最も進んでいないイノベーション
人間に関する知識


ルソー「人間不平等起源論」


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| 人間が作った制度 | 長い物には巻かれる  | 不平等の種類 | 純粋な自然状態 | 生物学上のヒト |
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| 資本と分業 | バベルの塔 | 素朴社会と文明社会 | ノースウエスト・テリトリー | 千変万化する空 |
| 一人で自然と競争 | シャマンの仮面 | 征服よりも融和 | 自分の力で生きる | 自分が自分の主 |
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言ってはいけない
残酷すぎる真実

「大きな魚が小さな魚を食う」 1557 版画 ピーテル・ブリューゲル


この社会はきれいごとがあふれている。

人間は平等で、努力は報われ、見た目は大した問題ではない−

だが、それらは絵空事だ。往々にして、努力は遺伝に勝てない。

知能や学歴、年収、犯罪歴も例外ではなく、美人とブスの「美貌格差」は約3600万円だ。

子育てや教育はほぼ徒労に終わる。

進化論、遺伝学、脳科学の最新知見から、人気作家が明かす「残酷すぎる真実」。

読者諸氏、口に出せない、この不愉快な現実を直視せよ。



※言ってはいけない 残酷すぎる真実 橘玲 新潮新書 2016 書籍案内より




最初に断っておくが、これは不愉快な本だ。

だから、気分よく一日を終わりたいひとは読むのをやめたほうがいい。

だったらなぜこんな本を書いたのか。それは、世の中に必要だから。

テレビや新聞、雑誌には耳障りのいい言葉が溢れている。

メディアに登場する政治家や学者、評論家は「いい話」と「わかりやすい話」しかしない。

でも世の中に気分のいいことしかないのなら、

なぜこんなに怒っているひとがたくさんいるのだろうか。−

インターネットのニュースのコメント欄には、

「正義」の名を借りた呪詛(じゅそ⇒のろい)の言葉ばかりが並んでいる。

世界は本来、残酷で理不尽なものなのだ。

その理由を、いまではたった1行で説明できる。




ひとは幸福になるために生きているけれど、

幸福になるようにデザインされているわけではない。



※言ってはいけない 残酷すぎる真実 橘玲 新潮新書 2016 冒頭より



○破壊と再生|日本型うつ病社会に別れを告げて

○人類から遠く離れた孤独の中に住む 世界の本質

○苦しみに満ちている人間の生からの救済|ショーペンハウアー


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格差が深刻になっている
現代社会

銀座七丁目 東京都中央区


「格差」を論じたピケティの著書「21世紀の資本」は、15年をかけて

世界20ヵ国以上の税務データを200年以上前までさかのぼって

収集し分析した結果から公式を導きだしています。



r > g

※r … return on capital ⇒ 資本収益率
※g … economic growth rate ⇒ 経済成長率



資本収益率は、株や不動産などの運用で得られるお金の割合を指し、

資本家(お金持ち)が株や不動産などを運用することで

年間どれくらいお金が増えていくかを表す指標。

一方、経済成長率は、働くことで得られるお金の増加率を表す指標。



ピケティの研究によると資本収益率は年間平均4〜5%増加し、

経済成長率は年間平均1〜2%の増加だと指摘します。



○イノベーションは内生的・自発的に生まれる|健全な経営を目指す会社

○財政健全化への取組み|失われた25年から学んだこと

○日本を代表する繁華街 銀座ストリート


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不平等はなぜ起こるのか
人間不平等起源論

フランス革命を先導した啓蒙思想家
ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712-1778)


「人間のすべての知識のなかでもっとも有用でありながらもっとも進んでいないのは、

人間に関する知識であるように私には思われる。」


※人間不平等起原論 J.J. ルソー. 本田喜代治(訳), 平岡昇(訳) 岩波文庫 1972 序文





現代社会において、格差が深刻な問題となっています。

不平等はなぜ起こるのか。それを生み出した文明とは何か。

不平等を克服し、平等をもたらす社会が満たすべき条件は何か。

こうした問題について、徹底して考え抜いたのが18世紀の啓蒙思想家

ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712-1778)でした。



代表作には「芸術論」(1750年)」「人間不平等起源論」(1755年)」

「社会契約論」(1762年)」、「エミール(1762)」などがあり、

ルソーの思想は、政治や経済に留まらず、哲学、文学、教育と

広範囲にわたり、後の思想家たちに大きな影響を与えたといわれます。



○日本人の心を形成してきたもの|これからを生きる指針となるものを探る

○あるがままの生の肯定|フリードリヒ・ニーチェ


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文明社会に生きる人は
他人の意見のなかでしか生きられない

「人間の不平等の起源と根拠についての論文」 1755
ジャン=ジッャク・ルソー


○「未開人は自分自身のなかに生きている。

  社会に生きる人は、常に自分の外にあり、他人の意見のなかでしか生きられない。」


○「われわれは欺瞞的で軽薄な外面、つまり徳なき名誉、知恵なき理性、

  幸福なき快楽だけをもつことになったのか」




ルソーの代表作の一つ「人間不平等起源論(1755)」は、かつて人間は不平等が

ほとんど存在しない自然状態にあったのが、歴史的な進歩という過程を経て、

ついには「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」だけをもつ存在になった

と指摘します。




※人間不平等起原論 J.J. ルソー. 本田喜代治(訳), 平岡昇(訳) 岩波文庫 1972
 原注 p151


  人間は邪悪である。悲しい連続的な経験がその証拠を不要にしている。

  けれども、本来、人間は善良である。私はそれを論証したいと信じている。

  ではこれほどまで彼を堕落させたものは、彼の組成中に生じた変化と、

  彼の行った進歩と、彼の獲得した知識でなければいったい何であろうか。



  なんらの偏見をもたないで、社会人の状態を未開人のそれと比較してみるがよい。

  そして、どんなに社会人が、その邪悪さと欲望と悲惨とのほかに、

  苦痛と死とに向かって新しい門を開いたかを、できれば研究してもらいたい。



  もしわれわれを消耗させる精神的苦痛、われわれを疲労させ、悩ますはげしい情念、

  貧しい人々の重荷になっている極度の労働、富める人々が溺れてしまい、

  ある者はその欲求のために、他の者はその過度のために死ぬ、

  なおいっそう危険な放逸な生活、これらについて皆さんが反省するならば、


  (中略)


  なおまた、幾多の都市を全滅させたり、転覆させたりして、

  その住民を何千も死なせた火事や地震を、皆さんが考慮に入れるならば、



  要するにこれらすべての原因がたえずわれわれの頭上に集中する危険を

  皆さんが合わせ考えるならば、われわれが自然の教訓を軽蔑したことに対して、

  自然がいかに高い代償をわれわれに支払わせているかが感じられるだろう。


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ルソーの人間観
「自己保存」と「憐憫の情」

東日本大震災


ルソーは、人間に根本的に備わっている性質として、自分をリスクから守ろうとする

「自己保存」と、他者の苦しみに対する「憐憫(れんびん⇒あわれみ)の情:ピティエ」

の二つがあると指摘します。




※人間不平等起原論 J.J. ルソー. 本田喜代治(訳), 平岡昇(訳) 岩波文庫 1972 序文

  人間の魂の最初のもっとも単純なはたらきについて省察してみると、

  私たちはそこに理性に先立って二つの原理が認められるように思う。

  その一つはわれわれの安寧(あんねい)と自己保存について、

  熱烈な関心をわれわれにもたらせるものであり、

  もう一つはあらゆる感性的存在、主としてわれわれの同胞が滅び、

  または苦しむのを見ることに、自然な嫌悪を起こさせるものである。


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人間が作った制度を払いのけ
その基底にあるものを認める



人間社会を平静で公平な眼をもって眺めてみると、まずそれは

ただ強い者の暴力と弱い者への圧迫だけを示しているようにみえる。

そこで、人の精神は前者の冷酷に対して反抗したり、後者の無自覚を

嘆きたくなったりする。そして、人間のあいだでは、知恵よりもしばしば

偶然によって生み出され、弱さあるいは強さ、富裕あるいは貧困と呼ばれる。



あの外面的な関係ほど安定性のないものはないのだから、

人間の建設物(制度)は、一見したところ、くずれやすい砂山の上に

築かれているように思われる。それらを注意ぶかく点検してはじめて、

また、建物を包んでいる埃(ほこり)と砂を払いのけてはじめて、

人は建物の立っている盤石の礎(いしずえ)を認め、そしてその基底

を尊敬すべきことを学ぶのである。



※人間不平等起原論 J.J. ルソー. 本田喜代治(訳), 平岡昇(訳) 岩波文庫 1972



○子どもたちに会いにいく旅|遊びの中に未来がある こどもの国

○平和と独立を守る防衛省|すべての方々に感謝の気持ちを


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長い物には巻かれる
強大に立ち向かえば破滅に陥る

フィリピン共和国 第16代大統領
ロドリゴ・ロア・ドゥテルテ(Rodrigo Roa Duterte)


【AFP=時事】フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ(Rodrigo Duterte)大統領は

2017年3月19日、中国はあまりに強大であり、フィリピンや中国が領有権を争う

南シナ海(South China Sea)のスカボロー礁(Scarborough Shoal)で中国が

進めている構造物建設を止めることはできないと述べた。



2012年から中国が実効支配するスカボロー礁に関しては、西沙諸島

(英語名:パラセル諸島、Paracel Islands)の永興(Yongxing)島

(英語名:ウッディー島、Woody Island)に中国が設立した三沙(Sansha)市の市長が、

環境モニタリング基地を建設すると語ったと伝えられている。



この報道についてミャンマー訪問を前に記者会見で尋ねられたドゥテルテ大統領は

「われわれは中国を止めることはできない」と述べた。

さらに同大統領は「私にどうしろというのか。中国に宣戦布告をしろとでも。

それはできない。(中国と交戦すれば)わが国は明日にも全ての軍隊と警察を失い、

破壊された国となるだろう」と語り、中国に対しては「(問題の)海域を封鎖せず、

わが国の沿岸警備隊に干渉しないよう」求めると語った。



○日本の生命線 シーレーン


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2種類の不平等
「自然的不平等」と「社会的不平等」

ヴェルサイユ宮殿 鏡の間


わたしは人類のなかに二種類の不平等を考える。

その一つを、私は自然的または身体的不平等と名づける。

それは自然によって定められるものであって、年齢や健康や体力の差と、

精神あるいは魂の質の差から成りたっているからである。



もう一つは、一種の約束に依存し、人々の合意によって定められるか、

少なくとも許容されるものだから、これを社会的あるいは政治的不平等

と名づけることができる。この後者はいくらかの人々が他の人たちの

利益に反して享受しているさまざまな特権、たとえば、外の人たちよりも

富裕であるとか尊敬されているとか勢力があるとか、さらには彼らを自分

に服従させというような特権から成りたっている。



※人間不平等起原論 J.J. ルソー. 本田喜代治(訳), 平岡昇(訳) 岩波文庫 1972


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文明をはぎとった
純粋な自然状態

「The Garden of Eden with the Fall of Man」 1616 Mauritshuis
Peter Paul Rubens, Jan Brueghel the Elder


