異彩を放ち、日本の権力を表象してきた建造物

日本人の自我主張


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日本古来の建築美を活かして造られた
宮殿

長和殿(ちょうわでん)と東庭(とうてい)


皇居内にある宮殿は、昭和43年に完成し、翌年から使用を開始したそうです。



大屋根と柱・梁(はり)で構成される日本古来の建築美を活かして造られ、

また、その建築資材のほとんどが国産のものだといいます。



深い軒の出を持つ勾配屋根をかけた鉄骨鉄筋コンクリート造りの地上2階、

地下1階、延べ面積24,175平方メートル(7,326坪)の建物で、

正殿(せいでん),豊明殿(ほうめいでん)、連翠(れんすい)、長和殿(ちょうわでん)、

千草・千鳥の間(ちぐさ・ちどりのま)など7つの棟から構成されているそう。



※宮内庁より



○象徴天皇制と平和主義|国事に関する行為が行われる宮殿


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大日本帝国の権力を表象した
国会議事堂



威風堂々の外観と装飾に贅(ぜい)の限りを尽くした内装とが

相俟(あいま)った白亜の宮殿、国会議事堂。



1920(大正9)年に地鎮祭が行われ、1936(昭和11)年、二・二六事件の直後に完成。

着工から完成まで17年の歳月を費やしたそうです。



材料は、日本全国に留まらず、当時植民地としていた

南樺太、朝鮮、満州国などから集められたといいます。



当時、建物の高さは31m(百尺)以内に制限されていた中、

国会議事堂・中央塔の高さは65.45mあり、日本一の高さだったそう。


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今もなお異彩を放つ
天皇による秩序の表象

中央玄関


国会議事堂の中央玄関は、普段、閉められていますが、

国会の開会式に天皇陛下をお迎えするときには開かれるそうです。



中央玄関を通り抜けると広がる中央広場は、

かつて中央廣間(ひろま)と呼ばれ、法隆寺五重塔がすっぽり入る高さ。

その奥には天皇が昇降する中央階段(かつて帝室階段)へ続き、

上り切ると御休所(ごきゅうじょ、かつて中央の便殿)があります。



御休所(ごきゅうじょ)は、日本風宮殿のように檜を用いた本漆塗りで、

当時の建築工芸の粋を集めたものといわれ、建設費用の1/10がかかっているそう。

そして議場内には御席(おせき⇒玉座)と天皇の傍聴席。



これらは、かつて天皇による秩序を議事堂に表象したものだといい、

大日本帝国から日本国へ、貴族院から参議院へ変っても今なお異彩を放っています。


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天皇陛下の意思に謹んでお答えする
勅語奉答

貴族院本会議にて、近衛文麿(貴族院議長)が勅語奉答文を朗読
1936年(昭和11年)


