エゴイズムへの絶望から美しさを見い出す

太宰治「人間失格」


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最も強い痛苦で凄惨な地獄
めしを食えたらそれで解決できる苦しみ

「飢えたライオン」 (1905) アンリ・ルソー バーゼル美術館


※「人間失格」 太宰治 昭和23年 「第一の手記」より


  自分は、空腹という事を知りませんでした。

  いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、

  そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、

  さっぱりわからなかったのです。





  自分だって、それは勿論(もちろん)、大いにものを食べますが、

  しかし、空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。

  めずらしいと思われたものを食べます。豪華と思われたものを食べます。

  また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。



  つまり、わからないのです。

  隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。

  プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、

  しかし、それこそ最も強い痛苦(つうく)で、凄惨(せいさん)な

  阿鼻地獄(あびじごく)なのかも知れない、

  それは、わからない、



○食・農・里の新時代を迎えて|新たな潮流の本質


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【取材班の目の前で】バッファローがライオンに襲われて食されるまで

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生活水準が向上した
日本

食品売り場


かつてバナナは高級品でした。バナナの生産地は熱帯・亜熱帯地域に分布し、

ほとんどの地域が温帯に属する日本での栽培は難しく、戦前・戦中も、

そして現在も大半は外国からの輸入に依っています。



スーパーマーケットの店頭を眺めてみると、バナナに限らず、

モロッコ産のタコ、マルタ産のマグロ、ニュージーランド産のたまねぎ

といったように世界中の食材が並び、私たちの豊かな生活を支えています。



人々が集まる社交の場面では、テーブルに様々な料理が並びますが、

無理して食べることや、食べずに廃棄となることも少なくないようです。




衣服に目を向けてみると、かつて日本人が着ていた着物の原料は、

蚕(かいこ)の繭(まゆ)を使用する絹(きぬ)や茎の繊維を使用する麻(あさ)、

ワタから作られる木綿(もめん)、羊の毛などが用いられていました。

庶民にとって絹は高価で手が届かず、麻や木綿を原料とした

服を着ていたといわれ、手作りの上、古い着物を再利用していたようです。



今日では、石油から生成されるポリエステルやアクリルが主な原料となり、

Tシャツからスーツ、ドレス、和服に至るまで幅広く加工され、

着る人が手作りすることはなく、また、再利用する必要は薄れています。




日本人の死亡率に目を向けてみると、生後1年未満に死亡した乳児の死亡率は、

1955(昭和30)年は39.8人(出生1000人に対して)であったのが、

2015(平成27)年には1.9人と、生活水準の向上が伺えます。



出産に関しては、女性の初潮年齢は低下する一方で出産年齢は高まっており、

身体面のみに着目すると10代前半から40代までと広がる傾向にあるといわれます。



1人の女性が生涯に産む子どもの数(合計特殊出生率)は、

第1次ベビーブーム期(1947-1949年)には4.3を超えていましたが、

2016年は1.44となり、統計開始以来初めて100万人を割っています。



高齢化に関しては、1950年時点では5%に満たなかった高齢化率

(65歳以上人口割合)は、2015(平成27)年には26.7%となってます。




※平成29年 我が国の人口動態 - 厚生労働省 乳児死亡の動き p24-25
※平成28年版厚生労働白書 −人口高齢化を乗り越える社会モデルを考える−
※サルの青春 2017.09
  講師 濱田穣 先生 京都大学霊長類研究所教授
  第86回 京都大学丸の内セミナー
※快適被服を科学する−クールビズ・ウォームビズの実践− 2017.07
  講師 薩本弥生 先生 横浜国立大学教育学部教授



○海運が支える日本の豊かな暮らし

○財政健全化への取組み|失われた25年から学んだこと


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自分を疑ったことがない
エゴイスト



※「人間失格」 太宰治 昭和23年 「第一の手記」より


  しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、

  屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか?

  エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、

  いちども自分を疑った事が無いんじゃないか? それなら、楽だ、

  しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、

  わからない、



○人間の弱さと限界、そこからの可能性|パスカル「パンセ」

○破壊と再生|日本型うつ病社会に別れを告げて


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情けなくて、うぬぼれやすくって
それでも人間、それだから人間



○スクールカウンセラーがすすめる112冊の本
 滝口俊子 田中慶江 創元社 5章:人間を考える より


  生まれてこの方ず〜っと 情けなくて 頼りなくて 失敗ばかりで 

  うぬぼれやすくって お調子者で みっともなくて…

  それでも人間 それだから人間。




○「あのね 子どものつぶやき」朝日新聞出版 2009年より


  犬と「待て」「お手」などをして遊んだあと、

  「なんで犬は人間の言葉がわかるのに、人間は犬の言葉がわからないの?」



  5歳の子はこう問いかけたそうです。



○子どもたちに会いにいく旅|遊びの中に未来がある こどもの国


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快いものを好み、不快なものを嫌う
道徳的善悪

「砂に埋もれる犬」 フランシスコ・デ・ゴヤ プラド美術館
「黒い絵」シリーズ(1819-1823)の一作


※「人生論」第三編 テイヴィッド・ヒューム(18世紀スコットランドの哲学者)