彼(文明社会に生きる人間)が授かったかもしれないすべての超自然的な才能と、

長い間の進歩によってはじめて獲得できたすべての人為的の能力をはぎとってみる、

つまり人間を自然の手から出てきたままの状態で考察してみると、私は、そこに、

ある動物よりは弱く、ほかの動物に比べれば敏捷(びんしょう)ではないが、

結局、どれよりもいちばん有利な構造を与えられた一個の動物を思い浮かべるのである。



私は彼が一本の柏の木の下で腹をみたし、小川を見つけるとすぐ喉の渇きをいやし、

食事を提供してくれたその同じ木の根元に寝床をみつけるのを思い浮かべる。

こうして彼の欲望は満たされたのである。



※人間不平等起原論 J.J. ルソー. 本田喜代治(訳), 平岡昇(訳) 岩波文庫 1972



○子どもたちに会いにいく旅|遊びの中に未来がある こどもの国


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進化の頂点に位置づけられる
ヒト

二足歩行する人間


「動物界 脊椎動物門 哺乳綱 霊長目 ヒト科 ヒト属 ヒト」に分類される人間。



人間は生物学上、どのように捉えられているかみてみると、

植物ではなく動く生物(⇒動物界)であって、

背骨があり(⇒脊椎動物門:せきついどうぶつもん)、

乳を飲ませて子を育てる特徴をもち(⇒哺乳綱:ほにゅうこう)、

進化の頂点にある動物で(⇒霊長目:れいちょうもく)、

チンパンジーやオラーウタンなどを含む中の(⇒ヒト科)、

ホモ・サピエンス(⇒ヒト属)に位置づけられているそうです。




夏目漱石の小説「吾輩は猫である」では、猫からすると人間は以下のように見えるそう。


※吾輩は猫である 夏目漱石 六


  第一、足が四本あるのに二本しか使わないというのから贅沢だ。

  四本であるけばそれだけはかもゆく(たくさん進む)わけだのに、

  いつでも二本で済まして、残る二本は到来の棒鱈(とうらいのたらぼう⇒

  頂いたタラの干物)のように手持ち無沙汰にぶら下げているのは馬鹿馬鹿しい。

  これでみると人間はよほど猫より閑(ひま)なもので退屈のあまり

  かような(このような)いたずらを考案して楽しんでいるものと察せられる。



  ただ可笑(おか)しいのはこの閑人(ひまじん)がよると障(さ)ると

  多忙だ多忙だと触れ廻るのみならず、その顔色がいかにも多忙らしい、

  わるくすると多忙に食い殺されはしまいかと思われるほど

  せこついて(細かいことにこだわって)いる。



  彼らのあるものは吾輩を見て時々あんなになったら気楽でよかろう

  などというが、気楽でよければなるが好(い)い。

  そんなにせこせこしてくれと誰も頼んだわけでもなかろう。

  自分で勝手な用事を手に負えぬほど製造して苦しい苦しいというのは

  自分で火をかんかん起こして暑い暑いというようなものだ。



○創造的生命力を生み出す愛|夏目漱石「吾輩は猫である」


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ただの風変りなサルの一種
ヒト

オラウータン (ヒト科オラウータン属)


「ヒト」と「動物」と分けて捉えることがありますが、

ヒトは「動物」の一種であって、そこには、

「ヒト」は他の「動物」に優越しているという思い込みがあるといいます。




ヒトは確かに奇妙な動物なのだそう。

他のすべての霊長類には被毛があるのに、ヒトに残されているのは頭部のほか、

匂いを蓄えて発散させるための腋下部(えきかぶ:わきのした)と陰部、および

男性のヒゲだけといいます。



他のすべての霊長類は、日常、四足歩行をしますが、ヒトだけは直立二足歩行をし、

やたら声を出してコミュニケーションし、近代では家やビルと呼ばれる巨大な巣を作り、

コンピュータなどの複雑な道具を作って宇宙にまで足を運びます。



ついには、ボタン1つで都市はおろか一国までを破壊する兵器を作り、

地球規模の破壊活動をするのもヒトの特徴だそうです。



しかし文明が発生し、産業革命が起こり、教育が充実した近代以降のヒトと

他の動物を比較するのはアンフェアであり、生物学的視点を失うことになるそう。



ヒトを考えるに当たっては、文明発生前のヒトを思い浮かべるべきで、

その視点にたったとき、「ヒトはただの風変りなサルの一種」のようです。


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自然状態の人間は
臆病

「トカゲに噛まれた少年」 1593-1594年頃) カラヴァッジョ
ロンドン・ナショナル・ギャラリー


ホップズの主張するところでは、

人間は本来大胆で、攻撃し、たたかうこと以外をもとめない。

(⇒万人の万人に対する闘争:トマス・ホッブズ)

或る有名な哲学者はそれとは正反対の考えをもっている。

そしてカムバーランドやブーフェンドルフもまたそれを保証している。



すなわち、自然状態における人間ほど臆病なものはいない、

彼らはいつもぶるぶる震えており、かすかな物音を聞いても、

すぐに逃げ腰になるというのである。



※人間不平等起原論 J.J. ルソー. 本田喜代治(訳), 平岡昇(訳) 岩波文庫 1972


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弱く臆病だからこそ
繁栄を築くことができた人間



熊は体が大きく鋭い爪をもち、時速50kmのスピードで

走ることができるそうですが、基本的には臆病だといいます。



人を殺してしまうこともある熊に、人間は会いたくないと思っていますが、

熊も、銃をもち住処を奪ってきた人間には会いたくないよう。



人間は熊と同じように元来弱く、臆病な生き物なのではないでしょうか。

生きていくために工夫し、周囲に警戒・用心し、

物事を事前に深く考えるようになり、

今あるような繁栄を築くことができたのかもしれません。



※キャンプ指導者入門 公益財団法人日本キャンプ協会、ほかより



○人と自然の共生|野外活動に触れ、生きる力を研ぎ澄ます

○雨が降るたびに秋めく夏の終わり|41年の歴史に幕を降ろすキャンプ場


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社会的不平等の起源
所有のはじまりと世襲

中世の西ヨーロッパでは、封建領主の館を中心とする
自給自足を原則とした荘園制が形成されたといわれます


ある土地に囲いをして「これは俺のものだ」と宣言することを思いつき、

それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、

政治社会(国家)の真の創立者であった。



杭を引き抜きあるいは溝を埋めながら、「こんないかさま師の言うことなんか

聞かないように気をつけろ。果実は万人のものであり、土地はだれのものでも

ないことを忘れるなら、それこそ君たちの身の破滅だぞ!」とその同胞たちに

むかって叫んだ者がかりにあったとしたら、その人は、いかに多くの犯罪と戦争

と殺人とを、またいかに多くの悲惨と恐怖とを人類に免れさせてやれたことであろう?



しかしまたその頃はすでに事態がもはや以前のような状態をつづけられない

点にたっしたことも明らかなようである。

というのはこの私有の観念は、順次的にしか発生できなかった多くの先行観念に

依存するもので、人間精神のなかに突如として形作られたものではないからである。



※人間不平等起原論 J.J. ルソー. 本田喜代治(訳), 平岡昇(訳) 岩波文庫 1972
  第二部 p85



○食・農・里の新時代を迎えて|新たな潮流の本質


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宗教対立ではなく、土地をめぐる争い
パレスチナ問題

エルサレム|パレスチナ ヨルダン川西岸地区の分離壁


ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地エルサレムがあるヨルダン川西岸地区。

パレスチナ問題は、ユダヤとイスラムの2000年の対立として語られることが

ありますが、イスラムの歴史は約1400年であり、この考え方自体正しくないようです。



パレスチナ問題はここ130年程の話であり、ドイツ・ナチスの迫害を受けた

ユダヤ人がこの地に入植してきたことが大きな要因になったといわれます。



また、ユダヤ教とイスラム教の宗教対立として捉えられることがありますが、

信義上の争いではなく、この地を誰が支配するかという土地を巡る争いだといいます。



○平安で平等な社会を築く意志|世界に広がるイスラーム

○パレスチナ人を見舞った民族浄化の悲劇 ナクバ

○ユダヤ教の基本となる考え方 ハシディズム


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This Land is Mine - 私の土地 | Japanese Subtitles日本語字幕



