精神自由の再生

ルネサンス都市フィレンツェ


| フィレンツェ | ルネサンス | 古代ギリシア | 人文主義 | エロス | 新プラトン主義 | アカデミー |
| 自由意志 | アイデンティティ | 異種混合性 | 君主論 | 祖国の父 | ローマ教皇 | マギの礼拝 |
| ヴェッキオ宮 | 伝統と革新 | 硬直化 | トスカーナ大公 | 共和制の終焉 | 愛と怖れ | 善と悪 |
| 盲目的な精神 | 最後は力 | ウフィツィ | ヴァザーリの回廊 | ヴェッキオ橋 | ビッティ宮 |
| 誠意のあるふり | メデューサの首 | 黒死病 | 薄れる関心 | 人間らしさを失う | デカメロン |
| ダンテ | 神曲 | 深い森 | 地獄の門 | 最も重い罪 | カニバリズム | 救済される魂 |
| ミケランジェロ | ダヴィデ | 聖家族 | サン・ロレンツォ教会 | サンタ・クローチェ | 運命は変転する |
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ルネサンス都市
フィレンツェ

ミケランジェロ広場(Piazzale Michelangelo)から見た
フィレンツェの街並み


※「ルネサンス都市フィレンツェ」 ジーン・A. ブラッカー 森田義之・松本典昭(訳)
 岩波書店 2011 第6章 文化 歴史的基礎と前提 p259、p263


  ダンテとジョットの時代からマキャヴェリとミケランジェロの時代までの2世紀

  にわたり、フィレンツェはラテン・ヨーロッパ世界における最も躍動的で創造的

  な知的活動と芸術活動の中心地のひとつだった。(p259)



  社会構造の複雑さ、知的関心の多様さ、異なる伝統のあいだの実りゆたかな

  歴史─これらがフィレンツェの文化的活力と革新を育んだ要因である。(p263)




アペニン山脈のふもと、トスカーナ州の州都フィレンツェは、ルネサンスの

中心都市として知られます。14世紀、金融業で台頭したブルジョワジー(市民

階級・資本家階級)は、それまでの支配層であった貴族や聖職者に代わって

実権を握り、莫大な富を背景に文化のパトロンとしての役割を担います。



ダンテ、ジョッド、ボッカッチョ、フィチーノ、ボッティチェリ、ダ・ヴィンチ、

マキャヴェリ、ミケランジェロといった智の巨匠を輩出し、14〜15世紀にかけて

繁栄の絶頂期を迎えます。



○Carnevale di Venezia|新たに甦る有翼の獅子

○森と湖が広がる北欧の国フィンランド|不屈の精神から新たな地平へ


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古代ギリシア・ローマにあった「精神自由」の再生
ルネサンス

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 (Santa Maria Novella)
ノヴェッラには「普段と違う新しい物語」という意味があります


ルネサンス(Renaissance)は、ラテン語に由来し「Re : 再び + naissance : 誕生」

を意味する言葉。



古代ギリシア・ローマ文明にはあった「精神の自由」や「人間の尊厳」を再生すること

を目指した文化運動だったといわれます。



○私が私になってゆく|ハイデガー「存在と時間」

○善すなわち美|自己内対話によって培われる無私の精神


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高度な文明を築いた
古代ギリシア

アテネのアクロポリス
The Acropolis of Athens viewed from the Hill of the Muses


哲学・政治・建築・数学・文学・美術といった広範において、高い文明を

築いた古代ギリシア。紀元前8世紀頃には複数の都市国家(ポリス)が

成立し、その中でも際立っていたのがアテネのポリスだったそうです。



紀元前5世紀、アテネでは参政権をもつ市民が直接的に運用する民主

制が実現されます。



日本で民主制が実現するのは戦後となった20世紀半ばのこと。

2500年もの前に民主制が実現していたことに驚かされます。



○地中海の風に誘われて 宝石のような街並みへ


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古代を通じて人間性の完成を目指す
人文主義

「懺悔するマグダラのマリア」 1533年頃 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
ピッティ宮 パラティーナ美術館 (Palazzo Pitti. Galleria Palatina )


ルネサンスに呼応して哲学の世界においては「人文主義」という運動が展開されます。

「人文主義」はラテン語のフマニタス(humanitas)の訳語で、英語ではヒューマニズム

(humanism)。



ヒューマニズムは、「人間」という意味のホモ(homo)の研究を指し、とくにルネサンス

期においては、古代ギリシア・ローマ古典文献を通じて人間性の完成を目指す学問

でした。



※近代哲学の人間像
 主任講師 佐藤康邦 先生 放送大学教授
 1 近代の目覚め−ルネッサンスの人間像−
 1.ルネッサンスの人文主義 新プラトン主義 p9



○最も進んでいないイノベーション|人間に関する知識

○私が私になってゆく|ハイデガー「存在と時間」


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知恵と愚かさの間にいる
エロス

お酒を一緒に飲みながら議論を交わした
古代ギリシアの饗宴(きょうえん・シンポシオン)


古代ギリシアの哲学者プラトンの著書「饗宴(きょうえん・シンポシオン)」では、

人びとが集い対話する場面が記されています。ギリシア語の「シンポシオン

(symposion)」は、「syn(一緒に) + posis(飲む)」という意味があり、今日、

様々な場所で開催されている「シンポジウム(symposium⇒討論会)」の語源

になっています。



※「饗宴」 プラトン, 中澤務(訳) 光文社古典新訳文庫 2013
  第8章 ソクラテスの話 p128-129


  エロスは知恵と愚かさの間にいる。それは、こんな事情による。神々は誰

  一人として、知恵を愛し求めもしなければ、知恵ある者になりたいとも思わぬ。

  すでに知恵があるのだからな。神でなくとも、知恵ある者なら、知恵を愛し

  求めぬことはないのだ。



  ところが、愚か者もまた、知恵を愛し求めもしなければ、知恵ある者になり

  たいとも思わぬのだ。なにしろ、愚かさというものはなんとも始末に負えぬ

  しろもので、美しくもよくもなく、賢くもないくせに、自分はそれで十分だと

  思いこむのだからな。



  自分にはなにかが欠けているとは夢にも思わぬような輩が、自分には必要

  ないと思っているものを欲しがることなどあるまい。


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新プラトン主義の中心人物
フィチーノ

マルシリオ・フィチーノの肖像 (フレスコ画の部分)
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 トルナブオーニ・チャペル


フィレンツェの郊外に生まれたマルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino 1433-1499年)。

聖職者の教育を受け、後にフィレンツェ大聖堂の司祭を務めた一方、ギリシア語

文献の研究を行い、ヘレニズム期のギリシア学問の集大成である「ヘルメス文章」

のラテン語訳、プラトンの全対話篇のラテン語訳を行ったとされます。



1462年、コジモ・デ・メディチよりフィチーノに与えられた屋敷は、

プラトン・アカデミー(Accademica Platonica)と呼ばれます。


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暗黒世界から
叡智なるものへの愛

プラトン・アカデミー|フィレンツェ郊外カレッジにあるメディチ家別邸
Accademia neoplatonica La Villa di Careggi


「新プラトン主義」によれば、この世界は、最高位にある無制約的存在者から

流出したものであり、この一者(トヘン)からの距離に従って階層秩序があると

捉えています。



最高位には「一者(トヘン⇒神)」、次に「理性(ヌース⇒天使)」、さらに

「魂(プシュケー⇒人間の心)」と続き、この「魂」が物体的なものである

「質料(ヒュレー⇒肉体)」と結合して「有機体身体(⇒人間)」が構成され、

最下位の所には「質料(ヒュレー)」のみがあり、それは暗黒の世界だとされます。



流出してきたものは、自らの源泉である「一者(トヘン)」のもとへ立ち返ることを

願い、叡智(えいち)的なものへの激しい愛にかられた魂は、物体的なものとの

混合物である肉体を自らにとっての牢獄と感じるに至るといいます。



○哲学からみた人間理解|自分自身の悟性を使用する勇気を持つ


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人間の最高の尊厳
自由意志

プラトン・アカデミー 中心人物の一人
ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ ウフィツィ美術館


※「人間の尊厳についての演説(1486)」 ジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラ
 (Giovanni Pico della Mirandola、1463-1494年)


アダムよ、われわれ(⇒神)は、汝(なんじ⇒お前・人間)に、決まった住居も、

汝だけの形も、汝に固有ないかなる機能も与えなかった。それは、汝の希望

と判断に従って、汝自身が、自ら欲する住居と、形と機能を獲得し、持ち続け

るためである。他のすべての存在の本性は制約され、われわれによって指定

された法則の束縛のうちに規制されている。



いかなる制約によっても規制されることのない汝は、われわれがその手に汝

を委ねた汝自身の自由な意思によって、汝の本性を自らのために制約できる。

われわれが、汝を世界の中心に置いたのも、そこから、汝が、世界のうちの

ありとあらゆるものを容易に見ることができるためである。



われわれは、汝を天上のものとも地上のものとも造らず、また死すべきものとも

不死のものとも作らなかったが、それというのも、汝が、あたかも汝自身の創造

者であり形成者であるように汝自身を形作るためである。汝は禽獣(きんじゅう)に

等しい下等な生の形態に生まれ変わることもできれば、また、神のごとき高等な

形態に再生することもできる。



※近代哲学の人間像
 主任講師 佐藤康邦 先生 放送大学教授
 1 近代の目覚め−ルネッサンスの人間像−
 1.ルネッサンスの人文主義 p12-13



○創造的生命力を生み出す愛|夏目漱石「吾輩は猫である」


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イタリア人のアイデンティティ
古代ローマ建国神話

古代ローマの政治・経済の中心地
フォロ・ロマーノ(Foro Romano、ラテン語:Forum Romanum)


古代ローマの詩人ウェルギリウス(紀元前70‐前19)の代表作「アエネーイス」。

女神ウェヌス(ローマ名、アプロディテ⇒ギリシア名、ヴィーナス⇒英語)と

人間の男アンキセスの間に生まれたトロイアの王子アエネーイスは、ギリ

シア軍の図りごとにかかり、10年にわたる攻防の末にトロイアは陥落します。



老いた父アンキセスを背中に負いながら、幼子アスカニウスの手をひき、トロ

イアを逃れたアエネーイスは、7年にもおよぶ苦難と波乱万丈の放浪を経て、

西の国(ヘスペリア⇒現イタリア)に辿り着きます。



新たな地で待ち受けるのは、その土地の英雄であるアルデアの王トゥルヌス。

アエネーイスはトゥルヌスとの闘いに臨みます…





「アエネーイス」が書かれたのは、アウグゥストゥス(紀元前63-14)がローマ帝国

初代皇帝に即位した頃。勢いにのっていたローマは政治軍事の面でギリシアを

超えますが、文化の面ではギリシアの影響を色濃く受けていたといわれます。

そこでウェルギリウスは、ギリシア神話を引き継ぎつつも、新興ローマのアイデン

ティティを主張する叙事詩を創り上げます。




建国神話といえば、日本では古事記・日本書紀が思いあたります。日本書紀

は漢文で書かれ、 中国という大帝国に対して小帝国としての日本国の自立を

主張する歴史書であったといいます。



新興の民族や国家がそのアイデンティティを確かめたいと願うのはどこも同じ

ようです。それは個人にもあてはまるように思えます。



※アエネーイス(下) ウェルギリウス. 泉井久之助(訳) 岩波文庫 1997
 解説 P411-412
※アエネーイス ローマ建国神話 ウェルギリウス 小野塚友吉(訳)
 風濤社 2000 「アエネーイス」を読む前にぜひこれだけは… p7-22