大日本帝国憲法における帝国議会の上院であった貴族院。

1890年(明治23年)11月29日から1947年(昭和22年)5月2日まで存在したそう。



貴族院議員は、選挙によらない皇族や華族などによって構成され、

解散はなく、議員の多くは終身任期だったといいます。



※勅語奉答文(ちょくごほうとうぶん)
  勅語…天皇が口頭により発する公務上の意思表示
  奉答…謹んで答える



○いつか冷静さを取り戻し正常に復する時も来よう|近衛文麿の遺書


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国会開会式における
天皇陛下のおことば

御席(お席:玉座) 参議院本会議場


※第180回国会(常会)の開会式 天皇陛下のおことば 2012(平成24)年1月24日


  本日、第180回国会の開会式に臨み、全国民を代表する皆さんと

  一堂に会することは、私の深く喜びとするところであります。

  国会が、国民生活の安定と向上、世界の平和と繁栄のため、

  永年にわたり、たゆみない努力を続けていることを、うれしく思います。

  ここに、国会が、国権の最高機関として、当面する内外の諸問題に対処するに

  当たり、その使命を十分に果たし、国民の信託に応えることを切に希望します。




天皇陛下の国会における「おことば」について、日本国憲法には明示的に

言及されていませんが、日本国民統合を象徴する「おことば」に共感するとともに、

国民生活の安定と向上、世界平和と繁栄のために努力されてる国会議員に感謝します。



天皇・皇后両陛下がいつまでもお元気に過ごされることを願います。



○日本人の心を形成してきたもの|これからを生きる指針となるものを探る


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「演技性」と「劇場性」が意識される
議場

衆議院本会議場
議長席に向かって左から右へ所属議員数の多い会派から座り、
議長席に近い前列は新人議員、当選回数が多い議員は後ろの席に座るそう


※権力の館を考える 第2章 三権の館 放送大学客員教授 御厨 貴 先生


  衆議院の議場に玉座はない。

  もっとも天皇や皇族の傍聴席もあるが、使われることはない。

  しかし天皇は常に三階から二階に降り立つ形になっている。



  おかしなもので、480人の議員が一同に揃う場だと観念されるや、

  議場における「演技」の意味が分かってくる。

  議場での政治は、演説も質疑も牛歩も乱闘もすべて、

  「演技性」と「劇場性」が意識される。



  おそらく議場での議員同士の「耳打ち」の一言は、

  他の場所よりも何十倍の効果がもたらされよう。

  それほど議場には人を興奮させ生き生きさせる「何か」があるのだ。


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国民の代表者が英知を集め、
国家利益と国民福祉の向上を目指す場

衆議院第一委員会室


※衆議院改革に関する調査会の答申 2001年(平成13年)11月 (抜粋)


  国会審議の現状は、事実上結論が出てしまっている問題を、

  厳しい党議拘束の下、与党が野党の抵抗を排しながら如何に

  「出口」に辿り着くかというスケジュール闘争の場になりがちであり、

  実質的な議論や利害調整は、いわゆる政党の部会などにおける事前審査、

  政府と与党の予算折衝、政府と業界との調整という、

  一般国民の目の届きにくい所で行われている。



  このような現状を打破して国会が本来の姿を取り戻し、

  選挙で選ばれた国民の代表者が英知を集め、

  「表舞台」で議論を重ねた上で最終的な意思決定を得るように

  国会審議の在り方を改善すべきである。



  また、政治と私的利益の癒着を防止し、政治倫理を確立するためにも、

  国会審議を活性化し、実質化させ、国民の前にオープンな形で議論し、

  調整することが必要である。



○人類の智の宝庫|大英博物館

○破壊と再生|日本型うつ病社会に別れを告げて


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衆議院と参議院の
往来

参議院側からみた国会議事堂


国会議事堂は中央塔を挟んで、

左側が衆議院、右側が参議院になっているそうです。



衆議院と参議院は各々が独立していることから、

衆議院から参議院へ、参議院から衆議院への行き来は難しいと聞きますが、

実際には、4階部分にある国立国会図書館の分室を通して、

往来が行われてきたといいます。


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健康と心の安らぎを提供する
議員食堂

衆議院議員食堂 レストランモア


国会カレー:700円、豚しょうが焼き定食:870円、…。

(2016年6月現在)