公の場で尊敬されたい
意識が芽生える

Picture by George Catlin


すべての物がすがたを変え始める。いままで森のなかをさ迷い歩いた人々も、

より安定したおちつき場所をえたので、次第に接近しあい、さまざまな群となって結合し、

ついにそれぞれの地方において個々の国家を形成するのだが…




精神と心情とが訓練されるにつれて、人類は次第に従順になってゆき、

結合は広がり、きずなは緊密になる。人々は小屋の前や大木のまわり

に集会することに慣れた。恋愛と余暇の真の子供である歌謡と舞踊が、

暇になってむれ集まった男女の楽しみ、というよりむしろ仕事になった。

各人は他人に注目し、自分も注目されたいと思いはじめ、こうして公け

の尊敬を受けることが、一つの価値をもつようになった。




人々が互いに評価しあうことをはじめ、尊敬という観念が彼らのなかに

形成されるやいなや、だれもが尊敬をうける権利を主張した。




そこから、礼儀作法の最初の義務が、未開人の間においてすら生まれた。

そしてまた、故意の不正はすべて侮辱となった。というのは、侮辱された者は、

その不正から生じた損害とともに、時として、その損害よりも堪えがたい、

自分自身に対する軽蔑を見てとったからである。そういうふうに、各人は

自分に示された軽蔑を、自分自身を重んずる程度に応じて罰したから、

復讐は猛烈になり、人々は血を流すことを好むようになり、残忍になった。



※人間不平等起原論 J.J. ルソー. 本田喜代治(訳), 平岡昇(訳) 岩波文庫 1972
 第二部 p93


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私たちが生きる現代社会
資本主義と徹底した分業

金銭の戦い 1570-72年頃 ピーテル・ブリューゲル
The battle about money


人間は、純粋な自然状態では、土地を所有することがなく、権力や序列もなく

過ごしていましたが、農耕が始まると土地の所有を主張するとともに、

持つべき者と持たざる者との貧富の差が現れたようです。



社会が形成され集団で過ごすようになると、人々は自分と他者との間に

違いがあることに気がつき、自尊心や利己心が生まれます。



また、社会の形成は分業化をもたらし、自分の生産した物と

他者が生産した物を交換するようになり、お金が生まれます。



今日、私たちが生きる社会は、徹底した分業社会であり、綿密な相互依存の

関係で成り立っています。国内に留まらず、国外で生産された食料や衣服など

様々なモノは相手の顔を知ることなく受け取ることができ、私たちに豊かさを

与えてくれる一方、競争の側面をもっているようです。



モノの交換に始まったお金は、今日では、売買の対象になっています。



○財政健全化への取組み|失われた25年から学んだこと

○海運が支える日本の豊かな暮らし

○持続可能な循環型社会の基盤にあるもの


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言語の混乱
バベルの塔

バベルの塔 1568年頃 ピーテル・ブリューゲル ボイマンス美術館


※聖書(旧約聖書) 創世記 第11章 1〜9節 Wikipediaより


  全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。

  東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。

  そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。

  彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。

  そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。

  あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。



  主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、

  そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。

  この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。

  それなら、我々は下って、彼らの言葉を混乱(バラル)してやろう。

  彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。



  主はそこから全ての地に人を散らされたので、彼らは街づくりを取りやめた。

  その為に、この街はバベルと名付けられた。

  主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。



○混迷の中から新たな絆を紡ぐ

○空高くそびえる摩天楼 西新宿


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素朴社会と文明社会の比較対照から
人間性を考える

マッケンジー川のほとりにあるフォート・グッド・ホープ交易所
カナダ ノースウエスト・テリトリー


文化人類学者・お茶の水女子大学名誉教授の原ひろ子 先生。



20代の頃は、日本の農・山・漁村の集団や組織の枠のなかで、

個人個人がどのように互いに折り合いをつけて、

集団や組織の存続をはかろうとしているのか研究されていたそうです。



そこから「集団の論理を生活の中心におく生き方が、

どんな社会に住む人間にも普遍的にみられる現象であるのか」

という問いが沸いたといいます。



人口密度が低く、技術水準が低く、過酷な自然環境のなかで生活している

狩猟採集民は一般的に、集団形成の度合が弱く、リーダーがはっきりしない

場合が多いといい、彼らと集団形成の度合の強い日本人の生活と比較対照し、

「人間性」とは何かを考えるきっかけにしたいと考えるようになったと述べています。




1961〜63年にかけて、カナダのノース・ウェスト・テリトリーに住む

ヘヤー・インディアンと呼ばれる狩猟民族に関して調査(フィールドワーク)

を行った報告書「ヘヤー・インディアンとその世界(平凡社 1989)」は、

私たちに多くの示唆を与えてくれます。



○食・農・里の新時代を迎えて|新たな潮流の本質

○哲学からみた人間理解|自分自身の悟性を使用する勇気を持つ


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北極圏に位置する
カナダ ノースウエスト・テリトリー



北極圏線をまたぐカナダのノース・ウエスト・テリトリー。

気候はタイガ(亜寒帯)とツンドラ(凍土)の境界で、森林限界線に接するため

植生は極端に貧弱であり、その植生を食べる草食獣の分布密度は低くなり、

それについれて肉食獣の分布密度も低くなる土地だといわれます。



そこで暮らす民族ヘヤー・インディアン(Hare Indians)。

ヘヤーはウサギのことで、彼らはウサギに依存して生きてきた民族なのだそう。



※ヘヤー・インディアンとその世界 原ひろ子 平凡社 1989
 第1章 自然のなかに生きる p35


  彼らが厳しい自然の猛威にさらされるのは、結氷期と解氷期、それに長い冬。

  餓死や凍死の危険に日常的に直面しながら冬を送るのだ。



  凹凸(おうとつ)の少ない平らな低地帯に、変化の少ない風景が無言で広がっている。

  ほの白い雪と氷のキャンパスに、常緑樹がくろぐろと線を描き、

  犬ぞりの軌跡が遠くにいる人間の存在をかすかに告げる。



  単調な地上の風景とは対照的に、千変万化するゆたかな様相を示してくれるのは空だ。

  足下を見れば土だが、前後左右、そして頭上はすべて空なのだ。

  その空に満天の星、オーロラ、虹、サンドック(寒い日の朝、東方の地上に垂直に

  二本の光の柱が立つ)、雲、月、太陽、絢爛(けんらん)たる光のドラマを展開する。



  大自然のなかにポツンと一人在る自分を感じながら、

  今日の食料を求めて、犬ぞりを走らせる。



○日系カナダ移民の歴史と日本人の精神性


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千変万化する空
絢爛たる光のドラマ

ノースウエスト準州の州都イエローナイフ(Yellowknife)のオーロラ


地球上で人間が見ることのできる自然現象の中でも神秘的で美しいオーロラ。

近代科学が始まるずっと前からオーロラは世界中の神話・伝説の対象となり、

人々に驚きと畏敬の念を教えてきたといわれます。



1570年1月12日、ボヘミアのグッテンベルクで見られたオーロラは

次のように表現されています(作者未詳)。


  黒い雲の上には、明るい光の筋。それは船のような形をし、燃えていた。

  そこには、沢山のロウソクが灯り、大きな柱も2本あった。

  街はその光に照らされていた。雲から血が滴るように降り注いだ。

  神の奇跡を人々に知らせるべく、見張りは塔から緊急事態を知らせる鐘を鳴らした。

  このような身の毛のよだつ眺めは、未だかつて見たことも聞いたこともない。

  一心に、神に祈るのみ。




神秘的な美しさは、不気味さ、恐ろしいさともつながり、北方民族の間では、

オーロラは共通して死後の世界と関連させて語り継がれてきたといい、

北欧では、オーロラという橋を通じて死者とつながっているという言い伝えがあり、

この神秘の光こそは、生と死のちょうど境にかかる存在で、この光が崩れる時は

世界の終末を暗示すると言われたそうです。



オーロラの名前はローマ神話に登場する女神オーロラ(Aurora)に由来するとされ、

女神オーロラは、地上の生物に夜明けや希望をもたらす神で、

古代の人びとは、女神オーロラが夜の闇を追い払い、この世に光を与えてくれる

と信じたといいます。



※オーロラ 宇宙の渚をさぐる 上出洋介 角川選書 2013
 第1部 美貌の夜空を見上げる|第1章 神話のなかのオーロラ p26-41



○地球の未来を読み解く 南極観測|私たちが存在している自然環境の解明


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自然のなかに生きる
一人で自然と競争する

ムース(ヘラジカ)


自然、つまり人工的でないものという概念は、西欧に生まれ、

文明開化とともに日本にも持ち込まれたもののようだ。

ヘヤー・インディアンは、抽象概念としての自然を意識して生活していない。

寒さや、風や、丘や、鳥などを個別に一人ひとり意識の対象とし、

じつに具体的に生命に自分の体験として把握しているようである。



すなわち、ヘヤー・インディアンは、自分と対立し自然を征服しよう

という気持ちをぜんぜん持ち合わせていない。

また、自然との調和を保ちつつ生活すべきだとも考えていない。

彼らは、一人ひとりが、寒さや、風や、飢えや、けだものや鳥や魚と競争し、

知恵比べをしていると思っている。そして、いつも、自分が相手に負けそうになったり、

勝ってみたりしながら人生を送るのだ。



ムースを射ようと思っても、相手の方が自分より賢いときには、逃げられてしまう。

しかし、ときには、自分の方が賢いこともあるのだと信じているので、

さほどに失望したり落胆したりはしない。

賭けごとで当たったり外れたりといった雰囲気が、彼らの人生には漂っている。

そのうえ、おもしろいことに、人間たちが協力して、寒さや動物たちと競争している

という感覚はない。一人ひとりの人間が自分を相手に競争しているのである。

ヘヤー・インディアンの子どもは、まず飢えと寒さの体験を通じて、

一人で生きているのだぞということを教えられる。



※ヘヤー・インディアンとその世界 原ひろ子 平凡社 1989
 第1章 自然のなかに生きる|一人で自然と競争する p35-36


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カムイありて我あり
我ありててカムイあり

シャマンの仮面 北海道立北方民族博物館


3つの顔が描かれているシャマンの仮面。一番上の小さい顔は人間の世界を表し、

真ん中のフクロウは動物の世界、下の大きな顔は精霊を表しているといいます。



シャマン(シャーマン)とは、超自然的存在と直接接触する役割を担う

呪術者や巫(かんなぎ≒神主)、祈祷師のことだそう。



アイヌは「人間」を意味し、アイヌ民族の祖先は、

北海道の地をアイヌモシリ(人間の静かなる大地)と呼んだといいます。



自然界をカムイ(神々)として謙虚に祈り、自然の恵みに感謝をし、

「カムイありて我あり、我ありててカムイあり」との互助精神で、

自然を改造・破壊・汚染することなく生活してきたそうです。



○釧路と網走をつなぐ釧網線の旅

○鶴の舞|釧路川キャンプ & カヌーツーリング


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自然即人間、人間即自然
征服よりも融和

氷の上で寝そべるアザラシ 南極


人間には、自然というものに対して、いつでも対立的理念があります。

たとえば、私たちが南極に行くときに、ある人が

「私は南極の自然を征服してまいります」なんて大げさなことをいっていたのです。

ところが、向こうへ行ってみたら、そうはいかんということが、だんだんわかってきて、

今度は自然をあなどるなといっていましたが、数か月もたつと、

もう何もいわないようになりました。



つまり、自然と融合してくる。対立から融和へ移行してくるわけです。

そうすると、自然即人間、人間即自然ということになって、

自然現象のひとつひとつが楽しくなってきます。

もしここで、新しいことが発見されれば、その喜びたるや、実に大きいものなんです。

私は、対立理念でいくか、融和理念でいくかというならば、

融和のほうが大事だと思っているんです。



たとえば、人間のために自然があるんだ、主人のために奴隷があるんだ、

という考えはみな対立なのです。

このような考え方で組立てていこうとしている哲理を、

われわれはいまここで考え直して、人間即自然、

融和の人を培っていかなければいけないと思っているのです。



※石橋を叩けば渡れない。 西堀栄三郎 生産性出版 1999
 自然即人間、人間即自然−征服よりも融和 p71-72



○地球の未来を読み解く 南極観測

○生命の跳躍|海洋を統合的に理解する


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幼少期から
自分の力で生きることを学ぶ

Eskimo children at the Arctic Ocean; Point Barrow, Alaska


子どもたちは、小さいときから、「自分で生きなければ、誰も最後には助けてくれないよ。

一人で氷の上を歩いているとき、ホッキョクグマに出会ったらどうする?

