私たちの生涯

生と死の狭間にある「時」を歩む


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生命の誕生
「育てる子ども」と「育てられない子ども」

Charity(慈愛) 1878 William-Adolphe Bouguereau
Smith College Museum of Art


いつの時代も子どもの誕生は、それを待ち望む人々に大きな喜びと幸せをもたらし、

健やかな成長を願うものであるといいます。



しかしその陰には、望まれない誕生があり、生まれてくる命は

必ずしもプラスの側面だけでなくマイナスの側面を持ち合わせているよう。



日本では、無事に誕生し「育てられる子ども」だけでなく、

誕生を阻止される「育てられない子ども」がいたといわれます。



※日本人の一生 通過儀礼の民俗学 谷口貢・板橋春夫【編著】 八千代出版 2014
 4..妊娠と出産の民俗 鈴木由利子 p45



○大地に宿る命|移ろい行く時の狭間に力の限り咲く花


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いのちの選択
間引き

間引きが行われてきたという「田んぼ」


田んぼに植えた苗は成長すると重なり合い、米の収穫に影響を及ぼすことから、

ある程度の苗を残して、それ以外の苗を取り除く「間引き」が行われてきたそうです。



転じて「間引き」は、しばしば人間にもあてはめられ、明治期以前は、

経済事由、身体の不自由、双生児、欲しくない性別など、

不都合な子どもが生まれた際には、濡れた和紙で鼻と口を覆い、

間引が行われたと伝わります。



※日本女性史大辞典 産婆 板橋春夫 吉川弘文館 2006、他より



○田んぼをキャンバスにした「田んぼアート}|青森県田舎館村


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畸形をもって生まれてきた子どもをどう迎えるか
若い父親の物語



1994年、日本人として2人目となるノーベル文学賞を受賞された大江健三郎 先生の

著書「個人的な体験」は、頭部に畸形(きけい)をもって生まれてきた赤んぼうを

家族としてどのように迎えるかという出来事を、一種の通過儀礼として体験する

若い父親の物語です。



青年は赤んぼうが病院のベットで死ぬことで、自分と若い妻が、生涯、

植物人間としての子供を担いこむことがなくてすむようにと希望します。

さらには、この赤んぼうを作為的に自然死させてくれる医者を探して、

東京の街を駆けまわります。



青年はいわばロマン主義的人物で、東京に妻と家庭を持つ前には、

日本を脱出してアフリカへ向かうことを夢見ていました。

畸形の赤んぼうを死なせ、それとともに妻と別れて家庭を解消し、

あらためてアフリカへ向かう。そのような夢がこの危機にあたってかれにブリ返します。



しかし青年は一種のエピファニー(epiphany:キリストの顕現⇒本質的な姿を現す瞬間)

にうたれるようにして、その畸形の赤んぼうを見殺しにすることが、

かれ自身の生の否定であるという、内的な発見にいたります。

かれは青春時代のロマンティックな夢と、現実生活から逃れつづけてきた

態度に別れを告げて、畸形の赤んぼうを進んで引き受け、手術を受けさせて、

障害のある子供と共生してゆく決意をするのです。



それは初めて確乎(かっこ)とした現実性のあるものに、

自分の家庭を建設してゆくことでもあります。



※個人的な体験 大江健三郎 新潮文庫 1981
※あいまいな日本の私 大江健三郎 岩波新書 1995 北欧で日本文化を語る P179-180



○障がいを越えて共に生きる


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弔み嫌われる存在であった
双生児

双生児


現在では違和感なく受け入れられている双生児。

しかし、かつて双生児は世界的にみて、

弔(い)み嫌われる負のイメージを伴う存在であったといいます。



1990年代、長寿の双子姉妹として有名になった「きんさん・ぎんさん」は、

幼い頃に受けた双生児であることの悲しさを以下のように語っています。



  ぎんさん:「あのころは双子は珍しがられてな。ふたりで、そこらをちょっと歩くと、

  "鹿山(かやま:地名)の双子が来たぞ!"、いうて、えろうはやされたな」


  きんさん:「ガキ大将たちに囲まれて、石こさ、ぶっつけられたこともあった」


  ぎんさん:「そこで、いじめられんように、ずーっと遠まわりして、学校へ通った。

  そりゃ、大人にまでおかしな目で見られて恥ずかしいがな。悲しい思いをしたがな」



※「きんさんぎんさんの百歳まで生きんしゃい」 綾野まさる(編集) 小学館 1992


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いのちの選択
一産一児の原則

生まれて間もない双生児


かつて、日本には「一産一児の原則」があったとされ、

双生児誕生は異常な出来事という認識のもとに嫌い避けられ、蔑視されたといいます。

特に男女の双生児は、情死者(じょうししゃ:愛し合う男女が一緒に死ぬこと)

の生まれ変わりと考えられ、嫌悪されることが多かったそう。



未開社会では、双生児は二人ともあの世にいってもらうのが原則であり、

その後の社会では双生児が生まれると捨てたり、親戚に預けたりと、

一緒にすることはなかったといわれます。


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日本民俗学を創始する原点になったといわれる
間引き絵馬

日本民俗学の創始者 柳田國男(やなぎだくにお)
1875年(明治8年)-1962年(昭和37年)


日本民俗学の創始者で、近代日本を代表する思想家の一人である柳田國男。

少年時代にあたる13歳(明治20年)には、医師である兄をたより、

約2年にわたり茨城県北相馬郡布川(現・利根町)で過ごしたそうです。

そして、その町にある真言宗のお寺、徳満寺の壁に掛けられている

「子返し絵馬(間引き絵馬)」を見たことが、後に民俗学に進む原点に

なったともいわれます。




※「故郷七十年」 柳田國男 (晩年の著作) より


  約二年間を過した利根川べりの生活を想起する時、

  私の印象に強く残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、

  誰が奉納したものか堂の正面右手に一枚の彩色された絵馬が

  掛けてあったことである。

  その図柄が、産褥(さんじょく:分娩が済んで、女性の体が妊娠前の

  状態に戻っていく期間)の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの

  嬰児(えいじ⇒赤ちゃん)を抑えつけているという悲惨なものであった。

  障子にその女の影絵が映り、それに角が生えている。

  その傍らに地蔵様が立って泣いているというその意味を、

  私は子ども心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている





当時、布川周辺では一家の子供は男女2人だけという制限があり、

医師であった兄の所には死亡診断書を依頼しに町民が訪れたそうです。




徳満寺の「子返し絵馬(間引き絵馬)」の画像は、

以下サイトで参照することができます。


 ○子返し絵馬(間引き絵馬)|茨城県立歴史館

 ○柳田國男の原点「間引き絵馬」に絶句!茨城・利根町「徳満寺」 |<たびねす>




○座敷童子に誘われて 遠野の四季


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堕胎の象徴
生殺与奪権を持つ存在と捉えられた「トリアゲババ」

昔の出産の様子を再現したジオラマ


かつて、お産の介助を行う人は「産婆(さんば)」や「トリアゲババ」と呼ばれ、

出生時の状態によってはあえて「生かさない」措置をとる場合があったとされます。



「トリアゲババ」は、生命の去来時を支配することから、

堕胎(だたい)の象徴、生殺与奪権(せいさつよだつけん)を持つ存在として捉えられ、

生まれた赤子との関係では、子どもの成長に応じた儀礼に立ち会い、

トリアゲババの葬式には、取り上げてもらった子供が大勢参加するなど、

一生のつきあいを持つ場合が多かったといいます。


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富国強兵の一翼を担った
堕胎・間引き・棄児の禁止

朝鮮半島を進軍中の日本軍歩兵 1904年(明治37年)撮影
(日露戦争は1904-1905の間)


※明治元年(1868) 太政官布告第一一三八
 「太政類典第一編第八十一巻」 保民衛生


 産婆売薬ノ世話又堕胎ノ取扱ヲ為スヲ禁ス

 (産婆、売薬の世話、また、堕胎の取扱を行うことを禁止する)