○日本の自立を主張する歴史書|日本書紀

○善すなわち美|自己内対話によって培われる無私の精神


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フィレンツェの特徴
社会的・経済的な異種混合性

サント・スピリト通り (Via di Santo Spirito)


ルネサンス期フィレンツェの顕著な特徴は、それぞれの地区や街区における

社会的・経済的な異種混合性であった。都市のなかに富裕層だけが居住する

地区は存在しなかったし、貧民しか住んでいない地区もなかった。

どの地区でも大きな邸館と小さな家、織物工房と小売店、教区聖堂と修道院

が入り混じっていた。



当時も今と同じく、優美な館の一階は商人や職人に貸し出され、富裕な銀行家

や工房主が、靴屋や石工、貧しい織工、そして娼婦の住む同じ通りに住んでいた。

こうした居住形態は、フィレンツェの都市拡張の無秩序な性格の結果であり、

また社会的伝統の結果でもあった。



※「ルネサンス都市フィレンツェ」 ジーン・A. ブラッカー 森田義之・松本典昭(訳)
 岩波書店 2011 第1章 ルネサンス都市 建物、街路、街区 p20


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君主論
世襲による君主政体について

銀行業で成功し、メディチ家(新興政体)の基礎を築いた
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ
(Giovanni di Bicci de' Medici, 1360-1429年)


※「君主論」 マキャヴェリ 河島英昭(訳) 岩波文庫 1998
 第2章 世襲の君主政体について p15


自分たちの君主の血筋に馴らされた世襲の政体においては、新興の政体に

おけるよりも、これを保持するときの困難は遥かに少ない。



なぜならば、世襲の君主は先祖伝来の統治形態を等閑(なおざり⇒物事を

いい加減に扱う)にしないだけでよく、あとは予測できない変事に対しては

ただ適当に時を稼いでいればよいのだから。



そうすれば、君主が並の器量の者であっても、よほどの強大な権力が現れて

彼から権力を奪おうとしないかぎり、おのれの政体のうちに留まっていることが

できるであろうし、たとえ政権を奪われても、その簒奪(さんだつ)者の身に不吉

な影が忍び寄れば、それを取り戻せるから。


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祖国の父
メディチ家の興隆

コジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici, 1389-1464年)
Agnolo Bronzino, 1565-69, Uffizi


メディチ家を興隆に導いたコジモ・デ・メディチは、父ジョバンニの興した銀行

を発展させ、ジュネーブ(スイス)・ブルージュ(ベルギー)・ロンドン(イギリス)・

アビニヨン(フランス)に支店を開設します。



莫大な富を背景に、画家ボッティチェリや彫刻家ドナテルロなどの芸術家、

フィチーノといった哲学者らを保護し、プラトン・アカデミーを創設します。





※メディチ家、主要人物とキーワード

 @ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(1360-1429年)
 Aコジモ・デ・メディチ(1389-1464年)
  祖国の父、ボッティチェリ、ドナテルロ、フィチーノ、プラトン・アカデミー
 Bピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ(1416-1469年)
  病弱、痛風持ち
 Cロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492年)
  イル=マニフィコ(偉大な人)、豪華王、サヴォナローラ
 Dピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1472-1503年)
  ロレンツォの長男、不運なピエロ
 Eジョヴァンニ・デ・メディチ(1475-1521年)
  ロレンツォの次男、ローマ教皇レオ10世、ルターの宗教改革、ラファエロ
 Fジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1479-1516年)
  ロレンツォの三男、レオナルド・ダ・ヴィンチ
 Gロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチ(1492-1519年)
  マキャヴェッリの「君主論」
 Hジュリオ・デ・メディチ(1478-1534年)
  ジョヴァンニ(レオ10世)の従弟、ローマ教皇クレメンス7世
 Iアレッサンドロ・デ・メディチ(1510-1537年)
   共和制の終焉、君主制の誕生
 Jコジモ1世(1519-1574年)
  初代トスカーナ大公、ウフィツィ、ヴァザーリの回廊
 Kフランチェスコ1世・デ・メディチ(1541-1587年)
  第2代トスカーナ大公、ウフィツィ美術館
 Lフェルディナンド1世・デ・メディチ(1549-1609年)
 Mアレッサンドロ・オッタビアーノ・デ・メディチ(1535-1605年)
  ローマ教皇レオ11世
 Nコジモ2世・デ・メディチ(1590-1621年)
  ガリレオ・ガリレイのパトロン
 Oフェルディナンド2世・デ・メディチ(1610-1670年)
 Pコジモ3世・デ・メディチ(1642-1723年)
 Qジャン・ガストーネ・デ・メディチ(1671-1737年)
  最後のトスカーナ大公


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ローマ教皇を輩出した
メディチ家

ローマ教皇レオ10世となったジョヴァンニ・デ・メディチ(1475-1521年)
左側の人物は、後にローマ教皇クレメンス7世となるジュリオ・デ・メディチ
ラファエロ


コジモのひ孫であり、ロレンツォの次男にあたるジョヴァンニ・デ・メディチ

(Giovanni de Medici)は、1513年、ローマ教皇に選出されレオ10世となります。



当時、ローマのサン・ピエトロ聖堂の改築に必要な資金を獲得するために、

ドイツで贖宥状(しょくゆうじょう、免罪符)が販売されていましたが、

ヴィッテンベルグ大学の神学教授であったマルティン・ルターは、贖宥状を

購入さえすれば罪そのものが許されるようなことは、キリスト教の悔い改め

を蔑(ないがし)ろにした行為だと批判し、95か条の提題(ていだい)を教会の扉

に掲げます。



これに対してレオ10世はルターを破門処分とします。


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救世主イエスの誕生に重ねる
メディチ家

「マギの礼拝」 1475年頃 ボッティチェリ ウフィツィ美術館
「Adorazione del magi」 1475 circa
Alessandro Filipepi, detto BOTTICELLI | Galleria degli Uffizi


「マギの礼拝」は、星のお告げを受けて救世主イエスの誕生を知った東方

の3人の博士(賢者・王)が、ベツレヘム(現パレスチナ)を訪れ、イエスに礼拝

する話。



※マタイによる福音書 2章 1〜2節
 「口語 新約聖書」 日本聖書協会 1954年


  イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、

  見よ、東からきた博士たち(⇒マギ)がエルサレムに着いて言った、

  「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。

  わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。




ボッティチェリが描いた「マギの礼拝」には、メディチ家の人物が描かれ、

救世主イエスとメディチ家を重ね合わせているようです。



※登場人物(前列左から)

 ・ロレンツォ・デ・メディチ (腹部の前で両手を重ねている人物)
 ・A. ポリツィアーノ(詩人) (ロレンツォに隠れている人物)
 ・ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ(哲学者、プラトン・アカデミーの中心人物)
 ・コジモ・デ・メディチ (子供⇒イエスに手を差し伸べている人物)
 ・ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ (前列中央、赤いマントの人物)
 ・ジュヴァンニ・デ・メディチ (ピエロの右)
 ・ジュリアーノ・デ・メディチ (ピエロの背中後方で立っている人物)
 ・ボッティチェリ (作者本人、前列一番左の人物)


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防衛の砦
フィレンツェの政庁

ヴェッキオ宮(Palazzo Vecchio)とシニョリーア広場(Piazza della Signoria)


川(⇒アルノ川)の近くには、都市政府の立法と行政の機関がおかれた政庁館

パラッツォ・デッラ・シニョリーナ(現在のパラッツォ・ヴェッキオ)と、司法および

警察の長官である司法長官(ポデスタ)の館(現在のバルジェッロ国立美術館)

があった。



これらの威圧的な建物は、13世紀末から14世紀初めにかけて建てられ、その

いかめしい要塞のような外観は、それらを建設したダンテの世代のフィレンツェ

人たちの気質 ─荒々しく、断固とした、猾介な気質─ をどこか反映している。



これらの建物は防衛の砦として構想されたもので、その目的は都市政府をあら

ゆる方面の襲撃から防御すること、つまり服従させられてはいるがまだ生き残っ

ている封建貴族から、無産階級の暴徒たちから、またシエナやピサの軍隊から

防御することであった。



※ルネサンス都市フィレンツェ ジーン・A. ブラッカー
 森田義之・松本典昭(訳) 岩波書店 2011
 第1章 ルネサンス都市 都市環境 p7-8
※ヴェッキオ宮は現在市庁舎として利用されているそう



○日本の権力を表象してきた建造物|日本人の自我主張

○安全で安心して暮らせる地域社会の実現|神奈川県警察の取り組み


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柔軟に富んだ
伝統と革新のバランス

メディチ邸宅としてコジモ・デ・メディチからゴシモ1世の時代まで
利用されたメディチ・リッカルディ宮 (Palazzo Medici Riccardi)


※「ルネサンス都市フィレンツェ」 ジーン・A. ブラッカー 森田義之・松本典昭(訳)
 岩波書店 2011 第7章 エピローグ─共和国の黄昏(たそがれ) p313


二つの主題がルネサンス期のフィレンツェを分析する本書を貫いている。

社会とその諸制度の柔軟性にとんだ性格、そして伝統と革新の実り豊か

なバランスである。この共同体は過去と深く結びついており、過去は都市

の政策、行動様式、信念に対して指針を提供した。しかし、フィレンツェ人

は伝統や制度の囚人になることはなかった。



この貴族的な社会においては、かなりの程度の経済的・社会的流動性が

硬直した階級制度の形成に歯止めをかけていた。共和国は少数の選ばれた

都市貴族の集団に支配されたが、その支配は絶対的でも全体的でもなかった。



党派争い、私怨(しえん⇒個人的なうらみ)、政争が、不安定で変転してやまない

支配階級をしばしば分裂させた。政策は通常は都市の共和制的でグェルフィ

(⇒ローマ教皇)的な伝統の枠内で決められていたが、新しい事態や特殊な

事情に対して絶えず変化を遂げた。15世紀初期におけるフィレンツェの美術家

と人文学者の偉業は、古いものと新しいものの幸福な結合がもたらした創造的

可能性の最も顕著な証拠である。



○破壊と再生|日本型うつ病社会に別れを告げて

○持続可能な循環型社会の基盤にあるもの


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次第に陰りはじめる創造性
硬直化してゆく社会

「支配・統治」を意味するシニョリーナ広場 (Piazza della Signoria)
中央には、馬にまたがるゴシモ1世像


※「ルネサンス都市フィレンツェ」 ジーン・A. ブラッカー 森田義之・松本典昭(訳)
 岩波書店 2011 第7章 エピローグ─共和国の黄昏(たそがれ) p313-314


