苦しみに満ちている人間の生からの救済

ショーペンハウアー


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 人生の苦しみの諸相 | 人間が苦しむ理由 | 苦しみからの離脱 | 芸術による救済 | 審美的な喜悦 |
| アカテガニの放仔 | ツバメのねぐら入り | 特別な位置を占める音楽 | 芸術から宗教へ |
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人間の生は苦しみに満ちている
ショーペンハウアーの人間観

ギリシア悲劇 アイスキュロスの「オレステイア」に登場する
騎士アガメムノンのものともいわれる黄金のデスマスク
アテネ国立考古学博物館


いずれの人の一生も、もしこれを全体として一般的に眺め渡してその中から

著しい特徴だけを抜き出してみるなら、本来それはいつも一個の悲劇である。


(中略)


願い事は決して満たされないし、努力は水の泡となるし、

希望は無慈悲に運命に踏みつぶされる。

そのうえ悩みは年齢ごとに多くなって最後に死が来るというのであれば、

これは何としても悲劇である。



※第四巻 意志としての世界の第二考察 第58節 P576
 ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界」
 世界の名著〈続10〉 西尾幹二(編集) 中央公論社 1975年





ショーペンハウアーは、ペシミスト(Pessimist : 悲観主義者)や

厭世主義者(えんせいしゅぎしゃ:世の中をいやなもの、人生を価値のないものと思う人)

とみなされる側面があるといいますが、苦しみの必然性を洞察し、

その苦しみからの救済の方途を示唆しようとする姿勢は、

人生へ雄々しく向き合おうとする姿でもあるようです。



○哲学からみた人間理解|自分自身の悟性を使用する勇気を持つ


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アルトゥール・ショーペンハウアー
の背景

アルトゥール・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer、1788-1860)


1788年、ダンツィヒ(現ポーランド・グダニスク)で

富裕な商人の家に生まれたアルトゥール・ショーペンハウアー。



当時のダンツィヒは自由都市として特権を享受していましたが、

第一次ポーランド分割(1772年)以来プロイセンによる迫害が強まっていた時代。

そのことも影響してか、父のハインリヒ・フローリス・ショーペンハウアーは、

非常に自尊心の高い、恐れを知らない不屈強靭な人物であったとされます。



このような性格は息子アルトゥールにも受け継がれたようで、

国家という枠で物事を考えない、

あくまで自由人として生き抜こうとした生涯につながってゆきます。



幼少期には父に伴い世界旅行をしていますが、

当時、世界旅行といえば、ヨーロッパ各国への旅を意味し、

このことは個人の一生にとって計り知れない破天荒な出来事であったようで、

後のアルトゥールの世界観に影響を与えているといわれます。



母ヨハンナ・ショーペンハウアーは、ダンツィヒの市会議員の娘で、

理知と文才に恵まれ、夫の死後(アルトゥール17歳)に小説家として知られた女性。

小柄で、愛嬌があり、社交的で、派手好みであり、未亡人になると直ちに

当時文人の集まっていたワイマールに移り住んで、サロンを開き、

ゲーテをはじめ当代一流の文人と交際したといいます。



息子アルトゥールと母ヨハンナの間には親子の情けというものが乏しく、

母は自分の著作を誇示して息子の仕事を罵倒するという、

通常の母子では考えられない対立が生じていたそうですが、

それは虚栄心の強い母の女性としてのいびつな性格に原因があったといわれます。

このことはアルトゥール独特の女嫌いと女性蔑視の一因になったよう。



父の死後、アルトゥールは父の遺志に従って商人の見習いを始めますが、

学問への情熱を捨てきれず大学に進学します。



1819年、30歳にして「意志と表象としての世界」を刊行。

1820年、ベルリン大学講師の地位を得ますが、

当時はベルリン大学教授であったヘーゲル全盛期にあたり、

アルトゥールの著作はほとんど評価されなかったようです。



ベルリン大学退職後は、フランクフルトにて余生を過ごしますが、

「意志と表象としての世界」を刊行してから40年に渡り、

本を補充し、拡大し、その原理を繰り返し確かめる仕事に没頭し続けたといいます。


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意志と表象としての世界
全体構成

著作「意志と表象としての世界」 1819


ショーペンアウアー、30歳にして刊行された「意志と表象としての世界」は、

カントの物自体と現象という枠組みを踏襲して体系構成がなされているといい、

著作全体は四部から成り立っています。



○意志と表象としての世界

 ・第一巻 表象としての世界の第一考察
        根拠の原理に従う表象、すなわち経験と科学の客観
 ・第二巻 意志としての世界の第一考察
       すなわち意志の客観化
 ・第三巻 表象としての世界の第二考察
       根拠の原理に依存しない表象、すなわちプラトンのイデア、芸術の客観
 ・第四巻 意志としての世界の第二考察
       自己認識の達したときの生きんとする意志の肯定ならびに否定



