人間の弱さと限界、そこからの可能性

パスカル「パンセ」


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自分の専門に閉じこもることを拒否する
オネットム(紳士・教養人)の普遍性

フランスの数学・哲学者 ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623-1662)


※195 すべてについて少し 人間の認識から神への移行
  「パンセ(上)」 パスカル 塩川徹也(訳) 岩波文庫 2015 p236-237


  すべてについて知りうることのすべてを知って、

  万能になるのはできない相談だから、

  すべてについて少しだけ知らなければならない。



  なぜならあることについてすべてを知るよりは、

  すべてについていくらか知るほうが見事だからだ。

  こちらの普遍性のほうがもっと美しい。



  両方をあわせもつことができれば、もっとよいだろう。

  しかし、選ばなければならないとしたら、こちらのほうを選ばなければならない。

  そして世間はそう感じ、そのように実行する。

  なぜなら世間は往々にしてよい判断を下すものだから。




パスカルの言う「すべてについて少し」は、自分の専門に閉じこもる

ことを拒否する「オネットム(紳士・教養人)」の普遍性を指摘します。



フランスを代表する哲学者、ミシェル・ド・モンテーニュ(1533-1592)もまた、

自らの教養をそのように捉えています。



※エセー モンテーニュ 第1巻 25章 子供たちの教育について


  ここにお見せするのは、子供時代にいろいろな学問のほんの上面(うわつら)を

  味わっただけで、その大体の漠然とした顔立ちしか覚えていない人間の夢想

  にすぎないことは、誰よりも私がよく承知しています。

  つまり、私は、フランス流に、何でも少しずつはかじっていますが、

  何一つ完全に知らないのです。





近代以降、学術と文化の専門化、細分化はとどまることを知らないが、

近代の出発点にはまだレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)や

ライプニッツ(1646-1716)のような万能の天才が輩出する精神風土があった。



パスカル(1623-1662)はその一人であり、数学、物理学、文学、哲学、宗教

のいずれの分野でも目覚ましい活動を展開し、その刻印を歴史に残した。

しかもその多面的な活動は互いに分離しているのではなく、

緊張をはらみながら密接に関連している。

彼において科学的な合理性は、一方では人間の心と振る舞いへの繊細なまなざし、

他方では自然と人間を超える超越的な次元への憧憬(しょうけい)

そして信仰と一体になって働いている。

「パンセ」はそのことを如実(にょじつ)に感じさせてくれる書物である。



※解説1 「パンセ」とはいかなる<書物>か 塩川徹也 先生 東京大学名誉教授
 「パンセ(上)」 パスカル 塩川徹也(訳) 岩波文庫 2015 p437



○生命の跳躍|海洋を統合的に理解する

○人類から遠く離れた孤独の中に住む 世界の本質


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数学・物理で多大な功績を残したパスカル
観察の対象は科学から人間へ

パスカルが生まれたクレルモン=フェラン(Clermont-Ferrand) フランス
ミシュランの本社があることでも知られます


「科学革命」の世紀と呼ばれる17世紀の前半、

フランスのクレルモンに生まれたブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623-1662、39歳)。