リーズナブルな価格で提供されている議員食堂のメニュー。

多忙な国会議員が健康的な料理を早く食べ終えられよう、

また、束の間の心の安らぎとなるように配慮されているそうです。


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猥雑さと賑わいがあった
旧首相官邸

首相官邸ホームページより


※首相官邸物語 仮野忠男 角川oneテーマ21 2002年
 旧官邸に対する宮澤喜一元首相の見解


  狭いんですよね、部屋の数が少ない。

  官邸はいつもテーブルや椅子があっちこっち動いて色々な会議場ができる。

  夕食会をする大ホールもお化粧はするが汚い。

  お客さんから「まるで格納庫だ」なんて言われましてね。

  しかし、首相官邸は立派でない方がいいと思ってきた。

  首相の秘書官が狭いところに雑居して互いの仕事を理解しながら

  チームワークを組む、一人ひとりが部屋をもっていたらいけないですね。

  米国のホワイトハウスの大統領補佐官も段ボール箱の上で飯を食べたりしている、

  そうでないと一人ひとりが偉くなりすぎちゃうんですよ。




昭和4(1929)年に竣工した旧総理官邸。

73年もの歴史の間、田中義一内閣から小泉純一郎内閣まで、

実に42名の首相とともに激動の時代を歩んできたといいます。



決して広いとは言えず、バリアフリーと縁のない廊下と階段を、

政治家・官僚・職員それに記者が、肩を触れ合い、ひしめきあって、

斜め歩きの恰好で、急ぎ足で歩き回る。



旧首相官邸には、

猥雑さ(わいざつ:ごたごたと入り乱れている様)と賑わいがあったそう。



○混沌とした中に躍動感があふれるベトナム


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自然石と竹をシンボルとした
首相官邸



切り出したままの自然石、

強くしなやかに伸びた青い竹をシンボルとした首相官邸。

「石」は、大地にしっかりと腰を据えた強さと安定感、

「竹」は、天に向かって伸びる未来への挑戦を象徴しているそうです。



旧官邸に比べて倍以上の広さをもつ新官邸は、地上5階・地下1階建て。

5階に首相執務室と官房長官執務室、4階に閣議室、3階にエントランスホール、

2階に大ホール、1階に記者会見室、そして地下1階に危機管理センターなどがあるそう。



危機管理と情報管理機能を備えた建物は、

何よりもセキュリティが重視されているといいます。



○光は闇の中で輝く|世代とジェンダーを越えて発展する


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国会議員の事務所が入る
議員会館

衆議院第二議員会館


国会議事堂の裏側にある議員会館。

旧議員会館は狭く・老朽化が進んでいたことなどから、

2010年に新しい議員会館に移ったそう。



衆議院第一議員会館・第二議員会館、参議院議員会館の三棟から成り、

いずれも12階建て。各部屋には議員の執務室・会議室・秘書室があり、

地下には食堂や売店を備えるほか、

地下通路により国会議事堂及び地下鉄の駅とつながっているそうです。


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コミュニケーション空間の
変化

議員室内にある会議室 衆議院第二議員会館


かつての議員会館は、とにかく狭く、各部屋のドアは開けっ放しにしたままで、

外にまで荷物が溢れている状態だったといいます。

部屋の前には多くの陳情客が並び、

中から怒声が響いてくるなんて日常茶飯事だったそう。



それに対して新しい議員会館では、各部屋のドアは閉まり、

コミュニケーションはメールや携帯で行われることも多くなったといいます。


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綿密で強度があり狂いが少ない材質
ツゲの木

財務省玄関脇に植えられる記念樹
大蔵省開庁百年 記念樹 つげ 昭和44年


ツゲ(黄楊・柘植) の木は、木質が綿密であり、強度があることから、

印鑑や将棋の駒、彫刻などに利用され、また、狂いが少ない材である為、

かつては定規、測量用具の材料として使用されていといいます。



○財務省の使命

  納税者としての国民の視点に立ち、効率的かつ透明性の高い行政を行い、

  国の財務を総合的に管理運営することにより、

  健全で活力ある経済及び安心で豊かな社会を実現するとともに、

  世界経済の安定的発展に貢献すること。



○総合目標1 財政

  我が国の財政状況が歴史的に見ても諸外国との比較においても、

  きわめて厳しい状況であることを踏まえ、社会保障・税一体改革を継続するとともに、

  国・地方を合わせた基礎的財政収支について、2020(平成32)年度までに黒字化、

  その後の債務残高対GDP比の安定的な引き下げを目指すとの

  財政健全化目標達成に向け、歳入・歳出両面において財政健全化に取り組む。



○総合目標2 税制

  財政健全化目標達成に向け、社会保障と税の一体改革を継続するとともに、

  若い世代に光を当てることにより経済成長の社会基盤を再構築するなど、

  経済社会の構造変化を踏まえた税体系全般にわたる構造改革

  (オーバーホール)を進める。



※財務省の「政策の目標」の体系図(平成28年度版)より(部分)