  道徳的善悪の区別は理性に起因するのではなく、

  道徳感官(モラル・センス)に起因するものであり、

  善によって快の感情がもたらされ、悪によって不快の感覚がもたらされる。




人間の感情は自分が可愛いという自愛心によって支配され、

快いものを好み、不快なものを嫌うというのが基本傾向のようです。



○哲学からみた人間理解|自分自身の悟性を使用する勇気を持つ

○画家ゴヤが見つめてきた人間の光と影


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人間に対する求愛
道化

「越後獅子(えちごじし)」 山川秀峰
新潟を発祥とした郷土芸能で「角兵衛獅子(かくべえじし)」とも呼ばれます。
孤児の子どもたちが路上で芸をみせ、投げ銭を稼いだとされます。


※「人間失格」 太宰治 昭和23年 「第一の手記」より


  ……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、

  自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。

  自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。

  何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。



  そこで考え出したのは、道化でした。

  それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。

  自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、

  人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。

  そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。

  おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の

  兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。


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越後獅子の唄

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調子に合わせてうまく立ち回れば
流される

玉川上水


※「草枕」 夏目漱石 明治39年 冒頭


  山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。



  智(ち)に働けば角(かど)が立つ、

  情に棹(さお)させば(⇒調子に合わせてうまく立ち回れば)流される。

  意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。

  兎角(とかく)に人の世は住みにくい。



  住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。

  どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画(え)が出来る。

  人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。

  やはり向こう三軒両隣りにちらちらするただの人である。

  ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。

  あれば人でなしの国に行くばかりだ。

  人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。



  越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、

  寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。



○創造的生命力を生み出す愛|夏目漱石「吾輩は猫である」

○はてなき光景をもった絶類の美 武蔵野


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富士の山と立派に相対峙し、みぢんもゆるがず
富士には、月見草がよく似合ふ

富士と芝桜


※「富嶽百景」 太宰治 昭和14年


  三七七八米の富士の山と、立派に相対峙(あひたいぢ)し、みぢんもゆるがず、

  なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐた

  あの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。




  ねるまへに、部屋のカーテンをそつとあけて硝子窓越しに富士を見る。

  月の在る夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立つてゐる。

  私は溜息をつく。ああ、富士が見える。星が大きい。

  あしたは、お天気だな、とそれだけが、幽(かす)かに生きてゐる喜びで、

  さうしてまた、そつとカーテンをしめて、そのまま寝るのであるが、

  あした、天気だからとて、別段この身には、なんといふこともないのに、

  と思へば、をかしく、ひとりで蒲団の中で苦笑するのだ。

  くるしいのである。仕事が、――純粋に運筆することの、その苦しさよりも、

  いや、運筆はかへつて私の楽しみでさへあるのだが、そのことではなく、

  私の世界観、芸術といふもの、あすの文学といふもの、謂(い)はば、

  新しさといふもの、私はそれらに就いて、未まだ愚図愚図、思ひ悩み、

  誇張ではなしに、身悶えしてゐた。



○日本人の心を映す優美な富士|様々な場所からみた姿


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人間のエゴイズムへの絶望
太宰治

太宰治 (だざいおさむ、1909(明治42)年-1948(昭和23)年、39歳の生涯)


1909年(明治42年)、青森県北津軽郡金木村(現・五所川原市金木町)

に生まれた太宰治(本名・津島修治)。



津軽有数の大地主の家に生まれ、父は貴族院議員、兄は衆議院議員を務めます。

弘前高を経て東大に入学した太宰は、在学中、共産主義運動に参加。

昭和5年、21歳のとき鎌倉腰越の小動崎で

銀座のバーの女性と薬物自殺をはかるも太宰のみ助かります。



昭和10年、「逆行」が第1回芥川賞の次席となり、新進作家として注目されますが、

都新聞社(現・東京新聞)の入社試験に落ち、

鎌倉の鶴岡八幡宮の裏山で縊死(いし:首吊り)を図るも未遂に終わります。

この頃から麻薬中毒(パビナール)に悩まされます。



昭和11年、自殺を前提に遺書のつもりで書き綴った処女創作集「晩年」を刊行。

昭和12年、小山初代と水上温泉でカルチモン自殺を図りますが未遂。



昭和23年、太宰39歳となった年に「人間失格」を執筆。この頃、疲労ははなはだしく、

不眠症も募り、しばしば喀血(かっけつ)したといわれます。6月13日深夜、

遺稿「グッド・バイ」を残して山崎富栄と共に玉川上水で入水自殺を遂げます。


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搾取によって成り立つ恵まれた暮らし
大地主の子どもであることへの罪悪感