寒くて飢え死にしそうなとき、自分の力で生き抜いて、食べ物を探さなければ

ならないんだよ」とまわりの大人たちから言われつづける。



たとえば、三歳の子が刃物をもって遊んでいると、大人は、

「手を切ることもあるが、お前が遊びたいならお遊び。あとで痛くても知らないよ」

といってその子の判断にまかせる。



また、同じくらいの年ごろの子が、「お母さん、待って」と出かけようとする母親を

後追いすると、「ついて来たいなら、すぐ準備しな。お母さんが靴をはく間に自分

で服を着なかったら、おいて行くよ。外は寒いだかららどうする?」と言って、

子どもが寒さにおびえてくずぐずしていれば、母親はさっさと出かけてしまう

といったぐあいだ。



※ヘヤー・インディアンとその世界 原ひろ子 平凡社 1989
 第5章 流動的な人間関係|個人が単位となるテント仲間 P243


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自分自身のなかで生きる
自分が自分の主



ヘヤー・インディアンは、老幼男女それぞれに、自分が自分の主(あるじ)だと思っている。

したがって、命令口調でものを言う人間や、忠告めいたことを言う人間を極度に嫌い、

馬鹿にする。そこには酋長(しゅうちょう)といった部族全体を統率するリーダーはいない。


(中略)


歴史的にみても、彼らは集団で自分たちの権益を守ったということがない。

18世紀以降の記録によっても、近隣のエスキモー(※)や近隣のインディアンが、

ヘヤー・インディアンの居住区域に侵入してくると、すぐにブッシュ(林の中)に隠れてしまい、

挑発を受けても応じず、とっくみ合いや弓矢や銃などによる戦闘をしたことがない。

侵入してきた敵は、しばらくその地に滞在することがあっても、あまりに食料資源が

乏しいので再びヘヤーの地域外に出ていってしまう。

すると彼には再び自らの地域を駆けまわりはじめる、といったようなぐあいで、

ヘヤーの社会には、戦争や外交を行う文化的伝統がないのである。



※「エスキモー」の人々は、自らを「イヌイット(人の意味)」と呼ぶが、
 1961-63年当時のカナダの法律用語に従って「エスキモー」とする
※ヘヤー・インディアンとその世界 原ひろ子 平凡社 1989
 第8章 人は一人で生きるのだ その日常性|最小限のリーダーシップ p318


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自分が
人生の主人公

秋葉原


※無門関(むもんかん) 第十二則 巌喚主人(がんかんしゅじん)


  瑞巖(ずいがん)の彦和尚(げんおしょう)、

  毎日自(まいにちみずから)ら主人公と喚(よ)び、

  復(ま)た自ら応諾(おうだく)す。



  瑞巌(ずいがん)の彦和尚(げんおしょう)さんは、

  毎日自分自身に向かって「主人公」と呼びかけ、

  また自分で「ハイ」と返事をしていました。




  乃(ちなわ)ち云(いわ)く、惺々著(せいせいじゃく)、諾(だく)。

  他時異日(たじついじつ)、人の瞞(まん)を受けること莫(な)かれ。

  諾々(だくだく)と。



  「はっきりと目を醒ましているか」、「ハイ」。

  「これから先も人に騙されはいけないぞ」、「ハイ、ハイ」と、

  毎日ひとり言をいっていたというのです。




  無門(むもん)曰(いわ)く、瑞巖老子(ずいがんろうし)、

  自ら買い自ら売り、許多(そこばく)の神頭鬼面(しんづきめん)を

  弄出(ろうしゅつ)す。何が故(ゆえ)ぞ。漸(にい)。



  無門和尚からみれば、瑞巌和尚という方は、

  自分で自分を買ったり売ったりして神々や鬼の顔を弄んでいる。

  どういうことか。




  一箇(いっこ)は喚(よ)ぶ底(てい)、一箇は応ずる底。

  一箇は惺々底(せいせいてい)、一箇は人の瞞を受けざる底。

  認著(にんじゃく)すれば、依前(いぜん)として還(かえ)って不是(ふぜ)。

  若(も)し也(ま)たに效(なら)わば、

  総(そう)に是(こ)れ野狐(やこ)の見解(けんげ)ならん。



  一つは呼びかける者、一つは応える者、

  一つは騙される者、一つは騙されない者、

  このような様があると思うのならば、それは誤りである。

  それでも瑞巖和尚の真似をするならば、

  それは禅に似て非なる邪禅である。




  頌(じゅ)に曰く、学道の人真(ひとしん)を識(し)らざるは、

  只従前(ただじゅうぜん)の識神(しきしん)を認(と)むるが為(ため)なり。

  無量劫來生死(むりょうごうらいしょうじ)の本(もと)、

  癡人喚(ちにんよ)んで本来の人と作(な)す。



  頌詩にいう(しょうし:功績を讃えると)、

  修行する者が真実を知らないのは、人から聞いたものを頼りにしているからだ。

  限りなく生と死を繰り返す無常の自己のもと、

  愚かな者は本来の自己だと勘違いしている。






流れるように現われては消えてゆく情報の渦。

一つの事柄に限定しても多くの異なった情報が存在し、

どれが重要なのか判断が難しくなっている中、

私たちは外に目を奪われている間に、本当の自分を見失いがちのようです。



「おい主人公。目を覚ましているか。」



「主体的な自己」とは、すべてのものに束縛されず自由自在でいることだそう。

どこに行っても心が解き放たれた時、自分が人生の主人公になれるようです。



※円覚寺夏季講座 無門関提唱
 講師 横田南嶺 老師 円覚寺派管長



○つながりの森|自分が人生の主人公であることを知る

○花を忘れまい|北条時宗が開いた北鎌倉の座禅道場 円覚寺

○伝統文化を受け継ぐ街 秋葉原|パラダイムシフトの可能性


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流動的な人間関係
養子のやりとりの習慣

ティピ (円錐形のテント)


一つのテントに共同生活をする成人男女の対がその生活を支える

ためには、「甲斐性」ある大人でも、子どもは四人が限度であり、

あまり漁や猟の上手くない者は、子ども二人を食べさせるがやっとだ。



ヘヤーの女は16歳〜23歳で出産を開始し、だいたい一、二年おきに出産する。

19世紀中葉以降の記録に残っている最高の出産数は12人で、数例ある。

たまには、一人も子どもを生まない女や、一人か二人しか生まない女もいるが、

出産7、8回を経験する者が多い。

氷の上で転んだり、何とかくふうして人工流産することもあるが、

ほとんどはなりゆきに任せている。

そして、子どもの数が成人の扶養能力以上に増えると養子に出すのである。


※ヘヤー・インディアンとその世界 原ひろ子 平凡社 1989
 第5章 流動的な人間関係|養子のやりとりの習慣 P245


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流動的な人間関係
結婚と性



ヘヤー・インディアンの社会では、性生活をテントを共にする夫婦の間に

限らなければならないという文化的な規範はない。

したがって男女ともに、結婚前には頻繁に、また結婚後もかなりの頻度をもって、

複数の相手と性交渉をもつ可能性があるものと、彼らは考えている。



彼らの間では、夫婦は原則として分離の可能性をはらんだ

非永続的な人間関係の一つとして認識されていると思われる。

この際、浮気をしたり、離縁したりする権利において男女平等である。

つまり、男は、浮気をしてもかなり大目に見られるが、女はそれが許されないとか、

女からのみ離婚話をもち出すことができるというような二重規範はない。



※ヘヤー・インディアンとその世界 原ひろ子 平凡社 1989
 第6章 人間関係の諸カテゴリー|3 「ツレアイ」−結婚と性 p280



○人間の心のあり方を理解する|日本人の精神性を探る旅


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老人を救う
死に方の美学



冬は老人にとっても試練のときである。

65歳以上の老人に老人年金が支給されるようになったのは1940年代後半からだ。

それ以前は、年老いて肉体労働のできなくなった者は、冬のキャンプのまったく

の荷物であった。その老人が強いシャーマン(祈祷師)だったり、

お話しの語り部としての特技をもっていれば話は別であったが。



とくにキャンプの移動にあたっては老人は足手まといとなる。

余分な食糧があって移動するときは、

老人もそりの荷台に子どもや仔犬と一緒に乗って行く。



しかし、食糧が不足して、全員が飢えているときには、老人は自らキャンプ地に

ふみとどまることが多かった。「私は残りますよ」という、その言葉の意味は、

キャンプの全員に了解される。



薪をとり出し、かすかに残ったウサギや魚の一部を捧げるようにして渡すと、

出発する者は、次々と老人と最後の抱擁を交す。

そして目に涙をいっぱいためて、次のキャンプ地へと旅立って行くのである。


(中略)


