希望への翼

維新の国 山口へ


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三方が海に開かれた
山口県

角島(つのしま)大橋|山口県下関市


日本海に浮かぶ角島(つのしま)と本州をつなぐ角島大橋。白い砂浜と

コバルトブルーの海を渡る1760mに及ぶ大橋は絵になります。



本州の西端に位置する山口県は、三方が海に開かれ約1,500kmに

およぶ長い海岸線を有しています。



○生命の跳躍|海洋を統合的に理解する

○フォトジェニックな港街 シドニー


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見えないけれどもあるんだよ
見えないものでもあるんだよ

元乃隅(もとのすみの)稲荷神社|長門(ながと)市


※「星とたんぽぽ」 金子みすゞ (1903-1930年、長門市出身の童謡詩人)


青いお空のそこふかく、

海の小石のそのやうに、

夜がくるまで沈んでる、

昼のお星は眼にみえぬ。

   見えぬけれどもあるんだよ、

   見えぬものでもあるんだよ。



散つてすがれたたんぽぽの、

瓦のすきに、だァまつて、

春のくるまでかくれてる、

強いその根は眼にみえぬ。


    見えぬけれどもあるんだよ、

    見えぬものでもあるんだよ。



※「金子みすゞ全集」 JULA出版局



○人類から遠く離れた孤独の中に住む 世界の本質


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人と海
海は君の鏡、君は自分の魂を覗き込む

萩城址に隣接する菊ヶ浜|山口県萩市


※「人と海」 シャルル・ボードレール(1821-1867年、フランスの詩人・評論家)
  「L'homme et la mer」 Charles-Pierre Baudelaire


自由なる人間よ、いつも君は海を愛するだろう!

海は君の鏡。君は自分の魂を覗き込む。

果てしなく大きなうねりが打ち寄せてくる。

そんな海のように君の心も深く、苦い。


みずからの似姿のうちに身を沈めるのを君は好む。

目で、両腕で、海を抱く。時に君の心は、

自らに不満をぶちまけて気をまぎらわす。

あの御しがたい野蛮な嘆きが鳴り止まぬ。


あなた方はどちらも、もの言わぬ暗闇だ。

人よ、誰ひとり君の深淵を測った者はない。

海よ、誰ひとり君の内なる富を知らない。

それほど執念深く、自分らの秘密を守ろうとする!


そうこうしているうちに、数々の世紀を経た。

哀れむことも悔いることもなく、人間と海は闘いつづける。

それほどまでに、あなた方は殺戮と死を愛する。

ああ永遠の闘士たち、血に飢えた兄弟よ!



※和訳はブログ「蕩尽伝説」より
  http://devenir.blog.fc2.com/blog-entry-371.html



○善と悪を兼ね備える人間

○清らかな世界、それは私たちの住む穢れた世界


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海と空との間を過ぎゆく
諸世紀

青海島(おおみじま)|北長門海岸国定公園


※「海の詩―人と海―」 中原中也 (1907-1937年、現山口市出身)


 こころまゝなる人間は、いつでも海が好きなもの!

 これは、ボオドレエルの「人と海」といふ詩の、第一行である。海と聞く

たびに、海を見るたびに、この歌を思ひ出すから、以下私は此(こ)の詩

を辿(たど)り乍(なが)ら、「海の詩」といふ課題を果さう。然し何も、此の

詩を解説しようといふのではない。此の詩を辿り乍ら、この稿を書いて

ゐる今、色々と心に浮ぶことを、何の反省をも加へずに、唯々(ただ)

書誌してみたいと思ふ。


(中略)


 第十三、十四、十五、十六行。さあれ日は過ぎ月は逝き、なれ等血も

なく涙なく、よくぞ鬩(せ)めげる(⇒互いに憎み争う)数千年、さても殺生

はての死の、よくぞ好きなる、おゝ永遠の闘争よ、おゝ恩怨(おんねん)

の同胞(はらから⇒同じ母から生まれた兄弟姉妹⇒人間)よ!


 海は深く暗かつた。秘密を握つて放さなかつた。然しその海の上にも

星変り、月変つて、――と茲(ここ)で、私の目は漸く海を去つて、なん

だか海と空との中間の奥といつた感じの方角に、過ぎ逝(ゆ)ける諸世

紀が、黒光りする中世の武具の色をして、堵(と⇒垣根)をなして潜ん

でゐるやうに感じられる。

 さても殺生はての死の、よくぞ好きなる。思へばさうだ、インテリでさへ、

勝たう勝たうの流行ぢやないか。おゝ、恩怨(おんねん)の同胞(はらか

ら)よ! 恩怨の同胞よ!



※中原中也 海の詩 ――人と海―― - 青空文庫


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Re-generation
維新の胎動(たいどう)

松下村塾(しょうかそんじゅく)|松陰神社 萩市


※「吉田松陰の心」 松陰記念館|道の駅「萩往還(はぎおうかん)」


松陰をはじめとする幕末の武士たちは、外国の圧力にどう対処するか、

外国の侵略をいかに排除するかという共通の課題をもっていたので

攘夷(じょうい⇒外敵を打ち払う)論者が多く。その攘夷実行のためには、

幕府は弱体だから、より高い精神的権威である朝廷を中心に幕府を

改革し、全国的結集を行おうと考えました。したがって、彼らは、尊王

攘夷(そんのうじょうい)論者、尊攘(そんじょう)武士と呼ばれたのです。



松下村塾から巣立った高杉晋作、久坂玄瑞(くさか げんずい)、伊藤

博文、山県有朋(やまがた ありとも)、品川弥二郎(しながわ やじろう)

など幕末維新の激動期に活躍した人材が師松陰の志を受けついた

のです。



松陰は真実に生きることによって時代の先駆者となりました。松陰の

生涯は常に人間の原点を示すものとして歴史の上に光を放っています。



※Regeneration … 再生、新生、再建、復興
※胎動(たいどう)
 ・母胎内で胎児が動くこと。妊娠5か月過ぎから感じるようになる。
 ・新しい物事が内部で動き始めること。



○精神自由の再生|ルネサンス都市フィレンツェ

○破壊と再生|日本型うつ病社会に別れを告げて


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未知への可能性
いざ維新の国 山口へ



日本航空(JAL)に搭乗した際に流れるBGM「I Will Be There With You

(2008)」は、カナダの音楽家デイヴィッド・フォスター氏が書き下ろした

JALオリジナル曲だそうです。機内ではインストゥルメンタル(歌がなく

音楽のみ)ですが、フォスター氏の妻となったキャサリン・マクフィー

氏が歌詞をつけて歌っているので訳してみました。



※「I Will Be There With You」
  Katharine McPhee (with David Foster)