明治政府は明治元年(1868)に「産婆取締方」を東京・京都・大阪に発布し、

産婆による堕胎や売薬(子どもが生まれない薬の販売)を禁止します。

そこから全国各地で堕胎・間引き・棄児の禁令が出されていったそう。



堕胎排除の考えは富国強兵の国家理念に深くかかわり、

近代産婆は新生児の生命を保護することで富国強兵の一翼を担ったとされます。



○SO HAPPY 大連|北方の良港と呼ばれる港街

○よこすか はじめて物語|近代化の礎を築いた横須賀製鉄所


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経験介助から医療介助、
自宅出産から施設出産へ



お産の介助者は、「トリアゲババ」など経験だけに基づいた介助を行う無資格の者と

医療教育を受けた資格を有する産婆・助産婦(助産師)に大別できるそう。



産婆に関する制度は明治時代以降確立し、1874年(明治7年)の医制公布において

分娩介助が「産婆」の役割となり免許が必要となります。



1899年(明治32年)の産婆規則では、介助は女性だけに認められる職業となり

(それまで男性助産者が存在した)、

1947年(昭和22年)の助産婦規則により「産婆」は「助産婦」と改称され、

1948年(昭和23年)には保健婦助産婦看護婦法が制定されたそうです

(現・保健師助産師看護師法)。





今日、ほとんどの赤ちゃんは病院などの施設で生まれるそうですが、

戦後間もない頃まで、お産のほとんどは自宅で行われていたといい、

厚生労働省の人口動態調査によれば、1950年(昭和25年)には

施設(病院、診療所、助産所)での出産は全体のわずか4.6%に過ぎず、

残りの95.4%は自宅を中心に出産が行われており、

それらのお産のほとんどは産婆さんが取り上げていたのだそう。


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多胎妊娠の危険を減らす
減胎手術

三つ子 Multiple birth


※減胎(げんたい)手術…多胎妊娠の危険減らす 2013年8月15日
 yomiDr.記事アーカイブ 読売新聞


双子や三つ子などの多胎児を妊娠し、胎児の数を減らす減胎手術を行う際、

異常のある胎児を選んで減胎する手術を行ったケースがあることを、

諏訪マタニティークリニック(長野県下諏訪町)の 根津八紘院長が公表しました。



減胎手術は「減数手術」とも言われます。

人工妊娠中絶のように胎児を手術で体外に取り出して

妊娠を取りやめるのではなく、お産の危険を減らすことを目的に、

子宮内で胎児の数を減らして妊娠を継続するという違いがあります。



人工妊娠中絶について定めた母体保護法では、減胎については特に定めていません。

同クリニックは減胎手術の実施を以前から公表してきましたが、

全国的には多くが水面下で行われているとみられ、実態はよくわかっていません。



胎児の異常を理由にした中絶は母体保護法で認められていないにもかかわらず、

現実には拡大解釈によって年間1000件程度あるとされます。

異常のある胎児を選んだ減胎も本質的には変わらないと言えますが、

異常のない胎児を残すことから、「選別」の印象がより強いかもしれません。



多胎妊娠は、母子ともに出産に伴う死亡率が高まるほか、

妊娠高血圧症候群などの妊婦の合併症の危険が高まったり、

早産で生まれる子が増えたりといった危険が高まります。


日本産科婦人科学会の調査で、排卵誘発剤を用いた一般的な不妊治療での

多胎妊娠が、1年間に少なくとも1000件以上あることが先月明らかになりました。

多胎妊娠そのものが、人為的な不妊治療の副産物の一面があることも、

減胎手術をめぐる論議で忘れてならない点です。(田村良彦)


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出産・月経中に使用した小屋
忌み小屋

色浜の産小屋(いろはまのうぶごや) 有形民俗文化財
福井県敦賀市


かつて日本には、女性が出産や月経中(生理中)に使用する小屋、

「忌(い)み小屋」が存在したといいます。



「忌(き)」は、不浄で穢(けが)れがあることを指し、

「忌(い)み」は穢れの状態から復するために行われるものだそう。



民俗学者・元大妻女子大学教授であった瀬川清子 先生(1895年-1984年)は、

忌み小屋の本格的な調査を行い、著書「女の民俗誌−そのけがれと神秘−」にて、

小屋の利用実態、小屋が消えていった変遷を以下のように述べています。



  私が訪ねた昭和10年に60歳、70歳の婦人たちは、

  忌屋(いみや)の生活をした最後の人たちで、ベツになる(月経・生理になる)と、

  この一つの家で食事をし、昼は田畑に出て働くが、夜は再びここに帰ったという。

  後には食事だけここでして、夜は倉の廂(ひさし)や台所の隅

  (⇒家の中でも冷遇されていた場所)にいたともいう。



  振草村(現・愛知県設楽町)の老媼(ろうおう:年をとった女性)たちの語るところによると、

  明治維新後、お上(政府)から「そんなものはけがれていない」といってきたらしく。

  神道の人は早く小屋を廃したが、仏教徒はおそくまで堅くしていたという。

  「まだあそこじゃある」とか、「あすこも(食事が)いっしょになったらしい」とか

  噂しているうちに、日清戦争−日露戦争の頃までにマタヅクリの小屋が

  一つ二つとなくなっていった。

  ついに「こんな馬鹿なことをどこだってしていないそうだ。

  不浄除けのお札をかけておりゃ、どこの神様に詣ってもよいそうだ」

  という説が有力になって、

  今度は古風を守って小屋の生活をする者の方が人目をよけるようになったという。



※「女の民俗誌−そのけがれと神秘−」 瀬川清子 東京書籍 1980


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忌み小屋のプラス側面
母子水入らずで過ごすことができる環境

初めての抱擁
Premieres Caresses 1866 William Adolphe Bouguereau


忌(い)み小屋で過ごしている間、食事は村の女性たちが交代で持ってきてくれ、

食事以外でも立ち代わり人々が訪れたことから、そこで、

出産や子育てに関する智恵を得ることができたといいます。



逆にいえば、忌み小屋に男性は立ち入ることができない為、

母子水入らずで過ごすことができ、マタニティブルーになりにくかったと指摘されます。



○光は闇の中で輝く|世代とジェンダーを越えて発展する


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困難な出産の上に待ち受ける
マタニティブルー



母親は、10ヶ月間という身体的・心理的に急激な変化を経て、

いよいよ分娩のときを迎えます。



陣痛が胎児をこの世に生み出すために無くてはならない、

子宮収縮であると理解していても、

次第に頻度・強さを高めて波のように押し寄せる痛みをどのように

逃がすかというだけでも至難。



生まれるときは、人によってそれほど大きな違いはないといいます。

どんな人も母親の胎内を出て肺呼吸になる環境の変化に驚き、

泣き声を上げながら生まれてくるそう。



無事出産にたどり着いた後、生まれた子どもは新生児室へ。

今や正真正銘の「母親」となった女性は、多くの場合、

分娩後の急激な悪い身体的変化が起こるといけないとの理由で

しばしば分娩室に取り残されこともあるそう。



そして、これまで関心を向けられ、大事にされていると思っていた女性は、

周囲の関心が今や、一斉に生まれた赤ちゃんの方向に急激に向かっていること、

大変な思いをして産んだ「自分」は、せいぜい二番目の存在と

なっていることを突如意識させられ、

ここにいわゆるマタニティブルーという症状が発生するそうです。



ところが現実の生活は、ブルーの状態を十分に生きさせてくれることは稀で、

早くも母乳に関する要請が始まり、そして、産後の不十分な身体的回復の中、

赤ちゃんの世話という難事業が開始されることになります。


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たらい回しにされる子ども
泣虫小僧



昭和前期に活躍した小説家、林芙美子の中編小説「泣虫小僧」は、

少年啓吉(けいきち)を中心に母親の若い未亡人貞子(ざたこ)ら

四人の姉妹の性格や生活を生々しく描いた作品。



小学生の啓吉(けいきち)は、母親の邪魔になるらしく

しばらく強引に叔母の家に預けられますが度重なることで歓迎されておらず、

都内のあちこちを転々とすることになります。



母の愛情欲しさに言うことを聞いていますが、会いたくてたまらないし、

捨てられたと感じると悲しくて泣いてばかりいる啓吉にさらなる不幸が訪れます。



※泣虫小僧 林芙美子 最後の部分


   啓吉は、菓子の銀紙にする、鉛を積んだトラックにはねとばされたのであった。

   啓吉は、うつらうつら薄眼(うすめ)のままでまた深い眠りにおちたが、

   頭の中には、唄のような柔らかい風が吹き込んで、蝶々も小鳥も、鰐(わに)も、

   草花も、太陽も、啓吉の夢のなかで、絵の具が溶けるように、

   水のようなものの中にそれが拡がって行った。



○「放浪記」「浮雲」などの代表作で知られる作家・林芙美子


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非日常的・異常的な出来事
穢れ

「餓鬼草紙(がきぞうし)」の中の一枚「伺嬰児餓鬼(しえいじがき)」 国宝
平安時代 12世紀 東京国立博物館
生まれたばかりの嬰児(赤ちゃん)を食べるよう宿命つけられた餓鬼