○財政健全化への取組み|失われた25年から学んだこと

○森羅万象のいのちの満ちる森|たおやかに熟成してきた白神の時間


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時代の要請に応えてきた
財務省

財務省副大臣室


※財務省広報誌 「ファイナンス」 平成28年3月号
 巻頭言「大地を歩く」 財務副大臣 坂井学


  「政治家と話している感覚だ」というのが財務省の政務を務めさせてもらう

  前までの財務省の職員の皆さんに対する印象でした。

  国全体のことを考え、それぞれの省庁の政策を省庁の枠を超えて議論する。

  今回、税制改正大綱、予算編成作業を通じてその思いはより強くなりました。

  ただ一つ、増税に対して前向きで意欲的な点は未だに違和感がありますが・・・。



  財務省について、今のところの「驚きビッグ3」は、

  1つ、深夜の送迎バス

  2つ、副大臣の記者会見

  そして最後は、考えてみれば当たり前だけど、

  私には盲点だった各省庁の政策の中身と予算が省内でわかる、ということでした。

  特に、深夜の送迎バス。最終は何と、朝方の3時役所発。



  今まで私もいろんな経験はしてきましたが、

  それらの経験を基にした私の常識を大いに超えており、大きな衝撃を受けました。

  それだけの猛者が集まっているからこそ、今までの行政サービスをできる限り

  落とさずに、この時代が要請する新たな課題を押し込んでいくという大変難しい

  作業を担当できるのだろうと思います。

  だって、終わりのない毎年続く作業です。

  財政再建が求められている厳しい財政状況の中で、社会保障や災害対策など

  をはじめとする、社会が必要とする事業のための余地を作るためには、

  絶えず社会の変化や技術の進歩に目を向け続けることが求められます。



  人口が減ることで何がいらなくなり、何が必要となるのか。

  高齢化が進むことで何がどう変わり、何を新たに求められるのか。

  そしてそれらを科学技術や新しい手法で、どこまでカバーできるのか。

  膨大な知識と強力な人脈ネットワークとそれらを基礎に苦心して絞り出される知恵。

  そして最後には、単なる議論だけに終わらせずに、政治を通じ法制化し、

  制度として着地させて社会を変えていく。

  いやはや、感心します。

  しかし、私も政務の仕事を拝命した以上、

  そのすごい組織の中でも何らかの役割を果たしていきたいと思います。



  20年前、熊本県阿蘇郡蘇陽町(当時)で、配管工・設備屋の手下(てか・てした)