こうして亡くなった老人の魂は、安らかにあの世を旅し、

再びこの世に生まれてくると信じられている。

その霊が死後、幽霊と化して生きている人間を苦しめたりもしない。

ヘヤー・インディアンにとって、これは理想の死に方なのである。



ここは、厳しい自然環境のなかで、自分の体力と精神力だけを元手に生活する社会だ。

固定資産や、財産や年功序列は関係がない。

そもそも、そのようなものはヘアー社会には存在しないのだ。

冬のキャンプ生活において、「死に方の美学」のみが老人を救っていた。



※ヘヤー・インディアンとその世界 原ひろ子 平凡社 1989
 第3章 キャンプの生活|子どもと老人たちの試練のとき P187-188



○私たちの生涯|生と死の狭間にある「時」を歩む


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死すべき者と残される者が
互いに了解した死

「姥捨月」 月岡芳年「月百姿」の一つ


動物にとって、死ぬとはどういうことか。



死が近いのを体で感じ、みずから死に場所に赴いてひっそりと死ぬ。

それが野生の動物の死にかただとすると、いかにも自然にかなった死にかたに思える。

自然からうまれ、自然へと帰っていく安らかさがそこにはある。

仲間にも敵にも、むろん人間にも知られずに、ひとり静かに死んでいくのが、

もっとも安らかな自然への帰還ということになろうか。



人間の場合は、そうはいかない。

だれにも知られず、ひとり静かに死んでいくのは、自然な死でも安らかな死でもない。

「孤独死」がそれに近いが、「孤独死」は、自然な死どころでない。

孤独へと追いつめられていく陰惨さに胸が痛む。



ヘヤー・インディアンのもとで暮らした文化人類学者原ひろ子の著書

「ヘヤー・インディアンとその世界」(平凡社)のなかに、

動物の死に近い死にかたをする老人のすがたが描かれている。

厳寒のもとでの、雪原を移動しながらの生活に耐えきれなくなった老人が、

移動していく家族や隣人についていくのを断り、

キャンプ地に一人残って静かに死を迎えるという場面だ。



だが、この死は、やはり動物の死とはちがう。老人があとに残されることは

まわりの全員に了解され、出発するものたちはつぎつぎに老人と最後の抱擁をかわす。

さらには、一か月後に若者がそのキャンプ地を訪れて遺体を収容する。

だれにも知られぬ死とは正反対のものがここにはある。

だれもが知り、だれもが受け入れている死、それがヘヤー・インディアンの老人の死だ。

だからこそ、そこには「理想の死にかた」だといえるのだ。

人間が社会的動物だといわれるその根源のすがたが、ここにはあらわれていると思う。

人は一人で生きることができないが、一人で死ぬこともできない。

死がまわりの人々に了解され、受け入れられる。それが人間の死というものだ。

人間にも自然な死があるとすれば、まわりの人々に了解され受け入れられる死こそが、

人間にとって自然な死だ。



※魂のみなもとへ 詩と哲学のデュオ 谷川俊太郎 長谷川宏 近代出版 2001
 動物の死 長谷川宏 先生 p132-134


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次第に動物力を失う
人間

芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892(明治25)年-1927(昭和2)年


大正期を代表する作家、芥川龍之介。

昭和2年7月、36歳となった芥川は自宅で睡眠薬を多量に飲んで自殺を図ります。

亡くなる前、旧友に宛てた手記のなかで、動物である人間について以下のように記しています。



※「或(ある)旧友へ送る手記」(部分) 芥川龍之介 (昭和2年7月、遺稿)


  我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れている。

  所謂(いわゆる)生活力と云うものは実は動物力の異名に過ぎない。

  僕も亦(また)人間獣の一匹である。

  しかし食色(≒食欲)にも倦(あ)いた(⇒あきた)所を見ると、

  次第に動物力を失っているであろう。

  僕の今住んでいるのは氷のように透(す)み渡った、病的な神経の世界である。



  僕はゆうべ或(ある)売笑婦(ばいしょうふ⇒娼婦)と一しょに彼女の賃金(!)の話をし、

  しみじみ「生きる為に生きている」我々人間の哀れさを感じた。



  若(も)しみづから甘んじて永久の眠りにはいることが出来れば、

  我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違いない。

  しかし僕のいつ敢然(かんぜん⇒覚悟して)と自殺出来るかは疑問である。



  唯自然はこう云う僕にはいつもよりも一層美しい。

  君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑うであろう。

  けれども自然の美しいのは僕の末期(まつご)の目に映るからである。

  僕は他人よりも見、愛し、且又(かつまた)理解した。

  それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。



  どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せずに措(お)いてくれ給(たま)え。

  僕は或(あるい)は病死のように自殺しないとも限らないのである。



  附記(ふき)。

   僕はエムペドクレス(古代ギリシアの自然哲学者)の伝(⇒伝記)を読み、

   みづから神としたい欲望の如何(いか)に古いものかを感じた。

   僕の手記は意識している限り、みづから神としないものである。

   いや、みづから大凡下(だいぼんげ:身分の低い者)の一人としているものである。



   君はあの菩提樹(ぼだいじゅ)の下に「エトナ(現イタリア・シチリア島)の

   エムペドクレス」を論じ合った二十年前を覚えているであろう。

   僕はあの時代にはみづから神にしたい(⇒神になりたい)一人だった。


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「坊ちゃん」に愛情深く接した
「清」の死

愛媛県松山市の沖合いにある四十島|夏目漱石の小説「坊ちゃん」では
青嶋と呼ばれ、赤シャツと野だいこがターナー島と名づけた島だそうです


親譲りの無鉄砲で子供のときから損ばかりしている「坊ちゃん」。

家族に疎まれる中、唯一理解してくれたのは「坊ちゃん」と呼んで

可愛がってくれたお手伝いのお婆さん「清(キヨ)」でした。



「坊ちゃん」は物理学校を卒業後、愛媛の中学に数学教師として

赴任しますが、生意気な生徒たち、くせのある先生たちのなか、

持ち前の反骨精神で真正直に生きてゆきます。



「赤シャツ(教頭)」と「野だいこ(画学教師)」の陰謀を知った「坊ちゃん」は憤り、

「赤シャツ」の不祥事を暴いた後、学校を辞めて「清」の元に戻ります。



※坊ちゃん 夏目漱石 最後の部分


  清のことを話すのを忘れていた。−

  おれが東京へ着いて下宿へもゆかず、革鞄(かばん)をさげたまま、

  清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊ちゃん、よくまあ、早く帰ってきて

  くださったと涙をぽたぽたと落とした。

  おれもあまりにも嬉しかったから、もう田舎へはゆかない、

  東京で清とうちを持つんだといった。



  その後ある人の周旋(しゅうせん⇒世話)で街鉄(がいてつ⇒都電)の技師になった。

  月給は二十五円で、家賃は六円だ。

  清は玄関付きの家でなくなってもしごく満足の様子であったが

  気の毒なことに今年の二月肺炎にかかって死んでしまった。



  死ぬ前日おれを呼んで坊ちゃん後生(ごしょう⇒どうぞお願い)だから

  清が死んだら、坊ちゃんのお寺へ埋めてください。

  お墓のなかで坊ちゃんがくるのを楽しみ待っておりますといった。

  だから清の墓は小日向(こひなた)の養源寺にある。



○日本最古の温泉 道後温泉

○ターナーコレクションが展示されるテート・ブリテン


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心優しい者だけがもつ
想像力

First Communion(1896) Pablo Picasso Museu Picasso, Barcelona, Spain
初聖体拝領 ハブロ・ピカソ ピカソ美術館


ギュスターヴ・フローベルの短編小説「純な心(Un coeur simple),1877年」。



主人公の女性フェリシテは、両親と死に別れ、妹たちとも生き別れ、

幼い時から飢え死にしない為に働き、女性の色気や潤いとはまったく無縁の人間。



ある時オバーン夫人と出会い、家政婦としてその家に住み込みます。

未亡人のオバーン夫人には、ポールとヴィルジニーという幼い子どもがおり、

その子たちの成長を見守ることがフェリシテの生き甲斐になってゆきます。



フェリシテは、清らかで美しい少女ヴィルジニーの初聖体拝領(はつせいたいはいりょう)

を見守ります。初聖体拝領(First Holy Communion)は、子どもが7歳頃に行うキリスト

教徒になるための儀式。参列する少女たちは、「キリストの花嫁」をあらわす純白の

ドレスとヴェールに身を包みます。




※「純な心」 フローベル 工藤庸子(訳)