しかしながら、15世紀中頃には、こうしたフィレンツェの経験の特徴はかげりを

見せはじめた。15世紀後半のフィレンツェ(とイタリア)の歴史における最も顕著

な特徴は、人間の活動のあらゆる側面に浸透した保守主義の精神である。

政治においても、社会経済関係においても、宗教や文化においても、制度は

硬直化し、選択の幅がせばまった。



○イノベーションは自発的に生まれる|健全な経営を目指す会社


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初代トスカーナ大公
コジモ1世

「Ritratto di Cosimo I con l'armatura」 (1543-46) Bronzino Uffizi
「鎧を着たコジモT世」 ブロンツィーノ ウフィツィ美術館


コジモ・デ・メディチの弟の家系に生まれたコジモ1世(1519-1574年)。当時、

メディチ家の当主であったアレッサンドロ・デ・メディチ(ローマ教皇クレメンス

7世の子供)が暗殺されたことによりフィレンツェ公に選出されます。



1555年にはシエナを攻略してトスカーナ全土を支配下に収め、ローマ教皇

ピウス5世より初代トスカーナ大公に任じられます。



コジモ1世は、建築家・画家のジョルジョ・ヴァザーリに政庁事務所(後の

ウフィツィ美術館)の設計を命じたほか、トスカーナ大公の住まいとなる

ピッティ宮・ボーボリ公園の改築・建造に着手します。



現在のフィレンツェの街並みは、コジモ1世が整備した時のものが基礎に

なっているといいます。


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共和制の終焉
メディチ君主国の誕生

市民会議が開かれていた五百人広間 (Salone dei Cinquecento)
ヴェッキオ宮


ヴェッキオ宮殿にある「五百人広間 (Salone dei Cinquecento)」。

フィレンツェ共和国時代は、ここで市民会議が開かれていたそうです。



「五百人広間」と聴くと、古代ギリシアのアテネにおいて、クレイステネス

が設置した民主政治の重要機関「五百人評議会(hoi pentakosioi)」を

思い起こさせます。



コジモ1世はヴァザーリに命じ、この部屋を「謁見の間」に改修させました。

左右の壁にはピサとシエナとの戦いに勝利した様子、天上にはコジモ1世

を礼賛した39枚の絵が掲げられています。


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愛されるよりも恐れられる方が
はるかに安全である

シエナとの戦い ジョルジョ・ヴァザーリ|五百人広間


※「君主論」 マキャヴェリ 第17章 冷酷と慈悲について


人に怖れられるより愛される方がよいのか、逆に、愛されるよりも恐れられる

方が良いのかという議論が新たにおこってくる。誰も両方ともあってほしいと

答えるであろう。しかし、一人で二つとも兼ねることは難しい。そこで、両方の

うちいずれかを選ばなければならないとしたら、愛されるよりも恐れられる方

が、はるかに安全であろう。



というのも、人間は恩知らずで、移り気で、偽善的で、臆病で、強欲であると

一般にいうことができるからである。君主が彼らにとって都合のいいもので

ある間は、彼らはまったく君主の意のままであり、血も財産も生命も子供まで

捧げるであろう。しかし、これは前にも言ったように、そのような犠牲の必要が

差し迫っていない時のことで、その必要が生じてくると、彼らは背を向ける。

だから彼らの言葉をすべて信じて、警戒を怠る君主は破滅する。



気高い精神や偉大さによらないで、対価を払って買うことができるような友情

は、それだれの値打ちしかないものであって、手に持っているわけにはゆか

ないから、本当に必要な時には役に立たない。人間は自分が恐れている者

よりも、愛されている者を害することに躊躇しない。



それにしても、君主は、たとえ人から愛されないまでも、憎まれない程度で、

恐れられなくてはならない。怖れられることと憎まれないことは確かに両立する。

君主がその国民や臣下の財産や妻をかすめ取らないならば、上の事は成し

遂げられる。ただし、誰か人の血を流すことが必要な時には、正当な弁明と

明白な理由にもとづいて行わなければならない。とりわけ、他人の財産を奪う

ことは差し控えるべきである。なぜならば、人は父親の死は早く忘れるが、

その遺産の喪失は忘れないからである。



※近代哲学の人間像
 主任講師 佐藤康邦 先生 放送大学教授
 1 近代の目覚め −ルネッサンスの人間像−
 3.マキアヴェッリの「君主論」 p21-22


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善と悪の両側面から見出される
人間像

ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527年)
サンティ・ディ・ティート(Santi di Tito)


「君主論(Il Principe)」を記したことで良く知られるフィレンツェ出身の外交官

ニッコロ・マキャヴェリ。ルネサンス的な万能の天才型の人物であり、人文

主義的教養を持ち、フィレンツェの歴史を書き、言語学の研究を行ったほか

小説や戯曲まで書いたといわれます。



君主論は一般に「マキャヴェリズム」という言葉が示すような権謀術数

(けんぼうじゅっすう⇒人を欺くための図りごと)をふるうことを奨励する

政治論との見方がありますが、読んでみるとそこには人間の本質的な

部分が描かれているように思えます。




※君主論 マキャヴェリ 河島英昭(訳) 岩波文庫 1998
 第6章 自己の軍備と力量で獲得した新しい君主政体について p47-48


  力量のみちを経て君主になった者たちには、君主政体の獲得に困難を

  伴うが、その維持は容易である。そして君主政体の獲得に伴った困難は、

  彼らの政権を確立し彼らの身の安全を確保するために新しい制度や

  施行方法を導入せざるを得なかったことから生じた。



  ここで考慮すべきは、みずから先頭に立って新しい制度を導入すること

  以上に、実施に困難が伴い、成功が疑わしく、実行に危険がつきまとう

  ものはないということである。なぜなら、新制度の導入者は旧制度の

  恩恵に浴していたすべての人々を敵にまわさねばならないから。そして

  新制度によって恩恵を受けるはずのすべての人びとは生温(なまぬる)い

  味方に過ぎないから。



  この生温さが出てくる原因は、ひとつには旧来の法を握っている対立者たち

  への恐怖心のためであり、いまひとつには確かな形をとって経験が目のまえ

  に姿を見せないかぎり、新しい事態を真実のものとは信じられない、人間の

  猜疑心(さいぎしん)のためである。


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盲目的な人間の精神
火あぶり刑となったサヴォナローラ

ジローラモ・サヴォナローラ (Girolamo Savonarola, 1452-1498年)
フラ・バルトロメオ サン・マルコ美術館


ロレンツォ・デ・メディチの招きでサン・マルコ修道院で活動していたドミニコ会の

修道士ジローラモ・サヴォナローラ。



ロレンツォが亡くなり、イタリア戦争が始まると、動揺した市民の心を掴んで

実権を握ります。宗教を柱とした国家を建設しようとして、市民には禁欲的で

質素な生活を強制する一方、メディチ家の独裁政治やローマ教皇の腐敗、

ルネサンスの華美で軽薄な風潮を批判し、厳格な信仰に戻るべきであると

唱えます。



しかし、禁欲的で質素な生活に嫌気がさしてきた市民の心は、徐々に

サヴォナローラから離れてゆき、それまで神のように崇めたていた存在

から一転して、サボォナローラを捕え、火あぶりの刑に処します。



シニョリーア広場の真ん中には丸いプレートが埋め込まれています。この

場所はサヴォナローラが火あぶり刑にされた場所だそうで、命日の5月23日

には花が供えられています。


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武装した者が勝利し
武装しない者が敗北する

シニョリーア広場で火あぶりの刑に処せられるサヴォナローラ
Painting of Savonarola's execution in the Piazza della Signoria


※「君主論」 マキャヴェリ 河島英昭(訳) 岩波文庫 1998
 第6章 自己の軍備と力量で獲得した新しい君主政体について p47-48


私たちの時代にあって、修道士イエローニモ・サヴォネローラの身に生じた

こどくに。すなわち、この修道士の言説を多数の者たちが信じなくなり始める

やいなや、みずから導入した新しい制度のなかで、彼は滅亡したのである。



そして信じてきた者たちの心を繋ぎ止めておく方法も、不信の念を抱く者たち

を力ずくで信じさせる方法も、彼にはなかった。それゆえ、このような人びとは

行動にさいして大きな困難を抱えているので、ありとあらゆる危険が前途に

立ちはだかってくるため、力量によってつぎつぎに乗り越えねばならない。



だが、ひとたびこれらを克服して、自分の資質に妬み心を抱く者たちを

消滅させてしまい、みずから尊敬さるようになれば、あとには強い権力が

残って、身は安全となり、栄誉を称えられ、幸せに恵まれる。



○平和と独立を守る防衛省|すべての国々に感謝の気持ちを


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行政機関を集約する目的で建設された
ウフィツィ

ウフィツィ美術館とウフィツィ広場


ウッフィーツィ美術館─それは、フィレンツェという一つの都市が自らの

歴史においてつくり上げた、世界でも比類のない美術館です。もちろん、

その核になったのはメディチ家の美術コレクションで、美術館としての

誕生はトスカーナ大公フランチェスコT世が1581年にメディチ家の事務

局(ウッフィーツィ)の3階回廊にコレクションを展示したことに始まります。

早くも1591年に美術館が公開されたということは驚くべきことです。



「ガッレリーア」とはギャラリーのことで、もともとは長い廊下を意味する

言葉でした。日本語でも「画廊」と訳されますが、以降ヨーロッパの宮廷

で流行する回廊形式の美術館の草分けということになります。



「イタリア芸術家列伝」の著者であるジョルジョ・ヴァザーリが1560年に

コジモ1世の命を受けて、トスカーナ大公国の行政事務局(1-2階)として、

また3階(イタリア式では2階)は大きく突き出た庇(ひさし)に包まれた回廊

として建設したものです。(当時は、現在あるガラス窓ではなく、風が廊下

を吹き抜けていました。)