太宰治の生家
斜陽館 青森県五所川原市金木町


生家の津島家は、津軽屈指の大地主、富豪で、父の源右衛門(げんえもん)は

貴族院議員、衆議院議員にもなったこの地方の名士であり、金木の殿様などと言われた。



太宰は源右衛門の六男(11人兄弟のうち十番目の子ども)で、父は事業に忙しく、

母の夕子(たね)は病弱であったため、もっぱら叔母や乳母や子守によって育てられた。



生家が津軽屈指の大地主であったということは、はじめ太宰に、

自分はほかの人間と違う選ばれた人間だ、

人の手本にならなくてはいけない人間だという誇りを与えた。



総ひばづくりの豪壮な家、30人もの使用人に囲まれ、定紋入りの馬車で往復し、

学校で特別扱いされていたとすれば、幼い彼が自分の家は特別なのだという

貴族意識を抱いたとしても無理はない。



しかし、津島家が農民に金を貸し、抵当にした田地をとりあげ急速に大金持ち、

大地主になった新興成金であること、彼の周囲の貧しい農民や友達の家から

の搾取によって自分の家の富や恵まれた暮らしが成り立っていることを知るに

及んだうえで、なやみはじめる。



その上、当時浸透してきたデモクラシー、マルキシズム(マルクス主義)の思想を学び、

大地主の子どもであることに強いうしろめたさ、罪意識を抱くにいたった。



弘前高校を経て、東大仏文科に進み、大地主の生家からの多額な仕送りで、

デカダンス(虚無的・退廃的)な生活を享楽しながもうしろめたさは募り、

非合法共産党へのカンパから、ついにマルキシズムの政治運動に

参加することになった。



※解説「太宰治 人と文学」 奥野健男 新潮文庫より



○行くたび、あたらしい|活彩あおもり

○足元に目を向けるゆとり 秋田美人

○風が吹き抜ける森と湖|国際観光都市 函館・大沼


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自分ひとりで、ふっと発見するもの
美しさ

太宰治 銀座のBAR「ルパン」にて (林忠彦撮影)


※「晩年」に就いて 太宰治


  「晩年」は、私の最初の小説集なのです。もう、これが、私の唯一の

  遺著になるだろうと思いましたから、題も、「晩年」として置いたのです。



  読んで面白い小説も、二、三ありますから、おひまの折に読んでみて下さい。

  私の小説を、読んだところで、あなたの生活が、ちっとも楽になりません。

  ちっとも偉くなりません。なんにもなりません。

  だから、私は、あまり、おすすめできません。



  「思い出」など、読んで面白いのではないでしょうか。

  きっと、あなたは、大笑いしますよ。それでいいのです。

  「ロマネスク」なども、滑稽な出鱈目(でたらめ)に満ち満ちていますが、

  これは、すこし、すさんでいますから、あまり、おすすめできません。



  こんど、ひとつ、ただ、わけもなく面白い長篇小説を書いてあげましょうね。

  いまの小説、みな、面白くないでしょう?

  やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう。

  あのね、読んで面白くない小説はね、それは、下手な小説なのです。

  こわいことなんかない。面白くない小説は、きっぱり拒否したほうがいいのです。



  みんな、面白くないからねえ。面白がらせようと努めて、

  いっこう面白くもなんともない小説は、あれは、あなた、なんだか死にたくなりますね。

  こんな、ものの言いかたが、どんなにいやらしく響くか、私、知っています。

  それこそ人をばかにしたような言いかたかもわからぬ。

  けれども私は、自身の感覚をいつわることができません。くだらないのです。

  いまさら、あなたに、なんにも言いたくないのです。



  激情の極には、人は、どんな表情をするでしょう。

  無表情。私は微笑の能面になりました。

  いいえ、残忍のみみずくになりました。こわいことなんかない。

  私も、やっと世の中を知った、というだけのことなのです。



  「晩年」お読みになりますか?

  美しさは、人から指定されて感じいるものではなくて、

  自分で、自分ひとりで、ふっと発見するものです。

  「晩年」の中から、あなたは、美しさを発見できるかどうか、

  それは、あなたの自由です。読者の黄金権です。

  だから、あまりおすすめしたくないのです。

  わからん奴には、ぶん殴ったって、こんりんざい判りっこないんだから。



  もう、これで、しつれいいたします。

  私はいま、とっても面白い小説を書きかけているので、

  なかば上(うわ)の空で、対談していました。おゆるし下さい。



○個性化の過程|自分が自分になってゆく


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没落してゆく貴族を描いた
斜陽

沈みゆく夕日


※「斜陽」 太宰治 新潮文庫 書籍案内より


  最後の貴婦人である母、

  破滅への衝動を持ちながらも恋と革命のため、生きようとするかず子。

  麻薬中毒で破滅してゆく直治、

  戦後に生きる己れ自身を戯画化した流行作家上原。



  没落貴族の家庭を舞台に、真の革命のためにはもっと美しい滅亡が

  必要なのだという悲愴な心情を、四人四様の滅びの姿のうちに描く。

  "斜陽族"という言葉を生んだ太宰文学の代表作。



○プリマヴェーラ 春の訪れ|悲劇によって道義を知る「虞美人草」

○日本の権力を表象してきた建造物|日本人の自我主張


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人為的に作られた位(くらい)ではなく、
天から授かった貴(とうと)い位