第一巻は、世界は主観である人間に対して表象という形で与えられている

ということを根拠律と絡めて解釈するもので、人間の認識能力を吟味しています。

第二巻は、世界が物自体としての意志の客体化であることの解明。

第三巻は、音楽をはじめとするする芸術や天才を扱く美学的考察。

第四巻は、人間の行為や両親、さらに同情としての愛、

意志の否定としての禁欲などを取り上げる倫理学的考察となっています。


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想像としての主観である
私たちの知る世界

渦巻き状に見えるライン、なぞってみると同心円であることが分かります
フレイザー錯視


世界はわたしの表象である。

(表象…目前に見るように心に思い描くこと、心像、想像、観念)



これは、生きて、認識をいとなむものすべてに関して

当てはまるひとつの真理である。

ところがこの真理を、反省的に、ならびに抽象的に

真理として意識することのできるのはもっぱら人間だけである。



人間がこれをほんとうに意識するとして、そのときに人間には、

哲学的思想が芽生えはじめているのである。



哲学的思想が芽生えたあかつきに、人間にとってあきらかになり、

確かになってくるのは、人間は太陽も知らないし大地も知らないこと、

人間が知っているのはいつもただ太陽を見る眼にすぎず、

大地を感じる手にすぎないこと、

人間を取り巻いている世界はただ表象として存在するにすぎないこと、

すなわち世界は、世界とは別のもの、人間自身であるところの表象する当のもの、

ひとえにそれとの関係において存在するにすぎないことである。



※第一巻 表象としての世界の第一考察 第一節 P111
 ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界」
 世界の名著〈続10〉 西尾幹二(編集) 中央公論社 1975年


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人生の苦しみの諸相
性衝動・愛・嫉妬・羨望・憎悪・不安・名誉心・金銭欲・病気等

「狂えるメディア」 ウジェーヌ・ドラクロワ ルーヴル美術館
ギリシア悲劇 エウリピデスの「メディア」
母親が二人の我が子を殺そうとしているシーン


苦しみを追い払おうとしている人は絶えず骨折るけれども、

せいぜいのところ苦しみの姿を変えることくらいしかできない。



苦悩の姿は、もともとは、欠乏、困窮、生活維持のための心労である。

もしもうまくいって、といってもそれは大変に難しいことだが、

この姿のうちどれかある姿の苦しみを追い払うことができたとしても、

苦しみはたちまち幾千という別の姿になって現れることであろうし、

年齢や境遇に応じて千変万化、すなわち

性衝動、情熱的な愛、嫉妬、羨望、憎悪、不安、名誉心、金銭欲、病気等々、

あるゆる姿をとって現れることになるだろう。



挙句の果て、苦しみの入り込める姿というものが他にもうないというような

ことになれば、苦しみは今度は倦怠や退屈という湿っぽい灰色の衣装を

まとって出てくることになるだろう。



※第四巻 意志としての世界の第二考察 第57節 P564
 ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界」
 世界の名著〈続10〉 西尾幹二(編集) 中央公論社 1975年



○自分の中にその存在を認める|オペラ「ドン・カルロ」にみる人間観

○私たちの身近に寄り添う「愛と人間性」の芸術|ミュージカル


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人間が苦しむ本質的な理由
盲目的な欲望

「トランプ詐欺師」 カラヴァッジョ 1594年頃 キンベル美術館
右側の男は背後にカードを持って、今まさにいかさまをしようとしている場面


あらゆる意欲は欲望に端を発する。

したがって意欲は欠乏に、すなわち苦悩に端を発すると言いかえてもよい。

意欲は満たされればそれでいったんは終わる。

しかし一つの願望が満たされれば、これに対して少なくとも十の願望は

満たされないで残っているのである。さらにこう言いかえてもいい。

欲望は長期にわたってつづき、要求は無限にはてしない、と。


(中略)


