑務官たちも、今、いっぱいいっぱいだってことは間違いないんです。

  受刑者たちは、過剰収容でストレス爆発寸前。

  雑居房に叩き込まれれば、自分のスペースなんかこれっぽっちもない。

  独居房だって二人部屋状態だから、息が詰まるような毎日だ。



  これじゃあ、心を鎮めて自分のしてきたことをかえりみるってことも、

  なかなか難しいじゃないかと思うわけ。

  何も、刑務所に隔離されて、厳しい生活を送ることだけが刑じゃないんだ。

  罪を悔い改めて、更生してもらわないことには、被害者だって納得しないし、

  何よりも本人のためにもならない。

  もっと言やぁ、税金の無駄使いってことにもなる。





  刑務官たちだって、受刑者をただ刑務所の中に閉じ込めておくだけが仕事じゃない。

  自分の犯した罪と向き合わせて、その罪を認めさせ、さらに贖罪(しょくざい)の意識を

  しっかりと抱かせ、更生させて社会復帰へと導いてもらわなきゃなんないんだ。



  そのためには、健康な精神状態でいて欲しいわけだけど、

  増えるばかりの受刑者たち、増えるばかりの仕事に追われてクタクタよ。

  時折、刑務官による受刑者たちへの暴行事件が表沙汰になるが、

  このままじゃ、彼らのストレスが、またいつあんな形で暴発しないとも限らない。

  これじゃあ、刑務所本来の役割が果たせないじゃないかと思うんだ。





※刑務所通いはやめられねぇ 〜笑わせて、泣かせる落語家慰問〜
 桂才賀 亜紀書房 2008 4章 かくも厳しく楽しい!? ムショの世界
 過剰拘禁で過剰勤務の刑務官たち p118


  刑務官は、常にピンと神経を張り詰めないとなんない、大変な仕事なんだねぇ。

  あんまり知られちゃいないんだけど、国家公務員の中で、

  定年後半年以内に亡くなる確率が一番高いのが、この刑務官なんだ。

  「最も寿命が短い公務員」とも言われてるね。

  定年を迎えると、それまでの張りつめた緊張がブッツリと切れちまうんだろうね。


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心の窓が開かれて
本当の自分の姿が浮かび上がる

フレンチラベンダー(ストエカスラベンダー)
くりはま花の国 ハーブ園


浄土真宗の僧侶で、刑務所の教誨師(きょうかいし)や

篤志面接委員(とくしめんせついいん)も務めた吉本伊信(いしん) 先生(1916-1988)。



浄土真宗の修行法「身調(みしら)べ」から着想を得て創始した

内観療法(ないかんりょうほう)は、刑務所、少年院に留まらず、

医療や一般の場面で広く応用されています。



内観療法は、静かな落ち着いた場所で、母や父、兄弟、自分の身近な人に対して、

今までの関わりを以下の3点において具体的に思い返してゆきます。



 ○してもらったこと

 ○して返したこと

 ○迷惑をかけたこと



※内観療法の基礎から応用まで、内観の体験的学習 2014.09
 講師 真栄城輝明 先生 奈良女子大学 教授
 会場 日本大学文理学部 百周年記念館
 日本心理医療諸学会連合 第27回大会 メンタルヘルスを支えるポジティブ・サイコロジー