「無原罪の御宿り」 バルトロメ・エステバン・ムリーリョ プラド美術館
「Maria Immaculata」 (1675-1680頃) Bartolome Esteban Perez Murillo


※「斜陽」 太宰治 昭和22年 「一」


  弟の直治(なおじ)がいつか、お酒を飲みながら、姉の私に向ってこう言った事がある。



  「爵位(しゃくい)があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。

  爵位が無くても、天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、

  おれたちのように爵位だけは持っていても、貴族どころか、賤民(せんみん)

  にちかいのもいる。



  じっさい華族なんてものの大部分は、

  高等御乞食(おんこじき)とでもいったようなものなんだ。

  おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。

  あれは、ほんものだよ。かなわねえところがある。



○こんにちは マリア|聖なる夜に捧ぐ三大アヴェ・マリア


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悲哀の川の底に沈んで、かすかにに光っている砂金
幸福

西伊豆・大瀬崎 (静岡県沼津市)
太宰は沼津市内浦の宿で「斜陽」を執筆したそう。小説の中で、
没落してゆく貴族は、東京の家を捨てて海が見える伊豆の高台に移り住みます。


※「斜陽」 太宰治 昭和22年 「五」


  私は、お母さまはいま幸福なのではないかしら、とふと思った。

  幸福感というものは、悲哀の川の底に沈んで、幽(かす)かに光っている砂金の

  ようなものではなかろうか。悲しみの限りを通り過ぎて、不思議な薄明りの気持、

  あれが幸福感というものならば、陛下も、お母さまも、それから私も、たしかにいま、

  幸福なのである。



  静かな、秋の午前。日ざしの柔らかな、秋の庭。

  私は、編物をやめて、胸の高さに光っている海を眺め、

  「お母さま。私いままで、ずいぶん世間知らずだったのね」と言い、それから、

  もっと言いたい事があったけれども、お座敷の隅で静脈注射の支度など

  している看護婦さんに聞かれるのが恥ずかしくて、言うのをやめた。



  「いままでって、……」とお母さまは、薄くお笑いになって聞きとがめて、

  「それでは、いまは世間を知っているの?」

  私は、なぜだか顔が真赤になった。

  「世間は、わからない」

  とお母さまはお顔を向うむきにして、ひとりごとのように小さい声でおっしゃる。

  「私には、わからない。わかっているひとなんか、無いんじゃないの?

  いつまで経たっても、みんな子供です。なんにも、わかってやしないのです」



  けれども、私は生きて行かなければならないのだ。

  子供かも知れないけれども、しかし、甘えてばかりもおられなくなった。

  私はこれから世間と争って行かなければならないのだ。



  ああ、お母さまのように、人と争わず、憎まずうらまず、美しく悲しく生涯を

  終る事の出来る人は、もうお母さまが最後で、これからの世の中には存在

  し得ないのではなかろうか。死んで行くひとは美しい。

  生きるという事。生き残るという事。

  それは、たいへん醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする。

  私は、みごもって、穴を掘る蛇の姿を畳の上に思い描いてみた。

  けれども、私には、あきらめ切れないものがあるのだ。

  あさましくてもよい、私は生き残って、思う事をしとげるために世間と争って行こう。

  お母さまのいよいよ亡くなるという事がきまると、私のロマンチシズムや感傷が

  次第に消えて、何か自分が油断のならぬ悪がしこい生きものに変って行くような

  気分になった。



○日本を代表するダイビングポイント 大瀬崎


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自分たちの幸福のために相手を殺す
用心深い偽善者

牛島のフジ|藤花園 (埼玉県春日部市)