人間は意志の最も完成された客観化であるから、

したがってまた、あらゆる生物の中で最も要求の多いものなのだ。

人間というものは、徹頭徹尾(てっとうてつび⇒最初から最後まで)、

意欲と欲望の具体化なのであり、数知れぬ欲望のかたまりなのである。



※第四巻 意志としての世界の第二考察 第57節 P564・558
 ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界」
 世界の名著〈続10〉 西尾幹二(編集) 中央公論社 1975年


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苦しみからの離脱
欲望の衝動から切り離された経験をいかにするか

「七つの大罪」のうち「大食」 1480年頃 ヒエロニムス・ボッス
プラド美術館


意志への奉仕に左右されることのない認識、すなわち世界の本質一般に

向けられた認識からは、鑑照(かんしょう)への美的要求が生じるか、

あるいは断念への理論的要求が生じるかのいずれかである。



※第四巻 意志としての世界の第二考察 第60節 P584
 ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界」
 世界の名著〈続10〉 西尾幹二(編集) 中央公論社 1975年




ショーペンハウアーは、人間の苦しみの原因である無制限で盲目的な欲求から

逃れるための方途として、「イデアの観照としての芸術体験」と

「意志の断念を思考する倫理的あるいは宗教的体験」であると指摘します。



※イデア : Idea⇒真理・理念、プラトンの中核概念

※観照 : かんしょう
 主観をまじえないで物事を冷静 に観察して、意味を明らかに知ること

※七つの大罪(The Seven Deadly Sins and the Four Last Things)
  @傲慢(高慢) ・ A憤怒(激情) ・ B嫉妬(羨望) ・ C怠惰(堕落) ・
  D強欲(貪欲) ・ E暴食(大食) ・ F色欲(肉欲)


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苦しみからの離脱
芸術による救済

ゲーテ 「ファウスト」 グレートヒェンの部屋
その人の見えぬところはすべて墓 世はおしなべて苦くくるしい


美しいものに寄せる審美的な喜悦の大部分は、

われわれが純粋観照の状態に入ったとき、

その瞬間には一切の意欲、すなわち一切の願望や心配を絶して、

いわば自分自身から脱却し、

われわれはもはや絶え間ない意欲のために認識する個体

−これは個々の自分に対応するものである− ではなしに、

すなわち(眼前にある)いちいちの客観が動機となるような個体ではなしに、

意志を離れた永遠の認識主観

−これはイデアに対するものである−

になっているということにいつにかかっているのである。



われわれが残忍な意志の衝迫(しょうはく:心の中にわきおこる強い欲求)から解脱して、

いわば重苦しい地上の空気から抜け出して浮かび上がっている

このような瞬間こそは、まことにわれわれの知りうる最も祝福された

瞬間であることを、(われわれは知っている)。



※第四巻 意志としての世界の第二考察 第68節 P677
 ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界」
 世界の名著〈続10〉 西尾幹二(編集) 中央公論社 1975年


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美しいものに寄せる審美的な
喜悦

自然の驚異になすすべがない人間の姿 難破船
The Shipwreck 1805 Joseph Mallord William Turner テート・ブリテン


周囲が少し見渡せるようになった頃、これまでに経験しなかった窮地に陥り、

自分が無知で無経験で世の中を知らなかったことに気がつかされました。



人々との会話に鋭い非難の矢を感じた時。

偽られ、裏切られて人を信ずることができなくなり、人間的な魂を失った時。

病や死を目の前にしたあの時。



殺される心理的な恐怖に出会う中、

支えは自分の信念が潰れてしまうことを受入れる恐怖心でした。



人を疎い、人から離れることで自然と対話し、

花の美しさや山や海の雄大さに気づかされ、

音楽や美術、演劇に触れることで人の醜さや優しさに気づかされ、

学問は私に新しい視点を与え、信念を強化させました。



喜びに震え、美しさに感激し、驚きに言葉を失ったあの時、

私は究極に人を傷つけ、自分を傷つけることから逃れること

ができたように思います。



振り返ってみれば、生まれてからは家族や学校に守られ、

社会に出てからは会社や先輩・同僚・後輩に守られ、

五里霧中を歩んでいる時は社会に守られていたようです。



心の旅に出かけられたこと感謝します。




※内面性精神的自由権


  「思想及び良心の自由は、これを犯してはならない」 (憲法19条)



