みんなで創る美ら島
未来のおきなわ


大切にしてきた「うちなー」のアイデンティティ


| 明るい太陽と暖かい気候 | てぃんさぐぬの花 | 観光業 | 鮮やかな青い海 | サンゴ | 琉球王国 |
| 第二尚氏 | 大交易時代 | 薩摩藩の支配 | 人頭税 | 独立国 | 琉球処分 | 沖縄戦 |
| 米軍最初の上陸地 | 集団自決 | 教育の凄まじさ | ひめゆりの塔 | 6月23日 | 嘉手納飛行場 |
| 軍用地接収 | 軍用地返還 | 普天間基地 | ヘリコプター墜落事故 | 世界で一番危険な米軍施設 |
| 辺野古 | 負担軽減につながる移転 | 基地と経済のリンク  | 宜野湾市長選 | 国民負担の軽減 |
| 基地と政府財政に依存 | 基地依存の割合 | 基地依存の経済規模 | 二次産業が発展しない理由 |
| 全国一の失業率 | 米軍基地従業員養成学校 | 日本一の格差社会 | 亜熱帯林 | 御嶽 |
| ウチナンチュのアイデンティティ | 芭蕉布 | 天地に鳴りとどろく太陽 | 未来のおきなわ | 都道府県の木 |
| 参考情報 |

HOME


明るい太陽と暖かい気候に恵まれる
沖縄

守礼門


九州から台湾まで、

およそ1,300kmの海上には188の島が弓のように連なっています。

これを地理学や地質学では「琉球弧(りゅうきゅうこ)」や「琉球列島」と呼び、

行政上は「南西諸島」と呼んでいるそうです。



そのうち沖縄は160の島々からなり、

沖縄本島・久米島・石垣島・西表島など49の島に人が住んでいるといいます。



亜熱帯に属する沖縄は、明るい太陽と暖かい気候に恵まれ、

陸では一年中花々が咲き、海では色とりどりの魚が泳いでいます。



※第3版 沖縄修学旅行 新崎盛暉ほか 高文研 2005
※沖縄のすがた|沖縄県



○球美の島 久米島|琉球王国時代 中継貿易の寄港地として栄えた美しき島

○島人のおもてなし|自然を歩いて、おいしく旅する石垣島


トップに戻る



歌い継がれてきた
てぃんさぐぬの花

鳳仙花(ほうせんか) 沖縄方言では「てぃんさぐぬ」


※沖縄民謡「てぃんさぐぬ花」


  てぃんさぐぬ花や 爪先(ちみさち)に染(す)すみてぃ

  親(うや)ぬ教(ゆ)し事(ぐとぅ)や 肝(ちむ)に染みり



  ホウセンカの花は 爪先に染めて 親の教えは 心に染み渡る




「てぃんさぐぬ」は鳳仙花(ほうせんか)のことで、

花は赤く染まることから女性が爪につけて染め、

親から子どもへと受け継がれてきたそうです。



鳳仙花の種子は熟すと弾けて種を遠くに飛ばすことから、

ラテン語で「我慢できない」という意味のある「Impatiens」が学名となっています。



○命から生まれた嘆き・希望・美しさ|世界の民族音楽

○ため息を春風に変えて|自然からの贈り物 春の花言葉


トップに戻る


てぃんさぐぬ花(歌詞つき)古我地

トップに戻る



沖縄の暮らしを支える産業
観光業

大勢の観光客で賑わう国際通り (那覇市)


那覇市の中心にある約1.6キロメートルほどの通り、国際通り。

戦後、一番早く復興した通りだそうで、大勢の観光客で賑わいます。



沖縄県の産業は、第3次産業(商業・サービス業)の割合が高く

第2次産業(建設・製造業)の割合は低いといわれます。



第1次産業に関しては、暖かい気候を利用して、

野菜や花の県外出荷が盛んになってきているそうですが、

農業や漁業、畜産業が沖縄の産業全体に占めている割合は、

大きなものではないといいます。



沖縄県の暮らしを支えている大きな産業は観光であり、

美しい自然を求めて沖縄をおとずれる観光客は、年とともに増え続け、

2014(平成26)年には、過去最多の706万人を達成したそうです。



※沖縄の産業|沖縄県


トップに戻る



亜熱帯の海洋性気候に映える
鮮やかな青い海

JALプライベートリゾート オクマ


亜熱帯・海洋性気候風土のもと、恵まれた自然環境、

独特の文化や歴史など、魅力溢れる観光・リゾート資源を有する沖縄。



ビーチの先に広がる海がコバルトブルーなのは、

太陽の光は海水に入っていくと赤色の光が吸収されて青色の光だけとなり、

海底の白い珊瑚礁(石灰)に反射して、鮮やかな青い海を映し出すそうです。



○エメラルドブルーの海

○より自然に、より自分らしく|やんばるネイチャーリゾート


トップに戻る



世界的にもサンゴの多い領域
海の中に目を向けなければならない時代

枝サンゴの群生とデバスズメダイ
慶良間諸島 座間味島


サンゴ礁は植物のように思われがちですが本当は動物で、

クラゲやイソギンチャクの仲間に分類される刺胞動物の一種で、

触手などに毒針を持っています。



サンゴは、動物でありながら植物と同じように二酸化炭素を吸収し、

酸素をつくりだす働きをしているため海を浄化する働きや

天然の防波堤としての役割、他の生物への影響など、

海中だけではなく地球にとって大変大きな役割を果たしているのです。



ひとことでサンゴといっても、世界には約800種類ものサンゴが存在し、

沖縄にはその約200種類のサンゴが確認されており、

世界的にもサンゴの多い領域といわれています。



このような美しいサンゴの沖縄の海をずっと残していきたいものです。

環境保全が世界規模で唱えられる今日、サンゴはもちろん環境のために

海の中に目を向けなければいけない時代がきているのです。



※ABOUT CORAL|沖縄サンゴ礁特設サイト



○いのち集まる流域 小網代の森|私たちが生きる地球の持続可能性


トップに戻る



南西諸島に存在した王制の国
琉球王国

首里城


1429年から1879年までの450年間にわたり存在した王制の国、琉球王国。

中国や日本、東南アジアとの盛んな交易により、

琉球独独自の文化が育まれたといいます。



首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、

王国統治の行政機関「首里王府」の本部だったそう。


トップに戻る



クーデターによる政権交代
第二尚氏の始まり

第二尚氏(だいにしょうし)初代・尚円王(しょうえんおう 1415-1476年)


