歩くこと、移動すること

日本アルプスの自然とヒトの多様性


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歩くこと
身体と精神と広く開かれた世界

車山(1925m)からみた白樺湖と八ヶ岳方面


※「ウォークス 歩くことの精神史」 レベッカ ソルニット, 東辻賢治郎(訳)
  左右社 2017 第一章 岬をたどりながら p10


歩くこと・そのはじまりを思い描こう。筋肉に力が漲(みなぎ)ってゆく。

一本の脚は、柱になって体を大地と空の間に浮かべている。もう一

本の脚が、振り子のように背後から振り出されてくる。踵(かかと)が

大地を掴む。全体重が転がるようにつま先へ繰り出されてゆく。

親指が後ろへ蹴り上げると、あやういバランスを保ちながら重心が

移動してゆく。そして脚は互いに役割を交代する。



○アルプスの風が立つ|厳しくも美しい山岳景勝地 甲信

○険しい山々と日本海の風雪に適応してきた北陸


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4K映像 絶景ドローン空撮「初夏のビーナスライン 霧ヶ峰高原」癒し自然風景
Drone Japan Nature Relaxation Venus line

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人間の都合を超えた領域
自然

穂高連峰と岳沢カール|上高地・小梨平キャンプ場


※「登山と自然の科学Q&A」 小泉武栄, 大森薫雄. 塚本治弘
  日本勤労者山岳連盟(編集) 大月書店 2000
  登山とは自然科学的な条件や変化との格闘であり交歓である


 私たちは山に登るとき、「頂上まではあと何時間」とか「分岐はどこだ」

といった具合に、コースタイムやルートの状況にはずいぶん気を遣う。

 しかし、自然のなかに深く分け入っていることを忘れたかのごとく、

まわりの自然そのもののありように、案外、関心が薄い。せいぜい、

「森をぬけた」「岩場になった」「霧がでてきた」「花がきれいだ」といった

程度で、その科学的な背景やメカニズムにまで思いをめぐらせる

登山者は少ないのではなかろうか。



 登山は大自然を丸ごと対象とするスポーツとして、長い歴史を刻み

つづけてきたが、自然科学的な条件とその変化のなかに身を置き、

自然と格闘し、交歓(こうかん⇒ともに打ち解けて楽しむ)するという

人間と自然とのかかわり方の基本は今も昔も変わらない。



「風が強い」「登りがきつい」「景色がきれい」などといった感覚は、

もともと登山者の側の勝手な解釈にすぎず、自然の厳しさ、美し

さには、人間の都合を超えた自然科学的な「わけ」があるのである。



○人間の弱さと限界、そこからの可能性|パスカル「パンセ」

○UNIVERSE|自然科学と精神科学の両側面


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上高地の散策 : Walking Around Kamikochi - Japan Alps(Nagano, Japan)

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都市
孤独な散歩者たち

新宿大ガード


※「ウォークス 歩くことの精神史」 レベッカ ソルニット, 東辻賢治郎(訳)
  左右社 2017 第十一章 都市−孤独な散歩者たち p282-283


街にはいまも昔も変わることなく匿名性や多様性やつながりの可能性がある。

歩くことは、そのなかに身を浸すいちばんの方法だ。パン屋や占い師の店に

立ち寄るにしても、はじめからそれを目指して行く必要はない。街はいつでも

住人が知り得る以上の物事を内包していて、偉大な街はいつでもまだ知らな

いこと、起こるかもしれないことが創造性を刺激する。(p282-283)



○何でもみてやろう|多彩な顔をもつ東京メトロポリタン

○都営荒川線に乗って


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後ろ暗いイメージを持つ
「街路(ストリート)」という言葉

歌舞伎町1丁目


※「ウォークス 歩くことの精神史」 レベッカ ソルニット, 東辻賢治郎(訳)
  左右社 2017 第十一章 都市−孤独な散歩者たち p286, p291


街歩きと田舎歩き。その歴史は自由とは何か、何を愉しみにするかの

歴史である。ただし田舎歩きは自然への愛という道義的な務めを見出

したことで、野山を護りながら人々に開放してゆくことにつながった。



街歩きはつねに後ろ暗さを引きずっていて、いとも簡単にナンパや、

ポン引きや、練り歩き、ショッピング、暴動、抗議行動、忍び歩き、浮浪

といった行為に横すべりしてゆく。(p286)




街路という言葉自体も、都市への粗野で後ろ暗い魔術を孕(はら)み、

下劣なもの、俗なもの、エロティックなもの、危険なもの、そして革命

的なものを惹きつける。



<街の男(マン・オブ・ザ・ストリート)>といえば、ポピュリストの意味だが、

<街の女(ウーマン・オブ・ザ・ストリート)>は<街娼(ストリート・ウォーカ

ー)>と同じく自らの性を商う者を指す。



<ストリート・キッズ>は不良や物乞いや家出した少年少女のこと、

<ストリート・パーソン>という比較的新しい言葉は、街路以外に住む

場所のない者のことだ。<都会慣れした(ストリートスマート)>は街で

生き延びる狡智を身につけたということで、一方で<街路へ(トゥ・ザ・

ストリート)>といえば都市革命の古典的なスローガンだ。



街路は人びとが公の存在となる場所であり、彼らの力が漲(みなぎ)

る場なのだ。<街(ザ・ストリート)>に生きる、といえばそれはあらゆる

人やモノを巻き込む都会の乱流に生きることだ。



この社会的流動性、この棲み分けや分節の欠除こそが、街路にす

べてを巻き込む水流のような危うさと魔法をもたらしている。(p291)



○善と悪を兼ね備える人間

○清らかな世界、それは私たちの住む穢れた世界


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武蔵野を通り抜け、八王子を過ぎた辺りから
山々に囲まれる中央線