※「斜陽」 太宰治 昭和22年 「三」


  私は、何気なく足もとの木の箱から、直治のノートブックを一冊取りあげて見たら、

  そのノートブックの表紙には、

    夕顔日誌

  と書きしるされ、その中には、次のような事が一ぱい書き散らされていたのである。

  直治が、あの、麻薬中毒で苦しんでいた頃の手記のようであった。




  焼け死ぬる思い。苦しくとも、苦しと一言、半句、叫び得ぬ、古来、未曾有(みぞう)、

  人の世はじまって以来、前例も無き、底知れぬ地獄の気配を、ごまかしなさんな。

  思想? ウソだ。主義? ウソだ。理想? ウソだ。秩序? ウソだ。

  誠実? 真理? 純粋? みなウソだ。




  牛島の藤は、樹齢千年、熊野ゆやの藤は、数百年と称となえられ、

  その花穂の如きも、前者で最長九尺、後者で五尺余と聞いて、

  ただその花穂にのみ、心がおどる。




  デカダン? しかし、こうでもしなけりゃ生きておれないんだよ。

  そんな事を言って、僕を非難する人よりは、

  死ね! と言ってくれる人のほうがありがたい。さっぱりする。

  けれども人は、めったに、死ね! とは言わないものだ。

  ケチくさく、用心深い偽善者どもよ。

  正義? 所謂階級闘争の本質は、そんなところにありはせぬ。

  人道? 冗談じゃない。僕は知っているよ。

  自分たちの幸福のために、相手を倒す事だ。殺す事だ。

  死ね! という宣告でなかったら、何だ。ごまかしちゃいけねえ。

  しかし、僕たちの階級にも、ろくな奴がいない。

  白痴(はくち)、幽霊、守銭奴(しゅせんど)、狂犬、ほら吹き、

  ゴザイマスル、雲の上から小便。

  死ね! という言葉を与えるのさえ、もったいない。



○人間的なるものの別名|愛するあまり滅ぼし殺すような悪

○プリマヴェーラ 春の訪れ|悲劇によって道義を知る「虞美人草」


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自然を愛する所以
妬んだり欺いたりしない花

花菖蒲 小石川後楽園 2017.06撮影


※「侏儒の言葉(しゅじゅのことば)」 芥川龍之介  「自然」


  われわれの自然を愛するゆえんは、――少なくともそのゆえんの一つは、

  自然はわれわれ人間のように妬(ねた)んだり欺(あざむ)いたりしないからである。




侏儒(しゅじゅ)は、「背丈が並み外れて低い人」や「見識のない人をあざける」

という意味があり、芥川龍之介の「侏儒の言葉(しゅじゅのことば)」には、

短い文で様々な教訓(⇒箴言:しんげん)が収められています。




「侏儒の言葉」の冒頭で、芥川龍之介は以下のように述べています。


※「侏儒の言葉」の序


  「侏儒の言葉」は必(かなら)ずしもわたしの思想を伝えるものではない。

  唯(ただ)わたしの思想の変化を時々窺(うかが)わせるのに過ぎぬものである。

  一本の草よりも一すじの蔓草(つるくさ)、

  ――しかもその蔓草は幾(いく)すじも蔓を伸ばしているかも知れない。


  芥川龍之介



○ため息を春風に変えて|自然からの贈り物 春の花言葉

○穏やかで優しげな風情 花菖蒲|梅雨を告げる季節の花


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美しき事を夢みて
穢(きたな)き業(わざ)をするものぞ

浅草六区の歓楽街 1937年(昭和13年)


※「東京八景」 (苦難の或人に贈る) 太宰治 昭和16年


  今では、此(こ)の蚕(かいこ)に食われた桑の葉のような東京市の全形を眺めても、

  そこに住む人、各々の生活の姿ばかりが思われる。

  こんな趣(おもむ)きの無い原っぱに、日本全国から、ぞろぞろ人が押し寄せ、

  汗だくで押し合いへし合い、一寸(ちょっと)の土地を争って一喜一憂し、

  互に嫉視(しっし)、反目して、雌(めす)は雄を呼び、雄は、ただ半狂乱で歩きまわる。



  頗(すこぶ)る唐突に、何の前後の関聯(かんれん)も無く

  「埋木」という小説の中の哀しい一行が、胸に浮かんだ。

  「恋とは」「美しき事を夢みて、穢(きたな)き業(わざ)をするものぞ」

  東京とは直接に何の縁も無い言葉である。



○都営荒川線に乗って|偏見を取りはらい理性を自立させる

○大井埋立地にみる森里海のつながり

○より良い社会へ変えていく人たちを育てる|文教の府 文京区


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言ってはいけない
残酷すぎる真実

「死の勝利」 (1562年頃) ピーテル・ブリューゲル プラド美術館


この社会はきれいごとがあふれている。

人間は平等で、努力は報われ、見た目は大した問題ではない−

だが、それらは絵空事だ。往々にして、努力は遺伝に勝てない。

知能や学歴、年収、犯罪歴も例外ではなく、美人とブスの「美貌格差」は約3600万円だ。

子育てや教育はほぼ徒労に終わる。

進化論、遺伝学、脳科学の最新知見から、人気作家が明かす「残酷すぎる真実」。

読者諸氏、口に出せない、この不愉快な現実を直視せよ。



※言ってはいけない 残酷すぎる真実 橘玲 新潮新書 2016 書籍案内より




最初に断っておくが、これは不愉快な本だ。

だから、気分よく一日を終わりたいひとは読むのをやめたほうがいい。

だったらなぜこんな本を書いたのか。それは、世の中に必要だから。

テレビや新聞、雑誌には耳障りのいい言葉が溢れている。

メディアに登場する政治家や学者、評論家は「いい話」と「わかりやすい話」しかしない。

でも世の中に気分のいいことしかないのなら、

なぜこんなに怒っているひとがたくさんいるのだろうか。−

インターネットのニュースのコメント欄には、

「正義」の名を借りた呪詛(じゅそ⇒のろい)の言葉ばかりが並んでいる。

世界は本来、残酷で理不尽なものなのだ。

その理由を、いまではたった1行で説明できる。




ひとは幸福になるために生きているけれど、

幸福になるようにデザインされているわけではない。



※言ってはいけない 残酷すぎる真実 橘玲 新潮新書 2016 冒頭より



○最も進んでいないイノベーション|人間に関する知識


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天から授かった貴(とうと)い位(くらい)
貴族である直治