※宮下孝晴の徹底イタリア美術案内2 北イタリア─フィレンツェ・ベルガモ編
  美術出版社 2000  U フィレンツェとその周辺 p138


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政庁とピッティ宮を繋ぐ
ヴァザーリの回廊

ウフィツィ美術館より


政庁(ウフィツィ・ヴェッキオ宮)からアルノ川に掛かるヴェッキオ橋の上を通って、

メディチ家の住まいピッティ宮をつなぐヴァザーリの回廊。建築したジョルジョ・

ヴァザーリの名がつけられています。



ヴァザーリの回廊は、メディチ家の人びとが政庁と自宅を安全に通行するため

に造られたそうです。


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肉屋さんが並んでいた
ヴェッキオ橋

貴金属・宝石店が並ぶヴェッキオ橋


フィレンツェで最古の橋といわれるヴェッキオ橋。

かつては肉屋さんが並んでいたそうですが、悪臭を放つことから、

フェルディナンド1世の時代に肉屋を立ち退かせ、貴金属・宝石店

に変えさせたといわれます。


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トスカーナ大公が住んだ宮殿
ビッティ宮



メディチ家のライバルでフィレンツェの大商人であったルーカ・ピッティの私邸として

建設が始まったピッティ宮。ピッティが亡くなると建設も中断されてしまいます。



コジモ1世は、スペインのトレドから迎い入れた妻エレオノーラ・ディ・トレドの

ために、ピッティ宮を買い入れ増改築を行います。



○象徴天皇制と平和主義|国事に関する行為が行われる宮殿


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誠意を身につけているように
振る舞う人間

ボーボリ庭園|陶磁器博物館前から見たネプチューンの噴水とピッティ宮、
フィレンツェの街並み。近隣にはマキャヴェリの名がつけられた通りがあります。


※「君主論」 マキャヴェッリ, 河島英昭(訳) 岩波文庫 1998
  第18章 どのようにして君主は信義を守るべきか p131-133


君主が信義を守り狡猾(こうかつ)に立ちまわらずに言行一致を宗(むね)と

するならば、いかに讃(たた)えられるべきか、それぐらいのことは誰にでも

わかる。



だがしかし、経験によって私たちの世に見えてきたのは、偉業を成し遂げた

君主が、信義などほとんど考えにも入れないで、人間たちの頭脳を狡猾に

欺(あざむ)くすべを知る者たちであったことである。そして結局、彼らが誠意

を宗(むね)とした者たちに立ち優ったのであった。



…したがって、君主たちに必要なのは、先に列挙した資質(慈悲深く、信義

を守り、人間的で、誠実で、信心ぶかい)のすべてを現実に備えていること

ではなくて、それらを身につけているかのように見せかけることだ。

いや、私として敢えて言っておこう。すなわち、それらを身につけてつねに

実践するのは有害だが、身につけているようなふりをするのは有益である、と。



…君主たる者は、わけても新しい君主は、政体を保持するために、時に

応じて信義を背(そむ)き、慈悲心に背き、人間性に背き、宗教に背いて

行動することが必要なので、人間の善良な存在と呼ぶための事項を何も

かも守るわけにはゆかない。



…君主たる者は、したがって、先に記した五つの資質が身に備わっていない

ことを暴露してしまう言葉は、決して口から出さぬよう、充分に気をつけなけ

けばならない。そして外見上、聞くにつけ見るにつけ、いかにも慈悲ぶかく、

信義を守り、いかにも人間的で、いかにも誠実で、いかにも宗教心に満ちて

いるかりように、振る舞わなければならない。



○困難を伴う自我の開放|森鴎外「舞姫」にみる生の哲学


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メデューサの首を掲げる
ペルセウス

ランツィのロッジア (Loggia dei Lanzi)


シニョリーナ広場にある「ランツィのロッジア(屋根のある柱廊)」には、複数の

彫刻が展示されています。その中の一つ「メデューサの首を掲げるペルセウス

(Perseo con la testa di Medusa)」は、ゴシモ1世がチェリーニに作らせた作品。



右手に剣を持ち、左手でメデューサの首を掲げる血なまぐさいポーズは、若き

絶対君主コジモ1世からのメディチ家に反抗する者への警告が込められている

といわれます。


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人間の力を超えた猛威
黒死病

「ペスト(Plague)」 1898 アルノルト・ベックリン バーゼル市立美術館


ヨーロッパで猛威をふるった伝染病「ペスト(黒死病)」。

人間は、人口の1/3 が亡くなるような、それも目に見えない病原体が原因である

恐怖の環境に置かれると、刹那的な欲望の追求や浪費に身を持ちくずすか、

この悪疫が神からの試練であると考えて懺悔して神仏に頼るか、犯人を仕立て

上げて迫害するかに陥りやすいといいます。



※第4回「ペスト」−中世ヨーロッパを揺るがせた大災禍(だいさいか)
 −「得体のしれないものへの怯え」から「知れて安心」へ−
 加藤茂孝 先生
 医学と公衆衛生に関する学術情報誌【モダンメディア】
 56巻2号 2010 「人類と感染症との闘い」



○人間の弱さと限界、そこからの可能性|パスカル「パンセ」


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薄れゆく関心や配慮
広大な納骨堂のような街

ペスト(黒死病)が流行したフィレンツェ


黒死病がもたらした直接の結果は、店や工房の閉鎖であり、都市の経済の停滞

であった。居酒屋でさえ店を閉め、恐怖に包まれた街で開いていたのは、いくつ

かの医者の診療所と薬屋であった。



食料供給が途絶えたことで貧民の死亡率が上がったことは疑いない。彼らは

食物もなく、医者にもかかれず、人びとが密集する悪臭ただよう貧民街で死を

待つほかなった。



裕福な市民には多くの選択肢があり、そのひとつは田舎の別荘か、他の安全

な地域に避難することであった。静まりかえった無人の街路にひびくのは、町

から逃げ出す金持ちの荷馬車や蹄の音くらいだった。



街は広大な施療院か納骨堂のようであった。疫病の犠牲者が増えるにつれ、

生者に対しても死者に対しても、関心や配慮はみるみる薄れていった。

医者や薬屋、食料の調達者たちは、病人に法外な料金を請求した。



※ルネサンス都市フィレンツェ ジーン・A. ブラッカー 森田義之・松本典昭(訳)
 岩波書店 2011 第1章 ルネサンス都市 都市住民 p49-50



○私たちの生涯|生と死の狭間にある「時」を歩む


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心を痛める者はいなくなった
人間らしさを失う

フィレンツェ出身の詩人
ジョヴァンニ・ボッカッチョ(Giovanni Boccaccio, 1313-1375年) ウフィツィ美術館


※「デカメロン」 ジョヴァンニ・ボッカッチョ. 河島英昭(訳) 講談社文芸文庫 1999
 第一日 序 p27-28


隣人たちの取った方法は、死んでいった者たちへの憐憫よりもむしろ

死体の腐敗におのれが毒されることを恐れて、ほぼ一致していた。

彼らはまず、みずから…すでに息を引き取った人々の死骸を、家から

引きずり出し、それぞれの戸口の前に置いた。それゆえとりわけ朝方に、

外を出歩いたりすれば、その姿を数知れず目にしたことであろう。



ついで、柩(ひつぎ)が取り寄せられ…ひとつの柩に二つも三つもいっしょに

死骸を入れることが一再ならずあり、妻と夫の二人をいっしょに、あるいは

兄弟三人をまとめて、あるいは父と子を、さらには別の組み合わせをつくって、

いっしょくたに入れることなど、いくらでもあった。



こうして二人の司祭が、一個の柩の前に十字架をかかげて進んでゆくと、

たちまちその後ろには運搬人にかつがれた柩が三つ四つと並んでしまい、

司祭たちとしては一人の死者を葬るつもりであった場所に、六人も八人も、

時にはそれ以上の死骸を、埋葬しなければならないことなど数え切れぬ

ほどに生じた。



それゆえ、こういう死人たちにとっては涙や燭台や葬式はもはや無縁のもの

となり、それどころか事態はさらに進んで、いまや人間が死んでも、山羊が

死んだほどに心を痛める者はいなくなった。



○絶望から美しさを見い出す|太宰治「人間失格」

○苦しみに満ちている人間の生からの救済|ショーペンハウアー


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人間の本来的な姿が垣間見える
デカメロン

「A Tale from the Decameron」 1916
John William Waterhouse Lady Lever Art Gallery. Liverpool. England


中世イタリア・フィレンツェの詩人ジョヴァンニ・ボッカッチョ(Giovanni Boccaccio,

1313-1375年)は、ダンテの死後に「神曲」の講演を行ったことでも知られます。



ボッカッチョの代表作「デカメロン」は、3人の男性と7人の女性がフィレンツェ

に猛威をふるうペストから逃れ、郊外の別荘で10日間を過ごす物語。



別荘で過ごす男女10人は、1日に1人1話を披露することになり、滑稽な話

から好色な話、悲劇に至るまで全100話が語られます。



迫りくるペストの恐怖から現実逃避して、語られる多彩な物語からは、

人間の本来的な姿が垣間見えてきます。



○人間の心のあり方を理解する|日本人の精神性を探る旅


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フィレンツェを追放され
流刑の身となったダンテ

「ダンテ・アリギエーリの肖像」  ジョット・ディ・ボンドーネ
バルジェロ国立美術館 (フレスコ画の一部)


フィレンツェ出身の詩人・政治家、ダンテ・アリギエーリ(1265-1321年)。

教皇に謁見するためローマへ滞在中にフィレンツェでクーデターがおこり、ダンテ

は汚職の罪で永久追放となります。亡命生活を余儀なくされたダンテは、その後、

祖国フィレンツェに戻ることは叶わず、1321年9月13日、ヴェネツィアからの帰路に

マラリアにかかり、ラヴェンナで没したとされます。



ダンテの代表作「神曲」では、フィレンツェに対する皮肉が語られます。


  成り上がりの市民と巨万の暴富が、あわれフィオレンツァよ、そなたのうち

  に自大と放埓(ほうらつ)を生み、それゆえそなたは既に泣き悲しむ!

  (地獄篇 第16歌)




  よろこべ、フィオレンツァ、いとも偉大な君は海原にも陸地にも翼をうち、

  その名、地獄のいたる所にひろまっているから! (地獄篇 第26歌)



※「神曲(地獄篇)」 ダンテ・アリギエーリ 寿岳文章(訳) 集英社ヘリテージ
 シリーズ 2003 第16歌 p186、 第26歌 p299
※ダンテの生きた時代は、メディチ家が実権を握る前


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生きたまま彼岸を旅する
神曲

ダンテ「神曲」 ドミニコ・ディ・ミケリーノ
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(フィレンツェ大聖堂)内


ダンテ・アリギエーリの代表作「神曲」は、地獄篇 (Inferno)・煉獄篇 (れんごく

へん:Purgatorio、プルガトーリオ、天国に至る前に苦しみを受ける場所、浄罪

界)と天国篇(Paradiso)の3部から構成されます。



1300年、ある男(⇒ダンテ)は聖木曜日(復活祭前の木曜日、イエスが使途たち

と最後の晩餐をとった日)に、暗い森に迷い込み、そこで古代ローマの詩人

ウェルギリウスと出会います。聖金曜日、ウェルギリウスに導かれ地獄へと

旅立ち、地獄の九圏を巡り、地球の中心部・魔王ルチーフェロが幽閉されて

いるところに至ります。



そこから反対側に突き抜け煉獄山に辿り着き、ダンテは、煉獄山を登るにつれて

罪が清められてゆきます。そこで再会したベアトリーチェの導きで天界へと昇華し、

復活祭の前夜再び地上の人となります。


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人生の半ば
真直ぐな道を失い、深い森に迷い込む

神曲 (地獄篇) 第1歌 ギュスターヴ・ドレ 


※「Divina Commedia/Inferno」 Dante Alighieri. Canto I
 「神曲/地獄篇」 ダンテ・アリギエーリ 第1歌


  Nel mezzo del cammin di nostra vita

  mi ritrovai per una selva oscura,

  che la diritta via era smarrita.