○人類から遠く離れた孤独の中に住む 世界の本質

○日本人の心を形成してきたもの|これからを生きる指針となるものを探る

○あるがままの生の肯定 フリードリヒ・ニーチェ


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おかえり
社会を明るくする運動



おかえり。



犯罪や非行をした人は、反省と償いを経てやがて社会に戻ってきます。

彼らの立ち直りには、本人の努力はもちろんですが、

まわりの人や社会の支えが欠かせません。



住まいがあれば、明日を信じられる。仕事があれば、自分を信じられる。

まっすぐに受け入れることで、繰り返されるあやまちを減らすことができる。



つまづいても、やり直せる社会へ。

「おかえり。」という言葉には、更生保護の原点にある思いが込められています。



○法をもっと身近に|縁遠いようでとても身近な法律に触れて


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美しく安全で活力のある
国土の実現

国土交通省 国土技術政策総合研究所
国立研究開発法人 海上・港湾・航空技術研究所 港湾空港技術研究所


住宅・社会資本分野で唯一の国の研究機関として、

2001年(平成13年)に設立された国土技術政策総合研究所(国総研)。



「美しく安全で活力ある国土」の実現をめざし、

得られた研究成果は、河川、道路、下水道、建築、住宅、都市、港湾、空港等

の政策や事業の実施を通し、良質な社会資本の効率的な整備という形で

広く社会に還元され、国民の満足度向上に寄与しているそうです。


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自衛隊として最も古い駐屯地
久里浜駐屯地

陸上自衛隊 久里浜駐屯地


久里浜駐屯地は、戦前の昭和14年に「海軍通信学校」として開設、

昭和25年の警察予備隊発足当時から続く部隊として「陸自久里浜部隊」として

受け継がれた自衛隊としては最も古い駐屯地なのだそう。



駐屯部隊は、昭和27年から続く「通信学校」のほか、「通信教導隊」、

「(通信団)中央野外通信群」、「(東部方面後方支援隊)通信教育直接支援中隊」、

「第129地区警務隊」、「第316基地通信中隊久里浜派遣隊」があるそうです。



○平和と独立を守る防衛省|すべての国々、すべての方々に感謝の気持ちを

○国内・地域、そして世界の平和と繁栄を願う自衛隊|武山駐屯地


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自衛隊イラク派遣活動における
着用戦闘服

陸上自衛隊 久里浜駐屯地 歴史館


写真の戦闘服は、2003年12月〜2009年2月まで自衛隊イラク派遣に

参加した陸上自衛隊隊員が着用していたものだそう。



戦闘服は、「日の丸」のパッチを取り付け可能なほか、

猛暑の中でも行動しやすいように通気性のよい素材を使い、

生地を薄くしたため、破れにくいように米軍のACU(戦闘服)

同様のリップストップ(格子状に丈夫な糸が織り込んでいる)になっているそうです。



※陸上自衛隊 久里浜駐屯地 歴史館 案内文より


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明治天皇の名のもとに出された教育方針
教育勅語

明治23年10月30日に発布された「明治天皇のお言葉」
陸上自衛隊 久里浜駐屯地 歴史館
教育勅語は、儒学者・元田永孚(もとだ えいふ)によって起草されたといいます


※教育に関する勅語 現代語訳 (久里浜駐屯地 歴史館 案内文より)


  私は、私たちの祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、

  日本の国をおはじめになったものと信じます。

  そして、国民は忠孝両全の道を完(まっと)うして、全国民が心を合わせて努力

  した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげて参りしたことは、もとより日本

  のすぐれた国柄の賜物といわなければなりませんが、私は教育の根本もまた、

  道義国家の達成にあると信じます。



  国民の皆さん、子は親に孝行を尽くし、兄弟姉妹は互いに力をあわせて助け合い、

  友人は信義を守って励ましあい、そして自分の行動をつつしみ、全ての人々に

  愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職場に専念し、知識を養い、人格を磨き、

  さらに進んで、社会のために力を尽くし、また法律や、秩序を守ることはもちろんの事、

  もし非常時代がおこった場合には、身命を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければ

  なりません。



  そしてこれらの事は、善良なる国民としての勤めであるばかりでなく、

  また、祖先が残された伝統的美風を、私達がさらにいっそう明らかにして

  讃える事なのであります。だから、このような国の歩むべき道は、

  祖先の教訓として、私達子孫が守っていかなければならない事であり、

  昔も今も変わらぬ正しい道であって、日本ばかりでなく、外国においても、

  同じように間違いのない道であります。



  私も国民の皆さんとともに、祖父の教訓を胸に抱いて、

  日本が永久に立派な道義国家であるように希望します。





※当時、主権は天皇陛下にありました。

※現代語訳では「国民の皆さん」と表記されていますが、原文では「臣民(しんみん)」。
  臣民(しんみん)は、「君主に支配される者としての人民」のこと。

※「私」(⇒明治天皇)は、原文では「朕(ちん)」。
  「朕(ちん)」は、天子(てんし⇒天命を受け天下を治める者)のこと。
  秦の始皇帝から用いられるようになったとされます(それ以前は「孤」と名乗った)。