  内面性精神的自由権の代表といわれる憲法19条は、

  人間の人格形成のための心の中での精神活動を保護する為にあるといいます。




※「学習」とは、認知構造の変化である


 認知主義を代表する発達心理学者のピアジェは、

 新しい知識を既有知識の体系にとりこむことを「同化」、

 整合的にとりこめないときに既有知識の体系を変化させて

 とりこむことを「調節」と呼んだそう。



 どうやら、今日の世の中は「調節」が求められているようです。



○英国500年の美術に触れるテート・ブリテン

○本物の作品で日本の文化史がたどれる東京国立博物館


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美しいものに寄せる審美的な喜悦
アカテガニの放仔

小網代の森 アカテガニ放仔(ほうし)観察会 2016.07
観察者は海に入り、陸から現れる母ガニを待ちます(日没となる19時頃)


夏の大潮の晩。アカテガニは大挙して森から干潟の水辺に出てきて、

体を震わせながらお腹に抱えた幼生「ゾエア」を海に放ちます。



○いのち集まる流域 小網代の森|私たちが生きる地球の持続可能性


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2015小網代の森アカテガニ放仔観察会

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美しいものに寄せる審美的な喜悦
ツバメのねぐら入り

ツバメのねぐら入り観察会 神奈川県立境川遊水地公園 2016.07
日没となる19時頃


春になると南方からやってくるツバメ。

軒下などに作られた巣で育った子供たちは、

巣立ちを迎えると他のツバメたちと一緒になり水辺のヨシ原などで眠るそうです。



例年7月後半頃、境川遊水地公園のビオトープには、

無数のツバメたちの「ねぐらいり」が観察できます。



○水と共に暮らす|いつまでも美しく安全に

○川とともに育まれてきた人々の暮らし|相模湾 江の島に注ぐ境川

○野鳥観察や水辺の生物の観察にオススメ 東京港野鳥公園


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<公式>境川遊水地公園 ツバメのねぐら入り 2012

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芸術の中でも特別な位置を占める
音楽

ヴァージナルの前に座る婦人 1675年頃 フェルメール
ロンドン・ナショナル・ギャラリー


音楽はほかのあらゆる芸術からまったく切り離された独自なものである。

音楽は世界にある存在物のなんらかのイデアの模写や再現とは認められない。

それでいて音楽はまことに偉大なまた並外れた芸術であり、

人間のいちばん奥深いところにきわめて力強く働きかけてくる。



音楽は人間のいちばん奥深いところであたかも普遍的な言語

−この言語の明瞭さときたら直感的世界それ自身の明瞭さにもまさるぐらいだが−

ででもあるかのように、人間にとって全面的にまた奥深く理解されるのである。



※第三巻 表象としての世界の第二考察 第52節 P475
 ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界」
 世界の名著〈続10〉 西尾幹二(編集) 中央公論社 1975年





芸術の創造と享受は人間生活全般において特別な意義を持つ活動だと指摘しますが、

その中でも音楽はさらに特別な位置が与えられています。

他の芸術が物時代の直接的な客観化としてのイデアの観照、

すなわち、イデアの模造(≒真理を見える姿に変えたもの)であるのに対して、

音楽は物自体の直接的表現、世界の最内奥(さいないおう)の模造とされています。



○日本人の音楽的アイデンティティ|新たな響きが奏でる未来

○命から生まれた嘆き・希望・美しさ|世界の民族音楽

○フェルメールの作品で訪れる「水の国」ネーデルランド


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ハイドン 天地創造 イギリスBBS PROMS
Haydn: Die Jahreszeiten, oratorio, H. 21/3 | Roger Norrington

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苦しみからの離脱
芸術による救済から宗教による救済へ

聖チェチリア(Santa Cecilia) ラファエロ
ショーペンハウアーは、楽器を捨てて天を仰ぎ天使の合唱に聞き入る
この絵を芸術から宗教への移り行きの象徴として見なしています