  の仕事をしながら、3年間幣立神宮の境内に住んでいました。

  その時出会ったのが「雑魚は雑魚なりに大海を泳ぎ、

  我は我なりに大地を歩く」という坂村真民先生の言葉です。

  この言葉は社長のご自宅の部屋に、額に入れられ飾られていました。

  フッと胸のみならず身体全体に染み入ってくるのを感じ、

  身体のド真ん中がスッと力強く真っすぐになったのを感じました。



  どんなにすさまじい場所ではあっても、自分を見失わずに、

  自分に正直に為すべきことを為していけば、

  必ずや自分の居場所も役割も見えてくるのではないか。



  今その思いを再び感じています。

  予算の年度内成立のために衆議院予算委員会に陪席し、

  財務金融委員会に出席するという、今為すべきことを今日もしながら

  その言葉をかみしめています。



  そして今号が発行される頃には、

  平成28年度の予算案や必要な法案が無事に衆議院を通過している

  ことを祈りつつ・・・。



○人間が持ちあわせている想い|バスのなかで 坂村真民


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財政健全化への取組み
持続可能な財政の構築

財務省記者会見室


※麻生副総理兼財務大臣のコメント
 自民党支部会合 北海道小樽市 2016年6月17日



  (個人金融資産)1760兆円、現金で900兆円あります。

  そのお金がジーッと寝ているんだ。

  金は無い時は貯めるのが目的になるさ。

  しかしあったら、その金は使わなきゃ何の意味も無い。

  90になって老後が心配とか訳の分からないこと言ってる人がテレビに出たけれど、

  いつまで生きてるつもりだよと思いながらテレビ見てましたよ。




言葉尻を捉えるだけでなく、

その奥にある本質に目を向けることも大切なようです。



○財政健全化への取組み|失われた25年から学んだこと

○社会目的に貢献できない「無駄」とされる人々


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脱亜入欧を目指した象徴的存在
司法省庁舎

法務省旧本館


明治政府は,諸外国との条約改正に先立ち、近代国家としての体制を整えるため、

明治19年(1886年)に西洋式の建築による官庁集中計画(国会議事堂・司法省・

大審院)に着手しましたが、実際に建てられたのは、

司法省(赤れんが練)と大審院(後の最高裁判所)の建物だったそう。



赤れんが棟は、関東大震災ではほとんど被害を受けませんでしたが、

昭和20年の戦災によりれんが壁とれんが床を残して消失しました。

戦後改修され、法務省の本館として使用されてきたそうです。



※法務省 赤れんが棟物語より



○よこすか はじめて物語|近代化の礎を築いた横須賀製鉄所

○急激な近代化を遂げてきた日本|近代化の象徴 競馬

○近代日本とイスラームの関係|カメレオンのように態度を変えた日本


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司法権の象徴
最高裁判所



※権力の館を考える 第二章 三権の館 最高裁判所
  御厨貴 先生 放送大学客員教授



  司法行政棟、法廷棟、図書館棟、裁判官棟が完全に四ブロックに分かれ、

  とりわけ事務総局と裁判官室が隔絶され距離感がある。

  裁判官室は各階五室で三層にわたる。

  細い吹き抜け窓の廊下を通り、ドアをあけると秘書官室で、

  その奥に判事の執務室と応接室とがお濠に面して位置する。



  何という静寂さ、何という孤独感。



  専用車で専用エレベーターでめったに人に会わぬ廊下を通り抜け、

  昼食も一人でとっていたら、果たして裁判官は一日中何もしゃべらず

  仕事になるのではないか。



  十五人の判事は長官を除いては皇居の縁を眺めて思索にふけり、

  裁判にのみ専念する。確かにこの姿は三十年前の理想だった。



  相互交流がもう少し可能であってもいい。

  もっと国民に開く工夫はできないものか。

  裁判員のような堅苦しいものではなく、裁判のない日はシティホールのように

  誰もが来てもよい空間が欲しいと思う。それと同時に、大法廷で憲法裁判

  といった  司法のドラマが演じられるようになれば、

  最高裁には本当の意味でのライトアップ効果がもたらされることになろう。



○法をもっと身近に|縁遠いようでとても身近な法律に触れて


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皇室関係の国事事務を司る
宮内庁



宮内庁は、内閣総理大臣の管理の下にあって、皇室関係の国家事務を担い、

御璽(ぎょじ:天皇の印章)・国璽(こくじ:国家の表徴として押す印章)を保管して

いるそうです。



皇室関係の国家事務には、

天皇皇后両陛下を始め皇室の方々の宮中における行事や

国内外へのお出まし、諸外国との親善などのご活動や

ご日常のお世話のほか、皇室に伝わる文化の継承、

皇居や京都御所等の皇室関連施設の維持管理などがあるそうです。


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老齢化・保守化していった
枢密院

旧枢密院(すうみついん)庁舎 (現皇宮警察本部庁舎)


1888年(明治21年)に創設し、

戦後1947年(昭和22年)の日本国憲法施行に伴い廃止された枢密院。

最初の任務は帝国憲法の審議だったといいます。



  「枢密院は(帝国)憲法の規定により天皇の諮詢(しじゅん:参考として意見を聞く)

   に応へて重要の国務を審議する府なり」



枢密院顧問官に任じられた元日本銀行総裁・深井英五は、

枢密院についてこう述べていますが、実際は国民はおろか

帝国議会とも隔絶した、唯一天皇のみを補佐し責任を負う機関であったそう。



初代枢密院議長であった伊藤博文は通算四度も議長を重任し、山県有朋は三度、

山県に至っては1909年から亡くなる1922年まで足かけ14年その任につき、

終身官で占める枢密院はおのずと老齢化・保守化せざる得なかったといいます。


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旧陸軍の中枢があった
1号館

旧1号館の象徴的な部分を移設・復元した
市ヶ谷記念館(防衛省内)