E353系


2017年12月に導入された首都圏と中央線の主要駅を結ぶ特急車両E353系。

富士急行線に乗り入れ河口湖まで行く「富士回遊」や甲府をつなぐ「かいじ」、

松本をつなぐ「あずさ」などで活躍しています。



新宿から武蔵野(府中は標高約50m)を走り抜け、八王子(標高約100m)を

過ぎるあたりから周囲は山々に囲まれます。



○はてなき光景をもった絶類の美 武蔵野


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トンネル
異なる世界への入口

東京都八王子市と神奈川県相模原市にまたがる小仏トンネル


※「雪国」 川端康成 岩波文庫 緑81-3 冒頭


国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

夜の底が白くなった。

信号所に汽車が止まった。




※雪国 川端康成 岩波文庫 緑81-3 書籍案内より


頑(かたく)なに無為徒食(むいとしょく)に生きて来た主人公島村は、

半年ぶりに雪深い温泉町を訪ね、芸者になった駒子と再会し、

「悲しいほど美しい声」の葉子と出会う。

人の世の哀しさと美しさを描いて日本近代小説屈指の名作に

数えられる。



※無為徒食(むいとしょく)
 @何もしないでぶらぶらしていること。
 A自然のままに任せて、手を加えないこと。作為のないこと。



○降り積もる雪の果て|トンネルの先にある雪国


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山梨県の玄関口
上野原

JR中央線 四方津(しおつ)駅|山梨県上野原市


東京都と神奈川県に隣接する山梨県上野原市は、東京駅からは約60〜70km

圏に位置する「山梨県の玄関口」。遠くには富士を望み、四方を1,000m級の

山々に囲まれ、幾筋もの豊かな清流が集まる土地です。



そんな自然豊かな上野原市にあるJR中央本線の四方津駅。高台には平成

初期に販売が開始されたニュータウン「コモアしおつ」があります。約80万u

の敷地内には住宅地や公園のほか、小学校、スーパーマーケット、医院、

美容室などがあります。


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四方津駅とニュータウンをつなぐ
ブリッジ

コモア・ブリッジの標高差は約88mあるそうです


四方津(しおつ)駅とニュータウン「コモアしおつ」の間は、コモア・ブリッジ

と呼ばれる屋内型エスカレーターと2基の斜行エレベーターで結ばれて

います。コモア・ブリッジの標高差は約88mあるそうです。


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MyTownCommore

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首都圏から富士山に直接アクセス
富士回遊

JR・富士急行線 直通特急「富士回遊」


日本人の自然観や日本文化に大きな影響を与えてきた富士山。富士講

に代表される信仰と、浮世絵を始めとする様々な芸術を育んだ富士山は、

2013年に「富士山ー信仰の対象と芸術の源泉」として世界遺産に登録

されました。それ以来、富士山を訪れる外国人観光客は増加傾向にある

といわれます。



2019年には、新宿からJR中央線を経由して富士急行線の河口湖駅まで

を直通運転する特急「富士回遊」がデビュー。新宿-河口湖を約1時間

20分で結びます。


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日本人の富士山観
自然的事象を超えた認識

富士急行線の終着駅 河口湖駅


※「日本人の富士山観の変遷と現代の富士山観」 地学雑誌2015 J-STAGE
  田中絵里子(日本大学非常勤講師), 畠山輝雄(鳴門教育大学)


日本人にとって富士山とはどのような存在であろうか。標高は日本一

であるが、多くの国民にとっては頻繁に訪れる地でもなければ、毎日

眺めることさえできない山である。それでも、富士山の絵画や写真は

誰でも一度は目にしたことがあるし、全国には名に「富士」を冠した

ふるさと富士があり、童謡「ふじの山」を聞いたことがあろう。富士山

は自然物としての山である。しかし、日本人にとっての富士山を単なる

山と論じるには、いささか無理が生じる。つまり、日本人には特有の

「富士山観」があり、富士山を単に自然的事象として認識しているの

ではないと考えられる。



○日本人の心を形成してきたもの


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主観性・主情性に重きをおく
日本人

富士芝桜


※「日本人の富士山観の変遷と現代の富士山観」 地学雑誌2015 J-STAGE
  田中絵里子(日本大学非常勤講師), 畠山輝雄(鳴門教育大学)
  1)日本人の風景認識


日本には目に映ずる「ながめ」を表す言葉がいくつかある。景観、風景、

景色、情景など、枚挙にいとまがない。なかでも「風景」と「景観」はしば

しば主観と客観という対軸で捉えられる。内田(1992, p. 52)は、日本語

の「風景」概念と「景観」という造語のもととなった西洋語のラントシャフト

Landschaft とを比較して、日本語の「風景」概念は「主として主観性を

示している、あるいは主情性に溢れている」のに対して、「西洋語の

それは、対象性、客観性、そして場所性を示している」と論じている。



※内田芳明(1985): 風景の現象学-ヨーロッパの旅から 中央公論社



○日本人の精神性を探る旅


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日本古来の悲しみ
客観的に振る舞う日本人の背後に潜む主観性

1000円札の図柄|本栖湖から見た富士


※「哀愁」 川端康成 1947
  教科書で読む名作 伊豆の踊子・禽獣ほか 川端康成 ちくま文庫 2017


…芸術が分からないことに私は幸福は感じないけれども、自然や人生の

分からないことに幸福を感じるのは事実である。(中略) そして私は作家

としてのこの不安と不足とに、生の安心と満足を覚える時がある。(中略)

 戦争中、ことに敗戦後、日本人には真の悲劇も不幸も感じる力がない

という、私の前からの思いは強くなった。感じる力がないということは、

感じられる本体がないということであろう。

 敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰ってゆくばかりである。

私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものを

あるいは信じない。近代小説の根底の写実からも私は離れてしまい

そうである。もとからそうであったろう。(p173-174)




…「土曜夫人」(⇒大阪庶民の生活を描いた作品、織田作之助 作)の

悲しみも「源氏物語」のあわれも、その悲しみやあわれそのもののなかで、

日本風な慰めと救いとにやわらげられているのであって、その悲しみや

あわれの正体と西洋風に裸で向かい合うようにてはできていない。私は

西洋風な悲痛も苦悩も経験したことがない。西洋風な虚無も廃退も

日本で見たことがない。(p177)




…「もの悲しげな子守歌が私たちの魂にしみた。いのちの流れぬ

子供歌が私たちの心を鎧(よろ)った。

 日本は軍歌も哀調を帯びていた。古(いにしえ)の歌のしらべは

哀愁の形骸を積み重ねた。新しい詩人の声もすぐ風土の湿気に

濡れ落ちてしまう。」 (p182)