If you could choose to go anywhere
もしあなたがどこにでも行くことができたのなら

Just close your eyes and imagine
少し目を閉じて想像してみて

The world belongs to just you and I if
世界はあなたと私だけのもの

I could be there with you
私はあなたとそこにいるかもしれない


If any road was one we could take
もしどんな道も私たちが行くことができたなら

And any place could be ours
どんな所でも私たちのものになるかもしれない

We make the choice, we leave here today and
二人で決め、今日ここから旅立って

I could be there with you
私はあなたとそこにいるかもしれない


If I am where you are, nowhere's too far
あなたと一緒なら、遠い所なんて何処にもない

So take me with you
だから私を連れていって

All I need is you
私に必要なのはあなたなの


We go and when we come back again
旅立ち、そして再び戻った時には

Everything seems like it's new then
それから全てが新しく見える

On rainy nights, tell me the story
雨の夜にはその話を聞かせて

When I was there with you
一緒にいた時には


If I am where you are, nowhere's too far
So take me with you
All I need is you, yeah


Someday, someway I will be there with you
いつか、どうにかして、私はあなたとそこにいるでしょう


If you could choose to go anywhere
Just close your eyes and imagine
The world belongs to just you and I if
I could be there with you

I could be there with you
私はあなたとそこにいるかもしれない

I will be there with you
私はあなたとそこにいるでしょう



※「I will be there with you」 歌詞付きの動画はこちら
 JAL's SPIRIT DAVID FOSTER Katharine McPhee I Will Be There with You



○大空高く舞い上がる|JAL SKY MUSEUM


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【 日本航空 PV風 ★ 搭乗音楽 】
JAL I will be there with you Aviation Music Video (instrumental version)

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炭鉱の町として発展した
宇部

かつて海底炭田が開発された宇部沖|右側は山口宇部空港


明治以降、急増する石炭需要にともない宇部は炭鉱の町として発展

してゆきます。宇部興産の前身である沖ノ山炭鉱は、海底炭田の採掘

に乗り出しました。



最盛期の1940(昭和15)年には、年間約430万トンの石炭が掘り出さ

れていましたが、昭和30年代に起こったエネルギー革命により1967

(昭和42)年を最後に宇部市内の炭鉱はすべて閉山します。


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今日を支え、未来を創る
宇部興産

宇部興産のプラント|宇部市


1897(明治30)年、炭鉱開発のための組合として創業したという宇部興産。

「有限の鉱業から無限の工業へ」という精神のもと、常に自己変革を行い、

社会が求める新たな事業を創出してきたそうです。



宇部の石炭と周辺地域の豊富な石灰石や炭鉱の廃土を活用したセメント

事業。石炭を原料として肥料となる硫安(りゅうあん)を製造することから

始まった化学事業。採炭を支える機械の製造・保守から始まった機械

事業を3本柱として、技術の探求と革新の心で、来来につながる価値を

創出し、社会の発展に貢献されています。


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私たちの生活を支える
セメント

セメントの原料となる石灰石などを運ぶダブルストレーラー|宇部興産


セメントは、ビルやダム・トンネルなど私たちが生活するうえで欠かす

ことのできない素材です。



一般社団法人セメント協会が発表している需給動向によると、2019

年度の国内販売量は40,948千トン、生産量は58,135千トン、輸出量

は10,532千トンだったそうです。



需要の推移をみてみると、バブル経済終盤の1990年度にピークと

なる86,286千トンを記録していますが、その後は長期にわたり縮小

傾向にあるそうです。



世界に目を向けてみると、主要国別の消費量(2018年、千トン)は

以下のようになっています。


@中国      2,168,130
Aインド       326,830
Bアメリカ      98,702
Cインドネシア    69,541
Dロシア      54,060
Eブラジル      52,850
F韓国       51,237
G日本       42,293




※セメントハンドブック2020年度版|一般社団法人セメント協会より


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かつて石炭や石灰石を輸送した
宇部線

瀬戸内海に沿って宇部駅と新山口駅をつなぐ宇部線
国鉄123系電車|JR宇部新川駅


宇部線は、山陽本線の宇部駅から瀬戸内海沿いを走りながら新山口

駅に至る33.2kmの鉄道路線。



かつては石炭や石灰石の輸送で活躍したそうですが、モータリゼー

ション進展などの理由により現在の利用者数は減少傾向にあるよう

です。



※宇部市地域公共交通網形成計画 2016年3月 宇部市
  2 章 地域及び地域公共交通の現状、他より


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山口県の象徴的な存在
総理大臣

山口県庁舎から望む山口市街


2020年8月24日、山口県庁では、安倍晋三内閣総理大臣の総理

連続在職日数が、佐藤栄作元総理(連続日数2798日)を超え、

憲政史上最長となることを祝い横断幕が設置されました。

横断幕は当初10月9日まで掲示される予定だったそうですが、

安倍氏の退任に伴い9月14日に撤去されました。



その後、9月23日からは県庁1階にて山口県出身8人の首相の

業績やゆかりの地を紹介する「山口県の総理大臣展」が開催

されました。(ちなみに高校まで宇部市で過ごした旧民主党の

菅直人元首相のことは展示会で触れられていないそうです)



また、2020年11月2日には、安倍氏が山口県庁を訪問。県職員

や与党県議たち約500人が出迎え、セレモニーが開催されたそう

です。



安倍氏は東京に生まれ、小学校から大学まで一貫して私立の

成蹊学園(せいけいがくえん. 東京都武蔵野市吉祥寺 )で学ん

だそうです。

(成蹊人、SPECIAL INTERVIEW 蹊を成す人 VOL.91. 成蹊学園)



どうやら山口県には住んだことがないようですが、長州藩の流れ

を汲む安倍氏は山口県にとって象徴的な存在のようです。



○日本の権力を表象してきた建造物|日本人の自我主張


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生い立ちの歌
私の上に降る雪は実に貞潔でありました

JR山口線・湯田温泉(ゆだおんせん)駅|山口市


現山口市の湯田温泉に生まれた中原中也(1907-1937年. 享年30歳)。

ランボーやベルレーヌといったフランス象徴派詩人の影響をうけ、

既成の価値や秩序を壊す芸術運動「ダダイズム」に傾倒します。

しかし、1936(昭和11)年、中也29歳の時に2歳の息子が結核で死去。

それ以降は神経衰弱に悩まされ、翌1937年、結核を発病して

鎌倉で亡くなりました。



※「生ひ立ちの歌」 中原中也

  幼年時
私の上に降る雪は
真綿のやうでありました

  少年時
私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のやうでありました

  十七ー十九
私の上に降る雪は
霰(あられ)のやうに散りました

  二十ー二十二
私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思われた

  二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪と見えました

  二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……




私の上に降る雪は
花びらのやうに降つてきます
薪の燃える音もして
凍るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差し伸べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額に落ちくもる
涙のやうでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して 神様に
長生したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔でありました



○降り積もる雪の果て|トンネルの先にある雪国

○険しい山々と日本海の風雪に適応してきた北陸

○人間の大地・人間の季節|冬の北海道


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石炭を燃料とした蒸気機関車
SLやまぐち

新山口駅から津和野駅までをつなぐ「SLやまぐち」


世界最初の鉄道は、1825年にイギリスのストックトンからダーリントンまで

の61kmを時速16kmで走った蒸気機関車ロコモーション号でした。



日本最初の鉄道は1872年に新橋から横浜間で開業し、1874年には神戸

から大阪まで、1889年に新橋から神戸までが開通します。



鉄道の主役を担ったSL(steam Locomotive)は、多くの石炭を必要としま

した。しかし、1960年代に入ると電力や自動車が普及しはじめ、蒸気機

関車は徐々に廃止されてゆきます。1973年には山口線からも姿を消し、

1975年には北海道で走っていた最後のSLが姿を消しました。



○明日への架け橋|新しい芸術 アール・ヌーヴォーの時代

○イギリスの物語と街並みに触れる|Books about Town


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「SLやまぐち」の終着駅
石見(いわみ)の国 津和野

霧が立ち込める早朝の津和野(つわの)駅|島根県津和野町


青野山(あおのやま)とブナの原生林に覆われた安蔵寺山(あぞうじやま)

に囲まれる津和野(つわの)町。城下町としての面影を残す白壁と赤瓦の

家並みがつづきます。



津和野は森鴎外や西周(にしあまね)の出身地としても知られます。


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日本中世の風習を伝える
鷺舞

島根県津和野町


毎年7月、津和野にある弥栄(やさか)神社の祇園祭で行われる伝統

神事「鷺舞(さぎまい)」。京都の八坂神社の祇園会(ぎおんえ⇒祇園

祭)で行われていたものが山口を経由して津和野に伝えられたとい

います。



鷺舞で語られる、「橋の上に降りた鳥は何鳥(なにどり) 鵲(かわささ

ぎ)の 鵲の…」の歌詞は、京都祇園会を題材とした狂言「煎物売(せ

んじものうり⇒薬草を煮出した飲み物を売る人)」にも登場します。



狂言「煎物売」のあらすじは、七夕の頃、人々が集まって祭りのお

囃子の稽古をしているところへ煎物売りがやってきて、皆に煎物を

勧めて回りますが、邪魔になると言われてしまいます。そこで邪魔

にならないように拍子に合わせて売ることにします。やがて祭りが

始まり人が舞を始めると、煎物売りはそれを真似して舞い始め、

掛け声に合わせて煎物を売り始めます。祭りの陽気さと煎物売り

の滑稽さが笑いを誘うだけでなく、中世の物売りの様子がどのよう

だったのか伺うことができます。



京都・八坂神社では鷺舞は途絶えてしまったそうですが、津和野

の鷺舞は現在でも奉納され続けている唯一の鷺舞だそうで、国

の重要無形文化財に指定されています。



○人間の幸不幸を凝視する物語文学 源氏物語

○鶴の舞|釧路川キャンプ & カヌーツーリング

○心躍る軽快なリズム|アメリカ軽音楽の巨匠 ルロイ・アンダーソン


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津和野祗園祭 鷺舞(さぎまい)神事 2010年7月20日 島根県津和野町

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仮面の人生ではなかったかと疑い続けた
森鴎外

森鴎外旧宅|島根県津和野町


明治維新の6年前、石見国(いわみのくに⇒現島根県)に生まれた森鴎外。

森家は代々津和野藩のお抱え医者だったそうですが、明治維新後は藩

からの給料はなくなり、森家は優秀な長男である鴎外に一家の望みを

かけたといわれます。



東京に出た鴎外は、明治政府がつくったばかりの東京医学校(東京

大学医学部の前身)に入り、西洋医学をドイツ人の先生から習った

そうです。卒業後は陸軍に入り、ドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べ

るため、ドイツ留学を命じられます。



念願が叶った鴎外の胸は躍り、到着してからはライブチヒ、ドレスデン、

ミュンヘン、ベルリンで医学のみならず広く先進国ドイツの学問、文化

を精一杯吸収したといわれます。



そして、若き鴎外はドイツの女性と恋に落ち、26歳で帰国した彼を追って、

実際に来日したドイツ人女性がいたことが知られていますが、彼の出世

に一族の命運をかけている森家の認めるところとはならず、女性は説得

され一ヶ月滞在ののち帰国したそうです。この経験が「舞姫」に投影され

ているといわれます。



その後、軍医総監まで上り詰めた鴎外。最晩年は、帝室博物館総長や

帝国美術院長をつとめながら、「渋江抽斎(しぶえちゅうさい)」「井沢蘭軒

(いざわらんけん)」などの史伝ものを新聞に発表します。仕事に対する

責任感は最後まで強かったといわれますが、いままでの自分の人生は

なまじ優秀に生まれたために本当にやりたいことができなかった仮面の

人生ではなかったか、と疑い続けたそうです。



大正11年7月9日、60歳で亡くなるとき、死に対するすいかなる栄典名誉

も拒否し、一人の石見人として死にたいと遺言に残します。

そのため東京三鷹市の禅林寺にある小さな墓には「森林太郎墓」としか

刻まれていません。



※舞姫 森鴎外珠玉選 作:森鴎外、現代語訳:森まゆみ、絵:土屋ちさ美
 講談社 青い鳥文庫 2011 解説、他より



○困難を伴う自我の開放|森鴎外「舞姫」にみる生の哲学

○Carnevale di Venezia|聖マルコ・ルチアに導かれ新たに甦る有翼の獅子


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余は石見人 森 林太郎として死せんと欲す
森鴎外の遺書

永明寺にある森鴎外のお墓|島根県津和野町


※森鴎外の遺言
  (原文は縦書き、カナ部分はひらがなに変更、注釈を括弧にして追加、
  改行は原文と異なる)


  余(私)は少年の時より老死に至るまで

  一切秘密無く交際したる友は 賀古鶴所(かこつるど:陸軍軍医)

  君なり

  ここに死に臨んで賀古君の一筆を煩(わずら)わす

  死は一切を打ち切る重大事件なり

  奈何(いか)なる官憲威力(かんけんいりょく:官庁の権力)と雖(いえども)