琉球王国は、1429年、尚巴志(しょうはし)によって初めて統一権力が

確立されたとに始まるそうです。



その40年後の1469年、伊是名島(いぜなじま)の農夫出身である

金丸(かなまる)がクーデターにより政権を奪取します。

金丸は、中国皇帝との関係にも配慮して尚(しょう)王家を継承し、

尚円王(しょうえんおう)を名乗ったとされます。



琉球王国の歴史では、この政権交代以前の王朝を「第一尚氏王統」、

それ以後を「第二尚氏王統」と呼ぶそうです。



※首里王国とは|首里城公園より


トップに戻る



中国・日本との交流
大交易時代の幕開け

中国(明)への進貢船(しんこうせん) (部分) 沖縄県立博物館
マストには日の丸が掲げられています


中国大陸では、14世紀になると元朝の支配が揺るぎ、明朝が成立します。

明は琉球に対して新しい帝国が成立したことを正式に伝えるとともに、

新帝国の傘下に入るよう勧めます。



このことは、明の従属国となることを意味し、使節を派遣しして貢ぎ物を贈り、

その地位を承認・保障(冊封:さくほう)してもらうことでした。



貢(みつ)ぎ物を載せた船は、進貢船(しんこうせん)と呼ばれ、

帰りには中国の特産物を積んで戻ってきたそうです。



琉球から中国に運んで行ったのは、馬・硫黄・刀剣類・屏風・香辛料などで、

このうち琉球の産物は馬や硫黄(硫黄島採取)であり、

それ以外は日本産だったそう。



こうして中国・東南アジア・日本との大交易時代が幕開けします。



○ローマから続くシルクロードの中継点 西安

○混沌とした中に躍動感があふれるベトナム

○海運が支える日本の豊かな暮らし


トップに戻る



島津氏の琉球侵攻
薩摩藩の琉球支配

薩摩藩・島津家の居城であった鶴丸城(鹿児島城)跡


1609年、薩摩藩主の島津家久(しまづ・いえひさ)から

琉球征伐の命を受けた総大将の樺山久高(かばやま・ひさたか)は、

約3000の兵を乗せた70〜80隻余の軍船で薩摩の山川港から琉球

へ向けて出港しました。



鉄砲隊を主軸とした戦慣れした薩摩軍は、

奄美大島・徳之島・沖永良部島の島々をつぎつぎと攻略し、

3月25日には沖縄島北部の運天港に上陸しました。



さらに薩摩軍は読谷山(ゆんたんざ)(読谷村)を攻略し、

海上と陸上の両方から首里・那覇に進撃し、

4月1日には王都の中心である首里城に達しました。

琉球軍も抵抗しましたが、戦国時代を経験し圧倒的な軍事力を持つ

薩摩軍を相手になす術がなく降伏するしかありませんでした。



島津家久は徳川家康から琉球の支配権を与えられるとともに、

奄美諸島(大島・徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島の五島)は

薩摩の直轄領(ちょっかつりょう)になりました。

これ以後、260年余に亘って、

琉球は薩摩の支配下で国家としての存続が認められました。



※島津氏の琉球侵攻(1609年)|沖縄県公文書館



○鹿児島のシンボル 活きている桜島


トップに戻る



薩摩藩への納税を維持するための制度
人頭税

石と同じ背の高さになると課税されたと伝えられる人頭税石
宮古島平良市


薩摩藩からの厳しい税の取り立てに危機を迎えた琉球政府は、

体制維持のため、宮古島・八重山に「人頭税(にんとうぜい)」と

呼ばれる重税を課したといいます。



さらに島の役人(支配層)が特権を欲しいままにしたことから、

課税の苦しさに拍車をかけたそう。



宮古島の中心地、平良に残る人頭税石は、

この石と同じ背の高さになると課税されたと伝えられ、

理不尽な厳しい課税を象徴する存在となっているようです。



一般的に人頭税は、農民に頭割りで等しく課された税と理解しがちですが、

実際はそうではなく、一人ひとりが村別・年齢別・男女別にランクづけされており、

それに従って課されていたそうです。


トップに戻る



世界から独立国と認識されていた
琉球王国

マシュー・カルブレイス・ペリー
(Matthew Calbraith Perry, 1794年-1858年)


日本への黒船来航は、一般に1853年の浦賀(横須賀市)来航から

語られることが多いそうですが、ペリーは日本本土に行く前に琉球を訪れているそう。



琉球に訪れたのは、場合によっては琉球占領という意図があったといわれ、

江戸幕府に開国の要求書を渡した後に再び琉球へ戻ってくると、

首里王府を脅して貯炭庫家建設の権利を獲得したそうです。



翌年1854年、ペリーは江戸幕府と日米和親条約を結んだ後、

琉球王国と琉米修好条約を締結。

琉球王国はその後にフランス・オランダとも同様の条約を結んでいます。



この三条約は、沖縄がかつて独立国であった象徴的な意味があるといわれます。



○黒船ペリー来航の地・浦賀|歴史探索シーカヤック

○横浜に上陸したペリー


トップに戻る



強制的な廃藩置県
琉球処分

最後の琉球国王
第19代 尚泰王(しょうたいおう 1843年-1901年)