穢(けが)れとは、汚穢(おあい)・不浄にかかわることで、一般に「血・死・糞尿」を指し、

一定の穢れに関わってしまうことは触穢(しょくえ)と呼ばれます。



穢れの概念は、古くから宮廷や神事にみられ、祓(はら)いや

物忌み(ものいみ:不浄を避けて心身を清浄に保つこと)で消滅したとされます。



民俗学者・柳田國夫は、

冠婚葬祭などの非日常を「ハレ」、労働を行う日常を「ケ」と表し、

両者の循環の中に人々の生活を捉えることができるといいます。

ケガレは「ケ(日常)」が枯れた状態だとする考え方があるそう。



日本人にとっての「穢れ」を解釈して言うならば、

怪我や病気を患った時に見られる「血」、

出産や月経の時にみられる「血」、

いつまでもずっと側に居て欲しい愛する者の「死」、

生きていたいと思っているのに訪れてしまう自分の「死」、

肉を食べるために殺す牛や豚の「血」や「死」、

かつて「アイドルはトイレに行かない」などと表現されることがあった「糞尿」など、

非日常的・異常的な出来事を指す一方、避けて通ることができないもののよう。



このような状態から日常的・正常的な状態に復帰するために、

「忌(い)み」や「祓(はら)い」という「清め」のプロセスが必要になったようです。



○あるがままの生の肯定|フリードリヒ・ニーチェ


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飢えと渇きに苦しみ、子どもや死体・糞尿を食らう
餓鬼

餓鬼草紙(がきぞうし)の中の一枚「食糞餓鬼」 国宝
平安時代 12世紀 東京国立博物館


「餓鬼草紙」の一枚「食糞餓鬼」は、人の排出した便を食うよう宿命つけられた餓鬼。

排便している四人のまわりに餓鬼どもが群がっている様子が描かれています。




「餓鬼草紙」は、「地獄草紙」や「辟邪絵(へきじゃえ)」などとともに、

本来は後白河法皇の蓮華王院(三十三間堂)宝蔵にあった

「六道絵(ろくどうえ)」の一部をなしていたとも考えられています。



平安時代末期に流行した六道思想では、生前に罪業を犯した人間は

死後に地獄道や餓鬼道など六道(6種の苦の世界)をさまよい、

餓鬼は飢えと渇きに苦しみ、やせ細り腹だけがふくれた姿で死体や糞尿を食らい、

すさまじい責め苦を受けるとされます。



この作品は岡山の河本(こうもと)家に伝来したもので、詞書(文章)は失われ、

絵の料紙のみが10枚続けて受け継がれているそうです。



※餓鬼草紙 e-国宝



○本物の作品で日本の文化史がたどれる東京国立博物館


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固定された人々が担った
非日常的・異常的な出来事

牛馬などの皮をはぎ加工している穢多(えた)
「江戸職人歌合」 石原正明(1759-1821)


江戸時代に確立したとされる「士農工商(しのうこうしょう)」は、

武士を最高位に置き、次に農民、職人、最下位に商人を置いた

身分制度だったと一般的にいわれます。



当時、士農工商に属さない人々も存在したようで、

そのような人は「穢多(えた)」や「非人(ひにん)」などと呼ばれ、

「士農工商」制度のさらに下に位置づけられたそう。



「穢多(えた)」は、訓読みすれば「穢(けが)れ多い」と読むことができ、

具体的には、死んだ牛馬の処理、糞尿の処理などに携わっていたといわれます。



「非人(ひにん)」は、「人に非(あら)ず」と読むことができ、

人間とみなされない獣(けもの)の類(たぐい)のようで、乞食(こじき)などを指したとされます。

非人は、刑罰によって農民の位から落とされた人々だったといい、

定められた農作地を放棄したなどの理由が該当したそうです。



非人は農民に戻る道があったといわれますが、穢多は固定的な立場だったそう。


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快いものを好み、不快なものを嫌う
道徳的善悪

ヴィーナスの誕生 オルセー美術館
La Naissance de Venus 1879 William Adolphe Bouguereau


※「人生論」第三編 テイヴィッド・ヒューム(18世紀スコットランドの哲学者)


  道徳的善悪の区別は理性に起因するのではなく、

  道徳感官(モラル・センス)に起因するものであり、

  善によって快の感情がもたらされ、悪によって不快の感覚がもたらされる。




人間の感情は自分が可愛いという自愛心によって支配され、

快いものを好み、不快なものを嫌うというのが基本傾向のようです。



○哲学からみた人間理解|自分自身の悟性を使用する勇気を持つ

○様々な「美」に触れて


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どんな美しい人のうんこも臭い
うんこの真実

かわいいフリー素材集 いらすとや より


ごきぶりの うんこは ちいさい

ぞうの うんこは おおきい


うんこというものは

いろいろな かたちをしている


いしのような うんこ

わらのような うんこ


うんこというものは

いろいろな いろをしている


うんこというものは

くさや きを そだてる


うんこというものを

たべるむしも いる


どんなうつくしいひとの

うんこも くさい


どんなえらいひとも

うんこを する


うんこよ きょうも

げんきに でてこい



※ぼくはこうやつて詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る
 谷川俊太郎 山田馨 ナナロク社 2010 うんこの真実 p354-358


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日本人の根底にある精神性
突出することなく皆一緒

雛祭り


生まれて初めての誕生日を迎える頃、赤ちゃんはいよいよ立ち歩きを始めます。

かつては正月に誰もが一斉に年を取る数え年が採用されていましたが、

それでも満一歳だけは個人の誕生日を祝ったといいます。



初めての誕生日には、一升餅を赤ちゃんに背負わせたり、餅を踏ませたりしたといい、

それでも重たい餅を背負って歩こうとする赤ちゃんには、

押したり、餅をぶつけたりしてわざと転ばせたのだそう。



そこには「突出することなく皆一緒」という考え方が根底にあり、

早すぎる成長は歓迎されず、転ばせてその勢いを削ぐ意味合いがあったとされます。



そして「初誕生前に歩く子は、早く親元を去る」などと伝えられ、

日本人の精神性に根づいていったように思えます。



その一方では、家柄や年功序列といったものが強力に突出していたようです。



○破壊と再生|日本型うつ病社会に別れを告げて

○日本人の心を形成してきたもの|これからを生きる指針となるものを探る

○日本の権力を表象してきた建造物|日本人の自我主張


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年齢の数え方
満年齢と数え年

数え年では、正月元旦がくると一斉に全員が年をとります


年齢の数え方には「満年齢」と「数え年」の2種類があり、

昔は年齢といえば「数え年」のことを指したそうです。



私たちが現在利用している「満年齢」は、

生まれた時点を0歳とし、誕生日がくると一つ加齢する数え方。



それに対して、「数え年」は生まれた時を1歳と数え、

正月元旦が来ると一斉に全員が年を取るのだそうです。

例えば、12月31日の大晦日に生まれた子は、

出生時に1歳となり、翌日1月1日には2歳と数えたそう。

(ちなみに1月1日に生まれた子は、翌年1月1日に2歳)