12歳のときに、三角形の内角の和が二直角であることを証明し、

16歳で、円錐曲線に関わる「パスカルの定理」を明らかにしたと伝えられます。

20歳前後には、歯車を用いた史上初の機械式計算機を考案製作し、

30歳前後では、「パスカルの原理」を明らかにしたそうです。



今日のブルドーザーや自動車、航空機などに活用される油圧の仕組みは、

パスカルの原理「密封した容器中の静止している流体(液体・気体)の

一部に加えた圧力は、流体内のすべての部分に同じ圧力で伝わる」

を応用したものだそうです。



パスカルは数学・物理の世界で多大な功績を残しますが、その一方では、

敬虔(けいけん)で熱烈(ねつれつ)なカトリック教徒であり、父・エチエンヌとの死別、

神との出会いともいうべき出来事に遭遇して、人生の意味について

深く考えるようになり、観察の対象は科学から人間へと向き始めます。



○進化するテクノロジー|人間のフロンティア

○豊かな放送文化を創造する人とメディアの未来

○持続可能なモビリティ社会を目指して|日産追浜グランドライブ体験試乗


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人間の弱さと限界、そこからの可能性を示唆する
パンセ

「パンセ(Pense'es)」 Second Edition


「考える葦(あし)」や「クレオパトラの鼻」といった名言が

特に知られるパスカルの遺稿集「パンセ(Pense'es)」。



「パンセ」は、パスカルの残した文章を関係者が集めて編纂したものだといい、

死後8年を経た1670年、「死後書類の中から見出された宗教および

若干の主題に関するパスカル氏の断想(パンセ)」という題名で公刊されたそうです。



「パンセ」は「断想・黙想録」と訳されるとともに、フランス語で「考える・思想」という

意味があり、パスカルは「パンセ」のなかで、人間の精神には、ひたすら数学的

合理性を追求する「幾何学的精神」以外に、日常的に使い慣れた原理に従い、

微妙で多様な現実を見逃さない「繊細な精神」というものがあると語っていますが、

パスカル自身、その双方を兼ね備えた人物であったようです。



パスカルの「パンセ」は、

合理的で冷徹な科学者の視点から人間の心の特徴を分析した書であり、

理性の落とし穴を鋭く指摘し、人間の弱さと限界、そしてそこからの可能性を示唆します。



○哲学からみた人間理解|自分自身の悟性を使用する勇気を持つ


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自分の弱さに驚かず
理性と正義を知っているかのように振舞う人間