初代国王尚円(しょうえん)から19代目の国王尚泰(しょうたい)時代まで

約400年続いた第二尚氏王統(だいにしょうしおうとう)。



琉球王国は、1609年の薩摩藩の侵攻以来、表向きは中国の支配下にありながら、

内実は薩摩と徳川幕府の従属国であるという微妙な国際関係の中で存続してきた

そうです。



その後、明治維新により成立した日本政府は、1879年(明治12)に軍隊を派遣し、

首里城から国王尚泰(しょうたい)を追放して沖縄県の設置を宣言します。



その際、日本政府は琉球王国がアメリカ・フランス・オランダと結んだ

修好条約の原本を取り上げ、三条約は正式の条約と認めてこなかったことから、

この事については学校教育でも教えていないそうです。


トップに戻る



悲惨な戦いが繰り広げられた
沖縄戦

沖縄本島に上陸中のアメリカ軍 1945年4月


1945年3月26日、慶良間列島に上陸した米軍は、

4月1日に1,500隻近い艦船と延べ約54万人の兵員をもって沖縄本島に上陸を開始。



一方、日本の守備軍は、青年義勇隊や学徒兵も入れて約11万人といわれ、

その後3〜5ヶ月にわたり住民を巻き込みながら悲惨を極めた沖縄戦が始まります。



沖縄での戦闘は、6月23日未明に第32軍の牛島司令官と長参謀長が

自決したことにより、組織的戦闘は同日に終結したとされていますが、

その後も沖縄本島以外の各島や本島内でも局地的には引き続き

戦闘が行なわれており、南西諸島守備軍代表が降伏文書に調印したのは、

9月7日のことだったそうです。



この戦闘で、一般住民約10万人を含めた約20数万人が亡くなったといわれます。


トップに戻る



沖縄戦において米軍が最初に上陸した地
座間味島

座間味(ざまみ)島の玄関口 座間味港


那覇市の西方約40kmの位置にある慶良間諸島は、

渡嘉敷(とかしき)島・座間味(ざまみ)島・阿嘉(あか)島など

約20の島々から構成されています。



ケラマブルーと呼ばれる海にはサンゴ礁があふれ、

ザトウクジラの繁殖やウミガメの産卵といった貴重な営みがあることから、

2014年には慶良間諸島国立公園に指定されています。



1945年3月26日。

そのような場所に、米軍が沖縄戦において最初に上陸します。



○ケラマの島々を巡って|沖縄・慶良間諸島 シーカヤック・ツーリング


トップに戻る



強制された集団自決
慶良間諸島で何が起きたか

高月山展望台から見た古座間味ビーチ 座間味島


日本の戦争責任について研究されている関東学院大学教授

林博史 先生によれば、「集団自決」とは、

「地域の住民が、家族を超えたある程度の集団で、もはや死ぬしかないと

信じ込まされ、あるいはその集団の意思に抗することができず、

自決また相互に殺し合い、あるいは殺された出来事」とされています。



1945年3月には慶良間諸島にて、約600人が集団自決で亡くなったほか、

4月1日に詠谷村のチビチリガマで83人、

4月4日に具志川城跡の壕で132人、

4月2日〜4日にかけて美里村(現沖縄市)で40人余、

4月22日に伊江島のアハシャガマで約120人、

5月30日には玉城村(現南城市)前川で7人、

6月中旬に摩文仁村(現糸満市)のカミントウ壕で58人が亡くなるなど、

合計で1,000人を超える方々が命を落としたといいます。



自決には「自らの意志で態度・進退を決める」意味があることから、

「集団自決」という言葉自体、そぐわないという意見もあるようです。



※沖縄戦 強制された「集団自決」 林博史 吉川弘文館 2009
※証言 沖縄「集団自決」−慶良間諸島で何が起きたか 謝花直美 岩波新書 2008


トップに戻る



集団自決の構造
当時の教育の凄まじさ

 阿波連ビーチと沖のハナレ島 渡嘉敷島


「集団自決」が起きた要因には、地域社会における支配構造が背景にあり、

第1に、捕虜になることは恥であるという宣伝・教育が繰り返されたこと。



第2に、米軍に捕えられると男は戦車でひき殺され、

女は辱めを受けたうえで、ひどい殺され方をするとくりかえし宣伝・教育したこと。



第3に、米軍に投降しようとする者は非国民・裏切者とみなされ、

殺しても当然という意識が植えつけられ、

実際に戦場では投降しようとする日本人を日本軍が殺害していたこと。



第4に、日本軍とともに住民も玉砕するのだという「軍官民共生死の一体化」

意識が叩き込まれていたこと。



第5に、あらかじめ日本軍あるいは日本軍将校が住民に手榴弾を配布し、

いざというときはこれで自決せよと命令あるいは指示・勧告していこと、

などが挙げられるそうです。



※沖縄戦 強制された「集団自決」 林博史 吉川弘文館 2009
 なぜおきたのか「集団自決」の構造



○破壊と再生|日本型うつ病社会に別れを告げて

○より良い社会へ変えていく人たちを育てる|文教の府 文京区


トップに戻る



岩枕かたくもあらん安らかに
眠れとぞ祈る学びの友は

ひめゆりの塔
タイトルの詩は、ひめゆり学徒隊引率教師であった仲宗根政善先生が
捧げたもので「ひめゆりの塔の碑」表に記される


※相思樹の歌(別れの曲) 作詞:太田博 作曲:東風平恵位(こちんだけいい)


  日に親し 相思樹並木 往きかえり 去り難けれど

  夢の如 疾(と)き年月の 往きにけん 後ぞくやしき



  学舎の 赤きいらかも 別れなば なつかしからん

  吾が寮に 睦みし友よ 忘るるな 離(さか)り住むとも



  業なりて 巣立つよろこび いや深き 嘆きぞこもる

  いざさらば いとしの友よ 何時の日か 再び逢わん



  微笑みて 吾等おくらん すぎし日の 思い出秘めし

  澄みまさる 明るきまみよ すこやかに 幸多かれと 幸多かれと






1945年3月、看護要員として沖縄陸軍病院に動員された「ひめゆり学徒隊」。

教師などを目指した15歳から19歳の女学生123名が命を落としたそうです。



卒業式で歌われる予定だった「相思樹の歌(別れの曲)」は、

今はひめゆりの塔平和祈念館で静かに流れています。


トップに戻る



沖縄にとっての終戦日
6月23日

沖縄戦最後の激戦地であった摩文仁(まぶに:糸満市)に
整備された平和祈念公園


沖縄にとって終戦の日は8月15日ではなく6月23日なのだそう。



この日は、沖縄守備軍・第32軍の牛島満司令官が、

摩文仁にあった司令部の地下壕で自決をはかり、

沖縄での組織的な戦闘が終わった日とされています。



6月23日は沖縄県によって「慰霊の日」と定められ、

毎年、沖縄全戦没者追悼式が営まれています。



沖縄全戦没者追悼式は、米国施政権下の1952年に初めて開催され、

1990年の式典において海部俊樹首相が歴代首相として初めて参列したそうです。



○太平洋戦争の終焉|降伏文章の調印式が行われた戦艦ミズーリの甲板

○人々の幸せを願う広島

○異国情緒漂う街 長崎


トップに戻る



東アジア最大の米空軍
嘉手納飛行場

3,700mの長さがあるという2本の滑走路


沖縄本島中部の嘉手納町、沖縄市、北谷町にまたがる嘉手納飛行場は、

約3,700mの滑走路を2本有する極東で最大かつ最も活発な米空軍基地で、

第5空軍指揮下の第18航空団のホームベースとして、

防空、反撃、空輸、支援、偵察、機体整備等の総合的な役割を担っているそうです。



基地に隣接する居住地区には、学校、図書館、野球場、ゴルフ場、映画館、

スーパーマーケット等、多種の米軍向け支援施設があり、

国道58号西側の嘉手納マリーナ地区は、米軍人等の福利厚生施設になっているそう。



※FAC6037嘉手納飛行場|沖縄県より



○厚木基地 日米親善春祭り 2015

○よこすかスプリングフェスタ & 護衛艦いずも特別公開


トップに戻る



移転を余儀なくされた
軍用地接収

西原飛行場
(与那原飛行場 Yonabaru airfield, Okinawa 米軍呼称)