ピエタ ミケランジェロ サン・ピエトロ大聖堂


※「斜陽」 太宰治 昭和22年 「八」


  直治の遺書。

  姉さん。だめだ。さきに行くよ。

  僕は自分がなぜ生きていなければならないのか、それが全然わからないのです。




  僕は、僕という草は、この世の空気と陽(ひ)の中に、生きにくいんです。

  生きて行くのに、どこか一つ欠けているんです。足りないんです。

  いままで、生きて来たのも、これでも、精一ぱいだったのです。



  僕は高等学校へはいって、僕の育って来た階級と全くちがう階級に

  育って来た強くたくましい草の友人と、はじめて附(つ)き合い、

  その勢いに押され、負けまいとして、麻薬を用い、半狂乱になって抵抗しました。

  それから兵隊になって、やはりそこでも、生きる最後の手段として

  阿片(アヘン)を用いました。

  姉さんには僕のこんな気持、わからねえだろうな。



  僕は下品になりたかった。強く、いや強暴になりたかった。

  そうして、それが、所謂(いわゆる)民衆の友になり得る唯一の道だと思ったのです。

  お酒くらいでは、とても駄目だったんです。

  いつも、くらくら目まいをしていなければならなかったんです。

  そのためには、麻薬以外になかったのです。



  僕は、家を忘れなければならない。父の血に反抗しなければならない。

  母の優しさを、拒否しなければならない。姉に冷たくしなければならない。

  そうでなければ、あの民衆の部屋にはいる入場券が得られないと思っていたんです。



  僕は下品になりました。下品な言葉づかいをするようになりました。

  けれども、それは半分は、いや、六十パーセントは、哀れな附け焼刃でした。

  へたな小細工でした。民衆にとって、僕はやはり、キザったらしく乙(おつ)にすました

  気づまりの男でした。彼等は僕と、しんから打ち解けて遊んでくれはしないのです。



  しかし、また、いまさら捨てたサロンに帰ることも出来ません。

  いまでは僕の下品は、たとい六十パーセントは人工の附け焼刃でも、

  しかし、あとの四十パーセントは、ほんものの下品になっているのです。

  僕はあの、所謂(いわゆる)上流サロンの鼻持ちならないお上品さには、

  ゲロが出そうで、一刻も我慢できなくなっていますし、また、

  あのおえらがたとか、お歴々とか称せられている人たちも、

  僕のお行儀の悪さに呆れてすぐさま放逐(ほうちく⇒追い払う)するでしょう。

  捨てた世界に帰ることも出来ず、民衆からは悪意に満ちた

  クソていねいの傍聴席を与えられているだけなんです。





  僕ひとりママの亡くなった下のお座敷に蒲団(ふとん)をひいて、

  そうして、このみじめな手記にとりかかりました。

  姉さん。

  僕には、希望の地盤が無いんです。さようなら。

  結局、僕の死は、自然死です。

  人は、思想だけでは、死ねるものでは無いんですから。

  それから、一つ、とてもてれくさいお願いがあります。

  ママのかたみの麻の着物。

  あれを姉さんが、直治が来年の夏に着るようにと縫い直して下さったでしょう。

  あの着物を、僕の棺にいれて下さい。僕、着たかったんです。

  夜が明けて来ました。永いこと苦労をおかけしました。

  さようなら。



  ゆうべのお酒の酔いは、すっかり醒めています。

  僕は、素面(しらふ)で死ぬんです。

  もういちど、さようなら。

  姉さん。

  僕は、貴族です。



○彼は死に勝ち甦る、神への感謝・賛美|オラトリオ「メサイア」

○美しい日本に生まれた私|天地自然に身をまかせ


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移ろいゆく時の狭間に咲く瞬間の華

玉川上水 (東京都羽村市)