「聖ペテロの否認」 1609年頃 カラヴァッジョ メトロポリタン美術館


何とも驚き入るのは、世間の誰一人として自分の弱さに驚いていないことだ。

人は真剣に行動し、各人は自らの境遇に従う。

それが流行だからとじっさいにそうするのがよいというのではなく、

各人あたかも理性と正義がどこにあるかを確実に知っているかのように振舞っている。



ところが期待はいつでも裏切られる。

それなのに、人はおかしな謙遜(けんそん)を発揮して、

失敗したのは自分のせいであり、

自分が会得したと始終自慢している技のせいではないと思い込んでいる。



しかしながらこの世にこれほど大勢、懐疑論に従わない人々がいることは、

懐疑論の名誉にとって好都合だ。それは人間が、どれほど常軌を逸した意見

でも信じかねないことを示すのに役立つではないか。

何しろ人間ときたら、生来の弱さは不可避ではなく、

それどころか自分は生来賢いと思い込みかねないのだから。



懐疑論に従わない人々の存在ほど、懐疑論を強化するものはない。

もし全員が懐疑論者であれば、懐疑論は間違っていることになるだろう。



※33 むなしさ 「パンセ(上)」 パスカル 塩川徹也 岩波文庫 2015 p53



○循環型社会の基盤にあるもの|強さばかりでなく、弱さに目を向ける

○世界の美術が凝縮されたメトロポリタン美術館


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自分の感覚こそが世界のすべて
堂々と勘違いしている人間

超音波を認識できるフクロウ


私たちには五感があります。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、

そして熱冷圧痛などの皮膚内臓感覚の5種の感覚です。

私たちの感覚器官は、こうした情報を驚くほど巧妙なしくみで感受し、

こんなにも彩り豊かな「世界」を感じています。



しかし、その世界はあくまでもヒト固有の感覚器で感知することで

ヒトが知り得たヒト固有の情報世界であることを忘れてはなりません。

ヒトは自然界に存在する環境情報のうちの限定的な部分のみを

感じとっているにすぎないともいえます。



たとえば、ヒトは磁気や紫外線、放射能などを感知することはできません。

「感知していない」という劣等感はおろか、

感知していない事実への「気付き」すらありません。

当然ながら、感知し得ない感覚については、

それがどんな世界であるかを想像することすらできません。

それなのにヒトは自分の感覚こそが「世界のすべて」であると堂々と勘違いしています。



たとえば「黄色」とはなんでしょうか。

ヒトの網膜には、赤色と緑色と青色を感じるセンサー細胞があります。

いわゆる光の三原色です。しかし、改めて考えてください。

私たちが持っているセンターは、たったの三色だけ。

黄色のセンサーは持ちあわせていません。

つまり、私たちは「黄色」という質感を感じないはずなのです。

晩秋になれば東大キャンパスを彩る、あの黄色いイチョウの葉の美しさを、

では、なぜヒトは感じることができるでしょうか。

本物でないとしたら、色づいたイチョウは、実際にはどんな「色」をしているのでしょうか。

不思議な気分になります。



突き進めて考えると、究極の問いに行き着きます。

この私たちの素晴らしき「感覚世界」は、そもそも一体何なのでしょうか。

バーチャルな世界にすぎないのでしょうか。

鳥や昆虫も、ヒトと似た「世界」を感じているのでしょうか。



光のうち目に見える波長が「可視光」です。この波長範囲を外れると、

紫外線や赤外線などと呼ばれ、目で見ることができません。

一方、耳に聞こえる波長の音は「可聴音」です。

たとえば、可聴音よりも短波の音は超音波と呼ばれます。



ただし「可視」「可聴」とは、あくまで「ヒトにとっては」という限定的な定義です。

たとえば紫外線は、実は、爬虫類や鳥類や昆虫など多くの生物が見えています。

つまり動物界の大部分において、紫外線は「可視光」です。

超音波も同じことです。超音波を使ってコミュニケーションしている動物は、

イルカやコウモリやネズミなど、哺乳類ですら珍しくありません。



ヒトの「彩り豊か」な世界は、動物たちから見たら、

とんでもなく色褪せたモノクロの世界にちがいありません。



では、どうしてヒトの感覚は、これほど劣っているのでしょうか。

脳の能力不足でしょうか。紫外線や超音波を扱う動物の脳を見ても、

ヒトよりも特段優れているようには思えません。

おそらく脳の性能ではなく、身体が感覚センサーを備えているか

否かが決め手なのでしょう。



あくまでも脳のリミッターは身体です。

いま所有している五感センサーを利用している限りは、脳の真価は発揮できないでしょう。

偏光、ラジオ波、気圧、湿度、二酸化炭素、放射線、

私たちの住む世界は、いま私たちが感じている以上に彩り豊かに違いありません。



※第124回(平成28年秋季)東京大学公開講座「仮想と現実」 2016.10
 新感覚の世界を生きる 池谷裕二 先生 薬学系研究科 教授



○雄大な空の旅をする渡り鳥

○「Dolphin Memory」 イルカとともに過ごした時間


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見せかけを整え
想像上の自分を生きる

「仮面に囲まれた自画像」 1899年 ジェームス・アンソール
「Self-Portrait with Masks」 James Ensor メナード美術館(愛知県小牧市)


私たちは自分本来の存在のうちで営む人生に満足できない。

私たちは、他人の心の中に形成される私のイメージに合わせて

もう一つの想像上の私を生きることを望み、そのために見せかけを整えようと努力する。

絶えず人の目に現れる自分を飾り立て、それを後生大事に守り、

本当の自分はなおざりにする。



たとえば自分の心に平安、気高さあるいは信義が備わっているとしよう。

私たちは早速それを知ってもらうために、これらの美徳をもう一つの自分に結びつけ、

そのためなら本当の自分からそれらを切り離すこともいとわない。

勇者の評判を得るためになら、喜んで臆病者にもなるだろう。



私たちは想像上の自分なしには自分に満足できず、

しばしば一方を他方に取り替える。

それこそ私たちの本来の存在が虚無に等しいことの何よりの証拠だ。

じっさい名誉を守るために命を捨てなければ、卑怯者よばわりされるではないか。



※806 「パンセ(中)」 パスカル 塩川徹也(訳) 岩波文庫 2015 p493-494



○あるがままの生の肯定|フリードリヒ・ニーチェ


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クレオパトラの鼻が低かったら
世界は変わっていただろう

絨毯の中からカエサルの前へ現れるクレオパトラ 1886年
ジャン=レオン・ジェローム


人間のむなしさを十分に知りたければ、恋愛の原因と結果を考察するだけでよい。

その原因は、「私には分からない何か」なのに、その結果は恐るべきものだ。



この「私には分からない何か」、あまりに些細で目にも止まらないものが、

あまねく地を、王公を、軍隊を、全世界を揺り動かす。

クレオパトラの鼻。

もしそれがもう少し小ぶりだったら、地球の表情は一変していたことだろう。



※412 「パンセ(中)」 パスカル 塩川徹也(訳) 岩波文庫 2015 p43-44



「私には分からない何か」という言い回しは、

17世紀当時、非合理な感情の表現として愛用されたそうです。



○人間の心のあり方を理解する|日本人の精神性を探る旅

○セクシュアリティとジェンダー|文学にみる女性観


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自分が可愛いという自愛心に支配される
人間の感情

「ナルキッソス」 カラバッジョ 国立絵画館(バルベリーニ宮)
「Narcissus」 1597-1599 Caravaggio Galleria Nazionale Di Arte Antica