  此(これ)に反抗する事を得す(えず:できない)と信す

  余(私)は石見人(現島根県) 森 林太郎として 死せんと欲す

  宮内省陸軍皆縁故あれども 生死別るる瞬間

  あらゆる外形的取扱いを辭(じ⇒辞退)す

  森 林太郎として死せんとす

  墓は 森 林太郎墓の外(ほか)一字もほる可(べか)らす

  書(遺書)は中村不折(なかむら ふせつ:洋画家)に依託し

  宮内省陸軍の榮典(えいてん:国家が与える称号など)は絶對に

  取りやめを請(こ)う

  手續(てつづき)はそれぞれあるべし

  これ唯一の友人に云ひ殘(のこ)すものにして

  何人(なにびと:いかなる人)の容喙(ようかい:口出し)をも許さす

  (ゆるさない)



  大正十一年七月六日 (亡くなったのは7月9日)



○創造的生命力を生み出す愛|夏目漱石「吾輩は猫である」


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百教は一致なり
あらゆる教えの根本をなす哲学

西周(にしあまね)旧居|島根県津和野町


江戸後期から明治初期に活躍した哲学者、西周(にし あまね、1829-1897年)。

今日、一般的に使われている「哲学」や「芸術」「理性」「科学」「技術」といった

言葉は西周によって考案された訳語だそうです。



西周の旧宅は、津和野川を挟んで森鴎外の旧宅の近くにあり、ともに津和野

藩の藩医の家に生まれました。年の差は、西周は1829年生まれ、森鴎外は

1862年生まれですので33歳の差があります。二人とも留学経験があり、西

周はオランダ・フランス、森鴎外はドイツに留学し、幅広い視野を養っています。



フィロソフィ(philosophy)の訳語である「哲学」という言葉は、西周が留学から

帰国した後に出版された「百一新論(ひゃくいちしんろん)」の中に見られます。




※「百一新論」 巻之下 明治7年 出版:山本覚馬
  国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号35-36より
  カナはひらがなに変換。送り仮名、意味を()にして追加


總(そうじ)て箇樣(かやう⇒このよう)な┐を參考して心理に徴(ちょう⇒照

らし合わせ)し、天道人道(⇒人としてのあり方)を論明(ろんめい⇒論じて

明らかに)して、兼(かね)て教(おしえ)の方法を立つるをヒロソヒー(フィロ

ソフィ:philosophy)、譯(やく)して哲學(てつがく)と名(なづ)け、西洋に

ても古くより論のある┐でござる、



今(いま)百教は一致なり(ひゃっきょうはいっちなり⇒多くの教えの根本は

一緒である)と題目を設けて、教(おしえ)の┐を論ずるも種類を論じたらば

此(この)哲學の一種とも云ふべくして、仔細(しさい⇒詳細)は若(も)し一つ

の教門を奉(ほう)ぜば(⇒もし一つの教えに傾倒すれば)其(その)教(おしえ)

を是(ぜ⇒正しい)とし、他の教(おしえ)を非(ひ⇒誤っている)とする┐

常(つね⇒当たり前)の事なるに、百教(多くの教え)をがい論(がいろん)して

同一の旨を論明せんと(明らかにしようとする)には餘程(よほど)岡目(おか

め⇒第三者の立場)より百教を見下(みおろ)さねばならぬ┐でござる、



故(ゆえ)にか丶る(かかる)哲學上の論では物理も心理も兼ね論ぜねば

ならぬ事でござるが、兼ね論ずからと云つて、混同して論じてはならぬで

ござる



○善すなわち美|自己内対話によって培われる無私の精神

○哲学からみた人間理解


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関ヶ原の合戦に敗北し
萩へ移封となった毛利家

萩城址|山口県萩市


広島城を拠点として中国地方の大半を領地とした毛利家。秀吉の死後、

西軍の総大将として徳川家打倒を目指しますが、関ヶ原の戦いで敗

北します。112万石あった領地は、周防(すおう)・長門(ながと)の2国

36万9千石となり、萩の指月山(しづきやま)に居城を構えました。


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幕末期に活躍した
中級武士たち

萩の城下町


近世の萩毛利家では、家のランキング(家格:かかく)に応じて藩主から

与えられる給与(禄高:ろくだか)が決められ、厳格な序列体制がとられ

ていました。



階級には、一門を筆頭に永代家老・寄組・手廻組・物頭組・大組・船手

組・遠近付・無給通といったものがあり、上級武士は軍事司令官・指

揮官に就任し、中・下級武士が行政上の諸役に携わるという傾向が

あったといわれます。



しかし、幕末期には禄高(ろくだか⇒藩主から与えられる給与)が150

石前後以下の大組と呼ばれる「階級」を出身とする、村田清風(むらた

せいふう)や坪井九右衛門(つぼいくえもん)、木戸孝允(きどたかよし)

といった中級武士たちが藩の重要な役割を担うようになります。



大組はそれまで八組で構成され、二組は交代で江戸藩邸を、六組は

萩城の警護を担当していました。


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失敗だらけの人生を歩んだ
吉田松陰

「絹本着色吉田松陰像(自賛)」の肖像部分|山口県文書館


※「吉田松陰」 徳富蘇峰 (とくとみそほう, 1863-1957年)
  「冒頭」、および「第一 誰ぞ 吉田松陰とは」より


  Trust thyself : every heart vibrates to that iron string.―Emerson.

  自分自身を信じる : その強い糸にすべの人の心が揺れ動く―エマーソン



  …彼は多くの企謀(きぼう⇒計画)を有し、一の成功あらざりき。彼の

  歴史は蹉跌(さてつ⇒物事がうまくいかずつまづく)の歴史なり。彼の

  一代(いちだい⇒生涯)は失敗の一代なり。然(しか)りといえども(⇒

  その通りだとしても)彼は維新革命における、一箇の革命的急先鋒

  なり。もし維新革命にして伝うべくんば、彼もまた伝えざるべからず。

  彼はあたかも難産したる母の如(ごと)し。自(みず)から死せりといえ

  ども、その赤児は成育せり、長大となれり。





失敗だらけの人生を歩んだ吉田松陰。家督を継いだ吉田家で兵学を

学ぶも時代遅れとなっていることに失望し、その後、西洋兵学や蘭学

を学びますが大成はしませんでした。



藩の許可を得ずに東北に赴き士籍を剥奪され、下田ではペリー率いる

黒船に乗り込もうとしますが拒絶されたのち投獄されてしまいます。

出獄してからは松下村塾を主宰するも再び投獄され、最期は斬首に

より29歳の短い生涯を終えます。



そのような失敗だらけの人物がなぜ語り継がれているのか? それ

は松陰に師事した人々が明治期に活躍したことが大きな要因となっ

ているようです。



一見するとクレイジーに見える松陰の行動の背景には、人を惹きつ

ける個人を超えた強い意志があったように思えます。



※「吉田松陰」 徳富蘇峰 - 青空文庫

※ラルフ・ワルド・エマーソン : Ralph Waldo Emerson
 1803-1882年.アメリカの思想家



○光は闇の中で輝く

○個性化の過程|自分が自分になってゆく


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一時代の価値や倫理をこえて
命をかけた賭けに敗れる

吉田松陰が下田で乗り込もうとしたポーハタン号 (USS Powhatan)
Author:Charles Stuart|Taken from The Naval and Mail
Steamers of the United States (1853)