※「乞食学生」 太宰治 昭和15年 「第一回」


  四月なかば、ひるごろの事である。

  頭を挙げてみると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、

  両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い青い枝葉が

  両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。



○新たな息吹に包まれる 桜舞う頃|移ろいゆく時の狭間に咲く瞬間の華

○私たちの生涯|生と死の狭間にある「時」を歩む

○水と共に暮らす|いつまでも美しく安全に


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炎天の地上花あり
百日紅

太宰治旧宅に植えられていたサルスベリ(百日紅)
三鷹市の和風文化施設「みたか井心亭(せいしんてい)」


※「炎天の 地上花あり 百日紅」 高浜虚子



※「おさん」 太宰治 昭和22年 「三」


  炎天つづきの東京にめずらしくその日、俄雨(にわかあめ)があり、

  夫は、リュックを背負い靴をはいて、玄関の式台に腰をおろし、

  とてもいらいらしているように顔をしかめながら、雨のやむのを待ち、ふいと一言、

  「さるすべりは、これは、一年置きに咲くものかしら。」と呟つぶやきました。

  玄関の前の百日紅(さるすべり)は、ことしは花が咲きませんでした。

  「そうなんでしょうね。」 私もぼんやり答えました。

  それが、夫と交した最後の夫婦らしい親しい会話でございました。



○真夏に濃淡な紅の花を咲かせる サルスベリ

○眩しい日差しを浴びながら海風にそよぐ花|ハイビスカス・ブーゲンビリア


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自己に誠実に生きた太宰治
生まれて初めての心の平和

津軽の人々に愛される岩木山 (青森県)


太宰にも心が安らいだ体験はあったようです。小説「津軽」には、

久しぶりに故郷に帰った際に幼少時代の育ての親である「たけ」を訪ね、

運動会の会場で30年ぶりに再会します。



※「津軽」 太宰治 昭和19年 「第五章 西海岸」


  「修治だ。」私は笑つて帽子をとつた。

  「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。

  でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、へんに、

  あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、

  たけの小屋(臨時にこしらえたもの、今日でいえばテント)に連れて行き、

  「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、

  きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、

  子供たちの走るのを熱心に見てゐる。

  けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。

  足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思ふ事が無かつた。

  もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。

  平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。

  もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。

  先年なくなつた私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であつたが、

  このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。

  世の中の母といふものは、皆、その子にこのやうな甘い放心の憩ひを与へて

  やつてゐるものなのだらうか。

  さうだつたら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまつてゐる。

  そんな有難い母といふものがありながら、病気になつたり、

  なまけたりしてゐるやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。



○たおやかに熟成してきた白神の時間


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廃人の待遇を受け
世の中から葬り去られる

水上温泉郷 (群馬県)
小山初代と水上温泉郷でカルチモン自殺を図りますが(昭和12年)
未遂に終わり、その後、太宰と初代は別れます。


※「東京八景」 (苦難の或人に贈る) 太宰治 昭和16年


  私が世の中から、どんなに見られているのか、少しずつ私にも、わかって来た。

  私は無智驕慢(むちきょうまん)の無頼漢(ぶらいかん)、または白痴(はくち)、

  または下等狡猾(かとうこうかつ)の好色漢、にせ天才の詐欺師、

  ぜいたく三昧(ざんまい)の暮しをして、金につまると狂言自殺をして

  田舎の親たちを、おどかす。

  貞淑の妻を、犬か猫のように虐待して、とうとう之(これ)を追い出した。

  その他、様々の伝説が嘲笑、嫌悪憤怒(けんおふんぬ)を以(も)て世人に語られ、

  私は全く葬り去られ、廃人の待遇を受けていたのである。

  私は、それに気が附き、下宿から一歩も外に出たくなくなった。



○苦しみに満ちている人間の生からの救済|ショーペンハウアー

○千年も万年も生きる|石段街の温泉地 伊香保


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日本初の美容学校創立者の令嬢
恋愛するなら死ぬ気でしたい