今では当たり前になっている「満年齢」ですが、広く普及したのは戦後のことで、

1950年(昭和25年)に年齢のとなえ方に関する法律が公布され、

満年齢によって年齢を表すよう心がけるよう定められました。



○来る年の幸運を祈る「のし餅&正月飾り」作り


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成人式のルーツ
軍隊に入って一人前

成年式発祥の地記念碑(埼玉県蕨市)


現在成人の日に行われている成人式の直接的な起源は、

1946年(昭和21年)、埼玉県蕨町(現・蕨市)で満20歳を迎えた

男女を対象として開催された成人式だとされます。



その背景として、戦前期の日本においては、満20歳を基準として徴兵検査が行われ、

「徴兵検査を済ませて一人前」や「軍隊に入って一人前」という考え方が

広く浸透していたとことが挙げられています。



○近代国家の支柱 軍隊と学校


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一般的であった
婿が嫁の所へ移る婿入婚



私たちが一般に知っている結婚式は、女性が男性の所へ移ることで婚姻生活が

始まる形態ですが、日本の婚姻史上では、嫁(よめ)が婿(むこ)の所へ移ることで

結婚が成立する嫁入婚(よめいりこん)は新しく、古くは婿が嫁の所へ訪れることに

よって婚姻が成立し、その後一定の段階を経て嫁は夫の所へ移るという婿入婚

(むこいりこん)が一般であったといいます。



○現代の女性と子どもの生存戦略 実家大好き妻


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慈愛や智恵の尊さ
姥捨山説話

「姥捨月」 月岡芳年「月百姿」の一つ


一定の年齢に至った老人を口減らしのために山に置き去りにする

「姥捨山(うばすてやま)」説話は日本各地に伝わっているそうです。



※代表的な姥捨山のストーリー


  山に老いた親を捨てるために背負っていく際に、親が道すがら小枝を折っているのを

  見た息子が何故か尋ねると、「お前が帰るときに迷わないように」と答える。

  自分が捨てられるという状況にあっても子を思う親心に打たれ、息子は親を連れ帰る。




悲劇的な伝説の多くは、棄てられるはずの老人は助かり、

老母の慈愛や老人の知恵の尊さが述べられ、

姥捨て伝説は老人を捨てる話ではなく、老人の大切さを教える話ともされています。


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マイナスからプラスの側面へ
長寿

守礼門 沖縄


沖縄に伝わる長寿祝いの儀式「トーカチ」。

数え年88歳となった旧暦8月8日に、親戚一同を招いて盛大なお祝いをするそうです。



「トーカチ」でもう一つ大切なのは「カタチヌメー(枕飯)御願」と呼ばれる模擬葬式。

「トーカチ」前夜の深夜に、その老人に白装束を着て寝てもらい、

枕飯を供えて葬式の真似事をするそうで、

「人間の寿命は88歳が最大でこれ以上生きると、その分シーが取られて子孫の命が縮まる。

だからもういい寿命だから子孫のためにも昇天して下さい」などの唱え事を行うといいます。



そして、日付が変わり三線と太鼓の音色が鳴り響くと、

本人が飛び起きて皆とカチャーシーを踊り、

新しい誕生とこれまでの長寿を喜び合うのだそうです。



平均寿命が伸び長寿も一般化している現代。

かつて老人に対する通過儀礼は、寿命の区切りというマイナスの一面を含んだものから、

長寿を祝い、再生を願うプラスの側面を注目するものに変わってきているようです。



○みんなで創る美ら島|大切にしてきた「うちなー」のアイデンティティ


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高齢を生きる
ブレーメンの音楽隊

ドイツ・ブレーメン市庁舎横の音楽隊の像
下からロバ、イヌ、ネコ、ニワトリ


グリム童話の中でも良く知られる物語の一つ「ブレーメンの音楽隊」。



  かつて働き者であったロバは年をとって仕事ができなくなってしまった為、

  飼い主から冷遇されるようになります。ロバはここから逃げ出し、

  ブレーメンに行って音楽隊に入ろうと考え旅にでます。

  途中で同じような境遇の犬、猫、雄鶏に出会い、ともにブレーメンを目指します。

  夜になり、森の中で強盗の隠れ家を見つけます。

  ロバ・犬・猫・雄鶏の順で背中に乗って大声で叫ぶと強盗たちは逃げ出し、

  動物たちは強盗たちが残していったご馳走を食べ、

  この場所が気に入りブレーメンに行くことなく過ごします。




この物語の主人公は、年老いて重い荷物などを運べなくなったロバや

獲物を捕らえられなくなった犬など、高齢になって若いころの能力を喪失した動物たちで、

飼い主に捨てられるなど、いわば社会的に疎外され、余計者扱いされています。



しかし、動物たちは、いたずらにわが身の不幸を嘆くのではなく、

音楽隊を目指すことで高齢者同士が助け合ういわば自助グループを結成しています。

そして、もう一度若くなることや失われた能力の回復を望むのではなく、

音楽能力という残存能力を生かすことで新たに生きる術を見出しているようにも見えます。



ブレーメンに向かう途中で泥棒たちの隠れ家を見つけた動物たちは、

音楽隊という当初の目的に固執するのではなく、

この家で皆で暮らすという柔軟かつ現実的な選択をしているように思えます。


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いつまでも
側に居て欲しいと願う

栗林忠道中将閣下 愛嬢たか子さんへ寄せられた御書簡
市ヶ谷記念館


※徒然草 第29段 兼好法師


しづかに思へば、よろづに過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき。

人しづまりて後、長き夜のすさびに、なにとなき具足とりしたため、

残しおかじと思ふ反古(ほうご)など破(や)り捨つる中に、

なき人の手ならひ、絵かきすさびたる見出でたるこそ、

ただその折の心地すれ。

この比(ごろ)ある人の文(ふみ)だに、久しくなりて、

いかなる所、いつの年なりけんと思ふはあはれなるぞかし。

手なれし具足なども、心もなくて変らず久しき、いとかなし。




  心静かに思いをめぐらせば、何事につけ過去の懐かしさばかりはどうしようもない。

  人が寝静まった後、長い夜の手いさびに、特に思い入れもない道具類を整理し、

  残して置くまいと思う反古紙などを破り捨てる中に、

  故人が文字を書き散らしたり、絵を描き興じたものを見つけ出した時は、

  ただその当時の気持ちがしてくる。

  現在も生きている人の手紙ですら、長い年月が経ち、

  これを貰ったのはどのような折で、何年であったかと思うのは、

  しみじみと感慨深いものである。

  使い馴らした道具類なども、無心に昔と変わらずいつまであるのは、たいへん悲しい。



※新版 現代語訳付き 徒然草 兼好法師 小川剛生(注釈) 角川ソフィア文庫 2015



○平和と独立を守る防衛省|すべての国々、すべての方々に感謝の気持ちを


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高齢者の死に添う時に理解すべきこと
容易ではない死の受容

 終末期研究の先駆者 エリザベス・キューブラー=ロス
(Elisabeth Kbler Ross 1926年-2004年)


「人はいつか死ぬ」ことを誰もが知っているが、生きている人間は死を経験したことがない。

死がどのような体験なのかは未知である。

人は生まれ落ちた瞬間から死に向かって生きている。

死を意識して生きることは、若く、健康なうちはあまりない。

死を最も意識するのは、生命に関わる病に臥すとき、

そして高齢になったときではないだろうか。



高齢になると、死が遠い将来のことではなく、近い未来のことと実感したり、

家族・友人などの親しい他者と死に別れる体験を通じて死に思いをはせることがある。

自分が死にゆくとき、あるいは家族・友人などの親しい他者の死に遭遇し、

死を受容することは、多くの場合困難を伴う。



死の受容を提唱したキューブラー・ロスも、晩年放火にあい、脳卒中に倒れ、

不自由と格闘し、自らの死に対し、怒り、困惑、混乱を率直に語った。




  1995年にアリゾナの砂漠に移住したわたしは、ある年の母の日に脳卒中でたおれ、

  麻痺状態におちいった。それから数年間は、死の戸口に立たされたままだった。

  すぐにでも死がやってくるだろうと幾度となく覚悟した。そして幾度となく、

  それが訪れてこないことに失望した。準備はできていたからである。




死と生について追及しつづけたこの領域のパイオニアであるキューブラー・ロスが、

人生の最晩年に「死の受容は容易でない」ことを示してくれたように思えます。



○苦しみに満ちている人間の生からの救済|ショーペンハウアー


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最後のレッスン 〜キューブラー・ロス かく死せり〜

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CureからCareへ
精神面を含めた生活全体の豊かさと自己実現