  Ahi quanto a dir qual era e cosa dura

  esta selva selvaggia e aspra e forte

  che nel pensier rinova la paura!

  Tant' e amara che poco e piu morte;

  ma per trattar del ben ch'i' vi trovai,

  diro de l'altre cose ch'i' v'ho scorte.





ひとの世の旅路のなかば(⇒現代の寿命80歳とすると40歳)、ふと気がつくと、

私はますぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。ああ、その森

のすごさ、こごしさ(⇒険しさ)、荒涼ぶりを、語るのはげに(⇒本当に)難しい。

思いかえすだけでも、その時の恐ろしさが戻ってくる!



その経験の苦しさは、死にもおさおさ(⇒ほとんど)劣らぬが、そこで巡り

あったよきことを語るために、私は述べよう、そこで見たほかのことどもをも。



※「神曲(地獄篇)」 ダンテ・アリギエーリ 寿岳文章(訳) 集英社文庫ヘリテージ
 シリーズ 2003 第1歌


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我を過ぎれば憂いの都あり
地獄の門

「地獄の門」 オーギュスト・ロダン 国立西洋美術館 (東京都)


※「神曲」 ダンテ・アリギエーリ 山川丙三郎(訳) 第3歌
  (地獄の門に刻まれている文字)


  我(⇒地獄の門)を過ぐれば憂(うれ)ひの都あり、

  我を過ぐれば永遠の苦患(なやみ)あり、

  我を過ぐれば滅亡の民あり

  義は尊きわが造り主を動かし、

  聖なる威力、比類なき智慧、

  第一の愛、我を造れり

  永遠の物のほか物として我よりさきに

  造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、

  汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ



○近代彫刻の父 オーギュスト・ロダン


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人間の最も重い罪
信じている者を欺くこと

神曲「地獄篇」 第32歌 ギュスターヴ・ドレ


最も重い罪を背負った者が落とされる地獄の最下層、第9圏コキュトス(氷った沼)は、

信じている人を欺いた者たちのいる場所。



ウェルギリウス(一番左)とダンテ(その右)は、氷の沼から上半身を出した2人のうち、

1人がもう1人の頭を残忍にも食いかじっている姿に出会います。


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他者を喰って生きる
人間の姿

神曲「地獄篇」 第33歌 ギュスターヴ・ドレ (飢えの塔)


「氷った沼」でもう一人の頭をかみ砕いているのは、ピサの貴族であった

ウゴリーノ伯。生前は、仲間と祖国を裏切った罪で、子ども2人・孫2人と

ともに高い塔に幽閉されます。



※「神曲(地獄篇)」 ダンテ・アリギエーリ 寿岳文章(訳) 集英社文庫ヘリテージ
 シリーズ  2003 第32歌 p393-396


  わし(⇒ウゴリーノ伯)は泣かなんだ、わしの中身はもう石に化(な)っていたので。

  子供らは泣いた、わしのいとしいアンセルムッチョが案じて言う、

  「父よ、どうなされた、なぜそんな顔つきを?」



  そう言われてもわしは涙流さず、口も利かなんだ、その日まる一日、また夜も。

  やがて次の日の太陽が世を照らす。かすかな一条(ひとすじ)の光が、

  嘆きの獄房へと差し入り、子供らの四つの顔にわし自身の面(おも)ざし

  を見てとると、わしはたまらず、悲嘆のあまりわしの両手を噛んだ。



  ひもじくてわしがそうしたと思ったか、子供らは突然ひょろひょろと立ち上がり、

  言うには、「父よ、いっそ私たちを食べて下さるなら、私たちの悲しみはずっと

  ずっと軽くなりましょう。このみじめな肉の衣(ころも)を被(き)せたのはあなた、

  だからどうぞ、私たちからそれを剥ぎとって下さい!」



  小さい者をこれ以上悲しませまいと、わたしは心を静めた。その日、次の日、

  わしら親子は遂にもの言わず。ああ非情の大地よ、なぜ口あけてわしらを

  呑んではくれぬ?



  四日目を迎えたとき、ガットその身を足もとに投げ、長くのびて言う。

  「父よ、なぜあなたはわたしを助けては下さらぬ?」



  そのままガットは死んだ。そしておぬし(⇒ダンテとウェルギリウス)が今わし

  を見ているように、わしは残りの三人が、一人ずつ、五日目と六日目に

  仆(たお)れるのを見た。既に盲(めしい⇒盲目)のわしは、手探りで一人一人

  の子供の骸(むくろ⇒死体)を求め、死後二日にわたり、名を呼び続けた。

  が、悲嘆に勝てたわしも、断食には勝てなんだ。」



○生命体の本質|他者を殺して食べること

○食・農・里の新時代を迎えて|新たな潮流の本質


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自分自身の翼は足りなかった
救済される魂

アルノ川(Arno)にかかるヴェッキオ橋(Ponte Vecchio)


※「神曲」(天国篇) ダンテ・アリギエーリ 33歌
 「Divina Commedia」(Paradiso) Dante Alighieri Canto XXXIII


ああ、永遠なる光よ、あなたはあなたの中にのみ存在し、

あなたのみあなたを知り、あなたに知られ、

あなたを知りつつ、愛し、ほほえむ。



…円周の長さをはかろうと熱心な幾何学者がいくら考えても、

自分の求める原理を、発見できないのと同じように



その新しい光景の前で私は知りたいと望んでいた。

どうしてその姿がその円に合致して、

どうしてその像がその場に現れるのかを。



それには、私自身の翼は足りなかったのだ。

ただし、そのとき、私の知性は光に貫かれ、

知りたいという望みがかなえられた。



この高き空想にいたって、力はつきた。

だがすでに、私の望みと意志は

等しく廻(めぐ)る車のごとく、動かされていた。

太陽とほかの星々を廻らせる愛によって。



※謎と暗号で読み解く ダンテ「神曲」 村松真理子 角川ONEテーマ21 2013
 X 天国の幸福 救済されるダンテの魂 p224-226



○善すなわち美|自己内対話によって培われる無私の精神

○水と生命|近代水道の歩みからみる人間の営み


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共和主義的な思想を培った
ミケランジェロ

ミケランジェロ・ブオナローティ ウフィツィ美術館
(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475-1564年)


少年時代、ロレンツォに見いだされたミケランジェロは、メディチ邸に住みながら

彫刻の勉強に専念したといいます。そこでフィチーノやポリツィアーノといった

プラトン・アカデミーの世界を知り、当時のヨーロッパにおいて最高であった

新プラトン主義哲学に触れます。



共和主義的な思想を培ったミケランジェロは、君主制が復活するフィレンツェ

を後にしてローマに移住します。


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共和主義の自由を守る市民戦士
ダヴィデ

「ダヴィデ像」(1501-04) ミケランジェロ アカデミア美術館
「David」 Michelangelo Buonarroti  Galleria dell'Accademia


※「ミケランジェロ 藝術と思想」 シャルル・ド・トルナイ 上平貢(訳) 人文書院 1982
 p11-16


彼(⇒ミケランジェロ)には早くから共和主義的な傾向があった。しかし、彼は

豪華王ロレンツォの庇護をうけていたため、政治的、社会的な運動を避けて

いた。



…ミケランジェロは、新憲法の採択の12日後、1501年8月16日に、《ダヴィデ》

の制作を依頼された。ダヴィデを聖書の英雄としてではなく、国民の防衛者、

公明正大な行政者、つまりフィレンツェの人びとに共和国を守らせ、それを正

しく治めさせるための模範たらしめようとする考えを、若い巨匠に与えたのは、

多分この新憲法採択という大事件であったのではなかろうか。



…彼(⇒ミケランジェロ)はとりわけ、ダヴィデの性格と道徳的態度のもつ永遠

の姿を強調したかったのだ。我々はここに、怖れを知らず、理想を守ろうと

する道徳的かつ肉体的強靭さの化身を見るのである。



このほっそりとした筋肉質の身体は、エネルギーの弛(たゆ)みを表している

のではなく、敏捷(びんしょう)さ、潜在的な力のダイナミズムを表している。

外面的には彼は冷静で落ち着いており、内面では強く張りつめ、いつでも

行動がとれる用意ができている。



…中世のフィレンツェ自治体においては、その自由市民たちは武装してた。

この習慣は、人民の武装解除をしたメディチ家によって廃止された。15世紀

初期の人文主義者、例えばレオナルド・プルーニの著作においては、戦う義

勇軍の考えが、自由を守る市民の戦士という理想とともに、再び姿を表してる。



※西洋芸術の歴史と理論
 主任講師 青山昌文 先生 放送大学教授
 8.イタリア・ルネサンス美術 −ルネサンスの政治思想− p143-145


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知恵に満ち、神と人から愛される
聖家族

「聖家族」 (1507年頃) ミケランジェロ ウフィツィ美術館
「Sacra famiglia con San Giovannino "Tondo Doni"」


幼少期のイエス、聖マリア、聖ヨゼフを題材にした「聖家族」。

フィレンツェに残るミケランジェロ唯一の絵画だそうです。



※「ルカによる福音書」 2章


  幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその

  上にあった。さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上って

  いた。イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。

  (40-42節)



  ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられた

  が、両親はそれに気づかなかった。そして道連れの中にいることと思いこんで、

  一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、見つか

  らないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した。(43-45節)



  そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話

  を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞く人々はみな、イエスの賢さ

  やその答に驚嘆していた。両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、

  「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配

  して、あなたを捜していたのです」。(46-48節)



  するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の

  父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。しかし、両親はその語

  られた言葉を悟ることができなかった。(49-50節)



  それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。

  母はこれらの事をみな心に留めていた。イエスはますます知恵が加わり、

  背たけも伸び、そして神と人から愛された。(51-52節)


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メディチ家の菩提教会で執り行われた
ミケランジェロの葬儀

サン・ロレンツォ教会 (Basilica Di San Lorenzo)