山崎富栄さん


三鷹駅前の美容院で働いていた美容師の山崎富栄さん。

日本初の美容学校創立者の令嬢に生まれ、銀座で美容院を経営するも、

東京大空襲により美容学校も美容院も焼けてしまいます。

三井物産の社員と結婚するも、夫はフィリピンにて帰らぬ人となります。




※昭和22年5月3日 富栄の日記より


  先生は、ずるい

  接吻はつよい花の香りのよう

  唇は唇を求め 呼吸は呼吸を吸う

  蜂は蜜を求めて花を射す

  つよい抱擁のあとに残る、涙

  女だけしか、知らない

  おどろきと、歓びと

  愛しさと、恥ずかしさ

  先生はずるい

  先生はずるい

  忘れられない五月三日

  「死ぬ気で、死ぬ気で恋愛してみないか。」

  「死ぬ気で恋愛? 本当はこうしているのもいけないもの――。」

  「有るんだろう? 旦那さん。別れてしまえよォ、君は、僕を好きだ。」

  「うん、好き。でも、私が先生の奥さんの立場であったら、悩む。

  でも、若し恋愛するなら、死ぬ気でしたい!」



○セクシュアリティとジェンダー|文学にみる女性観


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雨の玉川心中
遺書

入水した場所付近に設置された玉鹿石(ぎょっかせき) (三鷹市)
玉鹿石は、太宰治の故郷、青森県金木の名産だそうです


※雨の玉川心中 遺書 山崎富栄


  私ばかりしあわせな死に方をしてすみません。

  奥名(富栄の夫)とすこし長い生活ができて、

  愛情でもふえてきましたらこんな結果ともならずにすんだかもわかりません。

  山崎の姓に返ってから死にたいと願っていましたが……、

  骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れて頂ければ本望なのですけれど、

  それは余りにも虫のよい願いだと知っております。

  太宰さんと初めてお目もじしたとき

  他に二、三人のお友達と御一緒でいらっしゃいましたが、

  お話を伺っておりますときに私の心にピンピン触れるものがありました。

  奥名以上の愛情を感じてしまいました。

  御家庭を持っていらっしゃるお方で私も考えましたけれど、

  女として生き女として死にとうございます。

  あの世へ行ったら太宰さんの御両親様にも御あいさつして

  きっと信じて頂くつもりです。

  愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。

  せめてもう一、二年生きていようと思ったのですが、

  妻は夫と共にどこ迄も歩みとうございますもの。

  ただ御両親のお悲しみと今後が気掛りです。


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信実とは
決して空虚な妄想ではない

太宰治が仕事部屋として使っていた小料理屋「千草」の跡地 (三鷹市)
行方不明後は捜索本部となり、遺体発見後は検死場所になったそう


太宰治と山崎富栄は遺書を置き、

1948年(昭和23年)6月13日深夜、強い雨が降る玉川上水に入水します。



捜索は玉川上水の上流で取水制限をして行われ、行方不明から

6日後の6月19日朝、腰を赤い紐で結んだ二人の水死体が発見されます。




※「走れメロス」 太宰治 昭和15年


  「ありがとう、友よ。」 二人同時に言い、ひしと抱き合い、

  それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

  群衆の中からも、歔欷(きょき⇒すすり泣き)の声が聞えた。

  暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、

  やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。

  「おまえらの望みは叶かなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。

  信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。

  どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。

  どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

  どっと群衆の間に、歓声が起った。

  「万歳、王様万歳。」



○人類から遠く離れた孤独の中に住む 世界の本質


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森鴎外の墓の前にある
太宰治の墓

黄檗宗 霊泉山禅林寺 (三鷹市)


※「花吹雪」 太宰治 「三」 


  うなだれて、そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、

  森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下

  の三鷹町にあるのか、私にはわからない。

  けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。

  私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、

  死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も

  無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮(いしゅく)してしまって、

  そんな空想など雲散霧消(うんさんむしょう)した。私には、そんな資格が無い。

  立派な口髭(くちひげ)を生やしながら、酔漢(すいかん⇒酒に酔っぱらった男)

  を相手に敢然(かんぜん⇒危険を覚悟の上)と格闘して縁先(えんさき)から

  墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。

  お前なんかは、墓地の択(え)り好みなんて出来る身分ではないのだ。

  はっきりと、身の程を知らなければならぬ。

  私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、

  あわてて帰宅したのである。



○困難を伴う自我の開放|森鴎外「舞姫」にみる生の哲学

○はてなき光景をもった絶類の美 武蔵野


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安全な生き方
我を思う善人

太宰治の墓 禅林寺 (三鷹市)


※「我を思う善人」 佐々木祐一


  食べ物に不自由なく、衣服に不自由なく、好きなことができたら、それは幸せなこと。

  その為には社会の一部を成す専門に精を出さなくては。

  できれば尊敬されたらうれしい。

  規律を尊び、空気には逆らわず、

  専門に邁進するお陰で他の事へ関心を示す余裕はない。

  本当のことなんてどうでもいい。知ったところでやっかいなだけだ。

  気晴らしをしよう。

  大義名分をつけた余暇をこしらえる。

  自己への同情を他者にすり替えて、他者とは間接的につながる。

  悪人ではないのです。善人なのです。本当のことなのです。



○あるがままの生の肯定|フリードリヒ・ニーチェ

○苦しみぬき、人のためにする天地|より偉大なる人格を懐にして


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参  考  情  報


○太宰治 - 青空文庫

○太宰治文学サロン | 公益財団法人 三鷹市スポーツと文化財団

○太宰治記念館「斜陽館」 - 五所川原市

○太宰ミュージアム公式サイト:太宰治を巡る情報満載!

○井伏鱒二 と 荻窪風土記 と 阿佐ヶ谷文士

○バナナ大学 - バナナの情報総合サイト -

○牛島の藤 藤花園

○Pixabay: 無料の写真

○フリー百科辞典Wikipedia

○みたか散策マップ - NPO法人みたか都市観光協会

○写真特集:太宰治生誕100年(2009年6月掲載) − 毎日新聞

○山崎富栄の生涯―太宰治・その死と真実 長篠康一郎 大光社 1967

○斜陽日記 太田静子 小学館文庫 1998

○恋の蛍―山崎富栄と太宰治 松本侑子 光文社文庫 2012

○元華族たちの戦後史 没落、流転、激動の半世紀 酒井美意子 講談社+α 2016

○安城家の舞踏会 監督:吉村公三郎 出演:原節子・滝沢修 松竹 1947

○野火 大岡昇平 新潮文庫 1954


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