Old man at a nursing home in Norway


1950年代から末期医療の総称として「ターミナルケア」という言葉が使われるようになり、

その後は、緩和ケア(治癒を目的とした治療が有効でなくなった患者に対する

積極的な全人的ケア)が唱えられ、痛みやその他の症状のコントロールだけでなく、

精神的、社会的、そしてスピリチュアルな問題の解決を目指すようになります(WHO.1990)。



今日では、QOL(Quality Of Life : 精神面を含めた生活全体の豊かさと

自己実現を含めた概念)が重視されています。


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死の判定
家族の判定から医師の判定へ

心電図モニター


現在、死の判定は医師が行い、

「瞳孔拡大」・「心停止」・「呼吸停止」の3兆候によって判定がなされているそう。



昨今は心電図モニターが普及し判定精度は高まっているそうですが、

普及していない頃は、医師の経験と五感に依存する部分があり、

仮死状態の人も死亡と判定された可能性は大いにあったといわれます。



また、心電図モニターを活用した上で、死亡の兆候を全て満たしていたとしても、

心電図波形が微弱に復古することもあることから、判定には慎重さが求めらるそう。



医師による死亡の判定を行う以前は、家族や村人が死に行く人を看取りながら

死の判定を行っており、その時代を彷彿とさせる民俗事例が各地から報告されています。



その一つとして、死亡と判定された後に、

親族が亡くなったとされる人の布団に入って一夜を過ごした儀礼が伝わります。

それは、生きていた場合に即座に対応できるようにとの意味合いがあったのだそう。



また、死の直後に死者の親族が家の屋根に登り、死者の名前を呼ぶ「タマヨビ」は、

死者の霊魂を肉体に呼び戻して蘇生を願った儀礼であるとともに、

周囲に亡くなったことを知らせる行為でもあり、

遺った者たちが死を確認していく諦念(ていねん:あきらめ⇒グリーフケア)

の側面もあったと考えられています。


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死にゆく人たちとの
出会い



※死にゆく者からの言葉 鈴木秀子 文春文庫 より引用


  ターミナルケアの医療関係者の学会で、私は話はじめました。

  「私は医学的知識は皆無です。私が実感していることは、

  当たり前ですが、人は必ず死ぬということです。

  ここにお集まりのお一人おひとりもいつか死んでいきます。

  それも医学の専門家としてではなく、一人の人間として死んでいくでしょう。

  そして病気が重くなるにつれて、誰よりも医学の限界を身をもって感じられる

  のではないでしょうか」



  私はこの時、大きな会場の空気が一瞬にして変わったのを感じ取りました。

  会場中の人たちが、医師や看護の専門家から一人の人間に変わったのが

  はっきりわかりました。



  肩書きや役割を脱ぎ捨てて、一人の生身の人間の素顔をあらわしてくれたのです。

  私は胸が熱くなりました。

  親しい友人とわかちあうように、私は、これまで体験した何人かの

  「死にゆく人たち」との出会いと別れを話しました。


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私の肝臓さんよ
さようなら

「ウィトルウィウス的人体図」 1487年頃 レオナルド・ダ・ヴィンチ
アカデミア美術館(ヴェネツィア)


私の肝臓(かんぞう)さんよ さようならだ

腎臓(じんぞう)さん膵臓(すいぞう)さんともお別れだ



私はこれから死ぬところだが

かたわらに誰もいないから

君らに挨拶する



長きにわたって私のために働いてくれたが

これでもう君らは自由だ

どこへなりと立ち去るがいい

君らと別れて私もすっかり身軽になる

魂だけのすっぴんだ



心臓さんよ どきどきはらはら迷惑かけたな

脳髄(のうずい)さんよ よしないことを考えさせた

目耳口にちんちんさんにも苦労をかけた

みんなみんな悪く思うな

君らあっての私だったのだから



とは言うものの君ら抜きの未来は明るい

もう私には未練がないから

迷わずに私を忘れて

泥に溶けよう空に消えよう

言葉なきものたちの仲間になろう



※詩を書くということ−日常と宇宙と 谷川俊太郎 PHP 2014
 「さようなら」 第3章 意味と無意味 p130-132


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悲しみと穢れ
葬送

死者の書


死は人生の大きな悲しみである一方、穢れでもあり、死は黒不浄と言われ、

死穢(しえ:死の穢れ)の観念は時代が遡るほど強かったといわれます。



葬送儀礼(⇒葬式)は非日常的な出来事であり、

そのために儀礼の多くが普段とは異なる作法に満ちています。

たとえば湯灌(ゆかん:葬儀に際し遺体を入浴させ洗浄すること)の逆さ水、

通常、水の温度を調整する時は、お湯に水を入れますが、

湯灌の際は水にお湯をいれて調整するそうです。

他に、死者の着物は左前に着せる、足袋は左右反対に履かせるなど、

葬儀が非日常的世界の出来事であることを演出しているようです。



○人類の智の宝庫|大英博物館


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葬祭と仏教
お寺という存在

釈迦が説法をしたと伝わる
ラージャグリハ、王舎城(おうしゃじょう) インド


※東洋大学文学部教授 竹村牧男 先生


  日本仏教は、江戸時代の寺請制度(幕府による宗教統制制度)に基づき、

  主として檀家(だんか)によって維持されるような教団の形態になっていて、

  葬式仏教といわざる得ない面がある。




※お茶の水女子大学大学院教授 頼住光子 先生


  葬祭儀礼は日本仏教の展開の中で、大きなテーマである。

  伝来の当初から、仏教では、盂蘭盆会(うらぼんえ⇒お盆)などを催し祖先の霊を慰め、

  葬祭を行い、人の死を意味づけてきた。日本仏教を揶揄して(やゆして:からかって)

  「葬式仏教」と呼ぶことがあるが、これは、一般に、多くの僧侶が葬祭の執行の場面

  でしか信者と関わらず、仏教本来の修行や利他行(りたこう:他人に利益を与える行い)

  をおろそかにしているような印象を与えがちな現代への批判を含む言葉であろう。



  確かに、仏教の発祥の地であるインドにまでさかのぼってみると、

  僧侶が葬儀に関わっていたという形跡は見あたらず、

  釈尊(釈迦)の入滅に際しても、その火葬などは在俗信者が行い、

  僧侶が関わっていなかったことは明らかである。




日本人が仏教を選択する理由は、本質的な教義を理解してというよりは、

広く日本に浸透し、そうするのが世間一般的になっていることが挙げられています。

昨今の少子高齢化・情報社会の進展等を受け、葬儀形態は多様化しており、

お坊さんを呼ばない葬儀や個性にあわせた葬儀が行われるようになってきています。


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公的立場を示すとともに
個性を隠す制服

袈裟を身にまとう後水尾天皇像 (宮内庁書陵部蔵 尾形光琳筆)


某お寺の老師は、「袈裟(けさ)を身に着ければ坊さんに見える」とおっしゃっていましたが、

お坊さんの袈裟に限らず、警察官の制服や医師の白衣などは、

世間一般に知られる公的な立場を示すもののよう。



制服(ユニフォーム)には、周囲に対してその人の立場を理解させる側面がある一方、

制服を身に着けている人の個性を隠すという側面もあるようです。



○安全で安心して暮らせる地域社会の実現|神奈川県警察の取り組み


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マルティン・ルターの
宗教改革

ドミニコ会の修道士 ヨハン・テッツェル(Johann Tetzel)