道徳的善悪の区別は理性に起因するのではなく、

道徳感官(モラル・センス)に起因するものであり、

善によって快の感情がもたらされ、悪によって不快の感覚がもたらされる



※「人生論」 第三編 ディヴィッド・ヒューム



人間の感情は自分が可愛いという自愛心によって支配され、

快いものを好み、不快なものを嫌うというのが基本傾向のよう。



人間の感情、欲求、信念、振舞いには、正当化する根拠が欠けている。

パスカルのいう「むなしさ」とは、このことのようです。



○水面に映る自分に見とれ花となったナルキッソス


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悪しき交際は善き習わしをそこなう
真理を話題にする

理性の眠りは怪物を生む ゴヤ 国立西洋美術館


人間は、人からおまえは愚かだと言われつづけると、

自分でもそう思うように造られている。

そして自分で自分にそう言いつづけると、自らそう信じ込む。

なぜなら人間は、独りで内的な対話を交わしているからである。

「悪しき交際(まじわり)は善き習儀(ならわし)を害(そこな)う。」

できる限り沈黙のうちにとどまり、対話をするなら、

神のみを話題にするべきだ。

神は真理であることが分かっているのだから。

こうして、神が心に刻まれることになる。



※99の2 現象の理由 「パンセ(上)」 パスカル 塩川徹也(訳) 岩波文庫 2015 p122



○画家ゴヤが見つめてきた人間の光と影

○人類から遠く離れた孤独の中に住む 世界の本質


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一部だけで、その人の全体と捉える
ラべリング

「アウトサイダー(The Outsiders)」 1983年アメリカ映画
フランシス・フォード・コッポラ監督


1960年代にハワード・S・ベッカーによって提唱されたラベリング理論(Labeling theory)。



ラベリングとは、ある人や事柄のごく一部を見ただけで、

そのごく一部分が表現されるような名称を与え、

それがその人や事柄の全てであると決めつけることだそうです。



あの人は○○学校出身だから、○○会社に勤めているから…

あの人は○○地域の出身だから、○○という病気だから…



ある学校の先生のお話では、

親の特徴から子どもが「ラべリング」されることもあるといいます。



ベッカーは、社会から逸脱した行為を行う人は、

その人の逸脱行為の動機や原因を問題とするのではなく、

周囲の人がその人にラベリングすることによって逸脱者になっていくと考えたそう。



○都営荒川線に乗って|偏見を取りはらい理性を自立させる


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他者に対して無意識に抱く
固定的なイメージ

ビルが建ち並ぶナイジェリア最大の都市 ラゴス
(LAGOS NIGERIA)