1534年、フィレンツェを離れローマに移住したミケランジェロ。それから30年を

経た1564年にフィレンツェに戻ることなくローマで亡くなります。



ミケランジェロの葬儀は、コジモ1世とミケランジェロを名誉会長とする史上初

の美術アカデミー「アカデミア・デル・ディセーニョ」の主催により、メディチ家

の菩提教会であるサン・ロレンツォ教会で盛大に行われます。



コジモ1世は、何度もメディチ家に反抗した共和主義者のミケランジェロを終生

尊敬し、ミケランジェロがフィレンツェに戻ってくることを望んでいたといいます。


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才能豊かな人材を引きとめられなかった
フィレンツェ

ミケランジェロ、マキャヴェリ、ガリレオらが眠っている
サンタ・クローチェ聖堂(Basilica di Santa Croce)


フランシスコ会の教会、サンタ・クローチェ聖堂(Basilica di Santa Croce)には、

ミケランジェロ、マキャヴェリ、ガリレオ、ギベルティ、ロッシーニらが眠っています。




※ルネサンス都市フィレンツェ ジーン・A. ブラッカー
 森田義之・松本典昭(訳) 岩波書店 2011
 第6章 文化 ルネサンス期フィレンツェの文化パトロネージ p276


  卓越した市民の誰もがその才能によって故郷の都市(⇒フィレンツェ)を飾る

  ためにそこに留まったわけではなかった。ペトラルカ(⇒生涯にわたり放浪

  を続けたルネサンス時代の詩人)は一度もフィレンツェに引きつけられなか

  ったし、ボッカッチョもこの都市を熱心に賛美することはなかった。



  しかし、1400年を過ぎると、形成は決定的にフィレンツェに有利なものと

  なり、15世紀前半を通じて、その文化的磁力はいちじるしく強まった。



  マザッチョ、ブルネッレスキ、ギベルティ、マネッティといったフィレンツェ

  生まれの美術家や著述家は、この都市を離れず、他都市に赴くことが

  あってもごく短期間であった。またその列には、他都市から来た人たち、

  ブルーニ、ボッジョ・プラッチョリーニ、ジェンティーレ・ダ・ファブリフーノ

  が加わった。



  フィレンツェの万神殿(パンテオン)となったのは、大聖堂ではなく、サンタ・

  クローチェ聖堂であった。このフランシスコ会の聖堂内にある墓碑群は

  数多くのフィレンツェの天才たちの目に見える形跡であるが、それはまた

  都市がそれらの天才たちを引きとめて十分に活用することができなかっ

  たことを証している。


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運命は変転する
慎重であるよりは果敢である方がよい

ニッコロ・マキャヴェリのお墓
サンタ・クローチェ聖堂 (Basilica di Santa Croce)


※「君主論」 マキャヴェッリ, 河島英昭(訳) 岩波文庫 1998
  第25章 運命は人事においてどれほどの力をもつのか、
  またどのようにしてこれに逆らうべきか p188-189


結論を、したがって、出しておくが、運命は時代を変転させるのに、人間たちは

自分の態度にこだわり続けるから、双方が合致しているあいだは幸運に恵まれ

るが、合致しなくなるや、不運になってしまう。私としてはけれどもこう判断して

おく。



すなわち、慎重であるよりは果敢であるほうがまだ良い。なぜならば、運命は

女だから、そして彼女を組み伏せようとするならば、彼女を叩いてでも自分の

ものにする必要があるから。



そして周知のごとく、冷静に行動する者たちよりも、むしろそういう者たちのほうに、

彼女は身を任せるから。それゆえ運命はつねに、女に似て、若者たちの友である。

なぜならば、彼らに慎重さは欠けるが、それだけ乱暴であるから。そして大胆で

あればあるほど、彼女を支配できるから。


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汝自身を知れ
無自覚こそが諸悪の原因

アリエント通り(Via dell'Ariento)に軒を連ねる露天商
フィレンツェ中央市場(メルカトーレ・チェントラーレ広場)付近


古代アテネの政治家・軍人アルキビアデス。名門アルクメオン家出身で家柄や

強力な縁故関係に恵まれ、ルックスが良く、絶世の美少年だったといわれます。



弁舌に長けたアルキビアデスはアテネ市民の支持を得ますが、神を穢(けが)した

罪に問われると敵国スパルタへ亡命し、アテネ攻略を画策します。

スパルタとアケメネス朝ペルシアの同盟に失敗すると、今度はペルシアにアテネ

との和解をすすめます。そしてスパルタ軍を叩き、当時スパルタとアテネの間で

争っていたビザンチオン(現イスタンブール)を奪回してアテネに復帰します。

しかし再びアテネを離れフリュギア(現トルコ)へ亡命。その地で暗殺されたと

いわれます。




※アルキビアデス クレイトポン プラトン 三嶋輝夫(訳) 講談社学術文庫 2017
 アルキビアデス 第一部 p58-60
 (ソクラテスと20歳になる頃のアルキビアデスの対話)


  では、君(アルキビアデス)は行為する際の過ちというものもまた、こうした無自覚、

  つまり知らないのに知っていると思い込むという無自覚が原因であるという事実

  に気づいているだろうか。



  …いやはや、アルキビアデス、とすると君はとんでもない患(わずら)いに罹(かか)

  っているのだ。僕としてその名前を言うのをためらうところだけれども、僕たちだけ

  しかいないことだし、言った方がよいだろう。つまり、とても優れたお坊ちゃん、君

  は無知と一緒に暮らしているのだ。それも極端なね。



※アテネ北西の山腹にあるデルポイ神殿の入口の柱には、「汝自身を知れ」という
 言葉が刻まれていたと伝わります。
※古代ギリシアの四元徳は、知恵・正義・節度・勇気


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勇気について
多くのことを教えられながら年をとる

カリマーラ通り(Via Calimala)に描かれた肖像
新市場のロッジア(Loggia del Mercato Nuovo)付近


※紀元前アテネを代表する政治家・詩人 ソロンの言葉

 「常に多くのことを教えられながら、私は年をとっていこう」




※プラトン対話篇 ラケス 勇気について プラトン. 三嶋輝夫(訳)
 講談社学術文庫 1997 ラケスによるソクラテス評 p39-40


  私(⇒ラケス)は彼(⇒ソクラテス)が美しい言葉と、自由に何でも思ったことを口

  にする権利に値するのを見いだしたのだ。そんなわけで、もし彼にそうした言葉

  と話したい気持ちがあるのなら、私もまたこの人と意を同じくし、大喜びでこの

  ような人物によって吟味を受けることとしよう。

  そして、人から学んで気分を害することなく、一つだけつけ加えたうえで、私も

  またソロンの言葉に同意することとしよう。



  というのは、年をとってからは、多くのことを教えてもらうのは、すぐれた人から

  だけに願いたいと思うからだ。いかにもソロンにも次のことは私に認めて欲しい

  のだ。つまり先生となる人は、その人自身もすぐれた人でなければならないと

  いうことだ。それは、私がいやいや教わって、飲み込みが悪い生徒だと見える

  ことのないためなのだ。

  だが教える人が年下であるとかまだ有名でないとか、あるいは何かほかのそう

  いったことがあるとしても、私はまったく構わない。



  だからソクラテス、君に私は頼みたいのだ。何であれ、君の望むことを私に

  教え、反駁(はんばく)し、逆にまた私が知っていることについては学んでくれる

  ようにね。


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幸福の星
これが私のありのまま、私の生活

 夜が明けたばかりのヴェッキオ橋


※ペトラルカ ルネサンス書簡集 近藤恒一(編訳) 岩波文庫 1989
 Y 孤独生活─自由と文学研究のために ジャコモ・コロンナに p104-124


  私は空しい名誉に背をむけて、なにも望まず、あるものだけで満足している。

  まずこのことで私は黄金の清貧と、硬い誓約(ちかい)に結ばれている。

  不快も煩労(はんろう)ももたらさぬこの清雅なる客人と。



  …これが私のありのまま、私の生活。深い煩悩(なやみ)がしずまりさえすれば、

  私はしあわせにもすばらしい幸運の星のもとに生まれたといえよう。





ルネサンスを代表する詩人・文学者、ペトラルカ(Francesco Petrarca,1304-1374)。

亡命中のフィレンツェ市民を父として中部イタリアの町アレッツォで生まれ、

その後はインチーザ、アヴィニョン、カルパントラ、ボローニァ、ヴォークリューズ、

パルマ、ミラノ、パドヴァ、ヴェネツィア、アルクアと生涯に渡り放浪します。



上記の詩(抜粋)は、フランス・アヴィニョンの郊外にある寒村ヴォークリューズ

にて隠遁生活をしていた時に書かれたとされます。



○人類から遠く離れた孤独の中に住む世界の本質

○個性化の過程|自分が自分になってゆく


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変わる
世界の認知・これまでの常識

ヴェッキオ橋から見た朝日


第二次大戦の3年前に生まれ、戦後に活躍したイタリアの彫刻家

ピーノ・パスカーリ(Pino Pascali, 1936-1968)。「虚構の彫刻」という

概念で「海」や「動物」「武器」といった作品を残しています。



※ピーノ・パスカーリへのインタビュー
 Pino Pascai, intervista da Carla Lonzi, in Lonzi, Carla.
 Autoritratto, Bari: De Danato, 1969, p.124.


  ヨーロッパ人にとっての問題は、ひとりの、自己充足した人間であることであり、

  自律した文明を作ることのできる人間であることだ。



  …僕たちはここに生まれて、イメージの遺産を有している。でも、まさにこれら

  のイメージに勝つためには、それを冷淡に、物理的にどういうものであるかを

  検証しないといけない。もしこの可能性が虚構(finzione)なら、人は虚構を受け

  いれる。



  もしこれらのイメージが古く、過ぎ去ってしまったもので、もう僕たちの歴史には

  属していないのならば、人はそれらを真面目に扱ったり、地中海文明の問題と

  考えたりはできないだろう。



  わかるかい。端的に言って、僕は自分が彫刻家であると感じるために、偽の

  彫刻(sculture finte)を作らないといけないんだ。



※ピーノ・パスカーリのマジカル・ポップ─1960年代の芸術と文化的葛藤 2018.03
 池野絢子 先生 (京都造形芸術大学)
 ・研究会 20世紀イタリアの芸術と文化(Arte e cultura nel Novecento)
 ・主催 科学研究費基金(若手研究B)
   「国際的文脈における戦後イタリア美術と文化的葛藤−藝術・産業・メディア」
 ・会場 京都造形芸術大学外苑キャンパス



○生命の跳躍|海洋を統合的に理解する


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存在の永遠の豊穣と回帰のシンボル
ディオニュソス

「デュオニソス(バッカス)」 カラヴァッジョ ウフィツィ美術館
「Bacco」 (1597-98 circa) CARAVAGGIO, Michelandelo Merisi, detto