ローマ・カトリック教会が発行した償うべき罪を赦(ゆる)す

贖宥状(しょくゆうじょう、ラテン語: indulgentia)。



ローマのサン・ピエトロ大寺院の改修に必要な資金獲得のために

この贖宥状が悪用され、ドミニコ会の修道士 ヨハン・テッツェルは

売らんがために誇大広告をして売り歩いたといわれます。



ヴイッテンベルク大学の神学教授であったマルティン・ルターは、

キリスト者としての悔い改めを蔑(ないがし)ろにしたこの行為に危機感を覚え、

1517年、ヴイッテンベルク教会の扉に「95箇条の提題」を張り出し、

改革への狼煙(のろし)をあげます。



第28条

  金が箱の中でチャリンと鳴ると、確かに利得と貧欲とは増すことになる。

  しかし、教会のなすところは、ただ神の御心にのみかかっている。


第43条

  貧しい者に与えたり、困窮している者に貸与している人は、

  贖宥を買ったりするよりも、よりよいことをしているのだと、

  キリスト者は教えなければならない。


第45条

  困窮している者を見て、彼を無視して、贖宥に金銭を払う人は、

  教皇の贖宥ではなく、神の怒りを自分に招いているのだと、

  キリスト者は教えられねばならない。


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葬式に対する
価値観の変化

贖宥状(しょくゆうじょう、ラテン語: indulgentia)を買う女性


葬式会場の普及やインターネットを介してのお坊さん派遣サービスの登場、

お墓に対する価値観が変わってきている昨今、

お坊さんにとっては変化が求められる時代になっているようです。


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自然に帰る
海洋散骨

散骨式 2009.04 葉山沖 葉山鐙摺港より出港したヨット
NADIEN(ナディーン)より撮影


最近では、死者を墓地に埋葬せず散骨するケースが増えてきているといいます。

埋葬等に関する法律には「墓地・埋葬に関する法律(墓埋法)」がありますが、

その中で「散骨」はどのように扱われているのでしょうか。



※墓地、埋葬等に関する法律 (昭和二十三年五月三十一日法律第四十八号)
 最終改正:平成二三年一二月一四日法律第一二二号


○第一条

 この法律は、墓地、納骨堂又は火葬場の管理及び埋葬等が、

 国民の宗教的感情に適合し、且つ公衆衛生その他公共の福祉の見地から、

 支障なく行われることを目的とする。


○第四条

 埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行つてはならない。

2火葬は、火葬場以外の施設でこれを行つてはならない。





「墓地・埋葬に関する法律(墓埋法)」の中に「散骨」についての言及はありません。

このことについて墓埋法を所管する厚生労働省生活衛生局は、

「墓埋法は散骨のような葬送の方法については想定しておらず、

法の対象外で禁じているわけではない」との見解を示したとされます。



墓埋法に散骨についての言及がない以上、

散骨する量(一部・全部)や、骨を粉状にする砕骨についての言及はありません。

NPO法人「葬送の自由をすすめる会」では、細かく砕骨することを勧めているそう。

(条例で散骨を制限している自治体はある)



法律の主旨・条文を理解した上で、地方自治体の条例を遵守し、

節度をもって行うのが良さそうです。



○ひらり舞う蝶を追いかけ 白い帆を揚げて

○生命の跳躍|海洋を統合的に理解する


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復活を妨げる火葬は厳禁
イスラム教徒の葬送

ムスリムのお墓


今日では多くのムスリム(イスラム教徒)が日本に住んでいるといわれます。

日本に住むムスリムの人口が増えてくると、自然の摂理として時間が経てば

霊園の需要も高まってきます。



イスラム教の死生観は、「死は一時的なもの」と捉え、たとえ命を失ったとしても、

最後の審判の日に肉体を持って復活すると考えている為、

肉体を持った復活の妨げとなる火葬は厳禁であり、原則「土葬」が執り行われます。



しかし、日本では土葬の許可を得るのが難しくなり、また許可が得られたとしても

周辺住民が土葬を嫌う傾向が高まっているのだそう。



日本にムスリムの霊園は数か所あるそうですが、

その一つは、山梨県塩山(えんざん)にある霊園。

文殊院(もんじゅいん)という禅宗寺院の好意でできたイスラム教徒の霊園で、

同寺に隣接する2700坪の土地を日本ムスリム協会が1964年に購入し

霊園として管理しているそうです。



○平安で平等な社会を築く意志|世界に広がるイスラーム


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死と向き合う
墓をもたないヒンドゥー教

ヒンドゥー教の火葬が行われる寺院 パシュパティナート
ネパール カトマンズ 世界遺産


東・西・南の三方をインドに、北方を中国チベット自治区に接するネパール。

北海道の約1.8倍の面積(14.7万ku)に、2,649万人(2011年)が住み、

そのうちの81.3%がヒンドゥー教徒だといわれます。



ネパールの首都カトマンズにあるお寺、パシュパティナート(Pashupatinath)は、

ネパール最大のヒンドゥー教寺院。



ガンジス川の支流である聖なる川・バグマティ川のほとりに建ち、

ヒンドゥー教徒の沐浴の場でもあるとともに、火葬場としての役割を担っているそうです。



○人の死を九段階に表した 九相図

○多種多様な文化が息づくネパールへ


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ヒンドゥー教の火葬 パシュパティナート寺院 カトマンズ ネパール
Hindu Cremations at Pashupatinath Temple in Kathmandu Nepal

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水と樹林や草花に包まれた
新たな墓園

合葬式慰霊碑型納骨施設
横浜市営墓地メモリアルグリーン(横浜市戸塚区)


横浜ドリームランド(遊園地)の跡地に作られた、横浜市営墓地メモリアルグリーンは、

花と緑、水に包まれた新しいスタイルの墓園。開放感にあふれた芝生型納骨施設や

合葬式納骨施設の樹木型、慰霊碑型などの施設があります。



合葬式慰霊碑型納骨施設は、地上部に慰霊碑を設け、手前にある献花台で参拝します。

地下の納骨施設の中に棚を設け、12,000体分の収納が可能だそう。



○東海道五十三次 5番目の宿場町|生まれ変わる戸塚


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開放感にあふれた
芝生型納骨施設

芝生型納骨施設 横浜市営墓地メモリアルグリーン(横浜市戸塚区)
墓石は一律の大きさで、塔婆はなく火気(お線香)は禁止になっています


四角いプレートを墓標とし、全体が芝生広場のような開放感にあふれた明るい空間。

芝生型納骨施設は、使用者が管理する墓地だそう。

プレートの大きさは、縦35cm×横45cmのA3用紙くらいの大きさ。

プレートの表面には、名前などが入れられる銘板を設置します。



○身分により区画・規模が異なる旧陸軍の墓地

○身分に関わりなく一律に弔われる英連邦戦死者墓地

○日本の権力を表象してきた建造物|日本人の自我主張


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「徒然草」にみる死生観
世は定めなきこそいみじけれ

吉田兼好(菊池容斎・画 江戸時代)


※徒然草 第7段 兼好法師


あだし野の露きゆる時なく、

鳥部山(とりべやま)の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、

いかにもののあはれもなからん。

世はさだめなきこそいみじけれ。


  あだし野(嵯峨の墓地)の露がそのまま消える時もなく、

  鳥部山(東山の火葬場)の煙もそのまま立ち去ることもない状態であるとして、

  そのように人の命が消えることもなく、いつまでも住んでいられるのが世の常であるなら、

  どんなにか、ものの情趣も失われてしまうことだろう。

  この世は無常であるのが全くすばらしいことなのだ。





命あるものを見るに、人ばかり久しきものはなし。

かげろふの夕を待ち、

夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。

つくづくと一年を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや。


  命あるものを見るのに、人ほど長生きするものはない。

  かげろうが夕方を待たずに死に、

  夏の蝉が春秋をしらないで死ぬ短命なものもあるのだ。

  (それに比べれば)じっくりと一年をくらす間だけでも、

  この上もなくゆったりした気分になれるはずだ。





あかず惜しと思はば、

千年(ちとせ)を過(すぐ)すとも一夜(ひとよ)の夢の心地こそせめ。

住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。


  いくら長生きしても満足することはなく、惜しい惜しいと思ったなら、

  千年生きたところでまるで一夜の夢のような気がするにきまっている。

  (それなら)いつまでも住んではいられないこの世に、

  老醜の姿をさらすまで生き長らえても、どうってこともあるまい。





命長ければ辱(はじ)多し。

長くとも四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。

そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出でまじらはん事を思ひ、

夕の陽(ひ)に子孫を愛して、栄(さか)ゆく末を見んまでの命をあらまし、

ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、

あさましき。


  命が長いとそれだけ生き恥をさらすことも多い。

  いくら長くとも、四十に足らぬくらいで死んだ方が、何といっても無難というべきものだ。

  四十の坂を過ぎてしまうと、容貌を恥ずかしいと思う心もなく、

  人の前にのさばり出て交際したいということを思い、

  余命もないくせに子や孫を可愛がり、

  かれらが立見出世していく将来を見届けるまでの命の予想をたて、

  やたらに名利をむさぼる心ばかりが深くなり、

  ものの情趣もわきまえられなくなってゆくのは、まことにあきれはてたことである。




※解説 徒然草 橋本武 ちくま学芸文庫


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「徒然草」にみる死生観
名誉や利益から離れ、死期を顧みる