防衛省庁舎A棟の場所にあった旧1号館(現 市ヶ谷記念館)。

A棟建設に伴い解体された1号館の象徴的な部分を移設し復元したそう。



太平洋戦争中は大本営陸軍部・陸軍省・参謀本部などが置かれた

旧陸軍の中枢だったといい、今も儀仗広場の下には地下壕が残っているそうです。



○平和と独立を守る防衛省|すべての国々、すべての方々に感謝の気持ちを


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権力の象徴
東京都庁



「本庁舎の本体ビルから左右に、環のような構造体が広場を馬蹄形に囲んでいる。

ヴァティカンのサンピエトロ聖堂前広場の記憶が浮かぶ。

広場を取り巻く回廊風の環状建築物の屋根に並んでいた聖人たちの彫像。

次第に庁舎ビルが宗教的な陰影を帯びてゴシック寺院の尖塔(せんとう)の

ように見え始め、広場を囲む回廊の上に聖像が立ち並んでいるような

知覚状態に陥る。」



※梯(きざはし)の立つ都市(まち) 冥府と永遠の花 日野啓三 集英社 2001




都民広場から天までとどけとばかりの双頭の鷲ならぬ、

双塔の都庁舎は「象徴性」そのものと言ってよい。



気軽に言うと、ウルトラマンのライバル・バルタン星人のような趣である。

とにかく都民広場に立って都庁舎を見上げるとき、圧倒されるこの感覚は、

シティホールではなく、まさに権力機構の館が放つ「象徴性」に由来する。



※権力の館を考える 第5章 地方の館 都庁舎
 放送大学客員教授 御厨貴 先生



○空高くそびえる摩天楼|超高層ビル群 西新宿

○カトリック教会の総本山 サン・ピエトロ大聖堂


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帝冠様式の建物
神奈川県庁舎



「キングの塔」の愛称で親しまれている神奈川県庁本庁舎。

日本趣味のある洋風建築で、昭和初期に流行した

「帝冠様式」建築の先駆けだそうです。



昭和3年(1928)に建てられ、知事が執務する現役の庁舎としては、

大阪府庁本館に次いで全国で2番目に古いものだそう。



○開放的で自由な街に、心地よい風が吹きぬける OPEN YOKOHAMA


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アール・デコ様式の建物と庭園
吉田茂と目黒公邸

東京都庭園美術館


2016年現在、東京都庭園美術館となっているこの場所は、

かつて朝香宮(あさかのみや)家の宮邸だったそうです。



宮家は天皇の一族にあたることから、

日本古来の建築を好むかと思うのは先入観のよう。



フランス、アール・デコを取り入れた建物は、

パリ文化に親しんだ朝香宮夫妻が1925年に開催された

アール・デコ博覧会を訪れたことがきっかけになっているといいます。



しかし、戦後すぐに朝香宮は窮状に陥り、見かねた昭和天皇の示唆もあったことから、

幣原(しではら)内閣外相時代の吉田茂が借り上げ、

その後、外相公邸・首相公邸の役割を担っていきます。



○アール・デコ様式を現在に伝える庭園美術館

○明日への架け橋|新しい芸術 アール・ヌーヴォーの時代

○ハーフティンバースタイルの赴きある洋風建築 旧華頂宮邸


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おじいちゃんの家に連れていかれるのは迷惑だった
麻生副総理