  ミサのあいだじゅう、不安で胸がしめつけられるようだった。

  ブーレさんが邪魔になって、祭壇前の席がよく見えない。

  でも正面には、ヴェールをおろし頭に白い冠をのせた少女たちの一団がいて、

  まるで雪におおわれた原っぱのようだった。

  そして可愛いお嬢様の姿は、だれよりも華奢な首筋とひとしお敬虔な様子から、

  遠くにいてもそれとわかるのだった。



  鐘の音が鳴った。みなが頭(こうべ)を垂れた。静寂が訪れた。

  オルガンが響きわたり、聖歌隊と会衆一同が

  「神の子羊(アニュス・デイ:Agnus Dei)」を朗読した。

  それから少年たちが列になってすすみでた。つづいて少女たちが立ち上がった。

  一歩一歩、両手を合わせて、光に照らされた祭壇に近づいてゆき、

  壇の一段目にひざまずいて、おのおのの聖体を拝領すると、

  そのまま列をくずさず、祈祷台に戻る。



  ヴィルジニーの番になったとき、フェリシテは身をのりだして見つめたのだった。

  本当に心優しい者だけがもつ想像力のおかげだろう、

  彼女は自分がそのまま少女であるかのような気持ちになった。

  少女の姿が自分の姿にかさなって、少女の服が自分をつつみ、

  少女の心臓が自分の胸で高鳴っていた。

  目を閉じて唇を開けた瞬間に、気の遠くなるような感じにおそわれた。



  翌日、彼女は早起きをして教会の聖具室におもむいた。

  司祭さまに頼んで聖体を拝領するためだ。

  深い信心をこめて頂いたのだけど、同じような喜悦を味わうことはできなかった。



○セクシュアリティとジェンダー|文学にみる女性観


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人間が行った人間らしい革命
フランス革命

「バスティーユ襲撃」 1789 ジャン=ピエール・ウーエル


※フランス革命小史 河野健二 岩波新書 1959


  時代の流れというものは、とめようとしてもとめることができない。

  私たちはたえず時の流れによって、無意味におしながされている。

  民族の歴史も多くの場合、これと同じだろう。



  革命は、民族が歴史におしながされるのではなくて、

  精神の自立性をくっきりと歴史のなかでうちたてる作業である。

  それは強烈な意志と行動のつみかさねである。このとき、

  民族は無限の力を自覚し、あたかも時の流れはくいとめられたかのように見える。

  社会の一切の関係、一切の価値は逆転し、強大なものは卑小(ひしょう)になり、

  卑小なものは強大になる。こうして、民族は歴史の主体となり、

  自己の存在を永久に世界史のなかにきざみつけるのだ。



  1789年にはじまる10年間は、フランス人が世界史の主役を演じた時期である。

  フランス革命と呼ばれるこの革命は、いわゆるブルジョア改革の模範で

  あるばかりでなく、歴史上の一切の革命の模範とされる。



  しかし、この革命もやはり人間の行った革命である。

  フランス革命を理想化するあまり、往々、見ることのできないものを

  この革命のなかに見たり、反対に見るべきものを見なかったりすることがある。



  そういう偏見からはなれて、私はこの革命を

  人間の行った人間らしい革命として見直すへきだと思った。

  この革命は、人間の強さと弱さ、美しさと醜さを同時にふくんだものとして、

  そしてその故にこそ模範的な革命として位置づけられる必要がある。


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暗く覆いかぶさっているものを光で照らす
啓蒙主義

The Enlightenment Gallery(啓蒙主義ギャラリー) 大英博物館
Discovering the world in the 18th century


※フランス革命少史 河野健二 岩波新書 1959
 第2章 啓蒙思想 T啓蒙の世紀 p38


 啓蒙思想は、社会内部のさまざまなの階級の動きや要求を反映し、

 それを理論化したものである。優秀な頭脳と強い個性のみがそれをなしえた。

 なぜなら、社会の諸階級といっても、それはなお形成途上であってたえず動いており、

 その要求もまた複雑で漠然としていたから、それらを汲みとって原理的な体系に

 きたえ上げるためには、よほどの強靭な思索力が必要であった。

 さらにまた、啓蒙思想は、同時に「批判の哲学」であって、

 当時の一般的潮流に反対して、自己を主張する必要があった。

 当時の一般的思想はキリスト教(カトリック)であり、国家主義であり、重商主義であったが、

 これらはいわゆる「官許の(国が許している)学問」であって、権力の保護のもとにあった。

 したがって、啓蒙思想は権力や、ときとして世論に反抗して、主張されなければならなかった。

 出版が許可制で、著書は焚書(ふんしょ:書物を燃やされる行為)や入獄の

 危険をおかさばならない時代であった。

 少数の先駆者だけが、これらの試練にたえて、人類の精神史を飾ることができた。



○人類の智の宝庫 大英博物館


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自由・平等・博愛の象徴
マリアンヌ



フランス共和国建国の理念となっている「自由・平等・博愛」の精神。


○自由

  「自由」の本質は、理性によって自己を律した(⇒自律の)うえでの選択を意味し、

  他者から束縛を受けず自己の本性に従うことではないようです。

  自由は、自他に与える危害を判断できる能力が備わって、

  初めて獲得することができるもののよう。



○儒教にみるライフサイクル|思うままに生きても人の道を外れなくなる




○平等

  「平等」の一つの考え方として「機会の平等」がありますが、教育を例にとってみると、

  子どもたちが教育の成果を獲得するのは、本人の自律的選択(努力など)に

  基づくものではなく、本人が選ぶことのできない境遇(遺伝、家族、社会環境など)

  に由来するといわれます。



○日本の教育改革|できる者を限りなく伸ばす教育




○博愛

  「博」には「広くいきわたる」という意味があり、「博愛」は広く愛することを意味します。

  その本質は、他をもう一人の私と捉えることであり、そこには、

  妬みや恨みが入り込む余地はありません。



○人間がもつ感情のひとつ 嫉妬心

○あるがままの生の肯定|フリードリヒ・ニーチェ


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東洋のルソーといわれた
中江兆民

中江兆民(なかえ ちょうみん) 1847-1901年


※中江兆民 「東洋自由新聞」 明治14年4月


  古(いにしえ)より民の乱を作(な)すは、

  其(その)初め必ずしも乱を作(な)すことを欲するに非(あら)ざるなり。

  蓋(けだ)し民なる者はその最も暴悍(ぼうかん)なるものといへども

  自ら好みて乱を作すに非ず。

  独(ひと)り乱を作すことを好まざるに非ずして乱を作すことを畏るるなり。

  彼れその初め乱をなすことを畏れて、而(しか)して遂に乱を作すに至る者は何ぞや、

  勢然(しか)らしむるなり。

  勢なる者は人心の自然に発するといへども、

  そもそも在上(ざいじょう)の人の力その多きに居る。

  在上の人自らその勢を激して民をして乱をなすに至らしむるときは、

  これ其(その)罪(つみ)民に在(あ)らずして在上の人に在るなり。



  昔から庶民が反乱を起こすのは、

  その初めから必ずしも反乱すること求めているからではない。

  確かに庶民は最も荒々しいものといえるが、

  自ら好んで反乱を起こすのではない。

  単独で反乱するのを恐れているのではなく、権力を尊く敬い畏れているのである。

  反乱を起こすことを畏れているにも関わらず、遂に反乱を起こすのはどうしてか、

  勢いがそうさせるのである。

  勢いは人の心に自然に発生するといえるが、

  そもそも上にいる人の力が大きな原因となっている。

  上にいる人が自らその勢いを激しくさせ、庶民が反乱に至る時には、

  その罪は庶民にあるのではなく上にいる人にあるといえる。



※斜字体はホームページ管理者の意訳


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国民が
本当の意味で平等であるとは

自由民権運動の演説会
演説を中止させようとしている警官に民衆がモノを投げている様子


日本の歴史においては、明治の自由民権運動の時代を始めとして、

人権や国民主権という理念が語られてきたが、この歴史はある意味

では日本においてこの概念が根づくことに失敗した歴史でもある。



しかしまだ諦めるのは早いと思う。



何度でもルソーに立ち戻ることによって、あるいはフランス革命の

歴史やさまざまな革命と建国の歴史を掘り返すことによって、

国民がほんとうの意味で平等であるというのはどういうことなのか、

どうすれば国民が真の主権を維持できるのか、

自分の住む国を祖国として感じることができるためには、

どのような条件が必要なのかを、問い直すことができるはずである。



※人間不平等起源論 J.J. ルソー 中山元(訳) 光文社古典新訳文庫
 訳者あとがき p412-413



○日本の権力を表象してきた建造物|日本人の自我主張

○急激な近代化を遂げてきた日本|近代化の象徴 競馬

○美しい日本に生まれた私|天地自然に身をまかせ


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住みにくい人の世を
住みやすくする



※「草枕」 夏目漱石 冒頭


  山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。



  智(ち)に働けば角(かど)が立つ、

  情に棹(さお)させば(⇒調子に合わせてうまく立ち回れば)流される。

  意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。

  兎角(とかく)に人の世は住みにくい。



  住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。

  どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画(え)が出来る。

  人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。

  やはり向こう三軒両隣りにちらちらするただの人である。

  ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。

  あれば人でなしの国に行くばかりだ。

  人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。



  越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、

  寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。


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人間の愚かさを風刺する
吾輩は猫である



夏目漱石の代表作「吾輩は猫である」。

主人公の苦沙弥(くしゃみ)先生は、当時の社会の功利・卑俗・傲慢・野蛮に

辛辣(しんらつ)な批判を加える知識人。作品を通して、文明のありかた、戦争論、

民衆論、女性論、金力の社会的支配とそれに対する反抗、人間の孤独などの

テーマが猫の視線を通して次々に展開されてゆきます。



作品の中で、金力や権力の象徴として実業家の金田一家が登場しますが、

金田夫人が苦沙弥(くしゃみ)先生のところに訪ねてきた場面は以下のように

描かれています。



※吾輩は猫である 夏目漱石 三


  「ちと伺いたいことがあって、参ったんですが」

  鼻子(吾輩がつけた金田夫人のあだ名)は再び話の口を切る。

  「はあ」と主人(苦沙弥先生)が極めて冷淡に受ける。

  これではならぬと鼻子は、

  「実は私はつい御近所で――あの向う横丁の角屋敷なんですが」

  「あの大きな西洋館の倉のあるうちですか、

  道理であすこには金田と云う標札が出ていますな」

  と主人はようやく金田の西洋館と、金田の倉を認識したようだが

  金田夫人に対する尊敬の度合いは前と同様である。

  「実は宿が出まして(⇒夫が来て)、御話を伺うんですが会社の方が

  大変忙がしいもんですから」と今度は少し利いたろうという眼付をする。

  主人は一向(いっこう)動じない。

  鼻子のさっきからの言葉遣いが初対面の女としては

  あまり存在(ぞんざい)過ぎるのですでに不平なのである。

  「会社でも一つじゃ無いんです、二つも三つも兼ねているんです。

  それにどの会社でも重役なんで――多分御存知でしょうが」

  これでも恐れ入らぬかと云う顔付をする。

  元来ここの主人は博士とか大学教授とかいうと非常に恐縮する男であるが、

  妙な事には実業家に対する尊敬の度は極めて低い。

  実業家よりも中学校の先生の方がえらいと信じている。

  よし(たとえ)信じておらんでも、融通の利かぬ性質として、

  到底実業家、金満家の恩顧(おんこ)を蒙(こうむ)る事は

  覚束(おぼつかない)と諦あきらめている。

  いくら先方が勢力家でも、財産家でも、自分が世話になる見込のないと

  思い切った人の利害には極めて無頓着である。

  それだから学者社会を除いて他の方面の事には極めて迂濶(うかつ)で、

  ことに実業界などでは、どこに、だれが何をしているか一向知らん。

  知っても尊敬畏服(いふく)の念は毫(ごう)も起らんのである。

  鼻子の方では天(あめ)が下(⇒天下)の一隅にこんな変人が

  やはり日光に照らされて生活していようとは夢にも知らない。

  今まで世の中の人間にも大分(だいぶ)接して見たが、

  金田の妻(さい)ですと名乗って、急に取扱いの変らない場合はない、

  どこの会へ出ても、どんな身分の高い人の前でも立派に金田夫人で通して行かれる、

  いわんやこんな燻(くすぶ)り返った老書生においてをやで、

  私の家は向う横丁の角屋敷ですとさえ云えば

  職業などは聞かぬ先から驚くだろうと予期していたのである。



○創造的生命力を生み出す愛|夏目漱石「吾輩は猫である」

○人間的なるものの別名|愛するあまり滅ぼし殺すような悪


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The Ad-dressing of Cats
猫に話しかける法