ヴァニタス(Vanitas:空虚) 1630 ピーテル・クラース(Pieter Claesz)
マウリッツハウス


※徒然草 第74段 兼好法師


蟻のごとくに集まりて、東西に急ぎ南北に走(わし)る人、

高きあり賤(いや)しきあり。

老いたるあり若きあり。

行く所あり帰る家あり。

夕(ゆうべ)に寝(い)ねて朝(あした)に起く。

いとなむ所何事ぞや。


  まるで蟻のように集まって、東に西に急ぎ、南へ北へ走る人々の中には、

  身分の高い人もいれば、賤(いや)しき者もいる。

  老いた人もあれば、若い者もいる。

  行く所があり、帰る家もある。

  夜になれば寝て、朝になれば起きる。

  人がそんなにあくせくと営むのはいったい何事であろうか。





生を貪り、利を求めてやむ時なし。

身を養ひて何事をか待つ。

期(ご)する所、ただ老(おい)と死とにあり。

その来(きた)ること速(すみや)かにして、念々(ねんねん)の間にとどまらず、

これを待つ間、何の楽しびかあらん。

惑(まど)へる者はこれを恐れず。

名利におぼれて先途(せんど)の近き事を顧みねばなり。

愚かなる人は、またこれを悲しぶ。

常住ならんことを思ひて、変化(へんげ)の理(ことわり)を知らねばなり。


  自分の身を養生していったい何事を期待するのであろうか。

  確実に未来に期待できるのは、ただ老と死だけである。

  その二つが身に迫ることはすみやかで、一瞬の間もとどまっていない。

  老と死を待つ間、いったい何の楽しみがあろうか。

  迷える者は老と死を恐れない。

  名誉や利益に心を奪われて、死期の近いことを顧みないからである。

  愚かな人は、また、老と死とを悲しむ。

  世界が永久不変であるだろうと思って、

  万物は時々刻々変化してやまない道理を知らないからである。




※新版 現代語訳付き 徒然草 兼好法師 小川剛生(注釈) 角川ソフィア文庫 2015


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徒然草にみる死生観
生と死の狭間にある「時」を歩む

死と生(Tod und Leben) レオポルド美術館
グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862年-1918年)


※徒然草 第108段 兼好法師


寸陰(すんいん)惜しむ人なし。これ、よく知れるか、愚かなるか。

愚かにして怠る人のために言はば、一銭軽しといへども、

これを重ぬれば、貧しき人を富める人となす。

されば、商人(あきびと)の一銭を惜しむ心、切(せち)なり。


  一瞬の間を無駄にしたと惜しがる人はいない。

  これは、よく知っているからそうするのか、それとも愚かで知らないからなのか。


  愚かで怠惰な人のために言うならば、たとえ銭一枚は微々たるものといっても、

  これを積み重ねると、貧乏人を富人にする。

  だから、商人が一枚の銭を大事にする心は、切実である。





刹那覚えずといへども、これを運びてやまざれば、

命を終ふる期(ご)、たちまちにいたる。

されば、道人(どうにん)は、遠く日月を惜しむべからず。

ただ今の一念、空しく過ぐることを惜しむべし。


  一刹那は意識しない短い時間であるといっても、

  これをずっと積み上げていけば、死期は、たちまちにやって来る。


  だから、仏道に入ろうとする者は、遥か未来までかけて歳月を惜しむべきではない。

  ただ現在の一刹那が、いたずらに過ぎることを惜しむべきである。





もし、人来たりて、我が命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、

今日の暮るる間、何事をかたのみ、何事をかいとなまん。

我等が生ける今日の日、何ぞその時節に異ならん。


  もし、誰かがやって来て、お前の命は、明日必ず無くなると告知されたならば、

  今日一日が暮れるまでの間、何をあてにし、何に励むのか。

  我々が普通に生きている今日という一日も、そのような状態の一日と何が違っていようか。





一日のうちに、飲食(おんじき)、便利(べんり)、睡眠(すいみん)、言語(こんご)、

行歩(ぎょうぶ)、やむことを得ずして、多くの時を失ふ。

その余りのいとま、いくばくならぬうちに、無益(むやく)のことをなし、

無益のことを言ひ、無益のことを思惟(しゆい)して時を移すのみならず、

日を消し、月を亙(わた)りて、一生を送る、もつとも愚かなり。


  一日の間に、飲食、大小便、睡眠、会話、

  歩行など、やむを得ないことで、多くの時間を費やしている。

  その残りの時間となると、いくらもないのに、無益なことをし、

  無益なことを言い、無益なことを考えて時間を過ごすばかりか、

  一日を費やし、何ヶ月にわたって、遂に一生をいたずらに送るのは、

  実に愚かなことである。





謝霊運(しゃれいうん:中国の詩人)は、法華の筆受(ひつじゅ)なりしかども、

心常に風雲の興を観(かん)ぜしかば、

恵遠(えおん)、百蓮(びゃくれん)の交わりを許さざりき。

しばらくもこれなき時は、死人に同じ。

光陰何のためにか惜しむとならば、うちに思慮なく外に政事(せいじ)なくして、

やまん人はやみ、修(しゅう)せん人は修せよとなり。


  謝霊運は、仏教に帰依して法華経の筆受をしたほどの人であったけれども、

  いつも美しい自然に心を奪われていたので、

  恵遠は、白蓮社(びゃくれんしゃ)への仲間入りを許さなかった。

  いささかでも寸暇を惜しみ精進する心がない時は、死者と同じである。

  わずかな時間を何のために惜しむのかというと、心中には雑念がなく、

  身辺には雑事がないように努めて、悪事を止めようとする人は止め、

  善事を修めようとする人は修めるのがよい、というからである。



※新版 現代語訳付き 徒然草 兼好法師 小川剛生(注釈) 角川ソフィア文庫 2015



○若い女性と骸骨に託された生と死の対比


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共生への想いが込められた
鶴の舞

タンチョウ


アイヌに伝わる踊りには、自らの家族、村の生活が平和に営まれるよう、

喜び・哀しみを神々とともに分かち合う意味もあり、

日々の生活において重要な役割を担ってきたといいます。



踊りの一つ「サロルンチカプリムセ(鶴の舞)」は、

親子の鶴が飛ぶ姿を模倣したものだそうで、着物の上にもう一枚着物を羽織り

つるの羽に見立て美しい模様を見せながら踊ります。



そこには、自然への畏敬、ヒトや生き物への愛情、自らのアイデンティティ、

共生への想いが込められているよう。



○鶴の舞|釧路川キャンプ & カヌーツーリング


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参  考  情  報


○国立歴史民俗博物館

○新潟県立歴史博物館公式サイト

○作家別作品リスト:柳田国男 青空文庫

○柳田國男記念公苑 | 利根町公式ホームページ

○国立社会保障・人口問題研究所

○保健師助産師看護師法

○助産師の部屋 助産師の歴史 | 日本看護協会

○公益社団法人日本助産師会

○大阪大学大学院医学系研究科附属ツインリサーチセンター

○福井県の文化財 | 色浜の産小屋

○大原うぶやの里ホームページ

○ふぃっしゅ in the water

○日本の美術

○谷川俊太郎.com

○青空文庫|林芙美子

○沖縄の習慣・風習 - 葬儀からユタ・シーサーまで | 御願ドットコム

○早く引き取ってください|沖縄儀礼カタチヌメー - Cosmos Factory

○死亡確認の方法について : 呼吸器内科医

○カルテに書けない よもやま話

○漢詩の朗読

○在日ネパール国大使館

○パシュパティナート ネパール最大のヒンドゥー教寺院|ハシムの世界史への旅

○かわいいフリー素材集 いらすとや

○フリー百科辞典Wikipedia

○生と死の民俗学 2016.07
 ・講師 板橋春夫 先生 新潟県立歴史博物館参事
 ・テーマ
  ・いのちの選択と生殖医療
  ・出産とジェンダー
  ・女人禁制の伝統
  ・母乳と育児文化
  ・老いの民俗
  ・葬送儀礼の民俗
  ・墓と先祖祭祀
  ・誕生と死の相関性
 ・主催 放送大学文京学習センター