※教育勅語は、国民が遵守しなければならない絶対的な指針でした。



○象徴天皇制と平和主義|国事に関する行為が行われる宮殿

○人間のもって生まれた本性をつきつめる|儒教の考え方

○悲劇によって道義を知る「虞美人草」

○イノベーションは内生的・自発的に生まれる|健全な経営を目指す会社


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純粋に母国を信じ殉職した少年たち
水際特攻「伏龍」

久里浜には、水際特攻(みずぎわとっこう)伏龍隊(ふくりゅうたい)
の訓練基地があったそう|陸上自衛隊 久里浜駐屯地 歴史館


第二次大戦末期、ここ久里浜の海軍水雷学校久里浜分校に

第71突撃隊として編成されたのは、水際特攻伏龍隊の訓練基地でした。



「伏龍(ふくりゅう)」とは、写真のような循環型潜水服を着た兵士が

長時間海中に潜(ひそ)み、上陸しようとする敵の船艇を

15kgの五式爆雷のついた竹棒で突いて攻撃すると言うものです。

(⇒突いたら当然本人は死にます)



平作川(ひらさくがわ⇒久里浜駐屯地の横を流れる川)から湾内(東京湾)に出て、

久里浜海岸と野比(のび)海岸において激しい訓練が行われましたが、

未完成な潜水服と相まって多くの殉職者(じゅんしょくしゃ)を出しました。



海中をたった1人で2km歩くなどの猛特訓で殉職した兵士は

純粋に母国の勝利を信じた16〜17歳の予科練(よかれん)出身者が多かったそうです。



※陸上自衛隊 久里浜駐屯地 歴史館 案内文より



○小網代の森に眠る特攻艇基地跡

○特攻隊の出撃地 知覧

○集団自決の構造|当時の教育の凄まじさ

○「清らかで死を恐れない気概・精神」の意味となった「大和魂」

○権力を尊く敬い畏れている庶民|東洋のルソーといわれた中江兆民

○教育こそがただ一つの解決策|Education First


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三浦半島と房総半島を40分で結ぶ
東京湾フェリー

かなや丸 久里浜港


東京湾を横断して、神奈川県横須賀市久里浜と

千葉県富津市金谷(かなや)を結ぶ東京湾フェリー。



久里浜港の最寄駅であるJR久里浜駅から電車に乗って、

東京湾をぐるっと周り金谷港の最寄駅である浜金谷駅までは、

およそ3〜4時間かかりますが、

東京湾フェリーでは約40分と場所によってはとても便利です。



フェリーに乗ってみると、普段見る東京湾とはまた違った景色が見えてきます。



○東京湾フェリーに乗って晩秋の房総半島へ

○三浦半島の海と自然に触れて|半島に沿って相模湾から東京湾へ


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ペリーの久里浜上陸を記念する
ペリー公園

横須賀市久里浜


ペリーの久里浜上陸を記念してつくられたペリー公園内には

ペリー上陸記念碑があります。



記念碑の除幕式は、1901年(明治34年)7月14日、

ペリーの上陸と同じ日に行われたそうです。



参列者は桂首相ほか閣僚、個人として榎本武揚やペリー艦隊の一員として

来航した経験のあるアメリカ退役海軍少将ビアズリーなど総数約1,000人。

久里浜沖では日米の軍艦が祝砲を放つなど盛大な式になったといわれます。


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過去に学び、
これからの環境保全を考える

東京電力 横須賀火力発電所


第二次世界大戦後、他国に類のない経済発展を遂げた日本は、

さらに深刻な環境汚染を経験することとなり、大きな社会問題となっていきました。

これらの問題に対処するため、公害対策基本法(1967年(昭和42年)制定)を

はじめとする環境法が整備され、公害の克服に相当な成果を上げました。



近年では、都市・生活型公害や地球環境問題などの

新たな環境問題が顕在化してきたことから、1993年(平成5年)には、

地球環境時代にふさわしい新しい枠組みとして、環境基本法が制定され、

これに基づき、政府が一体となって施策を講じるための環境基本計画が策定されました。



人類の生存基盤である環境を保全し、地球環境問題や大気汚染問題を含む

幅広い今日の環境問題に対処するためには、

「循環」、「共生」、「参加」、「国際的取組」の4つの原則に基づいて、

環境問題に対する国民的合意、環境基本法に基づく施策体系の整備、

それにふさわしい行政組織の改編などの新しい環境政策システムの構築が

必要となっています。



※日本の大気汚染の歴史|独立行政法人環境再生保全機構

※過去に学び、これからの環境保全を考える 2016.11
  講師 猿田勝美 先生 神奈川大学名誉教授
  会場 横浜シンポジア
  主催 横浜市環境創造局・横浜市環境保全協議会