ショーペンハウアーは、苦しみからの解脱の方途として、

「イデアの観照としての芸術体験」を挙げていましたが、

しかしそれは、「永久の解脱にはなり得ず、

ただほんの束の間のこの生からの解放にすぎないのであって、

諦念(ていねん:諦める心・道理を悟る心)に到達した聖者の場合に

おけるような意志の寂滅(じゃくめつ)とはなり得ない」と指摘します。


※第三巻 表象としての世界の第二考察 第52節 P494
 ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界」
 世界の名著〈続10〉 西尾幹二(編集) 中央公論社 1975年




そこで、苦しみからの離脱のもう一つとして、

「意志の否定、ないしは断念による倫理的・宗教的救済」を挙げています。



上の絵画は、ラファエロが描いた「聖チェチリア」。

3世紀頃の童貞殉職者として知られる聖チェチリアは、音楽の保護者としても

崇められています。ショーペンハウアーは、楽器を捨てて天を仰ぎ天使の合唱

に聞き入るこの絵を、芸術から宗教への移り行きの象徴として見なしています。



○こんにちは マリア|聖なる夜に捧ぐ三大アヴェ・マリア


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生殖と死の間に宿る
生命

生殖と死を象徴するインド神話
シヴァ神の上で踊るドクロをつけたカーリー


インドの神話は破壊や死を象徴する神シヴァに、ドクロの首輪とともに

リンガ(男根)という生殖のシンボルを付加物として与えているのである。

したがってインドの神話では生殖は死を調停する役割をはたしているのであって、

これによって生殖と死とは互いに中和し互いに打ち消しあう大切な相手同士で

あることが暗示されているのである。



※第四巻 意志としての世界の第二考察 第54節 P503
 ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界」
 世界の名著〈続10〉 西尾幹二(編集) 中央公論社 1975年

※シヴァ … インド神話に登場する3最高神の一柱。
 創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌに対してシヴァ神は破壊を司る。

※カーリー … インド神話に登場する血と殺戮を好む戦いの女神。
 シヴァの妻の一柱であり、シヴァの神妃パールヴァティーの憤怒相とされる。



○大地に宿る命|移ろい行く時の狭間に力の限り咲く花

○平安で平等な社会を築く意志|世界に広がるイスラーム


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ディオニュソスを殺して食べ、
一体化するマイナデス

「ディオニュソス」 カラヴァッジョ 1595年頃 ウフィツィ美術館
植物の生長と豊穣を司る神であるとともに狂気を引き起こす神


ぶとうの栽培とぶどう酒の醸造を人間に教えたとされる

植物と生長と豊穣を司る神、ディオニュソス(英語ではバッカス)は、

音楽や文学の神としても崇拝されたといわれます。



ギリシア人は、音楽や文学はぶどう酒の酔いに似る霊感から

生まれたと考え、それは神が人間に乗り移った一種の狂気の状態を意味し、

優れた文学を生み出すこともあれば、動物を引き裂いて生肉を食べるという

荒々しい行為に駆り立てることもあるといいます。



ディオニュソスに仕え、鹿の毛皮を身につける女たち、マイナデス(バッカイ)は、

ディオニュソスによって狂乱状態に陥り鹿であるディオニュソスを殺して食べ、

その毛皮を身にまとうことによって、ディオニュソスと一体化するといいます。



※ぶどう酒色の海−西洋固定小論集− 岡道男 岩波書店 2005




それは神が人間のうちに入り込むことであり、

神が素晴らしい芸術作品を人間に吹き込み、授けることを意味するとされます。



○人間の心のあり方を理解する|日本人の精神性を探る旅

○セクシュアリティとジェンダー|文学にみる女性観


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生命(人間)がもつ盲目的な意志
個体化の原則

自然公園での野外活動


表象(目前に見るように心に思い描くこと、心像、想像、観念)

としての世界においては意志の前に、意志を映す鏡が立ち現れ、

この鏡にてらして意志はおのれを認識するのだということ、

そして認識はいろいろな段階をへて漸次明瞭さと完全さとの度合を

高めてゆくことになるであろうが、その最高段階が人間にあたるのだということである。


(中略)


意志は、純粋にそれ自体として見れば、認識を欠いていて、

盲目的で、抑制不可能な単なる衝動にすぎない。


(中略)