○素の魂に触れるとき|本当の悲しみから逃避してきた日本人

○人間の幸不幸を凝視する物語文学|源氏物語


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時代によって変わってきた
富士山観

富士スピードウェイから見た富士山


※「日本人の富士山観の変遷と現代の富士山観」 地学雑誌2015 J-STAGE
  田中絵里子(日本大学非常勤講師), 畠山輝雄(鳴門教育大学)
  IV.おわりに


日本人の風景認識には、視対象を可視的・形状的側面だけで捉えず、

対象のもつ歴史や文化に影響を受けたイメージをあわせて理解する

傾向がある。



この風景認識から「富士山観」を考えると、古代以降活火山としての

荒々しい山である一方で神聖な信仰の対象として崇められ、戦乱の

世においては不死の山として勝利と繁栄を祈願するようにそれまで

とは異なる信仰の対象となった。さらに、江戸時代には江戸城下を

見守る富士の姿が江戸の象徴として捉えられるようになり、近代には

日本を象徴する山として認識され、観光登山等もされるようになり

身近な存在にもなっていった。



このように、古代から現代にかけて、噴火に伴う自然災害、都の

移動に伴う富士山の眺望、登山ルートの開発などに伴う富士山

登山などその時代ごとの経験、つまりその経験が反映される個人

の自然観や文化観というような主観的要素によって「富士山観」

は変化してきたといえる。


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日本を代表するサーキット
富士スピードウェイ

13コーナーからメインストレートに向かうスーパーフォーミュラ


日本を代表するサーキットの一つ、富士スピードウェイ。私事ですが90年代は

観戦によく訪れました。2020年現在「スーパーフォーミュラ」と呼ばれている

カテゴリーは、当時F3000(その後フォーミュラニッポン)と呼ばれていました。



忘れもしないのは、1993年F3000選手権第7戦「RRC FUJI CHAMPIONS」。

天候に左右されやすい富士スピードウェイは、決勝直前になって霧が立ち

込めはじめました。10分間のレース・ディレイを繰り返すも、結局、霧は晴

れず中止となってしまいました。


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日本をもっと強く
リニア中央新幹線

山梨リニア実験線車両基地|山梨県都留(つる)市


最高速度500km/hで走行するというリニア中央新幹線。2027年に東京(品川)

-名古屋間が開業し、2045年には大阪まで延びる計画。東京-大阪間を1時間

7分でつなぐといいます。



東京-大阪間の移動時間を紐解いてみると、1930(昭和5)年、スピードアップ

のために導入された蒸気機関車「特急つばめ」は8時間20分で結び、それま

での10時間40分から2時間20分短縮しました。



その後、1964年に開業した東海道新幹線は3時間10分で結び、2020年現在

は約2時間20分となっています。


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高原の湖畔にある都市
諏訪

諏訪湖


標高約700m、高原の湖畔にある都市、諏訪市。諏訪湖や湖畔にある上諏訪温泉、

霧ヶ峰高原といった観光都市としての側面をもつ一方で、セイコーエプソンを代表

とする先端技術産業の集積地としての側面を持っています。



○水と共に暮らす|いつまでも美しく安全に


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生命の根源・生活の源を守る神
諏訪大社

一位の木をご神木とする諏訪大社 下社秋宮(しもしゃ あきみや)


諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県諏訪湖の周辺に4箇所の境内地をもつ神社。


○上社 (かみしゃ)

 ・本宮 (ほんみや) 諏訪市
 ・前宮 (まえみや)  茅野市

○下社 (しもしゃ)

 ・秋宮 (あきみや) 下諏訪町
 ・春宮 (はるみや) 下諏訪町



諏訪大社の特徴は、本殿と呼ばれる建物がなく、その代わりに秋宮は一位

(いちい)の木を、春宮は杉の木をご神木とし、上社は御山(守屋山)をご神体

として崇めているそうです。



諏訪大社で7年に一度行われる御柱祭(おんばしらさい)は、御柱として山の

中から16本のモミの木を選び、曳行し社殿の四方に建てて神木とする勇壮

なお祭り。次回は令和4(2022)年の4月から6月にかけて行われるそうです。



○私たちの生涯|生と死の狭間にある「時」を歩む

○生命の跳躍|海洋を統合的に理解する

○春の訪れを告げるカーニバル|祭りに託した人間の願い


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諏訪大社下社御柱祭り山出しハイライト 約9分

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逆転する意味
殺生は獣類を救って成仏させる

鹿食之免(かじきのめん):右端|諏訪大社
直訳すれば「鹿(しか)を食べてもよい免許証」


※「日本人にとって山とは何か―自然と人間、神と仏―」
 鈴木正崇 慶応義塾大学名誉教授 ヒマラヤ学誌 No.20, 54-62, 2019
 5.山の信仰と狩猟民


狩猟の神の諏訪神は、通常は仏教では罪業(ざいごう)となる殺生の

意味を逆転させて、殺生は獣類を救って成仏させる。猟師は獲物を

得ると「諏訪の勘文(かんもん)」を唱えて罪を帳消しにした。 唱え詞は


  業尽有情  (ごうじんうじょう)
  雖放不生  (はなつといえどもいきず)
  故宿人身  (ゆえにじんしんにやどりて)
  同証佛果  (おなじくぶっかをしょうせよ)