アフリカと聞くと、ある人たちは、「貧困」「エイズ」「内戦」など、

ネガティブなイメージをすぐに思い浮かべるかもしれません。



ナイジェリア生まれの女性作家のチママンダ・ンゴズィ・アディーチェは、

アメリカに留学した際に、「アフリカから来た」というだけで、

ルームメイトから憐みの目を向けられたことに驚いたと語っています。



また、アフリカは「大自然」「サバンナ」「野生動物」などの

一見ポジティブに見えるイメージにも問題がない訳ではありません。

現実のアフリカ諸国においては人口の多くが近代的な都市で暮らしているにも関わらず、

「機械文明からはほど遠い農村部で不便な生活を送っている人々」

という間違ったイメージを持っていることがあるといいます。



アディーチェはこのことを「シングルストーリー」という言葉で表現します。

シングルストーリーとは、他者に対して知らず知らずのうちに抱いてしまう

ステレオタイプ(ものの見方が固定的)な物語のこと。



シングルストーリーは、無数の差異に満ちた多様な現実を、

単純でわかりやすくただ一つの物語に還元し、現実の複雑さから目をそむけさせ、

思考の努力を放棄させてしまう側面があるようです。


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悲しい思いをする現在から逃れ
過去と未来を漂う

「いまを生きる(Dead Poets Society)」 1989年アメリカ映画
ロビン・ ウィリアムズ主演、ピーター・ウィアー監督


われわれは決して現在の時にとどまっていない。

われわれは未来を、やってくるのが遅すぎるかのように、先回りして待ちもうける。

あるいは過去を、あまりにも早く過ぎさるかのように、押しとどめるために呼び戻す。



無分別にも、われわれは、自分のものではない時の中をさまよい、

唯一自分のものである時に思いを向けない。

また、むなしくも、無に等しい前後の時をあれこれ思い、

唯一存続する時を顧みもせずに取り逃してしまう。

それはたいてい、現在がわれわれを傷つけるからである。



現在は悲しい思いをさせるから、われわれはそれを自らの視界から隠す。

そしてもし現在が心地よいものであれば、それが逃れ去るのを見て残念がる。

われわれは未来の助けを借りて現在を支えようと努め、

そこまで行き着けるかどうか当てのないときのために、

われわれの力の及ばないものごとを按配(あんぱい)しようと考える。



各々、自らの思いを吟味してみるがよい。

それがすべて過去か未来に占められているのに気づくだろう。

われわれはほとんど現在のことを考えない。

考えるとすれば、未来を想い通りにするための光明を現在から引き出すためだ。

現在は決してわれわれの目標ではない。過去と現在はわれわれの手段である。

ただ未来だけが目標なのだ。こうしてわれわれは決して生きていない。

生きようと願っているだけだ。

そしていつでも幸福になる準備ばかりしているものだから、

いつになっても幸福になれるわけがない。



※47 むなしさ 「パンセ(上)」 パスカル 塩川徹也(訳) 岩波文庫 2015 p70-71



○いにしえから今を生きる私たちへの伝言|千三百年の時空を超える「奈良」


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サクセスフル・エイジング
今を大切に生きる

「モルトフォンテーヌの思い出」 1864 ジャン=バティスト・カミーユ・コロー
ルーヴル美術館


自分にとって大切なものは何か、高齢期は歩んできた過去の人生の意味と

次の世代のあり方を考える時期といえる。人は皆、いずれ老いて死す。

不安を先取りすることなく、死と対面しつつ、一日一日を心豊かに生きる。



高齢期では死の問題は避けて通れない。死を考えることは、

死に至るまでの生を考えることであり、人生そのものを考えることに繋がる。

死をみつめつつ、老いを生きるということは、

その人の人生そのものを受け止めることでもある。



○高齢期における発達課題|自我の統合性か、絶望か


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人間の最大の悲惨
「気晴らし」なしではいられないこと

アポロン(太陽)に扮するルイ14世


彼らが気晴らしをしているものを取り除いてみたまえ。

彼らは退屈のあまり身をすり減らしてしまうだろう。

そこで彼らは、そうとは気がつかないまでも、自分の虚無を感じるだろう。

自分というものを眺めるほかなく、そこから気晴らしをすることができなくなるや、

堪えがたい悲しみに陥ることこそ、まさに不幸であるからである。



※人間の気晴らし 「パンセ」 ブレーズ・パスカル




ブルボン王朝の最盛期を築いた太陽王ルイ14世。

当時の王侯貴族は音楽とダンスのできることが不可欠で、

ルイ14世自身、若いころアポロンに扮して宮廷舞台で踊ったとされます。



パスカルのいう人間の気晴らしでは、

権勢を誇る国王でさえも、自分の荘厳な栄光を眺めて満足するより、

臣下と催す舞踏会のためにダンスのステップを上手にとることの方に

心が占められていると指摘します。



仮に国王を一人ぼっちにし、何の気晴らしも与えないでおいたら、

彼はみずからの虚無に向かい合う悲惨な人間に陥ってしまうため、

そのような状態を避けるようにと細心をつくし、その役目を果たすならば、

他愛ない遊びであろうと、重大な国務であろうと同じことのようです。



このようなパスカルの言葉は、日々スマートフォンにしがみつき、

イベントに群れ集う、現代人の心のありようをえぐりだしているようにも見えます。



○新しい時代の幕開けを示唆するルイ14世の崩御|ジェルサンの看板


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目をそらすことで
幸せになる

The Land of Cockaigne (1567) Pieter Bruegel Alte Pinakothek


※133 気晴らし 「パンセ(上)」 パスカル 塩川徹也 岩波文庫 2015 p160


  人々は、死もみじめさも無知も免れることができないので、

  そんなことを考えずにすませることで幸せになろうとした。




※気晴らし 134 p160


  これほどの災難に取り囲まれていても、彼は幸せになりたい。

  幸せにしかなりたくない。幸せでなくてもよいとは考えられない。

  だがそのためにどうするのか。うまくやるには、不死にならなければならない。

  でもそれは無理な相談なので、そこから目をそらすことを思いついた。




※気晴らし 139 p174-175


  人々は子供のときから、自分の名誉や財産や友人を大切にするように、

  さらには友人の財産と名誉も大切にするようにしつけられる。

  身を砕くまで、商売、外国語の勉強あるいは武装の修行をやらされる。

  その上で、自分ばかりでなく、友人の健康と名誉と財産がよい状態になければ

  幸福になれず、そのうち何か一つでも欠ければ不幸になると聞かされる。

  こうして職務と仕事を手いっぱいに与えられて、朝いちばんからせわしなく働かされる。



  「彼らを幸福にするには何とも奇妙なやり方だ、

  人を不幸にするのにこれ以上見事に、何ができるだろう」と、おっしゃるか。

  「何ができるだろう」ですって。

  以上の気苦労を彼らから取り去るだけで結構。

  そうなれば、彼らは自分を見つめ、自分が何であり、

  どこから来て、どこに行くかに思いを向けるだろう。



  こうしていくら彼らを忙殺し、彼らの気持ちをいくらそらしても、それで十分ということはない。

  だからこそ、あれほど仕事の予定を入れたあげく、少しでも暇があると、

  その時間を気晴らしと娯楽に当てて、いつもすべての時間を埋め尽くすように

  助言されるのだ。



  人間の心は何と空っぽで、汚濁に満ちていることか。



○苦しみに満ちている人間の生からの救済|ショーペンハウアー


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接待にみる「気晴らし」
自分のことを考える状況に陥らないように