西原飛行場は、現在の西原町小那覇一体に戦中から戦後にかけて存在した飛行場。

それ以前、この地には畑が広がっていたそうですが、

旧日本軍による接収を受け、住民は移転を余儀なくされたといいます。



戦後は米軍による拡張工事が行われますが、

1859年(昭和34年)、沖縄に対して飛行場の返還予告を通知します。

その背景には、土地を返還することで住民感情を和らげる一方、

普天間基地を継続利用する意図があったといわれます。



住民は、コンクリートに覆われてしまった土地を返還されるより

継続使用を求めますが、予定通り返還されます。



※平成27年度 筑波大学大学院人文社会科学研究科 公開講座 2016.02
 変革期の社会と人間V―「破壊」と「再生」の歴史・人類学―
 ・「軍用地返還の経緯と跡地利用の実体験」 武井 基晃 先生(民俗学)
 【主催】 筑波大学 大学院人文社会科学研究科 歴史・人類学専攻
 【会場】 筑波大学 東京キャンパス文京校舎



○よこすか はじめて物語 近代化の礎を築いた横須賀製鉄所

○急激な近代化を遂げてきた日本 近代化の象徴 競馬


トップに戻る



元の姿には戻れない
軍用地の返還

石油精製会社など企業を誘致した西原飛行場跡地
写真は国外のオイルタンク群


返還から10年以上、利用の目途が立たなかった西原飛行場跡地は、

昭和40年代に入りエッソ石油(後に南西石油)など各種企業が立地します。



この地にあった仲伊保(なかいほ)集落の住民は、

元の土地に戻ることが叶わず、昭和52年に自治会は消滅します。



かつての集落は工場地帯に飲み込まれ、

集落の神を拝む拝所(うがんじゅ)だけが再建され残されています。


トップに戻る



有事の際、真っ先に乗り込んでゆく海兵隊の基地
普天間飛行場

オスプレイ
ヘリコプター部隊を中心に約70機が配備される普天間飛行場


宜野湾市の1/4の面積を占める普天間飛行場。

2800mの滑走路をもつ海兵隊の基地で、

ヘリコプター部隊を中心として約70機の航空機が配備され、

在日米軍基地でも岩国飛行場と並ぶ有数の海兵隊航空基地だそうです。



海兵隊は、有事の際には真っ先に現地に乗り込んでゆく部隊で、

そこが海岸線ならば、強襲上陸し、攻撃の拠点である

橋頭堡(きょうとうほ)を作るのが任務だといいます。



その時、空から作戦を支援するのが普天間飛行場の第一海兵航空団の役目で、

そのため、兵員・武器・弾薬の空輸訓練のほか、キャンプ・シュワブなどでは

偵察や対地攻撃など空と陸一体となった訓練を行っているそうです。



○America’s Passion|アメリカで最も人気のスポーツ フットボール


トップに戻る



一歩間違えれば甚大な被害
ヘリコプター墜落事故

沖縄国際大学に墜落したヘリコプターの跡


2004年8月13日、普天間基地に近接する沖縄国際大学構内に、

CH-53D大型輸送ヘリコプターが墜落。



同大学の本館建物の一部や周辺の樹木等が炎上又は破損したほか、

近隣の住宅等にも部品が屋内を貫通し落下するなど、多大な被害を与え、

民間人への被害はなかったものの、一歩間違えば甚大な被害を招きかね

ない深刻な事態だったそうです。



現場では、米軍以外の立ち入りが禁止され、

日本の消防・警察は入ることができなかったそうですが、

このことについて日本政府は、

「ヘリの機体や墜落原因、積載物などは軍事機密で、米軍の財産にあたる。

現場検証は日本側と密接な協力の下、実施され、問題は一切ない。」

との見解を示したそうです。


トップに戻る



世界で一番危険な米軍施設
普天間基地

飛行場周辺に密集する建物
宜野湾(ぎのわん)市


「世界で一番危険な米軍施設」。

2003年、沖縄を訪れたラムズフェルド米国防長官(当時)は、

普天間基地をこう表現したそうです。



現在の普天間基地周辺の密集は、米軍が飛行場を建設する際に

密集地を選択したからではなく、建設後によるものだといいます。


トップに戻る



飛行場の建設が予定されている
辺野古

キャンプ・シュワブ 突き出た部分は辺野古岬
(名護市・宜野座村)


海兵隊の戦闘部隊や戦闘強襲大隊、偵察大隊などが常駐している

キャンプ・シュワブの周辺海域には普天間に代わる飛行場建設が

予定されているそうです。



約1800mの滑走路を二本建設し、離着陸で使い分けるV字案は、

辺野古崎を貫き、辺野古湾から大浦湾に至る海域を埋め立てる計画だそう。


トップに戻る



沖縄の基地負担軽減につながる
辺野古移転

キャンプ・シュワブでの演習 (名護市・宜野座村)
DVIDS


辺野古移転が、沖縄全体の基地負担の軽減につながることに

議論の余地はないそうです。



普天間基地の面積480ha(1ヘクタール = 10,000u)に対して

辺野古崎につくる飛行場は半分以下の210ha。



このうち50haはキャンプ・シュワブの敷地内となり、

辺野古崎周辺の海を埋め立ててつくる残りの160haもシュワブの基地海域であり、

現在も海水浴をしたり自由に漁ができる場所ではないそうです。



既存のキャンプ・シュワブ内に飛行場を作ることで、

名護市の市有地や民間の土地を新たに買ったりする必要もなく、

移転が実現すれば、普天間の480haは更地となり跡地利用ができ、

何よりも騒音被害を受ける周辺住民は激減することになるそうです。




移転先が辺野古になった理由は、

この地域の過疎化が進み、基地の誘致運動があったからだといいます。

辺野古への移設は5000億円規模の大公共工事になるそうで、

このお金が県内か県外かでは地元の業者の生活が天と地ほども違ってくるようです。



※沖縄の不都合な真実 大久保潤, 篠原章 新潮新書 2015
 第1章 普天間問題の何が問題なのか


トップに戻る



公の場で明言
基地と沖縄経済はリンクしている

グルクン(タカサゴ)