(前世の因縁で業の尽きた生物は、野に放つと長く生きられない。

従って人間の身に入って死んでこそ同化して成仏できる)である。

獲物の殺生は動物の成仏を助けるという。諏訪は前宮の春祭りの

「御頭祭(おんとうさい)」(酉の祭り)では75頭の鹿の頭を供え、本宮

では殺生の免罪符「鹿食免(かじきめん)」を配布するなど狩の神で

ある。山の神は山中の動物や植物の主で十二の神がいるとされる。


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自分の世界からの
解放

車山


※「ウォークス 歩くことの精神史」 レベッカ ソルニット, 東辻賢治郎(訳)
  左右社 2017 第一章 岬をたどりながら p13


この6マイルほどになる小路と道路は、ある難題を抱えていた10年前に

不安を忘れるためにたどりはじめた散歩道だった。仕事から離れ休息

をとるため、そして再び仕事を進めるために、このルートにわたしは繰り

返し戻ってきた。生産性志向の世のなかにあって、思考することはたい

てい何もしないこととみなされているが、まったく何もしないのは案外難

しい。人は何かをしている振りをすることがせいぜいで、何もしないこと

に最も近いのは歩くことだ。歩くことは意志のある行為でありながら、

呼吸や心拍といった身体の不随意なリズムに極めて近い。作業と休息、

存在と行為の繊細なバランスの上で思索と経験を生み、そのうちどこか

へ到着する肉体的な労働である。



○私が私になってゆく|ハイデガー「存在と時間」


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「歩くこと」と「考えること」
逍遙(しょうよう)学派

霧ヶ峰


※「ウォークス 歩くことの精神史」 レベッカ ソルニット, 東辻賢治郎(訳)
  左右社 2017 第二章 時速三マイルの精神 p27-28


 ジャン=ジャック・ルソーは「告白」でこう書いている。「わたしが集中

できるのは歩いているときだけだ。立ち止まると考えは止まる。わたし

の精神は足をともなうときにだけ働くようだ。」






…アリストテリスがアテネに学派を起こした際、アテネは彼に一区画

の土地を与えた。

…ここを出身とする哲学者は逍遙(しょうよう⇒気ままに歩き回る)哲学者

もしくは逍遙(しょうよう)学派と呼ばれ、英語でperipatetic(ペリパテティク)

という語は「常によく歩きまわる者」を意味する。つまり、その呼び名は考

えることと歩くことを結びつけている。



※逍遙学派(しょうようがくは)、またはペリパトス派( Peripatetic school)
 とは、アリストテレスが創設した古代ギリシアの哲学者のグループであり、
 彼の学園であるリュケイオンの学徒の総称。(wikipadia)




○最も進んでいないイノベーション 人間に関する知識

○哲学からみた人間理解|自分自身の悟性を使用する勇気を持つ


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自然との対話
自分自身と快く交わる楽しみ

蝶々深山(ちょうちょうみやま.1836m)を望む


※「孤独な散歩者の夢想」 ジャン=ジャック・ルソー, 永田千奈(訳)
 光文社古典新訳文庫 2012 第一の散歩 p19. p24


日々の散歩はしばしば、何かに心を動かされ、うっとりしてしまうような瞬間

に満ちている。だが、それを記憶にとどめていられないのは、実にもったい

ない。だから、心に浮かんでくることを書きとめておこうと思う。

そうすれば読み返すたびに、喜びがよみがえるはずだ。 (第一の散歩 p19)




散策中、頭を空っぽにし、何の抵抗も受けず、気質のままに思考している

うちに、ふと浮かんでくる夢想を忠実に書きとめることだろう。この孤独な

瞑想の時間こそ、一日のうちで最も私が私でいられる時間なのだ。

ほかのことを思うこともなく、自分のためだけにある時間。まさに自然な

状態の自分でいられる数少ない時間なのである。 (第二の散歩 p24)