お客をもてなす行為である「接待」。

宴会を例にとれば、幹事はゲストに楽しんでもらえるよう

会場への適切な案内に始まり、席の配置、挨拶や乾杯の発声、

歌やゲームなどのイベント、交流の時間、など様々な配慮をしています。



言い換えれば、幹事はゲストの余暇の時間に気をかけ、

ゲストが飽きたり、つまらない思いをしないで済むようにしています。



人間は感覚を満足させられることも、精神に配慮されることもなく、仲間もなしに、

暇に任せて自分のことを考える状況になると、不幸に陥ってしまうようです。


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騒ぎと気晴らし、将来の計画のうちにある
若者

成人式


この世のむなしさが見えないのは、おのれ自身がよほどむなしいのだ。

だからそれは誰にでも見える。



もっとも若者は別だ。

彼らは皆、騒ぎと気晴らし、そして将来の計画のうちにあるのだから。



だが彼らから気晴らしを取り去ってみよう。

倦怠(けんたい)でふさぎこむのが見られるだろう。

彼らはそのとき、我知らずおのれの虚無を感じている。

おのれを見すえてそこから目を離せないよう追い込まれるやいなや、

堪えがたい悲しみに陥るのは、何とも不幸なことではあるまいか。



※36 むなしさ 「パンセ(中)」 パスカル 塩川徹也(訳) 岩波文庫 2015 p55



○日本の伝統文化を受け継ぐ街 秋葉原


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最大のみじめさ
気晴らし

「セントヘレナのナポレオン」
皇帝の座を追われ南大西洋の孤島セントヘレナに幽閉されたナポレオン


みじめさのうちにある私たちを慰めてくれる唯一のもの、それは気晴らしである。

しかしながら、それこそ私たちの最大のみじめさだ。

なぜなら自分のことを考える第一の妨げとなり、

知らず知らず私たちを破滅させるのは、気晴らしなのだから。

それがなければ、私たちは倦怠(けんたい)に陥るだろう。

しかし、私たちはその倦怠に促されて、そこから脱出しようと、

より堅固な手段を探し求めるだろう。

しかし気晴らしは時間をつぶさせ、知らず知らず死に至らせる。



※414 「パンセ(中)」 パスカル 塩川徹也(訳) 岩波文庫 2015 p44-45



○私たちの生涯|生と死の狭間にある「時」を歩む


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日本文学にみる
気晴らし

吉田兼好(菊池容斎・画 江戸時代)


※徒然草 第74段 兼好法師


蟻のごとくに集まりて、東西に急ぎ南北に走(わし)る人、

高きあり賤(いや)しきあり。

老いたるあり若きあり。

行く所あり帰る家あり。

夕(ゆうべ)に寝(い)ねて朝(あした)に起く。

いとなむ所何事ぞや。


  まるで蟻のように集まって、東に西に急ぎ、南へ北へ走る人々の中には、

  身分の高い人もいれば、賤(いや)しき者もいる。

  老いた人もあれば、若い者もいる。

  行く所があり、帰る家もある。

  夜になれば寝て、朝になれば起きる。

  人がそんなにあくせくと営むのはいったい何事であろうか。





生を貪り、利を求めてやむ時なし。

身を養ひて何事をか待つ。

期(ご)する所、ただ老(おい)と死とにあり。

その来(きた)ること速(すみや)かにして、念々(ねんねん)の間にとどまらず、

これを待つ間、何の楽しびかあらん。

惑(まど)へる者はこれを恐れず。

名利におぼれて先途(せんど)の近き事を顧みねばなり。

愚かなる人は、またこれを悲しぶ。

常住ならんことを思ひて、変化(へんげ)の理(ことわり)を知らねばなり。


  自分の身を養生していったい何事を期待するのであろうか。

  確実に未来に期待できるのは、ただ老と死だけである。

  その二つが身に迫ることはすみやかで、一瞬の間もとどまっていない。

  老と死を待つ間、いったい何の楽しみがあろうか。

  迷える者は老と死を恐れない。

  名誉や利益に心を奪われて、死期の近いことを顧みないからである。

  愚かな人は、また、老と死とを悲しむ。

  世界が永久不変であるだろうと思って、

  万物は時々刻々変化してやまない道理を知らないからである。




※新版 現代語訳付き 徒然草 兼好法師 小川剛生(注釈) 角川ソフィア文庫 2015


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物事の真実の姿を見極める
座禅



曹洞宗の教えの根幹は坐禅にあるといいます。

禅とは物事の真実の姿、あり方を見極めて、

これに正しく対応していく心のはたらきを調えることを指すそうです。



曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」と呼ばれ、

ただひたすらに坐るということだそう。

それは、何か他に目的があってそれを達成する手段として坐禅をするのではなく、

坐禅をする姿そのものが「仏の姿」であり、悟りの姿だといいます。



私たちは普段の生活の中で自分勝手な欲望や、

物事の表面に振りまわされてしまいがちですが、

坐禅においては様々な思惑や欲にとらわれないことが肝心のようです。



※坐禅の作法 | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET より



○日本人の心を形成してきたもの|これからを生きる指針となるものを探る

○人類から遠く離れた孤独の中に住む 世界の本質

○京浜工業地帯をつなぐ鶴見線


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心の窓が開かれて
本当の自分の姿が浮かび上がる

「ユダの接吻」 1305年頃 ジョット・ディ・ボンドーネ スクロヴェーニ礼拝堂
「Kiss of Judas」 Giotto di Bondone, Scrovegni Chapel