2011年10月、(沖縄県)北部振興推進・名護大会において、

元名護市長の島袋氏は、こう明言したそうです。



  基地と経済はリンクしていることを、今日みなさんと確認しようじゃありませんか。

  基地なくして振興策はありません。

  知事(仲井眞氏)や名護市長(稲嶺氏)は、県外(移設)と言いますが、

  振興策は受け入れの見返りとしてリンクさせなければなりません。

  みなさんと一緒に一括交付金3000億円を勝ちとっていきましょう。




また2013年3月、辺野古海域の漁業権を持つ名護漁業協同組合は

臨時総会を開き、普天間基地の辺野古崎移転に伴う沿岸部の

埋め立てに同意する決議をしたそうです。

海の埋め立てで漁業関係者には振興策とは別に多額の補償金が入るといいますが、

名護漁業組合長の古波氏は、もっとはっきり発言したそうです。



  辺野古移設に我々海人(ウミンチュ)がなぜ賛同しているか不思議に思うでしょう。

  基地の建設場所は軍用地域の中にあって、

  我々は今も自由に操業できる場所ではありません。

  新基地建設ではないんです。勘違いしないでください。

  それなら普天間の危険を早くなくすことに協力した方がいい。

  政治家に言いたい。

  島懇事業や北部振興策は普天間移設とリンクしていないというが、

  それは真っ赤なウソです。

  理由もなく大事な血税を北部のために流すわけがない。

  普天間の移設が前提となっているから流れるんです。

  政治家はもっと素直になって「リンクしている」とはっきり言って下さい。



※沖縄の不都合な真実 大久保潤, 篠原章 新潮新書 2015
 第2章 高まる基地への依存



○ありのままの自分|Here I stand and here I'll stay


トップに戻る



複雑に絡み合う基地問題
立場によって異なる視点

辺野古への新基地建設と県内移設に反対する県民大会
沖縄県宜野湾海浜公園 2009年11月8日


○沖縄県の意向 ⇒ 基地の県外移設
○政府の意向 ⇒ 普天間基地の辺野古移転
○宜野湾市民の意向 ⇒ 辺野古移転は反対(57%)
○宜野湾市長の意向 ⇒ 辺野古移転について言及せず
○名護市の意向 ⇒ 辺野古移転は反対、
               名護市にある基地(キャンプ・ハンセン)は継続使用を求める