○子どもたちに会いにいく旅|遊びの中に未来がある こどもの国

○創造的生命力を生み出す愛|夏目漱石「吾輩は猫である」


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大地を覆う衣装
植物

マツムシソウ


※「孤独な散歩者の夢想」 ルソー. 永田千奈(訳) 光文社古典新訳文庫 2012
  第七の散歩 p163-164


…植物は、空に輝く星と同様、大地にたっぷりと撒き散らされている。

きっと、人びとがその美しさに惹かれ、好奇心を抱き、自然を研究する

ように誘っているのだ。星は私たちから遠いところにある。予備知識や、

道具、機械、よほど長いはしごでもない限り、星のそばまで行き、手元

において観察することはできない。だが、植物なら最初から私たちの

そばにある。植物は私たちの足もと、つまりすぐに手が届くところに生

える。



…散歩に出て、野をさまよいながらあれこれと植物を見てまわり、

それぞれの花を興味と好奇心から調べていく。花の構造が分かって

くると、それを眺めているだけで、不思議と嬉しくなってくる。しかも、

それが苦労のすえに得た喜びと同じぐらい心躍る喜びなのだ。

この無益な趣味には、情念がうずまくなかでは決して感じることが

できない魅力がある。この魅力こそ、日々の生活を幸せで穏やかな

ものにするために必要なただ一つのものなのである。



○ため息を春風に変えて|自然からの贈り物 春の花言葉

○季節のうつろいに触れて


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移動の手段となりがちな
歩行

車山湿原


※「ウォークス 歩くことの精神史」 レベッカ ソルニット, 東辻賢治郎(訳)
  左右社 2017 第一章 岬をたどりながら p10


身体という点からみれば、歩行の歴史は二足歩行への進化と人体の

解剖学の歴史だ。たいていの場合、歩行とは二つの地点を結ぶほと

んど無意識な移動手段でしかない。しかし思索や観想(かんそう⇒

自己の心情についての真の姿をとらえようと思い入る)と重なることに

よって、歩くという行為には特殊な領域が形成される。



○大地に宿る命|移ろい行く時の狭間に力の限り咲く花


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ヒトが最初に獲得した特徴
直立二足歩行

八島(やしま)湿原


※霊長類の共通祖先から受け継いだヒトのレジリエンス
 山極壽一 先生 京都大学総長


…直立二足歩行という歩行様式はどう考えても走力や敏捷性

(びんしょうせい)に乏しい。サバンナへ出て行った霊長類は、

パタスモンキーのようにすばらしい速さで走る能力や、ヒヒ類

のようにオスの体が大きく、長い犬歯などの武器を身につけ

ている。ところが、二足歩行をするようになったヒトの祖先は、

早く走ることもできず、犬歯はむしろ縮小傾向にあった。なぜ、

こんな不利な特徴をもって、肉食獣が闊歩(かっぽ)するサバ

ンナへ出て行き、生きながらえることができたのか。



…チンパンジーの共通祖先から分かれて、ヒトが最初に獲得

した固有の特徴は直立二足歩行である。これは走力や敏捷性

には劣るが、長距離をゆっくりした速度で歩くとエネルギー効率

が四足歩行よりよくなる。また、自由になった手で物を持ち運ぶ

ことができる。捕食者の危険の高いサバンナでは、逃げ込む

樹木が少ないので安全に採食できる場所は限られている。

おそらく初期のヒトは屈強な男たちが広い範囲を歩き回って

食物を集め、それを安全な場所に持ち帰って、メスや子ども

たちに分配していっしょに食べたのだろう。これがヒトの最初

の食物革命である。



○あふれる力でともに未来へ|植民地化されてきたアフリカ

○凝縮された尾瀬の季節|厳しくも豊かな自然が見せる横顔


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ヒトの生存戦略として大きな役割を果たした
食物分配

車山スカイパークホテル


※霊長類の共通祖先から受け継いだヒトのレジリエンス
 山極壽一 先生 京都大学総長


…霊長類にとって食物はトラブルの元である。だから、採食するときは

仲間どおしなるべく距離を置いて、競合を抑えようとする。二頭が同じ

食物の前で鉢合わせをしたときは、優位な個体がそれを独占し、劣位

な個体は手を引っ込めるルールが一般的である。ところが、ヒトは

けんかの源泉となる食物をわざわざ運んできて、仲間とそれを囲む

ようにして共食する。サルから見れば人間の食事は奇妙な行動に

見える。




…霊長類の中でヒトだけが最も広範に、見ず知らずの他人にも気前

よく食物を分け与える。これは文化や民族を超えて共通の特徴であり、

進化史の中でも古い起源をもつ行動と考えられる。おそらく、ヒトの

最初の祖先が熱帯雨林を出て、食物が乏しく危険な場所で暮らし

はじめとき、食物分配は生存戦略として大きな役割を果たしたに

違いない。



○食・農・里の新時代を迎えて


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地球上に拡散移動した
人類

茅野から美ヶ原高原まで約76kmをつなぐ山岳道路「ヴィーナスライン」


※人類の移動誌:進化的視点から 国立民族学博物館共同研究会より一部引用


人類はアフリカ大陸で誕生した後、数十万年をかけてユーラシア、アジア、

南北アメリカ、そしてオセアニアへと拡散し、居住を行ってきた。これほど

広く地球上に拡散移動した動物はおらず、人類が「ホモ・モビリタス」とも

呼ばれる所以である。また、現代社会においても、人類は世界各地で様々

な方法や目的で移動を続けている。



「人類はなぜ移動するのか」の答えは一つではなく多様である。しかし、霊長

類の例をはじめ、多くの例において、自然環境の変化が重要な要因となって

いた。また、我々人類が本能として持つ「好奇心」も、移動を引き起こす要因

であった。



○Life is a Journey


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直立二足歩行をする唯一の動物
ヒト

美ヶ原牧場


※『志村どうぶつ園』VTRでパンくんは「恐怖に震えて…」霊長類学者が警告!
 2020年5月23日 21時0分 週刊女性PRIME
 https://www.jprime.jp/articles/-/17948 (部分)


「…パンくんの昔の映像が流れるたびに胸が痛みます」 

 そう話すのは、野生のチンパンジーやボノボの生態研究が専門

である、京都大学霊長類研究所・国際共同先端研究センター助教

の徳山奈帆子さんだ。番組内でのパンくんは主に2足歩行で歩い

ていたが……。



「野生のチンパンジーは2足歩行をほとんどしません。大人のオスが、

自分の力を誇示したいときに、身体を大きく見せようと2本足で立ったり、

数メートル走ったり歩いたりすることがありますが、それくらいです。

チンパンジーの自然な歩き方は、握りこぶしを地面につけて4本足で

歩く“ナックルウォーク”という歩き方です。



 チンパンジーの本来の歩行は4足歩行であり、パンくんの2足歩行は

訓練の結果です。2足歩行をしているときのパンくんは、そのように指示

されているからと考えてよいかと思います。そのためショーを行って

いない現在の彼は、チンパンジー本来の歩き方で歩いています」

(徳山さん)



「一連の企画のうち人気が高かった“おつかい”など、“親”であるはず

のトレーナーと一緒に行うものではなく、パンくんが単独で行うものも

多くみられました。これは野生ではありえないことです。野生のチンパ

ンジーの子どもは常に母親と一緒で、子どもを不安な状態で放置する

ことなどありえません。子どもは成長のなかで多くの新しいものに触れ、

学習しますが、それは必ず母親など信頼できる関係の個体がそばに

いる状態で行われます。“1人で何かをする”こと自体が、チンパンジー

の子どもには強いストレスとなります」(徳山さん)


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実験動物
チンパンジーのトム

霧に覆われた美ヶ原高原(道の駅、標高2000m)


Tom was born in Africa. Taken from his family, he spent his first 30 years in

the laboratory. Tom arrived at LEMSIP on August 13, 1982 from the Buckshire

Corporation at about 15 years old. In his subsequent 15 years at LEMSIP,

"Ch-411" was knocked down over 369 times.



Tom was inoculated with HIV in 1984 and for the rest of his time at the lab he

was used mostly for vaccine research. Completely uncooperative in the lab,

he was even knocked down for cage changes.



After enduring some 56 punch liver biopsies, 1 open liver wedge biopsy, 3 lymph

node and 3 bone marrow biopsies, Tom gave up. Plagued constantly by intestinal

parasites, he often had diarrhea and no appetite. When he had some strength,

he banged constantly on his cage.



※Frank Noelker (an American Fine Art Photographer)





《ホームページ管理者による意訳》


アフリカで生まれたチンパンジーのトムは、家族から離され、最初の30年は実験室

で過ごしました。15歳くらいだったトムがBuckshire Corporation(実験動物を扱う

会社?)からLEMSIP(大学にある実験室?)に到着したのは1982年8月13日でした。

その後、LEMSIPの15年間で"Ch-411"(トムの識別番号のよう)は、369回以上も

knocked downされました(麻酔をかけられ意識を失った?)。



トムは1984年にHIV(エイズの原因となるウイルス)を接種され、研究室での残り

の時間は主にワクチン研究のために利用されました。トムは研究に協力的では

なかったため、檻(おり)からの出入りでさえ麻酔をかけられました。



56回のpunch liver biopsies(肝臓組織の一部を採取して顕微鏡で調べる検査)、

1回のopen liver wedge biopsy(肝臓を開いて行う検査?)、3回のリンパ節検査

および3回の骨髄検査に耐えた後、トムは力尽きました。 いつも腸内寄生虫に

悩まされ、しばしば下痢をし、食欲はありませんでした。 まだ体力があった頃、

トムは絶えず檻を叩いていました。



※liver(リバー) … 肝臓
※biopsy(バイオプシー) … 生体組織の一部を採取して顕微鏡で調べる検査


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広々と開けた景色
美ヶ原

「美ヶ原高原(道の駅、標高2000m)」から上田市街方面を望む
(一つ上の画像に写っている場所から晴れている日に撮影)