T. S. Eliot in 1923, by Lady Ottoline Morrell
イギリスの詩人・劇作家、トマス・スターンズ・エリオット(1888-1965)


ミュージカル「CATS」の原作である「キャッツ ポッサムおじさんの猫とつき合う法」。

物語の中には様々な猫が登場しますが、最後に猫に話しかけるコツを教えてくれます。



※キャッツ ポッサムおじさんの猫とつき合う法 T.S. エリオット 池田雅之(訳)
 ちくま文庫 1995 猫に話しかける法 p108-115


  いかがでしたか、

     読者のみなさんにお付き合い願ったさまざまな猫たち。

  でも、猫の性格知ってもらおうと、もうこれ以上、

  くどくど説明するのも、無粋な話。

  先刻、ご推察と思うけど、

  登場願った猫たちは、みなさんたちにも、わたしにもよく似ている。

  人間たちと変わりばえなく、猫も千差万別、多種多様。

  まともなやつもいれば、おかしなやつもいる、

  いいやつもいれば、悪もいる。

  ほどほどの善玉もいれば、いささかの性悪もいるってこと−。


  (中略)


  そこで、みなさん、

  「猫にはなしかけるには、どうしたらいいだろう?」



  読者のみなさん、まずは、お心に留めおきあれ、

  「猫たるものは、犬には非(あら)ず」と。



  犬っていうのは、ちょっと見には、喧嘩好き。

  年中吠えているやつ、ときには噛みつくやつ。

  されど、犬はだいたいがお人好し。

  もちろん、ペキニーズや他の珍種犬は、別の話。



  よく見かける都会育ちの犬って、どじな道化ばかり。

  誇りと品位にかける連中だ。

  こうした手合いの犬たち、すぐに人間にだまされるのが落ち−。

  ちょいとあごの下を撫でられ、

  背中をポンと叩かれて、手をにぎられると、

  じゃれつき、喉を鳴らして、ご機嫌至極(きげんしごく)。

  犬というやつは、とってもお調子者で、いなか者。

  誰が呼ぼうと、どなろうと、しっぽ振り振り、いつでもワン。



  そこで、もう一度、思い出していただきたいのは、

  「犬は犬、猫は猫」という鉄則。

  猫に関して、ルールは、ひとつ。

  「向こうから話かけてくるまで、猫に口をきいてはいけない」

  とはいえ、わし自身は、このルールあんまり信じてないけどね−。



  そこで。みなさんから、猫にごあいさつを。

  でも、猫は、人様になれなれしくされるのが大嫌い、

  その事をゆめ忘れることなかれ。

  わしは帽子を取り、頭をさげて、

  猫にこんな風に話しかける。

  「ああ、猫君!」


  (中略)


  猫たるもの、人間から敬意を表されるのは、

  当然至極なこと。

  晴れて、願が叶えば、

  ついに猫の名前を、じきじきに呼べる日が、やって来る!



  「犬は犬、猫は猫」ということ。

  これこそ、みなさんが、猫に話かけるコツだ。



○ノーベル文学賞作家 T.Sエリオットが暮らしたマンション


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Cats 21 Finale: The Ad-Dressing Of Cats

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われわれは、みな、
大地の一部

ホッキョクグマ (ナヌーク)


われわれは、みな、大地の一部。

おまえがいのちのために祈ったとき、おまえはナヌークになり、ナヌークは人間になる。

いつの日か、わたしたちは、氷の世界で出会うだろう。

そのとき、おまえがいのちを落としても、わたしがいのちを落としても、どちらでも良いのだ。



※ナヌークの贈りもの 星野道夫 小学館 1996



○人類から遠く離れた孤独の中に住む 世界の本質

○大地に宿る命|移ろい行く時の狭間に力の限り咲く花


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社会構造の変容をもたらす
第4次産業革命

第4次産業革命 -日本がリードする戦略- 経済産業省より


科学技術の急速な進展によって社会構造が変わるとされる「第4次産業革命」。

「革命」と聞くと「フランス革命」や「ロシア革命」が思い浮かびますが、

「革命」は既存の主権(主役)が、別のものにとって変わることを示唆しているよう。



オックスフォード大学准教授のマイケル A. オズボーン先生は、

「今後10〜20年で、アメリカの総雇用者の約47%の仕事が自動化されるリスクが高い」(2013)

と指摘していますが、2017年1月の世界経済フォーラム(ダボス会議)で提出された

「人間がやらなくてもよくなる仕事ランキング」の1位は、銀行・会計士(税理士)の

一部業務だといいます。



ヨーロッパでは、人間以外が稼いだお金をどのように活用するか議論が始まっており、

その方向性の一つとして、人間が働く・働かないに関わらず基礎収入を得る

「ベーシックインカム」の検討がなされているそうです。



産業界では、例えば繊維メーカーは、衣服自体がセンサーになる可能性があり、

着ている人の体温等の情報を収集することによって健康管理に役立てることも考えられ、

どうやら、これまでのように「うちは繊維屋」「うちは機械屋」といった見方では

捉えきれなくなっているようです。



昨今、ビジネスセミナーでは、専門領域に直接関わる内容にとどまらず、

宗教家や倫理の専門家を招いたセミナーが開催されるなど、

統合的な捉え方、自分に向き合うことへの関心が高まっていると指摘されます。



※科学技術が人間や社会をどのように変えていくか? 2017.03
 講師 藤沢久美 先生 シンクタンク・ソフィアバンク代表
 会場 川崎市産業振興会館
 第33回かわさき科学技術サロン



○イノベーションは内生的・自発的に生まれる|健全な経営を目指す会社

○進化するテクノロジー 人間のフロンティア

○続可能なモビリティ社会を目指して|日産追浜グランドライブ体験試乗


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外生的・強制的からは生まれない
イノベーション



「イノベーション」という言葉は、日本において日常的に聞くようになっていますが、

その場合の「イノベーション」は外生的・強制的なことが少なくないといい、

言われた側はその圧力によって逆に萎縮してしまう場合があるようです。



イノベーションが求められる背景には、既存のままでは衰退するという危機感があるとされ、

裏返せば安定・成長期には既存路線の踏襲が賢明のようです。



イノベーションという言葉を耳にして久しいことから考えてみると、

今日の日本はまだイノベーションが実現していない、

先の見えにくい長期的な変化の過程にあるように思えます。

イノベーションは、どうやらそう簡単に生まれるものではないようです。



イノベーションの種(Seeds)のありかは、少数意見に埋もれている場合がみられ、

これが真実だとするならば、組織編成にあたっては価値観を共有する人材や

迎合的な人材を育てるだけでなく、多様性や異質性に配慮することも大切だと

考えられます。



イノベーションを起こせる資質については、

目先の収益的視点を超えた普遍的な領域に価値を見い出すことができ、

かつ、時間を忘れて物事に没頭できる人物像が浮かび上がります。



※イノベーションの時代のサイエンスとは 2017.03
 パネリスト
  ・出田恵三 先生 NHK制作局 科学・環境番組部 部長
  ・出雲充 先生 株式会社ユーグレナ 代表取締役社長
  ・中島林彦 先生 『日経サイエンス』編集長
  ・福田真嗣 先生 株式会社メタジェン 代表取締役社長
  ・山ア英数 先生 富士フイルム株式会社 R&D統括本部生産技術センター長 
 コーディネーター
  ・高井研 先生 JAMSTEC 深海・地殻内生物圏研究分野 分野長
 平成28年度 海洋研究開発機構 研究報告会 JAMSTEC2017



○人類の未来を切り開く|地球深部探査船「ちきゅう」


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自分の専門に閉じこもることを拒否する
オネットム(紳士・教養人)の普遍性

フランスの数学・哲学者 ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623-1662)


※195 すべてについて少し 人間の認識から神への移行
  「パンセ(上)」 パスカル 塩川徹也(訳) 岩波文庫 2015 p236-237


  すべてについて知りうることのすべてを知って、

  万能になるのはできない相談だから、

  すべてについて少しだけ知らなければならない。



  なぜならあることについてすべてを知るよりは、

  すべてについていくらか知るほうが見事だからだ。

  こちらの普遍性のほうがもっと美しい。



  両方をあわせもつことができれば、もっとよいだろう。

  しかし、選ばなければならないとしたら、こちらのほうを選ばなければならない。

  そして世間はそう感じ、そのように実行する。

  なぜなら世間は往々にしてよい判断を下すものだから。




パスカルの言う「すべてについて少し」は、自分の専門に閉じこもる

ことを拒否する「オネットム(紳士・教養人)」の普遍性を指摘します。



フランスを代表する哲学者、ミシェル・ド・モンテーニュ(1533-1592)もまた、

自らの教養をそのように捉えています。



※エセー モンテーニュ 第1巻 25章 子供たちの教育について


  ここにお見せするのは、子供時代にいろいろな学問のほんの上面(うわつら)を

  味わっただけで、その大体の漠然とした顔立ちしか覚えていない人間の夢想

  にすぎないことは、誰よりも私がよく承知しています。

  つまり、私は、フランス流に、何でも少しずつはかじっていますが、

  何一つ完全に知らないのです。





近代以降、学術と文化の専門化、細分化はとどまることを知らないが、

近代の出発点にはまだレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)や

ライプニッツ(1646-1716)のような万能の天才が輩出する精神風土があった。



パスカル(1623-1662)はその一人であり、数学、物理学、文学、哲学、宗教

のいずれの分野でも目覚ましい活動を展開し、その刻印を歴史に残した。

しかもその多面的な活動は互いに分離しているのではなく、

緊張をはらみながら密接に関連している。

彼において科学的な合理性は、一方では人間の心と振る舞いへの繊細なまなざし、

他方では自然と人間を超える超越的な次元への憧憬(しょうけい)