ぶとうの栽培とぶどう酒の醸造を人間に教えたとされる

植物と生長と豊穣を司る神、ディオニュソス(英語ではバッカス)は、

音楽や文学の神としても崇拝されたといわれます。



ギリシア人は、音楽や文学はぶどう酒の酔いに似る霊感から

生まれたと考え、それは神が人間に乗り移った一種の狂気の状態を意味し、

優れた文学を生み出すこともあれば、動物を引き裂いて生肉を食べるという

荒々しい行為に駆り立てることもあるといいます。



ディオニュソスに仕え、鹿の毛皮を身につける女たち、マイナデス(バッカイ)は、

ディオニュソスによって狂乱状態に陥り鹿であるディオニュソスを殺して食べ、

その毛皮を身にまとうことによって、ディオニュソスと一体化するといいます。



※ぶどう酒色の海−西洋固定小論集− 岡道男 岩波書店 2005



○あるがままの生の肯定|フリードリヒ・ニーチェ


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価値観の根底を探した時代
平成

共和国広場 (Piazza della Repubblica)


2019(平成31)年の4月30日をもって「平成」は幕を閉じることが決まったそうです。

昭和の時代を、戦争とそれからの復興と捉えると、平成の時代は一人一人が

自らのアイデンティティを考える「自分探しの時代」だったのではないかと

作家の平野啓一郎先生は指摘します。



平野先生がフランスに留学していた時に感じたことは、フランス人は他者と対話

をする際に自己の考えを主張するので、最後まで話の折り合いがつかない場合

が少なくないが、それでいてお互いに満足しているといいます。



それに対して日本では、どちらか一方に同意しなければならないことが

少なくないようです。



日本では対話の重要性が注目されていますが、そもそも対話にあたっての前提

に乖離がみられ、対話が成り立たず、対話不信に陥っているように思えます。



※ゼロ年代以降のドストエフスキー 2018.03
 ・講師 平野啓一郎 先生 作家
 ・International Symposium on F.M. Dostoevsky in Tokyo
  ドストエフスキー国際シンポジウム 東京
 ・主催 名古屋外国語大学(科学研究費助成金事業)
      東京大学現代文芸論研究室
 ・会場 東京大学本郷キャンパス 文学部法文2号館1番大教室


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神は「光あれ」と言われた
天国の門

天国の扉(La Porta del Paradiso, 1425-1452)
ロレンツォ・ギベルティ(Lorenzo Ghiberti. 1378-1455) ドゥオーモ付属博物館


フィレンツェ洗礼堂の東門扉に掲げられる「天国の門」。ロレンツォ・ギベルティ

が27年かけて制作し1452年に完成したそうです。「天国の門」には旧約聖書で

語られる10の場面が描かれ、ミケランジェロが、その素晴らしい出来に「天国

の門」と名づけたといわれます。



旧約聖書の10の場面は、@人間創造・原罪・楽園追放、Aノアの物語、Bヤコ

ブとエサウの物語、C十戒を受けるモーゼ、Dゴリアテを倒すダビデ、Eカイン

のアベル殺し、Fイクサの犠牲、Gヨゼフと兄弟たち、Hエリコの陥落、Iソロ

モン王とシバの女王。



※旧約聖書 創世記(口語訳) 冒頭  日本聖書協会 1955年


  はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもて

  にあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。

  すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを

  分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また

  朝となった。第一日である。



現在、本物はドゥオーモ付属博物館に展示され、東門扉にはレプリカが掲げられて

います。


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季節と秩序を司る時の神ホーラが出迎える
ヴィーナスの誕生

「La nascita di Venere」 1485 circa
Alessandro Filipepi, detto BOTTICELLI | Galleria degli Uffizi


天の神ウーラノスの男性性器が海に投げ込まれたときに、その精液が海に滴り、

そこから生まれたという天上のヴィーナス(Venus Caelestis)。

そのため母親はいないとされ、ヴィーナスと同一視される

ギリシヤ神話のアプロディーテのアプロスは「泡」のこと。



左には西風の神ゼピュロスと森の妖精クロノス。

ゼピュロスの吹く風によって、ヴィーナスの乗る貝は陸に辿り着こうとしています。

右には季節と秩序を司る時の神ホーラが出迎え、布をかけようとしています。



貝の上のヴィーナスは、腰からつま先に向けて左側に傾斜しており、

重力(物質・地上・人間の住む世界)とは無関係の存在として描かれているよう。



「プリマヴェーラ」に描かけるヴィーナスは、衣服を着ているのに対して、

「ヴィーナスの誕生」に描かれるヴィーナスは裸体であり、西洋美学に

おいては着衣より裸体の方が高尚・神聖な存在とみなされています。


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素晴らしい地上世界
春のおとずれ

「La Primavera」 1480 circa
Alessandro Filipepi, detto BOTTICELLI | Galleria degli Uffizi


右端から風を吹きかけているのは西風の神ゼピュロス。

風を吹きかけられた森の妖精クロリス(右から二番目)は、

口から草花が芽生え、花と春と豊穣を司るフローラに変身しようとしています。

その隣り(右から三番目)には、草花が描かれた衣服をまとうフローラが描かれ、

クロリスとフローラは同一存在であるよう。

実際にボッティチェリが過ごしたフィレンツェは、春になると西風が吹くそうです。



中心には衣服を着たヴィーナス(Vebus Vulgaris)が世界を見渡しています。

ヴィーナスの足元には、フィレンツェで見ることができる40種類ほどの花々

が描かれているといわれます。



ヴィーナスの頭上には目隠しをしたキューピット(クピド、エロス)。

目隠しは、肉体の眼によって世界を見るのではなく精神の眼で見ているとされます。



ヴィーナスの左側には三美神が描かれ、右から「美」「貞節」「愛」の女神。

キューピッドの矢は真ん中の「貞節の女神」に向けられ、

貞節は美をかえして愛に帰着すると考えられています。



左端で背を向ける男性神は人間の理性を司るメルクリウス。

人間の理性は地上世界に留まらざるを得ないにも関わらず、

地上世界が生み出すものに満足できず、素晴らしい地上世界

に背を向けて、天を見上げ上昇しようとしているようです。



○プリマヴェーラ|悲劇によって道義を知る「虞美人草」


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フィレンツェのサッカーチーム
ACFフィオレンティーナ

ACFフィオレンティーナ(ACF Fiorentina)の本拠地
スタディオ・アルテミオ・フランキ(Stadio Artemio Franchi)


フィレンツェを本拠地とするサッカーチーム、ACFフィオレンティーナ (ACF Fiorentina)。



1926年創立の名門クラブは、2002年にセリエA最下位に沈んだ上にチームが経営

破綻という大事件に見舞われます。経営母体が変わりセリエCからセリエBと昇格し、

2004-05シーズンにセリエAに復活します。



ここ数年(2012-16)は4位・5位と優勝圏内の一角を占めますが、2016-17シーズは

8位、2017-18シーズンは28節(全38節)を終わった段階で9位となっています。

フィレンツェ市民は優勝を待ち望んでいるのでしょうね。



そんな矢先2018年3月に、フィオレンティーナのキャプテンでイタリア代表の

ダヴィデ・アストーリ選手が遠征先のホテルで亡くなるという出来事が起きます。

この事件を受けてセリエA・27節の試合は全て延期となっています。

アストーリ選手は2週間前に子どもが生まれたばかだったそう。

ご冥福をお祈りします。


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2015年に開業した
フィレンツェのトラム

競馬場があるカシーネ (CASCINE)公園


2015年にフィレンツェに開業したトラム。フィレンツェ駅前から近隣の住宅都市

スカンディッチ(SCANDICCI)のヴィッラ・コスタンツァ(VILLA COSTANZA)を

つなぎます。2018年現在、街中では新たな路線の工事が続けられ、今後は

複数路線になるそうです。



写真はフィレンツェ駅前(ALAMANNI-STAZIONE)から3つ目となるカシーネ

(CASCINE)停留所。カシーネは公園になっていて、敷地内にはヴィザルノ

競馬場(ippodrome del vosarno)があります。



○急激な近代化を遂げてきた日本|近代化の象徴 競馬


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旅人のもてなし方
異なるホスピタリティの捉え方

フィレンツェ 鉄道の玄関口
サンタ・マリア・ノヴェッラ駅(Stazione di Santa Maria Novella,SMN)


昨今、日本で「ホスピタリィ」という言葉がよく聞かれるようになりました。

「ホスピタリティ」を辞書で引くと「丁重なもてなし」や「もてなす心」「歓待」

といった意味がありますが、国によって「ホスピタリティ」の捉え方には違い

があるといいます。



日本を訪れたヨーロッパの旅行者(スペイン人)に、日本人の印象を尋ねると、

「日本人は礼儀正しい」「質問に丁寧に答えてくれる」といった回答があり、

日本人は「礼儀正しさ」や「気遣い」といったことに重きを置いていることが

伺えます。



一方で日本在住のスペイン人に日本人の印象を尋ねると、「困っている人

がいても知らないふりをする」「困っていても助けてくれない」といった回答

がみられます。



逆に、日本人がスペインを訪れた際のスペイン人の印象は「店員の感じが

悪い」「商品の包装が雑」といった意見がある一方で、現地在住の日本人

が感じている印象は、「遊びに行くと大歓迎してくれる」「困っている人がいる

と、知らない人でも助ける」といった意見が聞かれます。



スペインにおける「ホスピタリティ (スペイン語:hospitalidad)」の語源を紐解い

てみると、そこには巡礼者や貧困層、寄る辺(べ)のない人の受け入れといった

意味があり、そこから「入院」(英語のホスピタルの語源)」を指す言葉となり、

それが転じて「訪問者に対する歓迎」といった意味を持つようになったとされます。



※旅人のもてなし方
 〜スペインと日本のホスピタリティの類似点と相違点 2018.02
 講師 中島聡子 先生 東京大学非常勤講師
 会場 神奈川県立国際言語文化アカデミア



○苦しみぬき、人のためにする天地|より偉大なる人格を懐にして


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高い塔を建てて初めて見える
新たな水平線

ガリレオが落下実験をしたと伝えられる
ピサの斜塔 (Torre di Pisa)


トスカーナ大公国領のピサに生まれた物理学者・哲学者ガリレオ・ガリレイ

(Galileo Galilei、1564-1642年)。



ガリレオが望遠鏡で星空を観測したのは17世紀前半のこと。地動説を唱えた

ガリレオは宗教裁判にかけられ、「それでも地球は動いている」とつぶやいた

とされる逸話は有名です。



ローマ教皇がガリレオの宗教裁判の誤りを認めたのは、それから数世紀を

経た1983年。地動説を公式に認めたのは、さらに25年後の2008年のことでした。



日本の裁判制度に目を向けてみると、最高裁判所の判事は司法試験を受けな

くとも務めることができ、それは、法律が社会科学による創造の上に成り立って

いることに由来するといいます。



地球環境に視野を広げてみると、122℃でも増殖可能な超好熱菌や、

pH(ペーハー)が高い火山酸性の水中で増殖する好酸菌も知られ、

かつての常識では考えられなかったことが明らかにされてきています。



どうやら人間の考え方をあらかじめ規定することは合理的ではないようです。

無いものをつくる創造の心がけ。

高い塔を建ててみなければ新たな水平線は見えてこなさそうです。



※太陽系大航海時代。社会と人間ドラマ 2017.08
 講師 川口淳一郎 先生 宇宙飛翔工学研究系教授
 会場 東京国立近代美術館フィルムセンター
 JAXA相模原キャンパス特別公開 2017