浄土真宗の僧侶で、刑務所の教誨師(きょうかいし)や

篤志面接委員(とくしめんせついいん)も務めた吉本伊信(いしん) 先生(1916-1988)。



浄土真宗の修行法「身調(みしら)べ」から着想を得て創始した

内観療法(ないかんりょうほう)は、刑務所、少年院に留まらず、

医療や一般の場面で広く応用されています。



内観療法は、静かな落ち着いた場所で、母や父、兄弟、自分の身近な人に対して、

今までの関わりを以下の3点において具体的に思い返してゆきます。



 ○してもらったこと

 ○して返したこと

 ○迷惑をかけたこと



※内観療法の基礎から応用まで、内観の体験的学習 2014.09
 講師 真栄城輝明 先生 奈良女子大学 教授
 会場 日本大学文理学部 百周年記念館
 日本心理医療諸学会連合 第27回大会 メンタルヘルスを支えるポジティブ・サイコロジー


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ひ弱な存在でありながら、宇宙を包み込む尊さ
人間は考える葦

パンパスグラス(しろがねよし)
神奈川県立フラワーセンター大船植物園(鎌倉市)にて撮影


人間は一本の葦にすぎない。自然のうちで最もか弱いもの、しかしそれは考える葦だ。

人間を押しつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。

一吹きの蒸気、一滴の水だけで人間を殺すのには十分だ。

しかし宇宙に押しつぶされようとも、人間は自分を殺すものよりさらに貴い。

人間は自分が死ぬこと、宇宙が自分より優位にあることを知っているのだから。

宇宙はそんなことは何も知らない。

こうして私たちの尊厳の根拠はすべて考えることのうちにある。



※200 人間の認識から神への移行
 「パンセ(上)」 パスカル 塩川徹也(訳) 岩波文庫 2015 p257-258



○歩く姿は百合の花|自然を愛するすべての人へ

○季節のうつろいに触れて


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部分からなる全体
多様性

ポール・ロワイヤル(宗教施設)の跡地に建てられた「小さな学校」
パスカルはポール・ロワイヤルに深く帰依したといいます


神学は一つの学問だ。

だがそれは同時に、どれほど多くの学問から成り立っていることか。

人間は一つの実体だ。だが解剖すれば、それはどうなるのか。

頭、心臓、胃の腑(ふ)、血管、それぞれの血管、血管のそれぞれの部分、

血液、それぞれの血の滴(したた)りではないか。



一つの町、一つの田園。遠くから見れば、それは町と田園だ。

だが近づくにつれて、それは家々、木々、かわら、葉叢(はむら)、

草々、蟻、蟻の足、と無限に続いていく。

それらがすべて田園という名に包み込まれているのだ。



※65 多様性 みじめさ
 「パンセ(上)」 パスカル 塩川徹也 岩波文庫 2015 p91






いくらさまざまな野菜が入っていても、全体はサラダという名で包み込まれる。


※「エセー」 モンテーニュ 第1巻46章


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さらなるフロンティアの追求
統合的視点からの理解

地球の表面積の71%は海で占められているそう


未知の領域が多いという海の世界。

海を理解することは、地球と私たちの将来を守ることにつながり、

海洋・地球・生命の統合的視点からの理解に挑戦してきたJAMSTECでは、

年間2,000にも上る論文を提出するといいます。



未知の領域を解明していくためには、物理や生物、化学、地学、地球史、

情報技術など多岐にわたる分野の知見や視点が求められるそうですが、

その教育の根底には、海に親しみことで海に興味をもち、海を利用して、

海を守る、海と人との共生にあるといいます。



その一方、日本は科学に対する関心が乏しいといわれ、その原因として、

初等教育における理科への興味喚起の不足や、

分野別教育が実態に合わなくなっていることが挙げられ、

新たな切り口からの教育が求められているようです。



これまで日本は、物事に取り組む際にルール遵守を求めてきたことから、

日本人はルールから逸脱することに苦手となり、今後、

ルール通りにやっていては、さらなるフロンティアの追及はおぼつかないようです。



その為には、教科書通りにできたことを評価するだけでなく、

教科書にないテーマを見出せることへの評価も大切なよう。



※さらなるフロンティアの追求 〜海洋科学技術の未来とそのビジョン〜
 パネルディスカッション
 ・川口淳一郎 先生 (JAXA シニアフェロー)
 ・成毛眞 先生 (元マイクロソフト日本法人社長)
 ・織田洋一 先生 (三井物産戦略研究所 シニアプロジェクトマネージャー)
 ・窪川かおる 先生 (東京大学 特任教授)
 ・竹内薫 先生 (サイエンス作家)
 ・堀田平 先生 (JAMSTEC 開発担当理事)
 平成27年度 海洋研究開発機構 研究報告会
 JAMSTEC2016 さらなるフロンティアを求めて 東京国際フォーラム 2016.03