※「美ヶ原」 木暮理太郎(こぐれ りたろう、1873-1944年, 元日本山岳会会長)


筑摩山脈の武石(たけし)峠が日本アルプス殊(こと⇒特)に北アルプスの

好展望地であることは、『山岳』五年三号の附録中村清太郎君筆の「冬季

信州武石峠より望める日本アルプス略図」に依(よ)って世に紹介されてから、

山岳の展望に趣味を持つ程の人で知らぬ者は無い位くらい有名になった。

実際此(この)山脈の山で千七、八百米の高さがあれば、孰(いず)れも眺望

がよさ相(そう)に思える。中にも美ヶ原は山脈の中央部に位(くらい⇒位置)し、

且(かつ)其(そ)の西方に連嶺の最高点二千三十四米の一隆起を控えている

から、これに登ったならば更に広闊(こうかつ⇒広々とした)なる眺望が得られ

るであろうと、昨年(大正九年)の十月末に出掛けて見た。




…峠から約一時間を費して三時二十分に茶臼山の頂上(⇒美ヶ原王ヶ頭:

うつくしがはら おうがとう)に立つことを得た。此処の眺望は一層の闊大(か

つだい)を加えて北方は北アルプスの箙(えびら)岳迄視界が開ける、南アル

プスや槍穂高の方面は漸(ようや)く霞(かすみ)に罩(こ)められて、鋭い輪廓

もうすれて来た。脚下の美ヶ原は枯草色の平坦な高原を斜に展開して、西

寄りに鍋を伏せたような形をした隆起が即ち二千三十四米と測られた地点

である。南端は可(か)なり高い絶崖に限られ、東の方は物見石山へ連る尾

根が原の一部をなして、針葉樹が所々に散生している。



○空と雲に出会い天上につながる場所|北アルプスを貫く立山黒部アルペンルート

○いちばん美しい夏に出会う|自然と文化の宝庫 信州


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登りつめて不意に開けた風景
美ヶ原

美ヶ原高原のシンボル「美しの塔」には、美ヶ原を愛した詩人
尾崎喜八氏の「美ガ原溶岩台地」が刻まれています


※「高原詩抄」 尾崎喜八(おざき きはち、1892-1974年) 昭和17年
  美ガ原溶岩台地(うつくしがはらようがんだいち)