○持続可能な循環型社会の基盤にあるもの

○いのち集まる流域 小網代の森|私たちが生きる地球の持続可能性

○財政健全化への取組み|失われた25年から学んだこと


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花をテーマにした公園
くりはま花の国



緑豊かな自然とのふれあいを満喫できる花をテーマにした公園、くりはま花の国。

春はポピー、秋はコスモスが咲き乱れ、多くの人が訪れます。



○ため息を春風に変えて|自然からの贈り物 春の花言葉


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森を愛する妖精
ネモフィラ

くりはま花の国


澄んだブルーの花が美しいネモフィラ(Nemophila)。

ギリシア語のネモス(森)とフィレオ(愛する)の2語からなり、

森林の周辺に自生することからこう呼ばれているそうです。



○「迷信」の中を彷徨う|三浦半島の自然 大楠山


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人にやさしいハーブ
カレンデュラ

くりはま花の国 ハーブ園


カレンダーを語源にするというキク科の草花、カレンデュラ。

日本語ではキンセンカと呼ばれます。



カレンデュラから抽出したオイルは人にやさしく、

女性や赤ちゃんなど肌が敏感な人に重宝されているそうです。



○花びらが幾重にも重なる魅力的な花 ラナンキュラス


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そう長くはない私たちの人生
多くの人を好きになれますように

ポピー くりはま花の国


生命は、それぞれは固有であり、

個々に異なるはたらきから成る全体の振る舞いである。

どんな小さな細胞も、剥がれ落ちる寸前の皮膚片も、

それがあってこそ「いま・ここ」のわたしの物語が創られる。



多様性と異質性の幅に、人は自然に含まれる。

分けない世界では、自分の表現は当たり前に自分で創る。



「他者を感じて動くといいですよ」

すると、身体からはじまる表現は、独自の美しさを伴って自ずと立ち現れてくる。



心あたたかな交流と同時に、それぞれの心身にはたくさんのズレや摩擦が生じて、

心地よいことばかりではない。その時にこそ、創造性が活気づく。

それを捕まえて、これまでを超えていけるか…。

小さな試みは、一人ひとりにそのことを静かに問いかけている。



※障がいを超えるダンス「Note−わたしの物語−」
 ・藝大 アーツ・スペシャル2016 障がいとアーツ 東京藝術大学奏楽堂 2016.12
 ・エッセイ「心地よいことばかりではない」より(部分)
  みんなのダンスフィールド代表 西洋子 先生 (東洋英和女学院大学 教授)