1854年、横浜で日米和親条約を締結したペリー率いる艦隊は下田に

移動します。吉田松陰はそれを追いかけ下田に赴き密航を企てます

が拒絶され、その後獄中の身となります。



※吉田松陰 新装版 池田諭 大和書房 2015
  第二章 松陰の思想形成 歴史的価値と倫理の探求へ p54-55


…「海外渡航の禁は、徳川一世の事にすぎない。今日の事は、

三千年の日本の運命に関係する以上、この禁に、思い患う

ことなんてできなかった」(兄梅太郎への手紙)と、後に書き

送っているように、すでに、このとき、松陰は、一時代の価値

や倫理をこえて、歴史的価値と倫理に眼をひらき、それに身

をゆだねる立場へと移行しはじめていたのである。その意味

からいっても、この渡航は、松陰に、歴史的価値と倫理が

何であるかを教え、それを探求させる最大のチャンスを

提供するものであった。



…だが、松陰の要求と願望は拒否されて、彼らと交わり、

彼らに学ぶチャンスは永遠に訪れなくなったばかりか、

この日を境として、彼の長い獄中生産、禁足生活がはじ

まった。それは彼の刑死までつづく生活であった。

松陰には、再び、自ら行動する機会も場所もなく、手足

をもぎとられた生活だけがあった。松陰は生命かけた

賭に敗れたのである。



○潮風に導かれ開国ロマン溢れる浦賀へ

○開放的で自由な街に、心地よい風が吹きぬける|OPEN YOKOHAMA


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自由にして讃えられる
好奇心の発露

ペリー提督の艦隊が滞在した下田港|ペリー提督日本遠征記の挿絵
Lithograph of "Shimoda as seen from the American Grave Yard"
looking towards the harbor -- artist, Wilhelm Heine (1856).


※幕末外交と開国 加藤祐三 講談社学術文庫 2012
  第七章 日本開国 3 ペリーの日本観 D密航者への評価 p237


(1854年)4月25日の午前2時頃、下田沖に停泊中のミシシッピー号

に二人の男が近づいてきた。瓜中萬二(くわのうちまんじ)こと吉田

寅次郎(松陰 25歳)と市木公太(いちぎこうた)こと渋木松太郎(別名

金子重助 24歳)の二人である。



旗艦では通訳を出し、その男達の要望を聞いた。合衆国に連れて

いってほしい、世界を旅して見聞を深めたいと言う。この行為はアメ

リカの法律では無罪でも、日本の法律では犯罪であり、相手国の

法律を尊重するには引き返してもらうより他はなかったとある。




※US JAPAN 150 日本遠征関連逸話集 在NY日本国総領事館
 1.密航を企てた吉田松陰への高い評価、ペリーの気持ち


提督は二人の日本人が投獄されているとの報を受けると直ぐ、

司令官副官を陸上に派遣して、二人が来艦した者と同一人物

かどうかを非公式に確かめさせた。しかし、牢番達によると、

その朝、二人は江戸からの命令により江戸に送られたとのこと

だった。二人はアメリカ艦隊に出掛けたために拘禁され、組頭

はこの事件を処分する権限がなかったので、直ちに幕府に報告

し、幕府は囚人を迎えに寄越したもので、二人はその裁きの下

にあった。哀れな二人の運命がどうなったかはまったく確かめる

ことができなかったが、当局が寛大であり、二人の首をはねる

という極刑を与えないことを望む。なぜなら、それは矯激にして

残忍な日本の法律によれば大きな罪であっても、我々にとって

はただ自由にして大いに讃えるべき好奇心の発露にすぎない

ように見えるからである。また、付言すべき喜ぶべきことは、

提督が質問した時、当局者は、重大な結末を懸念する必要が

ないという保証を与えてくれたことである。


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今ここに存在している私
獄中で自分の内面と向き合う

橋本川|萩市


※吉田松陰 新装版 池田諭 大和書房 2015
  第二章 松陰の思想形成 孤独な瞑想者の眼 p56


事志(ことこころざし⇒志した想い)と違って、獄中の人となった

松陰は、そこで初めて、ただひとりで自分とむきあい、自分を

みつめ、自分と語る生活をはじめた。



…獄中で「再び出獄の見透しもないままに、絶望と孤独

のあまり、わずかな酒を飲み、酒の力をかりて、怒り、

喧嘩して、自分の生きていることを確認して、自分の心

をやっと抑えている人たち(⇒囚人)」(福堂策)の上にそ

そがれていった。


しかも、自暴自棄そのものに見える彼らの中に、狂愚

(きょうぐ)に似て、狂愚でない人間らしいものが脈脈と

流れているのを発見した。



かつて、従弟(じゅうてい)玉木彦助に「人の人たる道は

動物に異なる所以(ゆえん)を知ることである」と教えた

言葉が、今はじめて自分のたしかな意見となっていく

のを感じた。人間と動物の違いを彼らとの接触を通じ

て確認したのである。



※福堂策(ふくどうさく) … 松陰が獄中で記した書



○水と共に暮らす|いつまでも美しく安全に


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本当に伝えたいとき
本当に学びたいとき

松下村塾(しょうかそんじゅく)の講義室|松陰神社(萩市)


※「講孟餘話(こうもうよわ)」 吉田松陰著 廣瀬豊校訂 東京武蔵野書院 昭和17年
  滕文公(とうぶんこう)上 安政二(1855)年八月十六日 p136
  国立国会図書館デジタルコレクション


妄(みだ)りに人の師となるべからず。又妄りに人を師とすべからず。

必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師

とすべし。




※現代語訳
  「吉田松陰」新装版 池田諭 大和書房 2015
  第二章 松陰の思想形成、 教育の厳しさをかみしめて p79


妄(みだ)りに、人の師となってはならない。本当に教えなくてはなら

ことがあって、はじめて、人の師となりうるのである。また、妄りに

人の弟子となってはならない。



師を求むる前に、まず自分の心や目標が定まって、それに応えて

くれる師を求めなくてはならない。学問する上で一番大切なことは、

思うことがありながら、その思いが達せず、為すべきことがありな

がら、その方法が明らかでないために、とまどっている状態にある

ことである。この時こそ、学を求め、師を求める時である。


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百年の時は一瞬にすぎない
どうかいたずらに時を過ごすことのないように