※普天間基地は宜野湾市、辺野古(キャンプ・シュワブ)は名護市・宜野座村



普天間飛行場を抱える宜野湾市。2016年1月26日に行われた市長選では、

普天間飛行場の名護市辺野古への県内移設計画を推進する

政府・与党が推す現職の佐喜真淳(さきま・あつし)氏が、

移設に反対する沖縄県の翁長雄志(おなが・たけし)知事が全面支援した

新人の元県幹部、志村恵一郎氏を大差で破って再選を果たしました。



選挙に伴い沖縄タイムス社と朝日新聞社、琉球朝日放送(QAB)が

実施した市民調査では、普天間飛行場の名護市辺野古への移設について、

「賛成」と答えたのは34%、「反対」は57%だったそうです。



再選した佐喜真氏は、この選挙にあたって

「辺野古移設」について何も言及しなかったそうです。


トップに戻る



国民負担の軽減につながる
沖縄基地の縮小

財務省・国税庁 霞が関


沖縄には多くの基地があることから、

その見返りとして特別な法律で沖縄の振興が義務付けられているそうです。



沖縄の基地を減らせば減らすほど、特別な振興予算も

ガソリンや泡盛の特別な減税措置も大幅に減らすことができ、

沖縄振興だけのために1,000人の職員がいる内閣府沖縄総合事務所も、

沖縄振興のためだけの銀行である沖縄振興開発金融公庫もなくせることで、

その分、国民の税負担は軽減するといわれます。



沖縄にある米軍基地の年間賃借料は811億円といわれ、

このすべてが税金で賄われてるそうです。



一方、本土のほとんどの基地は国有地なので借地料がかからず、

仮に沖縄から本土への基地移転が実現すれば、

それだけで借地料は大幅に減らせるといいます。



軽減した税金は、医療や福祉、教育のために使える上に、

沖縄の騒音や事故・事件が激減し、国民全体の利益になると考えられています。



○財政健全化への取組み|失われた25年から学んだこと


トップに戻る



基地と政府財政に依存してきた
沖縄

沖縄の振興開発を担う国の総合出先機関
沖縄総合事務局 (那覇市)
沖縄振興のために1,000人の職員がいるそうです


沖縄県は、他県に比べて自前の稼ぎや収入に当たる「自主財源」が少なく、

親からの仕送りに当たる政府からの「国庫支出金」や「地方交付税」など

の財政依存度が高いといいます。



沖縄県土面積に占める米軍基地の比率も高く、県全体の10%、

基地が集中する沖縄本島では全面積の20%近くを占め、

基地は面積だけでなく、年間2000億円を超す基地収入をもたらし、

9,000人の雇用をもたらすなど、基地経済に依存する経済構造になっているそうです。



依存経済の現状を端的に表現する言葉として「3K経済」がありますが、

3Kとは「観光・公共事業・基地」を主要な収入源としていることから、

その頭文字をとったものだそう。



※第四版 観光コースでない沖縄―戦跡・基地・産業・自然・先島
 W 沖縄の産業・経済:自立への道 前泊博盛 高文研 2008


トップに戻る



基地依存の割合は
低下傾向

キャンプ・フォスターのゲート


沖縄県の経済は、米国施政権下の戦後復興や高度経済成長下における

日本の経済発展の過程から切り離されていたことなどもあり、

総じて第二次産業(建設・製造業)が振るわず、

基地依存の消費型経済構造が形成されたそうです。



日本復帰後は、道路や港湾、空港などの社会資本の整備に加え、

就業者数の増加や観光、情報通信産業等の成長など、着実に発展してきた結果、

基地関連収入の沖縄県経済に占める割合は、

復帰直後である昭和47年の15.5%から平成23年度は4.9%となり、

その比重は低下してきているそうです。



※(よくある質問)米軍基地と沖縄経済について|沖縄県


トップに戻る



基地依存の経済規模は
増加傾向

Children from Chatan town visit Kadena, interact with American children
DVIDS


基地依存度は大きく減少しているそうですが、その一方、

基地経済の規模は復帰時の777億円から1743億円と2.3倍に膨らみ、

統計には表れない県や市町村の基地関連収入286億円(05年)を加えると、

2000億円を超え復帰時の3倍の額にまで膨らんでいるといわれます。



沖縄県の統計に出で来る「基地経済=軍関係受取」の中身は、

軍用地料、基地従業員所得、米軍の消費支出の3つを指しているそう。



2005年の年間基地収入2,006億円のうち、軍用地料は775億円、

約9,000人の基地従業員の所得が約599億円、

米軍人・軍属・家族の消費支出が632億円だったといわれ、

このうち軍用地料と基地従業員の給与は、日本の税金で支払われているそうです。



※第四版 観光コースでない沖縄―戦跡・基地・産業・自然・先島
 W 沖縄の産業・経済:自立への道 前泊博盛 高文研 2008


トップに戻る



沖縄経済の主要をなす
観光収入と基地収入の比較

主要な沖縄観光の1つ 玉泉洞 おきなわワールド


沖縄経済の主要をなす観光収入と基地収入。

沖縄県民総所得の中では観光と基地関連の収入が同じように並べられるそうですが、

実は観光収入は売上ベースであり、基地関連収入は利益ベースなのだそう。



2005年でみると、観光は約4,000億円の売上額があり、

利益率20〜30%とすると約800億円から1,200億円が利益となり、

基地収入約2,000億円の半分程度の規模だったそうです。


トップに戻る



二次産業が発展しない
一つの理由

オリオンビール 名護工場


沖縄で二次産業(製造業)が発展しない理由の一つとして、

二次産業を育てる支援をしても、直ぐに辞めてしまう傾向があるといわれます。


トップに戻る



高い失業率が示すもの
全国一の失業率と低い給与水準

沖縄県働く気持ち応援PROJECT 2013-2014
沖縄県商工労働部雇用政策課


沖縄は高失業の島として全国に知られ、完全失業率は、

日本復帰から一貫して全国平均の約2倍の水準で推移してきたそう。



2015年の完全失業率(年平均)は、

日本全国は3.4% (労働力調査:総務省統計局)に対して、

沖縄は5.1% (沖縄県企画部統計課)になっています。



沖縄の失業問題は、若者の失業率の異常な高さに特徴があり、

2002年には14.6%(全国8.4%)と最悪を記録し、以降も全国の倍近い

状況にあったといいます。



その背景には、「地元志向の強さ」「公務員志向の強さ」が指摘され、

沖縄の若者は、沖縄が大好きで、沖縄以外に出るのを極端に嫌い

安定的な仕事に就きたい特徴があるようです。



○働く貧困層 ワーキング・プア問題


トップに戻る



人気が高い
米軍基地従業員養成学校



沖縄では一般的な仕事より米軍関係の仕事の方が給与が高いのだそう。

米軍基地従業員を養成する専門学校は人気が高いといいます。



その給与は日本の税金から支払われているそうです。


トップに戻る



日本一の格差社会
沖縄

足なえたち ピーテル・ブリューゲル 1568年 ルーヴル美術館