○私たちの生涯|生と死の狭間にある「時」を歩む

○障がいを越えて共に生きる


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生命の跳躍
エラン・ヴィタール

浦賀沖を航行中 保田クルージング 2010.06 葉山鐙摺ヨットクラブ
アフロディーテ(ベネトウ オセアニス343)より撮影


19世紀末から20世紀にかけてのフランスにおいて、

「生の哲学」を展開したアンリ・ベリクソン(1859-1941)。



ベリクソンによると、

知性は、流動するものを嫌い、対象をことごとく固定させてしまう傾向を持ち、

あらかじめ描かれたプログラムが実現される過程のように描くものである限り

生命にふさわしくないとします。



生命は、知性の手から漏れ出るものであり、私たち自身も、

他のすべての事物も、純粋な持続のなかで進化しているものであるとし、

これを「生命の跳躍(エラン・ヴィタール)」という概念で提示します。



「生命の跳躍(エラン・ヴィタール)」は、一個の生命個体の枠に留まるものではなく、

個々の有機体個体を介しながら世代を通じて貫かれ、進化系統に分かれながら

存続していく。進化過程における諸変化は、生に備わる根源的衝動、根源的跳躍

に帰するとし、狭義の知性は無力であるとします。



「生命の跳躍(エラン・ヴィタール)」は、

予測不可能ではあるが単なる偶然ではないものであって、

自由という言葉によって置き換えられるにふさわしいものである。



意識は、この「生命の跳躍(エラン・ヴィタール)」の先端に位置するものである。

この生命の創造力と一致するために、意識は「さらに大きく開花し」、

「自らを深める」努力をしなければならない。



※ベリクソンの近代科学批判と生命概念
 近代哲学の人間像、15.生命概念のもとでの哲学の主張
 佐藤康邦 先生 放送大学教授・東京大学名誉教授



○困難を伴う自我の開放|森鴎外「舞姫」にみる生の哲学

○破壊と再生|日本型うつ病社会に別れを告げて

○ひらり舞う蝶を追いかけ白い帆を揚げて


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軍事上の必要性から敷設された
横須賀線

JR横須賀線の終点 久里浜駅


明治13年(1880)に陸軍が観音崎砲台の建設を開始し、

明治17年(1884)には海軍が横須賀に鎮守府を置くなど、

横須賀は軍事上の重要性を増します。



このような背景から、明治19年(1886)6月、陸軍大臣大山巌と

海軍大臣西郷従道が内閣総理大臣伊藤博文に対して、

横須賀への鉄道敷設を求めました。



当時すでに東海道線の工事が進められていて、最短距離にある

大船から線を分岐させ、終点は砲台のある観音崎を予定していました。



しかし、横須賀の狭い市街地を通過させるのは困難であり予算も不足していたため、

終点を現在の横須賀駅付近とすることで明治21年(1888)1月に着工されます。



明治22年(1889)6月16日に完成開業し、運転を開始しましたが、

当時はまだ単線で、大船-横須賀間の停車場は鎌倉と逗子だけでした。

その後、複線化、電化と発展しますが、昭和6年(1931)の満州事変以来、

海軍諸施設が市南部に増えたため、

横須賀-久里浜間の横須賀線延長が海軍から要請されます。

昭和16年(1941)8月に起工し、昭和19年(1944)4月1日開通しました。



軍事上の必要性から敷設された横須賀線ですが、

この開通によって横須賀だけでなく三浦半島の交通は格段に良くなり、

まちの発展に大いに寄与しました。



※横須賀市より



○日本最大の軍港都市として発展した よこすか


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参  考  情  報


○久里浜観光協会公式サイト - ようこそ ペリー上陸の地 花の街 久里浜へ!!

○横須賀市観光情報サイト「ここはヨコスカ」

○開国史入門 「開国への道」|横須賀市

○横須賀市自然・人文博物館

○住友重機械工業株式会社

○叶神社公式ホームページ

○法務省:矯正局

○おかえり。|社会を明るくする運動

○少年院の総合情報サイト|少年院.com

○国総研NILIM|国土交通省国土技術政策総合研究所

○国立研究開発法人 海上・港湾・航空技術研究所 港湾空港技術研究所

○東京湾フェリー株式会社

○久里浜駐屯地 [陸上自衛隊 通信学校]

○横須賀 くりはま花の国/ペリー公園

○みんなの趣味の園芸 | 園芸、ガーデニングの情報サイト

○ヤサシイエンゲイ -植物の育て方図鑑

○ネモフィラ | 国営ひたち海浜公園

○久里浜商店会協同組合公式サイト−久里浜商店街へようこそ

○そらいろネット〜三浦半島身近な図鑑〜

○大気環境の情報館|独立行政法人環境再生保全機構

○NPO法人みんなのダンスフィールド

○フリー百科辞典Wikipedia

○横須賀開国史シリーズ4 彼理日本紀行〜ペリーと浦賀〜
 横須賀開国史研究会 横須賀市

○横須賀案内記 製鉄所からはじまった歩み
 久保木実, 富沢喜美枝, 中里行雄, 山本詔一 横須賀開国史研究会 横須賀市

○第1回「咸臨丸フェスティバルウォーク」 2016.04
 よこすか京急沿線ウォーク
 主催 横須賀集客促進実行委員会(京急電鉄・横須賀市)