意志の存ずるところ、そこにはまた生命があり世界がある。

だから生きんとする意志にとっては生命ほど確かなものはなく、

われわれは生きんとする意志に満たされている限りは、

たとえ死を目のあたりに見るとしてもわれわれの生存に不安を覚える必要はないだろう。



なるほど個体は生じもし滅しもしよう。しかし個体は現象にすぎないのだ。

個体はただ、「個体化の原理」である根拠の原理にとらわれている

認識に対してしか存在していないのだといってもいい。

もとより根拠の原理にとらわれている認識からすれば、

無から現れ出て来て、おのが生命をあたかも贈り物のようにして受け取り、

やがて死を通じてその贈り物を喪失して無へと戻っていくのが

個体だということになるであろう。



※第四巻 意志としての世界の第二考察 第54節 P502
 ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界」
 世界の名著〈続10〉 西尾幹二(編集) 中央公論社 1975年



○悟性の中心に据える自我の同一性

○人と自然の共生|野外活動に触れ生きる力を研ぎ澄ます


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自然にとっては価値のない
個体

白神山地のブナ林


全自然というこの現象の形式は時間、空間、因果性であるが、

いったんはこれを介して個体化が行われるのであり、

この個体化ということの必然の結果として個体は生じたり滅したりせざるを得ない。



しかしながら、個体は生きんとする意志の現象の、

いわばほんの一つの標本ないし見本にすぎないのであって、

個体の生滅に対しては、生きんとする意志はなんら痛痒(つうよう:さしさわり)

を覚えないものなのである。



一個人が死んだからといって自然全体がいっこう傷つけられないのと同様である。

なぜなら自然にとって個体はどうでもいいもので、

自然にとり肝要であるのは種族にすぎないからである。



※第四巻 意志としての世界の第二考察 第54節 P504
 ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界」
 世界の名著〈続10〉 西尾幹二(編集) 中央公論社 1975年



○たおやかに熟成してきた白神の時間

○鶴の舞|釧路川キャンプ & カヌーツーリング


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幻影のヴェールを見破って
その奥を見る

(鎌倉大仏殿高徳院) 仏陀(buddhaはサンスクリットで、
「真理に目覚めた人」「悟った者」などの意味があるそうです


ひとへに「個体化の原理」を見破ることのみが、

自分という個体と他者という個体との間の区別をなくし、

他者という個体に対する無私無欲な愛、

高邁広量(こうまいこうりょう:寛大な心、広い心)な献身にまで至る

心の持ち方の完全な善をを可能にするものであり、またこれらを説明するものである。


(中略)


万物のうちに自分を認識し、万物のうつに自分の最内奥(さいないおう)の真実を

認識しているような人であれば、生きとし生けるものすべての無限の苦悩をも

自分の苦悩とみなし、こうして全世界の苦痛を我が物と化するに違いあるまい。



※第四巻 意志としての世界の第二考察 第68節 P559
 ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界」
 世界の名著〈続10〉 西尾幹二(編集) 中央公論社 1975年





「マーヤー(サンスクリット語で幻影)のヴェール」、すなわち個体化の原理に囚われ

自他の区別にこだわるエゴイストと対比して、

このような全体の本質、物自体の本質に関する洞察まで達した人は、

その認識によって意志を鎮静させ、諦念(ていねん:諦める心・道理を悟る心)へと

至る道を歩むことができるといいます。



○晩秋の鎌倉|北鎌倉から大仏ハイキングコースを抜けて長谷へ

○150年の歴史に幕を閉じた鎌倉幕府終焉の地


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花の命は短くて
苦しきことのみ多かりき

林 芙美子(はやし ふみこ、1903年(明治36年)-1951年(昭和26年)