登りついて不意にひらけた眼前の風景に

しばらくは世界の天井が抜けたかと思う。

やがて一歩を踏みこんで岩にまたがりながら、

この高さにおけるこの広がりの把握になおもくるしむ。

無制限な、おおどかな、荒っぽくて、新鮮な、

この風景の情緒はただ身にしみるように本源的で、

尋常の尺度にはまるで桁が外れている。

秋の雲の砲煙がどんどん上げて、

空は青と白との眼もさめるだんだら。

物見石の準平原から和田峠の方へ

一羽の鷲が流れ矢のように落ちて行った。



○雄大な空の旅をする渡り鳥|各国にて大切にされている国際親善大使


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空一面に広がる雲の絨毯
雲海

車山スカイパークホテル


※「山の魅力」 木暮理太郎(こぐれ りたろう、1873-1944年, 元日本山岳会会長) 五


雲の海の壮観は、また一度山に登って之(これ)を見た人の永く忘れることの

出来ないものの一であらねばならない。殊にそれが晴れた日の朝や夕方に

多いので、雄大な眺望と相待(あいま)って一層強く印象される。朝早く起きて

寒さをこらえつつ頂上に立って見渡すと、下界は一面に白い雲が平に立ち罩

(こ)めて、綿(わた)を敷き詰めたようである。其上に八千尺以上の高山の頂き

のみが孤立したり連続したりして、黒く抜け出している様は、まるで荒波の砕

けている海上の島を見るようであるが、また銀のお盆の上に黒い石を並べた

盆石(ぼんせき⇒日本古来の縮景芸術の一つ)に譬(たと)えられないこともな

い。眤(じっ)と見ていると何だか其雲の上が歩いて渡れそうな気がして来る。


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山の魅力
人間を超越した自然の驚異

岳沢湿原|上高地


※「山の魅力」 木暮理太郎(こぐれ りたろう、1873-1944年, 元日本山岳会会長) 一


夏の登山が今日のように盛さかんになったのは、色々の原因があるにしても、

山が何かしらん人の心をしっかりと捉えずには置かない、強い魅力を持って

いる為である。



人真似であろうが流行かぶれであろうが、登山の動機は何であっても、二度

三度と行く中(うち)には、真実に山が好きになって、機会さえあれば如何して

も登らないではいられないようになる。平地では夢想だもしなかった、登山者

の前にのみ次から次へと展開する新しい驚異は、知らず知らずの間に山に

あこがれ、山に徹底し、これと融合して無我の境地に到達しなければ止まな

い衝動を与える。この境地は登山に於て所謂(いわゆる)詩人の霊感にも比

す可(べ)きものであろう。されば山の魅力は驚異であり、驚異の感情は登山

者が山に執着を感ずる心の目覚めである。



つまるところこれは、如何に多くの人が原始のままの自然の姿に対して、

無意識の中に深い憧れを感じつつあるかを語るものに外ならない。そして

自然が最もよく原始のままに保存されているのは、陸上に於ける島ともいう

可き山である。山が高ければ高い程、深ければ深い程、一層よい。



○人類から遠く離れた孤独の中に住む 世界の本質

○黄金色に染まる尾瀬ヶ原|高層湿原の短い秋


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日本人に登山意識をもたらした
ウォルター・ウエストン

ウエストン碑 (左上)|上高地


※ウエストン碑 解説文より


英人牧師ウォルター・ウエストンは、明治21年(1888年)から同28年(95年)まで

の日本滞在中に槍ヶ岳や穂高の山々を数多く歩き、我が国に近代的な登山

意識をもたらし、日本山岳会結成のきっかけを作りました。



また、その間の紀行文「日本アルプスの登山と探検(明治29年)」により、中部

山岳を世界に紹介するなど、その業績は高く評価されています。



ここにあるレリーフは、日本山岳会が昭和12年にウエストンの喜寿(77才)を

祝って作ったもので、昭和40年にかけなおされています。



○社会の転換期|視点が変わると見え方も変わる


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意識の芽生え
楽しむ登山を知った日本人

徳沢キャンプ場|上高地


※「日本アルプスの登山と探検」 ウェストン. 青木枝朗(訳) 岩波文庫 1997
  第六章 p111-112


日本人は、白衣(びゃくえ)をまとった巡行か神信心にかこつけた物見遊山で

毎年同じ山に登るくらいで、スポーツの醍醐味を味わうために登山をすること

はめったにない。田舎の人々は、銀も水晶も出ない山へ登るのに、何を好き

このんでそんな苦労をするのか、ほとんど理解できないのである。山登りを

する理由を説明すれば、いちおうは礼儀として賛成してくれるが、心の中では

違うことを考えている。あるヨーロッパの婦人が、「そうです、私は登山はてい

のいい狂気沙汰だと思っています。あなたが何とおっしゃっても、私にはそう

としか思えません」と言っているのを小耳にはさんだことがあるが、大多数の

日本人もそれと同じ意見なのだ。


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見聞を広め
危険に対処する勇気・才覚を養う

ヨーロッパ・アルプス山脈にあるマッターホルン(4,478m)
ウェストンは17歳のときにアルプスを訪れ、登山の虜になったといいます


※「日本アルプスの登山と探検」 ウェストン. 青木枝朗(訳) 岩波文庫 1997
  解説 p368-369


ウェストンがはじめてアルプスを訪れたのは1878年、17歳のときで、2回目

は1893年、本格的に登山をはじめたのは1886年からで、兄ロバートととも

にブライトホルン、マッターホルンその他に登った。よく1887年にはヴェッタ

ーホルンに登り、危険性の高いトリフトヨッホを越え、マッターホルンに再び

登頂、さらにユングフラウとアイガーを狙ったが悪天候のため挫折した。

このときすでにウェストンし登山の魅力にとりつかれて、「山こそわが友」と

いう終生のモットーを刻みつけている。




※登山の歴史と文学 日本スポーツ振興センターより


イギリス人牧師のウェストンは,日本の高山の開拓者であり、探究者でも

あった。1890(明治 23)年の富士山、祖母山(そぼさん. 1756m⇒大分・宮崎

の県境にある山)を皮切りに翌91(明治24)年から日本アルプスを中心に

本格的な登山活動を開始する。1894(明治27)年10月までの第1 回滞日中

の足跡は、御嶽山、木曽駒ケ岳、富士宝永山、乗鞍岳、槍ヶ岳、赤石岳、

恵那山、針ノ木〜黒部川〜平〜ザラ峠〜立山、笠ケ岳、前穂高岳、白馬岳、

常念山などに及ぶ。1896(明治29)年にこれらの登山活動と日本研究を纏

めた『日本アルプス―登山と探検』をロンドンで刊行。



ウェストンの第2 回滞日は、1902(明治35)年6月〜06(明治39)年3月で、

02年には富士山、北岳で登山を再開。03(明治36)年には甲斐駒ケ岳、

04(明治37)年には金峰山、鳳凰山地蔵岳のオベリスク初登攀、北岳、

間ノ岳、仙丈ヶ岳、富士山、戸隠岳、八ヶ岳などに登頂。この時期に岡

野金次郎や小島烏水ら日本人近代登山の先駆者となる人々との交流

が始まり、日本山岳会の設立に繋がっていく。



ウェストンの第1 回滞日に前後して、日清開戦に湧き立つ1894(明治27)

年、地質学者の志賀重ミが『日本風景論』の名著を纏め上げ、ベストセ

ラーとなる。この書がウェストンの『日本アルプス―登山と探検』とともに

近代登山に与えた影響は大きく、ウェストンと志賀が近代登山興隆の祖

と云われる所以である。



○精神自由の再生|ルネサンス都市フィレンツェ

○共に居ること、創ること イギリス


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永遠の恵みを分かち与える
山々の姿

横尾大橋|上高地


※日本アルプスの登山と探検 ウェストン. 青木枝朗(訳) 岩波文庫 1997
  第十三章 p311-312


日本アルプスには、氷河をまとってきらきらと輝く峰はない。また、その規模

は有名なスイス・アルプスに比べると、ほんの三分の二にしか当たらない。

それは事実としても、その渓谷の絵のような美しさと、広大な山腹を蔽って

静まりかえっている暗い樹林の荘厳さは、私がヨーロッパ・アルプスで見た

ものをはるかに超えていた。そして[ヨーロッパ・アルプスについて書かれた]

次の言葉は、日本アルプスについてもそのまま当てはめることができる。



 「その渓谷や谷間には、汲(く)めども尽きぬ悦びの泉がいかに数多く流れ

  ていることか。また、その片隅にひそかに咲く一叢(ひとむら)の花や、気

  ままに流れる小川の水しぶきにいたるまで、自然はいかに忍耐強く、熱意

  をこめて、永遠の恵みを分かち与えようとしていることか。その忍耐と熱意

  は、われわれがいかに敬意と感謝を捧げようとも、結局はその崇高さに対

  して無関心、その愛に対して無感覚であるにひとしいと言わざるをえない

  ほどのものである。」(ラスキン「近代絵画論」第四巻)



○空と雲に出会い天上につながる場所|北アルプスを貫く立山黒部アルペンルート


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ヨーロッパ・アルプスと比べて一回り小さい
日本アルプス

涸沢(からさわ)カールから見た穂高連峰と涸沢小屋
穂高連峰の最高峰は奥穂高岳 (標高3190m, 日本第3位)