○生と死の臨床医学 2016.08
 ・講師 伊藤春雄 先生 (医)秀明会理事/東京歯科大学非常勤講師
 ・テーマ
  ・生の医学(1) 医の心とは 生命倫理学 東西医学史
  ・生の医学(2) 現代医療社会をみつめて 医療事故 虐待 感染症 AIDS他
  ・生の医学(3) 検査と医療 現代医療の最前線- 命を続ける命たち
  ・生の医学(4) 臨床の紹介 人類の進化と文明病
  ・死の医学(1) 法医学とは何か- 生と死の間で
  ・死の医学(2) 死の現象 ヒトの死に様
  ・死の医学(3) 外因死 ヒトの死に方
  ・死の医学(4) 個人識別とDNA鑑定
 ・主催 放送大学文京学習センター

○よく生き よく笑い よき死と出会う 2011.07
 講師 アルフォンス・デーケン 先生 上智大学名誉教授
 第76回 円覚寺夏期講座

○中高年の心理臨床
 齋藤高雅 先生 放送大学教授
 高橋正雄 先生 筑波大学教授
 13.文学にみる老いと病い 高橋正雄 先生 筑波大学教授
 14.死とこころのケア 黒川由紀子 先生 上智大学教授

○精神医学的にみた夏目漱石-没後百年によせて- 2016.01
 講師 橋正雄 先生 筑波大学教授
 会場 AP渋谷道玄坂
 主催 放送大学渋谷学習センター

○日本人の一生 通過儀礼の民俗学 谷口貢・板橋春夫 八千代出版 2014

○出産―産育習俗の歴史と伝承「男性産婆」 板橋春夫 社会評論社 2009

○個人的な体験 大江健三郎 新潮文庫 1981

○あいまいな日本の私 大江健三郎 岩波新書 1995

○きんさんぎんさんの百歳まで生きんしゃい 綾野まさる(編集) 小学館 1992

○女の民俗誌―そのけがれと神秘 瀬川清子 東書選書 1980

○女はなぜ土俵にあがれないのか 内館牧子 幻冬舎新書 2006

○通過儀礼 ファン・ヘネップ, 綾部恒雄, 綾部裕子(訳) 岩波文庫 2012

○日本の民俗〈12〉南島の暮らし 古家信平,萩原左人,小熊誠 吉川弘文館 2009

○ケガレ 波平恵美子 講談社学術文庫

○ぼくはこうやつて詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る
 谷川俊太郎 山田馨 ナナロク社 2010

○詩を書くということ−日常と宇宙と 谷川俊太郎 PHP 2014

○死ぬ瞬間―死にゆく人々との対話 エリザベス・キューブラー・ロス
  川口正吉(訳) 読売新聞社 1971

○死ぬ瞬間―死とその過程について エリザベス キューブラー・ロス
 鈴木晶(訳) 中公文庫 2001

○死にゆく者からの言葉 鈴木秀子 文春文庫 1996

○もう死んでもいいのですか、ありがとう 足立大進 春秋社 2009

○変わるお葬式、消えるお墓 新版 (高齢社会の手引き) 小谷みどり 岩波書店 2006

○【変わる葬儀】華やかで個性豊かに 花祭壇や送り太鼓 47NEWS

○墓石は必要ない!?変わる葬儀市場 - NAVER まとめ

○新版 現代語訳付き 徒然草 兼好法師 小川武士生(注釈) 角川ソフィア文庫 2015

○解説 徒然草 橋本武 ちくま学術文庫 2014

○徒然草をどう読むか 島内裕子 放送大学叢書 2009

○徒然草の変貌 島内裕子 ぺりかん社 1992

○徒然草と現代 2015.02
 講師 島内裕子 先生 放送大学教授
 主催 放送大学東京多摩学習センター

○徒然草の歴史学 五味文彦 朝日選書 1997

○明日に向かって曳け-石川県輪島市皆月山王祭2015 2016.07
 ・プログラム
  ・祭りのフィールドワークと映像化-七つの浦、四方の風にむけて
   川村清志 先生(国立歴史民俗博物館准教授)
  ・民俗研究映像『石川県輪島市皆月山王祭-式次第とその構造』
  ・民俗研究映像『明日にむかって曳け-石川県輪島市皆月山王祭2015』
  ・講演1「祭りの映像をとるということ」
    葉山茂 先生(国立歴史民俗博物館特任助教)
  ・講演2「祭礼の記録化の試みとその可能性」 
    佐々木重洋 先生 (名古屋大学大学院文学研究科教授)
  ・講演3「映像民族誌と将来像」
    分藤大翼 先生  (信州大学学術研究院 総合人間科学系准教授)
  ・総合討論
   川村清志(司会)、葉山茂、佐々木重洋、分藤大翼
 ・会場 東京大学弥生講堂一条ホール
 ・主催 国立歴史民俗博物館

○屋久島の森に眠る人々の記憶 2016.02
 ・本フォーラムの趣旨説明 柴崎茂光 先生(国立歴史民俗博物館准教授)
 ・民俗研究映像「屋久島の森に眠る人々の記憶」
 ・林業遺構に関する保存の現状−北海道の事例
  八巻一成 先生 (森林総合研究所北海道支所主任研究員)
 ・宮之浦集落における岳参りの歴史
  渡邉剣真 先生 (宮之浦岳参り伝承会 所願(トコロガン))
 ・参照映像 「復活した岳参り」
 ・島のモノサシ、外のモノサシ、その違い−民俗研究映像の可能性
  安藤潤司 先生(元南日本新聞社屋久島支局長)
 ・屋久島の生業・暮らしに関する映像今昔
 ・総合討論
 〈パネリスト〉八巻一成 先生、渡邉剣真 先生、安藤潤司 先生
 〈討論司会〉 柴崎茂光 先生
 ・閉会挨拶 総合司会 柴崎茂光 先生
 ・主催 国立歴史民俗博物館

○「人生100歳時代の設計図」を考える キックオフシンポジウム 2016.07
 第一部 基調講演
  ・人生100 歳時代の設計図 黒岩祐治 先生(神奈川県知事)
  ・人生はいつも「今から」 〜一歩一歩登りつづければ頂上に立てる
   三浦雄一郎 先生(プロスキーヤー)
 第二部 パネルディスカッション
  加藤忠相 先生(株式会社あおいけあ 代表取締役社長)
  塩澤修平 先生(慶応義塾大学 経済学部 教授)
  藤原瑠美 先生(ホスピタリティ☆プラネット 代表)
  黒岩祐治 先生(神奈川県知事)
  コーディネーター 原良枝 先生(フリーアナウンサー)
 会場 横浜市教育会館
 主催 神奈川県

○「皇室の文庫ふみくら 書陵部の名品」展 宮内庁書陵部
 三の丸尚蔵館 平成22年9月18日(土)〜10月17日(日)

○伊豆の踊子・泣虫小僧 川端康成・林芙美子
 少年少女日本文学館11 講談社 1986


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