吉田松陰終焉の地|処刑された伝馬町牢屋敷があった場所
東京都中央区日本橋小伝馬町


安政の大獄によって伝馬町の獄(現東京都中央区日本橋小伝馬町)

に収監された松陰が、刑死(1859年10月27日)の前々日から前日の

夕方までかけて書いた「留魂録(りゅうこんろく)」。



そこには、取り調べの過程や獄中の武士の消息、死に直面した

松陰の心境、そして、のちに続く同志に託す期待が述べられて

います。



※「留魂録(りゅうこんろく)」 現代語訳  (松陰記念館 解説文より)


 身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂
 十月二十五日 二十一回猛士(松陰の号)


(中略)


私は今年で30歳になった。まだ一つのことをもなすことがなくて死ぬ

のは、穀物のまだ花を咲かせず実を結ばないのに似ているから、

惜しいような気持ちもする。しかしながら、この私の身についていえ

ば花咲き実結ぶときである。かならずしも悲しむことはないであろう。

なぜならば、人間の寿命には定めがない。穀物の成育のように、

かならず四季を経過しなければならないのとはちがうのである。


(中略)


私は30歳、四季はすでに備わっておりまた花咲実は結んでいる。

それが実のよく熟していない「もみがら」なのか成熟した「米粒」

なのかは、私の知るところではない。もし同志のなかで、この私の

心あるところを憐れんで、私の志を受け継いでくれる人があれば、

それは、撒かれた種子が絶えないで、穀物が年から都市へと実

っていくのと変わりはないことになろう。同志の人々よどうかこの

ことほよく考えてほしい。



※「留魂録」 吉田松陰 - 青空文庫

※二十一回猛士 (吉田松陰の号⇒ペンネーム)
 生涯21回の猛心を発しようとの覚悟が託されている



○私たちの生涯|生と死の狭間にある「時」を歩む


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心のありよう
面白き事がなき世を面白く

高杉晋作の墓|東行庵 (下関)


おもしろき
 こともなき世を
 おもしろく

すみなしものは
 心なりけり



○絶望から美しさを見い出す|太宰治「人間失格」

○苦しみに満ちている人間の生からの救済|ショーペンハウアー


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海軍力の増強を急ぐ
大船建造の解禁

萩藩の恵美須ヶ鼻(えびすがはな)造船所にて
建造された木造帆船「丙辰丸(へいしんまる)」


1853年のペリー来航により、欧米の強力な国々に対する危機感を強めた

江戸幕府は、これまで禁じていた大船を造ることを諸藩に許可しました。

これを受けて萩藩では、恵美須ヶ鼻造船所を開き、2隻の洋式木造帆船

を建造しています。



1856年から1857年にかけて造られた「丙辰丸(へいしんまる)」は、2本の

マストを持ち、全長約25m、排水量47トンでした。藩の主力艦として海軍

の練習と国産貿易(大坂や長崎、江戸を往復)の任務にあたりました。



○海運が支える日本の豊かな暮らし


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大砲を作るために建設された
萩反射炉

試作炉だと考えられている萩反射炉|世界遺産


萩反射炉(はぎはんしゃろ)は、西洋式の鉄製大砲鋳造を目指した萩藩が

安政3年(1856)に建設した反射炉の遺跡です。



鎖国状態にあった江戸時代にあって、大陸に近い西南雄藩は、アヘン

戦争での清国(中国)の敗戦やペリーの黒船来航により危機感をもち、

海防の強化に取り組みます。各藩は、わずかな蘭書の知識などを頼り

に自力で、射程距離の長い鉄製大砲や大型の軍艦を建造しようと試行

錯誤します。当時は鉄製大砲を建造するには、衝撃に弱い硬い鉄を粘

り気のある軟らかい鉄に溶解する必要があり、その装置として反射炉を

用いていました。



※萩エリア〜萩市の資産 萩反射炉|萩市より



○よこすか はじめて物語|近代化の礎を築いた横須賀製鉄所

○水と生命|近代水道の歩みからみる人間の営み


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「維新」の本来の意味
王朝交代

幕府に許可を得ず藩命で西洋に渡航した長州五傑(長州ファイブ)|萩博物館
上段左より遠藤謹助、野村弥吉(井上勝)、伊藤俊輔(博文)
下段左より井上聞多(馨)、山尾庸三


※明治維新を考える 三谷博 岩波現代文庫 2012
  序章 明治維新の謎−社会的激変の普遍性理解を求めて p1-2



…「維新」という言葉は、明治初期に、幕末から頻用されてきた「一新」

という言葉を、中国古典中の言葉で置きかえて用いるようになった

ものである。



…この「維新」は、「詩経(しきょう⇒中国最古の詩集)」大雅の次の

詩句に由来する。「周(しゅう)は旧邦(きゅうほう⇒昔からある古い国)

なりと雖(いえど)も、天命維(こ)れ新たなり」。すなわち、周は、盟主

殷(いん)に仕えてきた古い国家であるが、この度、新たに天命を受け、

この世界全体を統(す)べるようになったというのである。つまり、

「維新」とは元来は天命の更新、すなわち中華世界での「改革」=

王朝交代と同義語であった。



○日本人の精神性を探る|美徳が強調されてきた社会

○中国最大の経済圏 上海


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幕府崩壊の直接的要因ではなかった
薩長の活動

「大政奉還」 邨田丹陵|聖徳記念絵画館


※江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」 家近良樹 講談社学術文庫 2014
 おわりに p246