そして信仰と一体になって働いている。

「パンセ」はそのことを如実(にょじつ)に感じさせてくれる書物である。



※解説1 「パンセ」とはいかなる<書物>か 塩川徹也 先生 東京大学名誉教授
 「パンセ(上)」 パスカル 塩川徹也(訳) 岩波文庫 2015 p437



○人間の弱さと限界、そこからの可能性|パスカル「パンセ」


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多様な文化を形成して生き延びてきた
人類

360万年前に人類(アファール猿人)が歩いた足跡
ラエトリ遺跡(タンザニア)


日本人は、狭い国土に稠密(ちゅうみつ)な人口密度で生活している。

そして、特定の集団が持続することに価値をおき、集団内での「和」を重んずる

というタテマエのもとで、集団内での個人間の競争や、集団と集団との間の競争

によって生産性の向上を目標に掲げ、その目標が達成されることに充実感を

おぼえるという生活のスタイルをとってきた。



その社会生活においては、個人が基本単位になるというよりは、

イエとか世帯とか、町内会とか、会社とか、会社内の部・課などの組織そのものが

基本単位として機能し、個人は、その組織を構成する一要素として位置づけられる

ことが多かった。



明治時代以来の日本の近代化や、第二次世界大戦による荒廃からの戦後日本の

復興や高度経済成長には、右(上記)にあげたような日本社会のもつ特性が大いに

関与し、貢献したといわれる。



しかし、「モウレツに働く日本人のいる日本社会」では、自然環境の破壊や汚染が

進行し、「経済成長だけが果たして人間生活の目標として価値あるものだろうか」

という疑念が人々の心に生まれてきている。



自然環境と調和し、地球上の他の国々と調和し、かつ、のびのびとした次の世代

を育てていくには、日本人同士が、個人個人の間で互いの多様な価値観や生活

のスタイルを容認し合い、異質なものとの共存の仕方をくふうすることが必要では

ないかと、過去25年来私は考えてきた。



地球上には、じつにさまざまな文化、すなわち、価値観や生活のスタイルをもつ

個人や民族が存在している。その文化の多様性は、霊長類の一つの種である

ヒト科の人類(Homo sapiens)が生存するうえでの幅広い可能性を示唆してくれる。

人類は、そのおかれた環境や状況のなかで、まことに見事に、多様な文化を形成

しつつ生き延びてきたのである。



※ヘヤー・インディアンとその世界 原ひろ子 平凡社 1989
 序章|はじめに p12-13



○人と人・人と自然との共存から未来を紡ぐ|Life is a Journey


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異質なものとの
共存の仕方を工夫する

森鴎外(もりおうがい、1862-1922(大正11年)


明治の文豪として夏目漱石とならび称される森鴎外。

文明開化期にドイツに留学し、西洋の文化を翻訳して

日本に紹介するかたわら、多くの随筆、評論、小説、戯曲を残します。



軍医総監という国家の高級官僚を務め、晩年には帝室博物館総長や

帝国美術館院長を努めますが、「いままでの人生は本当にやりたかった

ことができなかった仮面の人生ではなかったか」と疑い続けます。



著作のひとつ「盃(さかずき)」は、自分たちと髪の色、目の色、服装が異なる

ものを排除する七人の娘たちと、差別を受けながらも毅然としてゆるがない

プライドに満ちた娘(第八の娘)が対比的に描かれた短編小説。

七人の娘たちと第八の娘とのやりとりは以下のように描かれています。




※「盃」 森鴎外 青空文庫より


  第八の娘である。

  背は七人の娘より高い。十四五になっているのであろう。

  黄金色の髪を黒いリボンで結んでいる。

  琥珀(こはく)のような顔から、サントオレアの花のような青い目が覗(のぞ)いている。

  永遠の驚(おどろき)を以(もっ)て自然を覗いている。

  唇だけがほのかに赤い。

  黒の縁(へり)を取った鼠色(ねずみいろ)の洋服を着ている。


  (略)


  七人の娘は、この時始(はじめ)てこの平和の破壊者のあるのを知った。


  (略)


  「お前さんも飲むの」

  声は訝(いぶか)に少しの嗔(いかり)を帯びていた。

  第八の娘は黙って頷(うな)ずいた。

  今一人の娘がこう云った。

  「お前さんの杯(さかずき)は妙な杯ね。一寸(ちょっと)拝見」

  声は訝(いぶか)に少しの侮(あなどり)を帯びていた。

  第八の娘は黙って、その熔巌(ようがん)の色をした杯を出した。


  (略)


  第八の娘の、今まで結んでいた唇が、この時始て開かれた。

  "MON VERRE N'EST PAS GRAND MAIS JE BOIS DANS MON VERRE"

  沈んだ、しかも鋭い声であった。

  「わたくしの杯は大きくはございません。

  それでもわたくしはわたくしの杯で戴ききます」と(フランス語で)云ったのである。

  七人の娘は可哀らしい、黒い瞳で顔を見合った。

  言語が通ぜないのである。

  第八の娘の両臂(りょうひじ)は自然の重みで垂れている。

  言語は通ぜないでも好(い)い。

  第八の娘の態度は第八の娘の意志を表白して、誤解すべき余地を留めない。

  一人の娘は銀の杯を引っ込めた。

  自然の銘のある、耀(かがや)く銀の、大きな杯を引っ込めた。

  今一人の娘は黒い杯を返した。

  火の坑から湧き出た熔巌の冷めたような色をした、黒ずんだ、小さい杯を返した。

  第八の娘は徐(しず)かに数滴の泉を汲んで、ほのかに赤い唇を潤した。


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参  考  情  報


○ポリロゴス|哲学リソースサイト

○Philosophy Guides - 哲学ガイドブログ

○国立公文書館

○大学共同利用機関法人 人間文化研究機構|国立民族学博物館

○探検しよう!みんなの地球|外務省

○保立道久の研究雑記

○夏目漱石:青空文庫

○森鴎外:青空文庫

○職場を生き抜け!:夏目漱石の「坊っちゃん」になるな!:nikkei BPnet

○自由民権資料館/町田市ホームページ

○無料の写真 - Pixabay

○Imagebase: 100% Free Stock Photos

○フリー百科辞典Wikipedia

○人間不平等起原論 J.J. ルソー. 本田喜代治(訳), 平岡昇(訳) 岩波文庫 1972

○人間不平等起源論 J.J. ルソー, 中山元(訳) 光文社古典新訳文庫 2008

○社会契約論 J.J. ルソー, 中山元(訳) 光文社古典新訳文庫 2013

○ルソー 人間不平等起原論 社会契約論 小林善彦・井上幸治 中央公論新社 2005

○ルソーを読む 2017.04
 講師 杉田正樹 先生 放送大学客員教授・関東学院大学教授
 主催 放送大学神奈川学習センター

○21世紀の資本 トマ・ピケティ
 山形浩生, 守岡桜, 森本正史 みすず書房 2014

○Equality of Opportunity John E. Roemer
 (Harvard University Press,1998) 書評 栗林寛幸
 海外社会保障研究 Summer 2000 131

○利己的な遺伝子 <増補新装版> リチャード・ドーキンス,
 (訳) 日高敏隆, 岸由二, 羽田節子, 垂水雄二 紀伊国屋書店 2006

○パリ・コミューン 柴田三千雄 中央公論社 1973

○フランス革命小史 河野健二 岩波新書 1959

○パレスチナ問題('16)
 主任講師 高橋和夫 先生 放送大学教授

○中世の国土高権と天皇・武家 保立道久 校倉書房 2015年
 第1章 平安時代の国家と荘園制

○格差はなぜ世界からなくならないのか
 池上彰緊急スペシャル 2016年12月16日 フジテレビ

○ヘヤー・インディアンとその世界 原ひろ子 平凡社 1989

○サモアの思春期 マーガレット・ミード,
 畑中幸子(訳), 山本真鳥(訳) 蒼樹書房 1976

○坊ちゃん 夏目漱石 少年少女日本文学館 講談社 1985

○吾輩は猫である 夏目漱石 少年少女日本文学館 講談社 1988

○日本近代短篇小説選 明治篇1 岩波文庫 2012
 (編集)紅野敏郎, 紅野謙介, 千葉俊二, 宗像和重, 山田俊治

○森鴎外 舞姫 珠玉選 森鴎外, 森まゆみ(訳), 土屋ちさ美(絵)
 講談社 青い鳥文庫 2011 「舞姫・山椒大夫・高瀬舟・盃・文づかい」

○明治の短編小説を読む 2017.06
 講師 山田俊治 先生 放送大学客員教授・横浜市立大学名誉教授

○キャッツ ポッサムおじさんの猫とつき合う法
 T.S. エリオット 池田雅之(訳) ちくま文庫 1995

○ネコメンタリー 猫も、杓子(しゃくし)も。「養老センセイとまる」 NHK

○誕生 日本国憲法 2017.04
 国立公文書館 春の特別展

○憲法を、識る 2017.04
 ・日本国憲法−来し方、行く末
  橋本五郎 先生 読売新聞特別編集委員
 ・誕生への苦闘:憲法担当大臣金森徳次郎を中心に
  古関彰一 先生 憲法史家・和光学園理事長
 ・会場 一橋大学 一橋講堂
 ・国立公文書館 春の特別展「誕生 日本国憲法」記念講演会

○ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展 2017.04
 16世紀ネーデルラントの至宝―ボスを超えて
 東京都美術館 2017年4月18日〜7月2日

○「Study of BABEL」展 2017.04
 東京藝術大学 2017年4月18日〜7月2日

○魂のみなもとへ 詩と哲学のデュオ 谷川俊太郎 長谷川宏 近代出版 2001

○第82回円覚寺夏季講座 2017.06
 詩の声 講師 谷川俊太郎 先生

○ナヌークの贈りもの 星野道夫 小学館 1996

○オーロラ 宇宙の渚をさぐる 上出洋介 角川選書 2013


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