○UNIVERSE|自然科学と精神科学の両側面

○地球の未来を読み解く南極観測|私たちが存在している自然環境の解明


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私たちが生きていた証
未知なる世界へ

ガリレオ・ガリレイのお墓 サンタ・クローチェ聖堂


ガリレオが望遠鏡で星空を観測した時から400年が経過した21世紀前半。

NASAの無人探査機「ニューホライズンズ」は、2006年1月の打ち上げ

からわずか約9年半で人類史上初めて太陽系の最果てである冥王星

に接近します。(2015年)



人間はなぜ見たことのない世界を見たいのか。



脳科学では、新たな情報によって脳に興奮刺激をもたらすメカニズムが

解明されつつあるそうです。また、広い視野は自分と自分の住む場所

を知るのに役立ちます。



そしてなによりも、私たち人間は、宇宙の未知なる生命に対して、私たち

地球人が生きていたという証(あかし)を残したい願いをもっているようです。



※太陽系の最果てを探る 2018.03
 講師 関根康人 先生 (地球惑星科学専攻 准教授)
 第30回 東京大学理学部 公開講演会 「星々が開く理学の扉」



○私たち人間を知る手がかり|チンパンジーの観察

○生じたものは消えてゆく|プラトン饗宴

○UNIVERSE|自然科学と精神科学の両側面


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再生
より良い未来に向けて

ガリレオ・ガリレイ国際空港 (ピサ空港)
(Artoporto Internazionale Galileo Galilei Pisa)


イタリアを歩いてみると、多くの宗教的建造物や絵画・彫刻に出会います。

フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅は、聖マリアの名がつけられ

ていますが、日本にあてはめて考えてみれば、伊勢神宮に祀られる

天照大神(あまてらすおおみかみ)に由来する天照駅や、真言宗の仏

に由来する大日如来(だいにちにょらい)駅といった感じでしょうか。



カトリックの影響を色濃く受けていると感じるイタリアですが、過去には

宗教が停滞した時期があったといいます。



16〜17世紀にかけて北イタリアにあったサルディーニャ王国(首都トリノ、

1720-1860年)では、教育の世俗化が進み多くの修道院が閉鎖された

そうです。



また、17世紀から第二次大戦後まで存在したイタリア王国(1861-1946年)

では、中世都市国家時代の繁栄を理想化し、イタリアの現状と未来を良く

しようとする動き(リソルジメント:再興)によって、国立大学にあった全ての

神学部が廃止され、宗教に対する無関心が広まったといわれます。



※「新しい学」としてのイタリア宗教史学 2018.03
  江川純一 先生 (東京大学)
 ・研究会 20世紀イタリアの芸術と文化 (Arte e cultura nel Novecento)
 ・会場 京都造形芸術大学外苑キャンパス
 ・主催 科学研究費基金(若手研究B)
  「国際的文脈における戦後イタリア美術と文化的葛藤−藝術・産業・メディア」



○彼は死に勝ち甦る、神への感謝・賛美|オラトリオ「メサイア」

○日本人の心を形成してきたもの|これからを生きる指針となるものを探る

○美しい日本に生まれた私|天地自然に身をまかせ


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参  考  情  報


○フィレンツェ Firenze | イタリア政府観光局

○Sito Ufficiale del Turismo della Citta Metropolitana e del Comune di Firenze

○Citta di Firenze | Home Page

○Opera di Santa Maria del Fiore

○Uffizi Gallery Museum in Florence. Uffizi Tickets & Tours

○ViolaChannel - Media Ufficiale di ACF Fiorentina

○ジャパンイタリア・トラベルオンライン イタリア旅行情報サイト JITRA

○イタリア観光・旅行に役立つなんでも情報発信!!

○神曲 ダンテ - 青空文庫

○即興詩人 ハンス・クリスチャン・アンデルセン 森鴎外(訳) - 青空文庫

○倫敦塔 夏目漱石 - 青空文庫

○道化の華 太宰治 - 青空文庫

○コトバンク [ 時事問題、ニュースもわかるネット百科事典 ]

○世界史の窓

○医学と公衆衛生に関する学術情報誌【モダンメディア】

○世界天文年2009:ガリレオの生涯 - トップ

○Wikipedia

○フィレンツェとトスカーナ 2017-18 地球の歩き方

○ルネサンス都市フィレンツェ ジーン・A. ブラッカー
 森田義之・松本典昭(訳) 岩波書店 2011

○メディチ家 森田義之 講談社現代新書 1999年

○宮下孝晴の徹底イタリア美術案内2 北イタリア─フィレンツェ・ベルガモ編
  美術出版社 2000

○神曲 地獄・煉獄・天国篇 ダンテ. 寿岳文章(訳) 集英社文庫ヘリテージ

○神曲 地獄・煉獄・天国篇 ダンテ. 三浦逸雄(訳) 角川ソフィア文庫

○謎と暗号で読み解く ダンテ「神曲」 村松真理子 角川ONEテーマ21 2013

○完訳 カンタベリー物語(上・中・下) チョーサー. 桝井迪夫(訳) 岩波文庫
  1995

○懐かしい年への手紙 大江健三郎 講談社文芸文庫 1992

○君主論 マキャヴェッリ, 河島英昭(訳) 岩波文庫 1998

○フィレンツェ史 (上・下) マキァヴェッリ 齊藤寛海(訳) 岩波文庫 2012

○マキアヴェッリ語録 塩野七生 新潮文庫 1992

○フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ フランチェスコ グィッチャルディーニ
 永井三明(訳) 講談社学術文庫 1998

○「ピレボス」注解 人間の最高善について マルシリオ・フィチーノ
 左近司祥子・木村茂(訳) 国文社 1995

○恋の形而上学
 フィレンツェの人マルシーリオ・フィチーノによるプラトーン「饗宴」注釈
 マルシーリオ・フィチーノ 左近司祥子 国文社 1985

○デカメロン(上・中・下) ジョヴァンニ・ボッカッチョ. 河島英昭(訳)
 講談社文芸文庫 1999

○ペトラルカ ルネサンス書簡集 近藤恒一(編訳) 岩波文庫 1989

○牧歌/農耕詩(ゲオルギカ) ウェルギリウス. 小川正広(訳) 西洋古典叢書
 2004

○アエネーイス(上・下) ウェルギリウス. 泉井久之助(訳) 岩波文庫 1997

○アエネーイス ローマ建国神話 ウェルギリウス 小野塚友吉(訳)
 風濤社 2000

○古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と衰退 伊藤貞夫 講談社学術文庫 2004

○民主主義の源流 古代アテネの実験 橋場弦 講談社学術文庫 2016

○「饗宴」 プラトン, 中澤務(訳) 光文社古典新訳文庫 2013

○プラトン対話篇 ラケス 勇気について プラトン 三嶋輝夫(訳)
 講談社学術文庫 1997

○アルキビアデス クレイトポン プラトン 三嶋輝夫(訳) 講談社学術文庫
 2017

○パイドロス プラトン. 藤沢令夫(訳) 岩波文庫) 1967

○プラトンとの哲学 対話篇をよむ 納富信留 岩波新書 2015

○アリストテレスの倫理思想 岩田靖夫 岩波書店 1985

○アテナイ人の国制 アリストテレス 村川堅太郎(訳) 岩波文庫 1980

○人類と感染症の歴史 加藤茂孝 丸善出版 2013

○西洋芸術の歴史と理論
 主任講師 青山昌文 先生 放送大学教授
 7.イタリア・ルネサンス美術 −ルネサンスの新プラトン主義−
 8.イタリア・ルネサンス美術 −ルネサンスの政治思想−

○近代哲学の人間像
 主任講師 佐藤康邦 先生 放送大学教授
 1 近代の目覚め −ルネッサンスの人間像−

○研究会 20世紀イタリアの芸術と文化 2018.03
 Arte e cultura nel Novecento
 ・「新しい学」としてのイタリア宗教史学
  江川純一 先生 (東京大学)
 ・潜像としての触覚−未来派から戦後デザインまで−
  鯖江秀樹 先生 (京都造形芸術大学)
 ・ミラノ、30年代と50年代−ルーチョ・フォンターナから
  巖谷睦月 先生 (東京藝術大学)
 ・ピーノ・パスカーリのマジカル・ポップ
  池野絢子 先生 (京都造形芸術大学)
 ・会場 京都造形芸術大学外苑キャンパス
・主催 科学研究費基金(若手研究B)
 「国際的文脈における戦後イタリア美術と文化的葛藤−藝術・産業・メディア」

○イタリア王国〜イタリア共和国における宗教史学 江川純一 先生

○イタリアにおける国家とカトリック教会 田近肇 先生(岡山大学)

○International Symposium on F.M. Dostoevsky in Tokyo
 ドストエフスキー国際シンポジウム 東京 2018.03
 ・全体進行 沼野充義 先生 東京大学大学院教授
 ・作品紹介 「罪と罰」について
  諫早勇一 先生 名古屋外語大学教授
 ・ドストエフスキー「罪と罰」における恥と罪
  デボラ・マルティンセン 先生
  コロンビア大学教授・国際ドストエフスキー協会元会長
 ・ゼロ年代のドストエフスキー
  平野啓一郎 先生 作家
 ・ドストエフスキーにおける善と悪
  司会進行 沼野充義 先生
  パネリスト
   デボラ・マルティンセン 先生
   平野啓一郎 先生
   亀山郁夫 先生 名古屋外国語大学長・日本ドストエフスキー協会会長
 ・主催
  名古屋外国語大学(科学研究費助成金事業)
  東京大学現代文芸論研究室
 ・会場 東京大学本郷キャンパス 文学部法文2号館1番大教室

○旅人のもてなし方
 〜スペインと日本のホスピタリティの類似点と相違点 2018.02
 講師 中島聡子 先生 東京大学非常勤講師
 会場 神奈川県立国際言語文化アカデミア

○第30回 東京大学理学部 公開講演会 「星々が開く理学の扉」 2018.03
 ・連星中性子星合体からの重力波検出
  講師 Kipp Cannon 先生 附属ビックバン宇宙国際研究センター 准教授
  通訳 横山順一 先生 附属ビックバン宇宙国際研究センター物理学専攻 教授
 ・太陽系の最果てを探る
  講師 関根康人 先生 地球惑星科学専攻 准教授
 ・謎の天体の魅力
  講師 戸谷友則 先生 天文学専攻 教授
 ・挨拶 武田洋幸 先生 大学院理学系研究科長・理学部長
 ・会場 安田講堂


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