The Cripples Pieter Bruegel


総務省の全国消費実態調査(2009)によると、

貧富の差を示すジニ係数が、沖縄は0.339と全国一だったそうです。



また内閣府の調査(2006)では、

沖縄で所得が1000万円を超える納税者の割合は10.2%で全国9位。

ベスト10の都市で、大都市圏でないのは沖縄だけで、

平均所得は最低レベルなのに地方都市では最も金持ちが多いという、

すさまじい格差社会のようです。



かつて沖縄に存在したという人頭税(にんとうぜい)。

その厳しい税の取り立てに拍車をかけたのは、

地元の支配層が特権を欲しいままにしたことだったといわれますが、

その事を彷彿させるインパクトがあります。



絵画は16世紀フランドルの画家、ピーテル・ブリューゲルが描いた「足なえたち」。

「足なえ」は、足に障がいをもち歩行が不自由なことだそう。



絵画では、レンガ造りの病院の中庭で松葉杖をつく5人の乞食と、

右奥には寄付を募る喜捨(きしゃ)のお皿をもった婦人が描かれています。



松葉杖をつく5人の乞食たちは、被っている帽子から

司教、貴族、上官、市民、農民と社会的階層が違うことを示しているといいます。



そのうち4人は何本もの狐の尻尾を衣服につけており、

偽善や格差、貪欲に対する批判が暗示されているよう。



○障がいを越えて共に生きる


トップに戻る



沖縄らしい自然
繁殖のためにやってくるザトウクジラ



体長14m、体重30tにもなるというザトウクジラ。

沖縄には毎年冬から春にかけて繁殖のために訪れるそうです。



雄クジラと雌グシラは、求愛・交尾の短い期間しか行動を共にしないそうで、

生まれた子クジラは母クジラと約1年ほど一緒に過ごすといわれます。



繁殖期間は原則、餌を食べないといわれ、

春になると餌をもとめて北の海に向かうそうです。



○冬の沖縄の海に現われるザトウクジラ


トップに戻る



沖縄らしい自然
豊かな亜熱帯林



沖縄県内では本島に次ぐ大きさをもつ西表島。島の約9割が森林に覆われ、

仲間川や浦内川などの河口付近にはマングローブ林が発達し、

山麓部は、主としてオキナワジイやオキナワウラジロガシなどの

常緑広葉樹を主体とする天然林に覆われています。



これらの森林には、イリオモテヤマネコをはじめ、カンムリワシ、セマルハコガメ、

キシノウエトカゲといった西表島固有種や八重山地域の特産種をはじめとする

希少な野生動物、ヤエヤマヤシやニッパヤシなど珍しい植物が生息・生育しています。



また、川には、マリユドゥの滝、ピナイサーラの滝など、数多くの美しい滝がかかり、

豊かな亜熱帯林の自然とともに素晴らしい景観を創出しています。



※九州森林管理局/西表森林生態系保全センター - 林野庁



○ぱいぬ島ストーリー


トップに戻る



沖縄らしい伝統・文化
神を祀る御嶽

琉球王国の聖地とされる斎場御嶽(せーふぁうたき)
三庫理(さんぐぅい) 南城市


沖縄の村や町には、神を祀った御嶽(うたき)と呼ばれる場所

(本土でいう神社のような存在)があるそうです。



御嶽の中には拝所(うがんじょ)があり、その先の砂地の上には香炉が置かれ、

ここから先は「イベ」という神の座であり女神以外は入れないのだそう。



祀られている神は、村の創始者などの先祖神(祖霊神・氏神)が多いそうですが、

海の彼方からやってきて幸福をもたらすという来訪神が祀られていることもあるそうです。



斎場御嶽(せーふぁうたき)は琉球王国の聖地だそうで、

国家的な祭事には聖なる白砂を「神の島」といわれる久高島から運び入れ、

それを御嶽全体に敷きつめたと伝わります。



最も大きな行事は、聞得大君(きこえおおぎみ:最高神女)の就任式である

「お新下り(おあらおり)」で、斎場御嶽は、琉球国王や聞得大君の聖地巡拝の

行事を今に伝える「東御廻り(アガリウマーイ)」の参拝地として、

現在も多くの人々から崇拝されているそうです。



○人間の心のあり方を理解する|日本人の精神性を探る旅

○神々の棲む森 やんばるカヤック&トレッキング


トップに戻る



沖縄らしい伝統・文化
ウチナンチュのアイデンティティ

エイサー 恩納村瀬良垣青年会


明治政府の沖縄処分によって日本に組み入れられた沖縄は、

沖縄戦では忘れがたい苦しみと悲しみを受け、

その後、27年間にわたりアメリカ統治下に置かれてきました。



ウチナンチュ(沖縄人)のアイデンティティが傷つけられる中、

沖縄に生きる人びとは方言(ウチナーグチ)や伝統的な踊りの入る演劇に、

笑い、涙を流してきたといいます。



戦争によって打撃を受けた伝統芸能は、その後、衰退してしまった訳ではなく、

むしろ興隆してきたようにも思えます。



それは伝統芸能の中にウチナンチュのアイデンティティを主張してきたかのよう。

ダイナミックで勇壮活発なエイサーは、民衆の生活の中から生まれたといわれます。



○日本人の音楽的アイデンティティ|新たな響きが奏でる未来

○日本の伝統演劇|舞台芸術の根源的な魅力

○カムイありて我あり、我ありててカムイあり|アイヌの人たちとともに


トップに戻る


【必見】沖縄全島エイサーまつりPV 沖縄市のエイサーはハンパない!

トップに戻る



常夏の国 私たちの島
うちなー

芭蕉


※芭蕉布(ばしょうふ) 作詞:吉川安一 作曲:普久原恒勇


  海の青さに 空の青 南の風に 緑葉(みどりば)の

  芭蕉は情けに 手を招く 常夏の国 我(わ)した島 沖縄(うちなー)



  首里の古城の 石だたみ 昔を偲ぶ かたほとり

  実れる芭蕉 熟れていた 緑葉の下 我(わ)した島 沖縄(うちなー)



  今は昔の首里天じゃなし 唐をぅつむぎ 機(はた)を織り

  上納ささげた 芭蕉布 浅地紺地(あさぢくんぢ)の 我(わ)した島 沖縄(うちなー)




芭蕉から採取した繊維を使って織られた布、芭蕉布(ばしょうふ)は、

国の重要無形文化財に指定され、丈夫で涼しく、

着物やテーブルクロス・クッションカバーなど、

様々なものとして利用されているそうです。



○眩しい日差しを浴びながら海風にそよぐ花|ハイビスカス・ブーゲンビリア


トップに戻る



光が射し込む沖縄
天地に鳴りとどろく太陽

 平良湾に昇る初日の出 沖縄県国頭郡東村 2010.01.01


※沖縄・奄美諸島でうたわれた古い歌謡「オモロ」の代表的な歌


  天に鳴響(とよ)む大主 明けもどろの花の 咲い渡り

  あれよ 見れよ 清(ちゅ)らやよ 又 地天鳴響む大主



  天をどよもす太陽よ 明けもどろの花が 咲き渡っていく

  あれ、見よ! なんと美しいことよ 天地に鳴りとどろく太陽よ





遠い水平線の向こうから、天空に無数の光の矢を放ちながら、

太陽が海面を金色に染めてぐんぐん昇ってくる光景を、

沖縄の昔の人々は「明けもどろの花」と表現したそうです。



※沖縄修学旅行 新崎盛暉, 村上有慶, 目崎茂和, 梅田正己, 仲地哲夫
 X 沖縄の暮らしと文化, 沖縄の歌と踊り 高文研 2005
※沖縄の歴史と文化 外間守善 中公新書 1986