○生命の跳躍|海洋を統合的に理解する

○水と共に暮らす|いつまでも美しく安全に

○いのち集まる流域 小網代の森|私たちが生きる地球の持続可能性


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普遍的な存在
罪深き人間を愛する

「磔刑図」 1457−60 アンドレア・マンテーニャ ルーヴル美術館


処刑される前夜、十二使徒と共に夕食を摂ったイエス・キリストは、

使徒の一人イスカリオテのユダが裏切ること、

主席使徒であるペトロがイエスを三度否定することを予告します。



捕らわれたイエスは罪人とされ、総督ピラトの官邸からゴルゴダの丘まで

自分が磔(はりつけ)となる十字架を背負い歩いたとされます。



ヘンデルのオラトリオ「メサイア」では、

イエスがゴルゴダの丘に向かう場面を以下のように表現しています。



※オラトリオ「メサイア」 ヘンデル

  彼(イエス)は軽視され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っていた。

  彼は彼を打とうとする者にその背中をまかせ、

  彼のひげを抜こうとする者にはその頬をまかせた。

  彼は顔を隠さずに、嘲(あざけ)れと唾(つば)を受けた。

  彼が担ったのは、わたしたちの悲しみ。

  そして彼が負ったのは、わたしたちの不幸であった。

  彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背(そむ)きのためであり、

  彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎(とが)めのためであった。

  彼の受けた懲(こ)らしめによって、わたしたちに平和が与えられ

  彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。

  わたしたちは羊の群れ、道を誤りそれぞれの方向に向かって行った。

  そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。





清らかで無垢(むく)、そして完全なるものとして創造された人間。

神(⇒真理)との親しい交わりのうちにあった人間は、

自己愛に動かされて神から離れ、不幸な境遇に陥ってゆきます。



メシア(救世主)であるイエスは人間の罪を贖(あがな)い、

神と人間との関係を修復します。



罪深き人間を愛する。

神の愛は、価値の評価に応じて注がれるのではなく、逆に注がれることによって

価値を創出する。そのような愛に目覚めないかぎり、価値の評価に捉われた

人間的な愛は、「憎むべき私」を前にして挫折するよりほかない。



パスカルの「パンセ」は、おのれの「普遍的存在」において、

虚心坦懐(きょしんたんかい)に向き合うことを示唆しているようです。



○ありのままの自分|Here I stand and here I'll stay

○彼は死に勝ち甦る、神への感謝・賛美|オラトリオ「メサイア」

○使徒と食事をとりながら裏切り者を告げた場面|最後の晩餐


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参  考  情  報


○名著13 パスカル『パンセ』:100分 de 名著|NHK

○工学の曙文庫<総合索引>|金沢工業大学

○コンピュータ博物館

○航空機油圧装備品|はまのカズチャンです

○曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET 公式ページ

○フリー百科辞典Wikipedia

○集英社高度教養寄付講座 第7回講演会 パスカル『パンセ』を読む 2016.11
 ・講演者 : 塩川徹也 先生 (東京大学名誉教授)
 ・対話者 : 野崎歓 先生 (東京大学文学部教授)
 ・司  会 : 柴田元幸 先生 (東京大学文学部特任教授)
 ・場  所 : 東京大学本郷キャンパス 文学部法文2号館2階 1番大教室

○パンセ(上・中・下) パスカル 塩川徹也(訳) 岩波文庫 2015-16

○パスカル『パンセ』を読む 塩川徹也 岩波人文書セレクション 2014

○発見術としての学問-モンテーニュ、デカルト、パスカル 塩川徹也
 岩波書店 2010

○パンセ パスカル 鹿島茂 NHK「100分de名著」ブックス NHK出版 2013

○パスカル バンセ抄 ブレーズ・パスカル 鹿島茂(編訳) 飛鳥新社 2012

○エセー1〜7 ミシェル・ド・モンテーニュ, 宮下志朗 (訳) 白水社

○人間本性論(第1巻) 知性について デイヴィッド ヒューム
 木曾好能 (訳) 法政大学出版局 2011

○人間本性論(第2巻) 情念について デイヴィッド・ヒューム
 石川徹 (訳), 中釜浩一 (訳), 伊勢俊彦 (訳) 法政大学出版局 2011

○人間本性論(第3巻) 道徳について デイヴィッド・ヒューム
 伊勢俊彦 (訳), 石川徹 (訳), 中釜浩一 (訳) 法政大学出版局 2012

○近代哲学の人間像
 講師 佐藤康邦 先生 放送大学教授

○特別展「水彩画家 堀江優遺作展-「人間の弱さ」を持つ聖書の人を描き続けて-」
 神戸市立小磯記念美術館 平成25年5月4日〜7月15日


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