「放浪記」「浮雲」などの代表作で知られる作家・林芙美子は、小さい頃、

行商をしていた両親とともに各地を放浪して暮らしたといいます。



貧しい生活をした半生の体験は、

庶民の生活を実感をこめて描いた多くの作品に生かされています。



「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」

林芙美子は好んでこの詩を書いたそう。



作品を読んでみると、みじめで憐れな生活がこれでもかと書いてありますが、

その中には美しいさや懐かしさがあり、こみあげてくる笑いがあります。

そこには貧しさを憎みながらも、どん底を生きる人々に対する深い愛情

が込められているようにも思えます。


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全ての衆生をのがすことなく救う
不空羂索観音

不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん) 東大寺法華堂


※パーリー律蔵大品、勝髪経、華厳経入法界品 他より引用



この人間世界は苦しみに満ちている。

生も苦しみであり、老いも病も死もみな苦しみである。

怨みあるものと会わなければならないことも、

愛するものと別れなければならないことも、

また、求めて得られないことも苦しみである。



まことに、執着を離れない人生はすべて苦しみである。

人々の苦しみには原因があり、人々のさとりには道があるように、

すべてのものは縁によって生まれ、縁によって滅びる。



この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、

また、この心も経験と知識によって育ったものである。



だがら、人は縁によって成り立ち、縁によって変わらなければならない。

網の目が、互いにつながりあって網を作っているように、

すべてのものは、つながりあってできている。



一つの網の目が、それだけで網の目であると考えるならば、

大きな誤りである。



網の目は、ほかの網の目とかかわりあって、一つの網の目といわれる。

網の目は、それぞれ、ほかの網が成り立つために、役立っている。



花は咲く縁が集まって咲き、葉は散る縁が集まって散る。

ひとり咲き、ひとり散るのではない。




この世のすべてのものは、みな縁によって現われたものであるから、

もともとちがいはない。ちがいを見るのは、人々の偏見である。



心さえあれば、目の見るところ、耳の聞くところ、みなことごとく教えである。



○いにしえから今を生きる私たちへの伝言|千三百年の時空を超える「奈良」

○日本人の心を形成してきたもの|これからを生きる指針となるものを探る


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意志の否定
花から得る喜び

チェリーセージ(ホットリップス)


花が咲いている、精いっぱい咲いている、

私たちも、精いっぱい生きよう。



○新たな息吹に包まれる桜舞う頃|移ろいゆく時の狭間に咲く瞬間の華

○チューリップが彩る春の庭


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参  考  情  報


○Philosophy Guides - 哲学ガイドブログ

○日本ショウーペンハウアー協会

○西尾幹二のインターネット日録

○林芙美子記念館

○フリー百科辞典Wikipedia

○ドイツ哲学の系譜
 佐藤康邦 先生 放送大学教授
 湯浅弘 先生 放送大学客員教授・川村学園女子大学教授

○ショーペンハウアー 「意志と表象としての世界」
 世界の名著〈続10〉 西尾幹二(編集) 中央公論社 1975年

○ツァラトゥストラ(上・下) ニーチェ 丘沢静也(訳) 光文社古典新訳文庫 2011

○ニーチェを学ぶ人のために 青木嘉隆 世界思想社 1995

○近代哲学の人間像('12)
 佐藤康邦 先生 放送大学教授

○哲学への誘い
 佐藤康邦 先生 放送大学教授

○哲学は面白い! 2015.07
 杉田正樹 先生 関東学院大学人間環境学部 教授
 ・内容
  「面白い」とは?
  哲学とは?
  モンテーニュの哲学観
  学校哲学の問題点
  考えることの面白さ
  「子どもの哲学」面白さ
  マンパンマンの哲学
  哲学は楽しい:ホラにつきあう
 ・放送大学神奈川学習センター

○舞台芸術への招待 青山昌文 先生 放送大学教授

○ぶどう酒色の海−西洋固定小論集− 岡道男 岩波書店 2005

○カラヴァッジョ展 2016.04
 バロックという新時代の美術を開花させる原動力
 国立西洋美術館

○日伊国交樹立150周年記念 「カラヴァッジョ展」関連文化講演会
 ルネサンスを超えた男、カラヴァッジョ−生涯と作品、その影響 2016.04
 ・講師 川瀬佑介 先生 国立西洋美術館研究員
 ・会場 大田区民プラザ
 ・主催 (公財)大田区文化振興協会・NHK

○<オールカラー版>欲望の美術史 宮下規久朗 光文社新書 2013

○小網代の森 アカテガニ放仔観察会 2016.07
 ・会場 アカテガニ広場
 ・主催 (公財)かながわトラストみどり財団
 ・ガイド (特非)小網代野外活動調整会議

○ツバメのねぐら入り観察会 2016.07
 ・会場 神奈川県立境川遊水地公園
 ・講師 上玉利浩一 先生 (境川遊水地自然観察会)
 ・主催 (公財)神奈川県公園協会
 ・概要 夕焼けが夏空を茜色に染めるころ、遊水地のビオトープの
      ヨシ原をねぐらとして利用しているツバメたちを観察します。

○伊豆の踊子・泣虫小僧 川端康成・林芙美子
 少年少女日本文学館11 講談社 1986


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