私が強調したかったのは、明治以後の日本人のおそらく誰もが

想像してきたほど、薩長両藩の「倒幕芝居」における役割は、

圧倒的なものでなかったということにつきる。すくなくとも、薩長

両藩が英雄的な行動を起こし、ほとんど武力で幕府を倒したの

ではない。別の言い方をすれば、薩長両藩が藩を挙げて一貫

して武力倒幕を目指す運動を展開した結果が、倒幕に直接

つながったわけではない。



…たしかに、薩長両藩は、幕府政治が終わるうえで大きな

役割を果たした。特に第二次長州戦争や鳥羽伏見戦争前後

での役割は大きかったといえる。



…私の一連の話のなかで最も大きくウエイトを占めた、なぜ

幕府政治が終わりを告げたのかという問題を考えた場合、

薩長両藩がはたした役割よりも、もっと大きな功績をあげた

何物かが他にあったとみざるをえない。それが何かといえば、

いままでの政治体制では駄目だという多くの人々の思いで

あった。これが結局、幕府政治を終わらせた。



○社会の転換期|視点が変わると見え方も変わる

○人間の心のあり方を理解する|日本人の精神性を探る旅


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沿線の様々な「はなし」を楽しむ
○○のはなし

JR山陰本線・萩駅に停車する観光列車「○○(まるまる)のはなし」
1977年にデビューし、1982年まで製造されたディーゼル車両 キハ47系


新下関から東萩をつなぐ観光列車「○○のはなし」。山口県の萩(はぎ

⇒頭文字:は)・長門(ながと⇒な)・下関(しものせき⇒し)は、日本と西洋

をひき合わせるきっかけとなった歴史が息づくところであり、幕末維新

の歴史や文化、美味しい海の幸やお酒など、見て、聞いて、感じてみ

たいさまざまな「はなし」がある場所です。



山陰の美しい海岸線とともに、萩(は)・長門(な)・下関(し)を辿り、思

い出に残る「はなし」の旅を楽しんでほしいとの思いが列車名に託され

ています。


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鈴と、小鳥と、それから私
みんなちがって、みんないい

金子みすゞの生家・書店金子文英堂跡(右)|金子みすゞ記念館 長門市


※「私と小鳥と鈴と」 金子みすゞ (1903(明治36)-1930(昭和5)年、童謡詩人)


私が両手をひろげても、

お空はちっとも飛べないが、

飛べる小鳥は私のように、

地面を速く走れない。

私がからだをゆすっても、

きれいな音は出ないけど、

あの鳴る鈴は私のように、

たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、

みんなちがって、みんないい。



○多様な視点から始まる自己への洞察


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死にいたる病とは
絶望である

青海島にある波の橋立|長門市


19世紀デンマークの哲学者、キルケゴール(1813-1855年)。

ヤスパースやハイデガー、サルトルといった20世紀の哲学者

に様々な示唆を与え、実存主義(⇒現実に存在していること

に着目した思想)の先駆者といわれます。



キルケゴールの代表作の一つ「死にいたる病気(1849年)」では、

死にいたる病気は絶望であると述べ、絶望におちいった人間の

心理を考察します。



※「死に至る病」 セーレン・キルケゴール 桝田啓三郎(訳)
  ちくま学芸文庫 p44, p75-76


医者なら、完全に健康な人間などというものはおそらく一人もいは

しないと言うであろうが、同じように、人間というものをほんとうに

知っている人なら、少しも絶望していないという人間など、その

内心に動揺、軋轢、不調和、不安といったものを宿していない

人間など、一人もいないと言うにちがいあるまい。(p44)




気絶した人があると、水だ、オードコロンだ、ホフマン錠剤だ、と叫ば

れる。しかし、絶望しかけている人があったら、可能性をもってこい、

可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ、と叫ぶことが

必要なのだ。可能性を与えれば、絶望者は、息を吹き返し、彼は生

き返るのである。なぜかというに、可能性なくしては、人間はいわば

呼吸することができないからである。ときには、人間の空想力の創

意だけで可能性を招来することもありえはする、しかし、結局は、

つまり、信じることが問題となる場合には、神にとっては一切が

可能である、ということだけしか役には立たないのである。(p75-76)



○私が私になってゆく|ハイデガー「存在と時間」

○鳥はただ飛び、魚はただ泳ぐ|険しい山々と日本海の風雪に適応してきた北陸


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[4Kドローン空撮]長門市の青海島、波の橋立から海上アルプスへ

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38億年にわたる生命の歴史
20万年前に誕生した人類

千畳敷|長門市


46億年前に誕生したと考えられられている地球。誕生したばかりの地球は高温

のマグマに覆われ、生命はとても存在できる環境ではなかったようです。その

後、2億年かけて地球表面は冷却され、44億年前に海が誕生したといわれます。



生命は約38億年前に海で誕生したと考えられています。当時の地球は酸素が

ほとんどなく、光合成を行わない微生物が最初だと考えられています。



25〜27億年前には、シアノバクテリア(藍藻:らんそう)と呼ばれる光合成を行う

微生物が誕生。地球の酸素濃度が増加することでオゾン層が形成され、海の

生物は陸上に上がることができるようになったといわれます。




それから長い月日を経て、私たち人間の祖先である哺乳類が誕生したのは

およそ6,600万年前。人類(ホモ・サピエンス)が誕生したのはほんの20万年前

だといわれます。



※地球46億年の歴史と生命進化のストーリー
  田端萌子&JAMSTEC
  JAMSTEC×Splatoon 2『Jamsteeec(ジャムステ〜ック)』

※宇宙からみた生命史 2019.06
 講師 小林憲正 先生 横浜国立大学教授
 放送大学神奈川学習センター



○UNIVERSE|自然科学と精神科学の両側面

○素の魂に触れるとき|本当の悲しみから逃避してきた日本人


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3億5千年におよぶ大地の記録
秋吉台

秋吉台(あきよしだい)を通るカルストロード
(山口県道242号秋吉台公園線)|美祢市


山口県美祢(みね)市に広がる日本最大級のカルスト台地、秋吉台。

カルストという言葉はスロベニア共和国のクラス地方(スロベニア語

:Kras(クラス)、ドイツ語:Karst(カルスト))に広がる石灰石地域に

由来するそうです。



秋吉台の雄大な景観を作っている石灰石は、およそ3億5千万年前

に南方の海でサンゴ礁として誕生したと考えられています。サンゴ

礁は時間の経過とともに石灰石になります。灰岩石にに降る雨は

長い時間をかけて石灰石を少しずつ溶かし、現在、私たちが見る

ことができる景観が形成されました。


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訪れる人が減少傾向にある
秋芳洞

百枚皿|秋芳洞 (あきよしどう、美祢市)


※秋吉台地域景観・施設整備基本計画(平成31年3月策定) 美祢市
 第一章 はじめに 1.計画の趣旨・目的 より


本市は、日本最大級のカルスト台地である国定公園及び特別天然

記念物「秋吉台」、日本屈指の大鍾乳洞である特別天然記念物「秋

芳洞」を有し、全国各地はもとより諸外国から多くの観光客を迎え入

れている。

しかしながら秋芳洞は、昭和 50 年度の入洞者数約 200 万人をピ

ークに減少傾向にあり、平成 29 年度の入洞者数は約 51 万 5 千人、

観覧料収入は約5億円となった。人口減少、少子化が進む中、観光

交流人口の拡大による地域の活性化の重要性は益々増加しており、

観光雇用の創出や地域経済への波及効果等、地域の活力につなが

る魅力ある観光地づくりが喫緊の課題となっている。本市が有する

観光資源である秋吉台地域を核とした観光振興は、本市の未来づく

りの上においても、極めて重要である。

また、秋吉台地域には老朽化の著しい施設が多く、空き店舗等が

観光景観を阻害している状況にあり、観光地としての魅力向上の

ために、まずは快適な環境整備が求められている。


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思えば遠くに来たものだ
この先いつまでか生きてゆくのであろうが