○陸上自衛隊 久里浜駐屯地 桜まつり 2017.04

○ペリー提督日本遠征記 M・C・ペリー (著), F・L・ホークス (編),
 宮崎壽子(訳) 角川ソフィア文庫 2014

○万延元年遣米使節図録 横浜開港資料館所蔵

○福翁自伝 福沢諭吉 岩波文庫 1978

○福沢諭吉と写真屋の娘 中崎昌雄 大阪大学出版会 1996

○氷川清話 勝海舟 角川文庫 1972

○発掘調査された小原台堡塁 ―東京湾要塞とその時代― 2016.10
 ・基調報告1
  小原台堡塁跡の発掘調査 三瓶祐司 先生 かながわ考古学財団
 ・基調報告2
  東京湾要塞の建設と築城技術・建築資材の変化
  野内秀明 先生 横須賀市教育委員会
 ・基調報告3
  小原台堡塁跡の発掘調査-大正期の軍事演習痕跡
  齋藤真一 先生 相模原市教育委員会
 ・講演
  小原台堡塁とその時代 濱田秀 先生 前防衛大学校准教授
 ・事例報告1
  大阪湾要塞群の特徴 -由良要塞の地理的特徴について-
  山岡邦章 先生 由良要塞研究者
 ・事例報告2
  東京における煉瓦生産の概略 斉藤進 先生 東京都埋蔵文化財センター
 ・事例報告3
  東京湾要塞に使用された石材の調達について
  -石材起業家土屋大次郎の活動を中心に-
  丹治雄一 先生 神奈川県立歴史博物館
 ・会場 横浜市南公会堂
 ・主催 (公財)かながわ考古学財団
 ・後援 横須賀市教育委員会

○子供を叱れない大人たちへ 2013.07
 講師 桂才賀 先生 落語家・少年院篤志面接委員
 第78回円覚寺夏期講座

○子供を叱れない大人たちへ―少年院の子供たちから親・教師へのメッセージ
 桂才賀 実務教育出版 2003

○刑務所通いはやめられねぇ 〜笑わせて、泣かせる落語家慰問〜
 桂才賀 亜紀書房 2008

○日本心理医療諸学会連合 第27回大会
 メンタルヘルスを支えるポジティブ・サイコロジー 2014.09
 ・第一部
  ・メンタルヘルスを支えるポジティブ・サイコロジー
  ・認知行動療法とポジティブ・サイコロジー
  ・「幸福追求」とポジティブ心理学
  ・健康増進と能力発揮のポジティブ心理学
  ・コミュニケーションスキル教育とポジティブ・サイコロジー
 ・第二部(選択)
  ・内観療法の基礎から応用まで
  ・内観の体験的学習
  講師 真栄城輝明 先生(奈良女子大学)
 ・会場 日本大学文理学部 百周年記念館

○藝大アーツ・スペシャル2016 障がいとアーツ 2016.12
 ・会場 東京藝術大学 奏楽堂
 ・1日目
  ・ワークショップ 「わたしだけのノートづくり」
  ・ミュージック・イン・ザ・ダーク -オール・バッハ・プログラム-
   〜ヴァイオリニスト和波孝禧アンサンブル
   《無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番》より〈シャコンヌ〉
   《ブランデンブルク協奏曲 第5番》
   《G線上のアリア》
  ・チリから障がいのあるアーティストを迎えて アンドレス・ゴドイ(ギター)
  ・障がいを超えるダンス「Note -わたしの物語-」
   第1部「だれかとの街」
   第2部「あなたとの街」
   第3部「わたしの街」
  ・司会:新井鴎子 先生(本学COI特任教授)
 ・2日目
  ・プレトーク 「障がいを超えるファッション」
   コシノジュンコ、吉田真一
  ・メイン・コンサート 「聞こえる色、見える音」
   ロッシーニ:歌劇《ウィリアム・テル》序曲より〈スイス軍の行進〉
   グリーグ:《ペールギュント》組曲より〈朝〉ほか
   ベートーヴェン:《交響曲第9番》より第2楽章、第4楽章(抜粋)
   J. シュトラウス二世:《春の声》
   A. ゴドイ:《天使と蚊》、《娘と息子》 ほか
  ・司会:松下功 先生(本学副学長)

○ひとさし指のノクターン 車いすの高校生と東京藝大の挑戦 2016
 新井鴎子・高橋幸代 ヤマハミュージックメディア

○日本箱庭療法学会第28回大会 臨床のパトス 2014.10
 一般公開シンポジウム 「場への信頼」 共に在ること・創ること
 会場 東洋英和女学院大学横浜キャンパス

○過去に学び、これからの環境保全を考える講演会 2016.11
 ・開会挨拶
  大熊洋二 先生 横浜市環境創造局長
 ・石炭火力と環境
  小谷十創 先生 電源開発株式会社 磯子火力発電所 所長
 ・過去に学びこれからの環境保全を考える
  〜公害防止協定締結半世紀を契機として〜
  猿田勝美 先生 神奈川大学名誉教授
 ・会場 横浜シンポジア
 ・横浜市環境創造局・横浜市環境保全協議会

○沈黙の春 レイチェル カーソン, 青樹 簗一(訳) 新潮文庫 1974

○成長の限界―ローマ・クラブ「人類の危機」 ドネラ H.メドウズ ダイヤモンド社 1972


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