※「登山と自然の科学Q&A」 小泉武栄, 大森薫雄. 塚本治弘.
  日本勤労者山岳連盟(編集) 大月書店 2000 p13-15


同じアルプスという名前がついていても、ヨーロッパアルプスと日本アルプスを

比べてみると、大きさや高さにずいぶん差があることに気がつく。



…ヨーロッパアルプスは全長1000km余りの大山脈だが、日本アルプスの方は

北アルプスと南アルプスが全長90km、中央アルプスが50kmと一ケタ小さい。

高さもヨーロッパアルプスがモンブランの4807mを筆頭に、4000m級が目白押し

なのに、日本アルプスでは3192mの北岳が最高で、3000mを超える山は10数座

にすぎない。



…このようにみてくると、日本アルプスが不利な立場にあることは否めないが、

それにもかかわらず、日本アルプスの高山景色はヨーロッパアルプスにけっ

してひけをとらない。これはどうしてなのだろうか。

 ヨーロッパアルプスを特徴づける景観として、次の2つをあげることができる。

ひとつは氷河や絶景、のごぎり状の山稜、カールなどかつくる、雄大だが、

人を寄せつけない景観、もうひとつはアルプスの少女ハイジが遊んだという、

高山のお花畑をつくる人なつこい景観である。この点を日本アルプスについて

みてみると、…現存する氷河こそないが、岩壁やのこぎり状の山峰、カール

などはことかかず、ヨーロッパアルプスではあまりもられない岩屑斜面も、白

馬岳や槍穂だけなどを中心にひろがっている。また残雪も多く、高山植物の

お花畑も各地でみることができる。景観の雄大さでは一歩譲るが、いかにも

アルプス的な山脈だといっていいだろう。


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【絶景空撮】北アルプス・涸沢カール紅葉 4K

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日本の山の美しさ
自然の多様性

白馬大雪渓(はくばだいせっけい)|長野県白馬村


※登山と自然の科学Q&A 小泉武栄, 大森薫雄. 塚本治弘.
日本勤労者山岳連盟(編集) 大月書店 2000 p11


日本アルプスの紹介者ウェストンは、森林におおわれた渓谷の美しさが、日本

の山の美しさを代表するものだと述べた。しかし私は日本の山の美しさの原点

は、自然の多様性にこそあると考えている。



 残念なことに日本の山には氷河は存在しない。このことは日本山岳会の生み

の親である小島鳥水(うすい)以来、日本の山好きの人々の連綿たる嘆きとなっ

て続いているが、反面、わが国には氷河を除けば、氷河地形を含めてほとんど

すべての要素があるといってよい。夏山だけに限っても槍穂高(やりほだか)なら

ば、切り立った岩壁とナイフブリッジ(⇒急峻な尾根)、カール(⇒椀状の谷)、

モレーン(⇒削り取られた岩石や土砂などが堆積した地形)、崖錐(がいすい⇒

急斜面の下に、落下物が堆積してできた半円錐状の地形)などがみられるし、

白馬岳へ登れば、大雪渓や残雪と、数えきれないほどさまざまなタイプの

お花畑も出現する。そこでは数多くの高山植物が咲き乱れ、高山蝶が舞い、

構造土が地面に不思議な模様を描きだす。岩屑斜面に生育するコマクサも

みごとなものである。



○雪国の春|環境と生物の相互作用がもたらす風景

○人間の大地・人間の季節|冬の北海道


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人間の多様性
文化的適応力



※環境への遺伝的適応と文化的適応−霊長類としての人間の特性を考える−
 川本芳 先生 京都大学霊長類研究所


…地球には70億を超える人がいて、熱帯から極地までさまざまな環境に

暮らしています。隆盛を誇る私たち人間は、生物としては一属一種の霊

長類 Homo supiens です。一方、私たちに近い生物は何かというと、アフ

リカの熱帯に棲むチンパンジーたちが進化の隣人です。人間という霊長類

が、かくも増えて、多様な環境に居を構えるのにかかった時間は、地球の

歴史からみたらわずかです。




…ヒトに特徴的な進化プロセスとは、自分たちの遺伝子を変えて周囲の

環境に適応するだけではないと考えられます。つまり、ほかの生物とは

違う適応方法を身につけたことが、アフリカから爆発的に分布を拡げた

原動力になったといえます。その基盤は外界の環境に自分を合わせる

という生物としての基本的な適応のスタイルだけでなく、環境を自分の

生存に都合よく変える力を身につけたことだと考えられます。そこには、

言語の発達を介した非遺伝的伝達による文化的適応に支えられた独特

の適応スタイルがあったとみることができます。



○地球の未来を読み解く南極観測

○多様な視点から始まる自己への洞察

○Dear Kitty|ずっと誰よりも大切なキティへ


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参  考  情  報


○霧ヶ峰高原観光サイト 霧ヶ峰へ行こう | 諏訪観光協会 公式

○霧ヶ峰自然保護センター(ビジターセンター)

○信濃國一之宮 諏訪大社(公式サイト)

○美ヶ原高原

○詩人 尾崎喜八


○長野県 信州 車山高原スカイパークホテル 【公式】

○美ヶ原高原ホテル山本小屋

○国立登山研修所 | JAPAN SPORT COUNCIL

○富士登山オフィシャルサイト

○富士芝桜

○国立民族学博物館

○人類の移動誌

○本の万華鏡 第18回 登山事始め―近代日本の山と人|国立国会図書館

○リニア中央新幹線|JR東海

○GSI HOME PAGE - 国土地理院ホーム

○Wikipedia

○ウォークス 歩くことの精神史 レベッカ ソルニット, 東辻賢治郎(訳)
 左右社 2017

○孤独な散歩者の夢想 ルソー 永田千奈(訳) 光文社古典新訳文庫 2012

○告白 (上中下) ジャン・ジャック・ルソー, 桑原武夫(訳) 岩波文庫 1965

○学問芸術論 ジャン・ジャック・ルソー, 前川貞次郎(訳) 岩波文庫 1968

○トレイルズ (「道」と歩くことの哲学) ロバート・ムーア,
  影山徹(イラスト). 岩崎晋也(訳) エイアンドエフ 2018

○日本アルプスの登山と探検 ウェストン, 青木枝朗(訳) 岩波文庫 1997

○登山と自然の科学Q&A 小泉武栄, 大森薫雄. 塚本治弘,
  日本勤労者山岳連盟(編集) 大月書店 2000

○山歩きの知恵 田村宣紀 信濃毎日新聞社 2003

○目で見る日本登山史 山と渓谷社刊 2005

○日本山岳会百年史 日本山岳会刊 2007

○山の文学散歩 斎藤一男 2010 日本山岳文化学会刊

○遠野物語・山の人生 柳田国男 岩波文庫 1976

○レジリエンスの諸相('18)
 奈良由美子 先生 放送大学教授
 稲村哲也 先生 放送大学特任教授

○夢想の一般的性格
 ・秩序を否定する
 ・完全な放心とは異なる営み
 ・あるきっかけに導かれる(逸脱・冗長あり)

○ルソーのいう夢想の機能
 ・道徳性
 ・自己の享受(自己の内部の体験と実験、自然との対話)
 ・世界と自然の享受


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