JR下関駅前


※「頑是(がんぜ)ない歌」 中原中也 1935 (28歳、この2年後に亡くなる)
  「在りし日の歌」 31番目の歌
※頑是(がんぜ) : 分別
※頑是ない(頑是無い. がんぜない) : 分別がない ⇒ 無邪気なこと



思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気(ゆげ)は今いづこ

雲の間に月はゐて
それな汽笛を耳にすると
竦然(しょうぜん⇒ぞっ)として身をすくめ
月はその時空にゐた

それから何年経つたことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐた
あの頃の俺はいまいづこ

今では女房子供持ち
思へば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど

生きてゆくのであらうけど
遠く経て来た日や夜の
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り
結局我ン張る(⇒がんばる)僕の性質(さが)
と思へばなんだか我ながら
いたはしい(いたわしい⇒不憫)よなものですよ

考へてみればそれはまあ
結局我ン張る(⇒がんばる)のだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやつてはゆくのでせう

考へてみれば簡単だ
畢竟(ひっきょう⇒結局意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと

思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いづこ



○歩くこと、移動すること|自然とヒトの多様性

○自然と人間のつながり|日本一の「おんせん県」 大分


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今こそ、希望を
明日への翼



※「いまこそ、希望を」 サルトル×レヴィ 海老坂武(訳)
  光文社古典新訳文庫 2019 p124


…世界は醜く、不正で、希望がないように見える。といったことが、

こうした世界の中で死のうとしている老人(⇒サルトル)の、静かな

絶望さ。

 だが、まさしくね、わたしはこれに抵抗し、自分ではわかってる

のだが、希望のなかで死んでいくだろう。ただ、この希望、これを

根拠付けなければね。

 説明を試しみる必要がある。なぜ今日の世界、恐るべき世界

が、歴史の長い発展の一契機にすぎないのかを、希望がつね

に、革命と反乱の主要な力の一つであったということを。それ

から、わたしがどういうふうに、自分の未来観として、まだ希望

を感じているのかを。



※1980年の初めに行われたジャン=ポール・サルトルとベニィ・
 レヴィの対談。3月、フランスの週刊誌「ル・ヌーヴェル・オプ
 セルヴァトゥール」誌に3回にわたり掲載されました。サルトル
 は、この対談のほぼ1ヶ月後に亡くなります。享年75歳。



○Dear Kitty|ずっと誰よりも大切なキティへ

○森と湖が広がる北欧の国フィンランド|不屈の精神から新たな地平へ

○あふれる力でともに未来へ|植民地化されてきたアフリカ


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JAPAN AIRLINES 降機時ビデオ『明日の翼』ピアノバージョン

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参  考  情  報


○角島ナビ

○山口県長門市観光サイト ななび

○金子みすゞ記念館 - 長門市ホームページ

○萩市観光協会公式サイト|山口県萩市

○【公式】松陰神社|山口県萩市鎮座 明治維新胎動之地

○毛利博物館/国指定名勝 毛利氏庭園

○下関市公式観光サイト 楽しも!

○下関南風泊水産団地協同組合

○山口県山口市観光情報サイト「西の京 やまぐち」

○石炭記念館 - ときわ公園|山口県宇部市

○(一社)津和野町観光協会ホームページ 【ゆ〜うにしんさい】

○【公式】島根県石見(いわみ)の観光情報サイト|なつかしの国石見

○島根県 津和野町 [施設案内・森鴎外記念館]

○津和野文化ポータル

○秋吉台 | 公式ホームページ

○美祢市立秋吉台科学博物館

○JALオリジナルソング「I Will Be There with You」|JAL企業サイト

○一般社団法人セメント協会

○中原中也記念館

○SL「やまぐち」号 「貴婦人」に乗りこんで2時間のレトロ旅に出かけよう

○ブルーシグナル:JR西日本

○国指定文化財等データベース

○国立国会図書館デジタルコレクション

○日米交流150周年記念 - Consulate General of Japan in New York

○小伝馬町牢屋敷展示館 | 中央区まちかど展示館

○蕩尽伝説

○Wikipedia

○明治維新を考える 三谷博 岩波現代文庫 2012

○吉田松陰 新装版 池田諭 大和書房 2015

○吉田松陰−「日本」を発見した思想家 桐原健真 ちくま新書 2014

○吉田松陰 奈良本辰也 岩波新書 1951

○吉田松陰「留魂録」 城島明彦 致知出版社 2014

○幕末外交と開国 加藤祐三 講談社学術文庫 2012

○ペリー提督日本遠征記 (上下) M・C・ペリー. F・L・ホークス
 宮崎壽子(訳) 角川ソフィア文庫 2014

○Narrative of the Expedition of an American Squadron
  to the China Seas and Japan

○江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」 家近良樹 講談社学術文庫 2014

○西周 現代語訳セレクション 菅原光. 相原耕作. 島田英明
  慶應義塾大学出版会 2019

○死にいたる病  セーレン キルケゴール. 桝田啓三郎(訳)
 ちくま学芸文庫 1996

○[新訳]不安の概念 セーレン・キルケゴール 村上恭一(訳)
 平凡社 2019

○いまこそ、希望を サルトル×レヴィ 海老坂武(訳)
 光文社古典新訳文庫 2019

○実存主義とは何か J‐P・サルトル. 伊吹武彦(訳) 人文書院 1996

○サルトル実存主義とは何か (100分 de 名著) 海老坂武 2015

○サルトル−「人間」の思想の可能性− 海老坂武 岩波新書 2005

○新・サルトル講義 未完の思想、実存から倫理へ 澤田直 平凡社 2002

○「サルトル」入門 白井浩司 講談社現代新書 1966

○サルトル 実存主義の根本思想 矢内原伊作 中公新論 1967

○ハイデガーとサルトルと詩人たち 市倉宏祐 日本放送出版協会 1997

○このまちで生きる 宇部再生物語 UBE CITY 2020.09 市勢要覧

○山口県石炭鉱業と関連する化学工業の発展 富阪武士(山口大学名誉教授)
  日本産業技術史学会

○長門市勢要覧「ながとの風」


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