○森と湖が広がる北欧の国 フィンランド|不屈の精神から新たな地平へ

○太古からの生命が息づく奄美大島


トップに戻る



みんなで創るみんなの美ら島
未来のおきなわ

かつて2つの政府(米民政府と琉球政府)があった地に建つ
沖縄県庁


21世紀に求められる人権尊重と共生の精神を基に、

“時代を切り拓き、世界と交流し、

ともに支え合う平和で豊かな「美ら島」おきなわ”を創造する。



※沖縄21世紀ビジョンの基本理念


トップに戻る



日本復帰に際して植えられた
リュウキュウマツ

「都道府県の木」碑|皇居東御苑に植えられる都道府県の木


皇居東御苑に植えられる都道府県の木。

沖縄の県木リュウキュウマツは、日本に復帰した1972年に植えられたそうです。



○日本人の心を形成してきたもの|生きる指針となるものを探る

○日系カナダ移民の歴史と日本人の精神性

○象徴天皇制と平和主義|国事に関する行為が行われる宮殿


トップに戻る



参  考  情  報


○おきなわ物語|沖縄観光情報WEBサイト

○沖縄サンゴ礁特設サイト

○沖縄県公式ホームページ

○沖縄の歴史と文化/沖縄県教育委員会

○琉球文化アーカイブ|沖縄県立総合教育センター

○首里城公園 ‐ 琉球王国の栄華を物語る 世界遺産 首里城

○沖縄県立博物館・美術館

○沖縄県公文書館

○沖縄市民平和の日(平和学習コンテンツ)トップページ | 沖縄市役所

○沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

○NHK 戦争証言アーカイブス

○沖縄戦関係資料閲覧室|内閣府沖縄振興局

○【公式】ひめゆり平和祈念資料館

○沖縄県営平和祈念公園

○今帰仁村歴史文化センター

○普天間基地@米軍飛行場がある暮らし

○ヘリ基地反対協議会

○沖縄に内なる民主主義はあるか

○在日米国海兵隊ホームページ

○防衛省・自衛隊:沖縄県における米軍施設・区域の整理・統合・縮小

○内閣府 沖縄総合事務局

○独立行政法人 駐留軍等労働者労務管理機構

○日本の現代史と戦争責任についてのホームページ|林博史研究室

○おきなわワールド

○座間味村ホエールウォッチング協会

○ケラマカヤックセンター

○ケラマオーシャン グラスボートツアーのお店 沖縄 座間味島

○九州森林管理局/西表森林生態系保全センター - 林野庁

○琉球王国最高の聖地 世界文化遺産「斎場御嶽」

○沖縄21世紀ビジョン | みんなで創る みんなの美ら島 未来のおきなわ

○琉球大学公式ホームページ

○宮古島キッズネット | 子どものための宮古島総合データベース

○沖縄発!役に立たない写真集

○DVIDS - Defense Video & Imagery Distribution System

○フリー百科辞典Wikipedia

○沖縄修学旅行 新崎盛暉, 村上有慶, 目崎茂和, 梅田正己, 仲地哲夫
 高文研 2005

○第四版 観光コースでない沖縄―戦跡・基地・産業・自然・先島
 新崎盛暉, 松元剛, 前泊博盛, 仲宗根將二, 亀山統一, 謝花直美,
 大田静男 高文研 2008

○ひめゆりの塔をめぐる人々の手記 仲宗根政善 角川ソフィア文庫 1995

○ひめゆりたちの祈り 沖縄のメッセージ 香川京子 朝日新聞社 1992

○沖縄戦 強制された「集団自決」 林博史 吉川弘文館 2009

○証言 沖縄「集団自決」−慶良間諸島で何が起きたか 謝花直美
 岩波新書 2008

○沖縄の歴史と文化 外間守善 中公新書 1986

○沖縄の不都合な真実 大久保潤, 篠原章 新潮新書 2015

○本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること
 ―沖縄・米軍基地観光ガイド 矢部宏治, 須田慎太郎 2011

○醜い日本人―日本の沖縄意識 大田昌秀 岩波現代文庫 2000

○「きけわだつみのこえ」の戦後史 保阪正康 文春文庫 2002

○琉米条約、米にも原本 「琉球は独立国」裏付け 国際的に重み
 琉球新報 2015年3月1日

○<社説>琉米条約確認 自己決定権回復に英知を
 琉球新報 2015年3月2日

○江名武彦「学徒出陣と特攻」 校友・元海軍神風特別攻撃隊 2013.05
 早稲田大学 大隈講堂
 2013年春季企画展「ペンから剣へ」−学徒出陣から70年−講演会

○平成27年度 筑波大学大学院人文社会科学研究科 公開講座 2016.02
 変革期の社会と人間V―「破壊」と「再生」の歴史・人類学―
 ・「軍用地返還の経緯と跡地利用の実体験」 武井 基晃 先生(民俗学)
 【主催】 筑波大学 大学院人文社会科学研究科 歴史・人類学専攻
 【会場】 筑波大学 東京キャンパス文京校舎

○破壊と再生の歴史・人類学−変革期の社会と人間−
 伊藤純郎・山澤学編 筑波大学出版会 2016年秋刊行予定

○海南小記 柳田国男 角川ソフィア文庫 2013

○歴史からみる中国('13)
 主任講師: 吉澤誠一郎 先生 放送大学客員准教授・東京大学大学院准教授

○屋久島の森に眠る人々の記憶 2016.02
 ・本フォーラムの趣旨説明 柴崎茂光 先生(国立歴史民俗博物館准教授)
 ・民俗研究映像「屋久島の森に眠る人々の記憶」
 ・林業遺構に関する保存の現状−北海道の事例
   八巻一成 先生(森林総合研究所北海道支所主任研究員)
 ・宮之浦集落における岳参りの歴史
   渡邉剣真 先生(宮之浦岳参り伝承会 所願(トコロガン))
 ・参照映像 「復活した岳参り」
 ・島のモノサシ、外のモノサシ、その違い−民俗研究映像の可能性
   安藤潤司 先生(元南日本新聞社屋久島支局長)
 ・屋久島の生業・暮らしに関する映像今昔
 ・総合討論
  〈パネリスト〉八巻一成 先生、渡邉剣真 先生、安藤潤司 先生
  〈討論司会〉 柴崎茂光 先生
 ・閉会挨拶 総合司会 柴崎茂光 先生
 ・場所 新宿明治安田生命ホール

○社会保障と税の一体改革に向けて 2016.03
 講師 川瀬透 先生 関東財務局総務部長
 会場 かながわ県民センター
 主催 神奈川県政モニターOB会

○佐藤優の沖縄評論 佐藤優 光文社知恵の森文庫 2014

○私の「情報分析術」超入門 仕事に効く世界の捉え方 佐藤優 徳間書店

○これまでに訪れた沖縄
 01. 96.02 沖縄本島
 02. 98.07 渡嘉敷島
 03. 99.02 沖縄本島
 04. 99.07 石垣島
 05. 99.10 座間味島
 06. 00.07 渡嘉敷島
 07. 00.12 宮古島・沖縄本島
 08. 01.01 沖縄本島
 09. 01.12 西表島・竹富島・石垣島
 10. 02.02 与那国島・石垣島
 11. 02.05 粟国島・沖縄本島
 12. 03.05 沖縄本島
 13. 04.01 沖縄本島
 14. 04.12 座間味島
 15. 05.08 座間味島・阿嘉島・慶留間島
 16. 06.03 沖縄本島
 17. 06.08 座間味島
 18. 07.12 座間味島
 19. 09.12 沖縄本島
 20. 11.05 石垣島
 21. 12.04 久米島・沖縄本島


トップに戻る

Copyright (C) 2016 MOON WATER All rights reserved