旧吉田茂邸に建つ吉田茂像 神奈川県大磯町


※産経新聞 2016年3月18日


  参院予算委員会で18日、民主党の白眞勲氏が平日に1日か2日、

  学校を休んで祖父母の元に行っても出席扱いするという、

  独特の世代間交流や少子化対策を提案した。

  「子供を祖父母に預ければ、夫婦水入らず。少子化対策にも役立つ」と述べた。

  これに対し、祖父に吉田茂元首相を持つ麻生太郎副総理兼財務相や

  祖父に岸信介元首相を持つ安倍晋三首相らが、それぞれの思いを語った。



  白氏は「子供は祖父母から人生の年輪を感じる。

  祖父母は、孫が来れば家の2階に上がったりして健康にいい。

  安倍首相も麻生副総理もおじいちゃんにかわいがられた」などと話し、

  自らの提案についての見解を閣僚に求めた。



  馳浩文部科学相は「私も娘を連れて田舎の実家に帰ると、

  本当に両親は喜んでくれる。ただ、欠席扱いしないことは、

  公平性の問題もあり難しい。小中学生の夏休みや連休、

  土日に交流を深めてくれたらいい」との認識を示した。



  一方、“真っ向から異論”を唱えたのが麻生氏。「私は両親をほとんど

  見たことがない。特殊環境で、じいさんばあさんにしか育てられていない。

  一般的な例に当てはまらないと思うが、土日に大磯に連れて行かれるのは

  はなはだ迷惑だった。休みじゃなかったときに連れていかれたら、

  ちょっと妥協したかな、というのが一瞬の感想だ」と振り返った。



  間に立った形の安倍首相は「麻生氏のような答えをしたくなるが、

  馳氏が答えたことが一理ある。甘い人が愛情を注ぐというのは、いわば、

  情操教育にとって必要だ。出席扱いするというのはなかなか難しいと思うが、

  それ以外の方法も何かあるのかなと思った」と引き取った。



○湘南発祥の地 大磯

○いにしえの相模の国へ|飛鳥時代に成立したといわれる国 (現神奈川県)


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美しい敷地と眺望が広がる洋館
佐藤栄作と鎌倉別邸

佐藤栄作元首相は、加賀藩前田家の別荘を間借りしたそうです
(現鎌倉文学館)


川端康成、夏目漱石、芥川龍之介、与謝野晶子など、

鎌倉ゆかりがある文学者の直筆原稿や手紙などを収集・展示している鎌倉文学館



元々は、明治中期に加賀前田家の別荘として建てられ、

1965年から75年の10年間は佐藤栄作元首相が別邸として一部分を借りたそうです。



※佐藤栄作日記 1965年2月28日

  正午すき鎌倉に別荘を見にでかける。所要時間1時間と廿分(20分)。

  も少しは早くなりそう。

  前田(利建)公の別邸で前田公と同居、約百七十坪をかりる事となる。

  長いルンペンもこれで終了。一寸(ちょっと)したもの。



とても楽しみにしている様子が伝わってきます。



佐藤栄作にとって鎌倉別邸は、師である吉田茂の大磯御殿をつなぐ場所でもあり、

1967年に吉田が亡くなるまで相互に訪問しあう仲だったそうです。



※佐藤寛子の宰相夫人秘録

  私(吉田茂)は弟子の家へはいっさい行ったことがありません。

  だが、この家(佐藤栄作の鎌倉別邸)が好きだから、来るんですよ。

  どうです、私の大磯の家ととりかえてもらえませんか。



○鎌倉文学館のバラ

○150年の歴史に幕を閉じた鎌倉幕府終焉の地

○晩秋の鎌倉|北鎌倉から大仏ハイキングコースを抜けて長谷へ


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加賀藩前田家の上屋敷
表御門

東京大学赤門


赤門の名で知られるこの門は、元加賀藩上屋敷の御住居表御門だったそうです。

1827年、加賀藩13代藩主前田斉泰(なりやす)が、

11代将軍徳川家斉(いえなり)の娘、

溶姫(やすひめ)を正室に迎えた際に建てられたとされます。



○より良い社会へ変えていく人たちを育てる|文教の府 文京区

○Life in Green 緑の命を未来へつなごう|「時」を知りに小石川植物園へ


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イギリス・チューダー様式を取り入れた
前田家の旧本邸

東京大学(本郷キャンパス)拡張により駒場へ移転


明治17年、華族令発布により、前田家は侯爵の爵位を授与されて、

百万石大名の威信を保ったが、

隣接して建てられた東京帝国大学の敷地拡張のため、

本郷の地も駒場の東京帝国大学農学部実習地4万坪と交換されることになった。



こうして、はからずも加賀百万石大名の子孫の屋敷が、

目黒は駒場の地に出現することとなった。



※歴史を訪ねて 旧前田家本邸 目黒区より



○加賀百万石の城下町 金沢

○共に居ること、創ること|周囲から影響を受け、影響を与えてきたイギリス


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伊藤博文の別邸
小田原滄浪閣

滄浪閣跡の碑 (神奈川県小田原市)


初代内閣総理大臣や初代枢密院議長などの要職を務めた伊藤博文。



大日本帝国憲法の草案が一段落した1889年(明治22年)に、

父・十蔵の隠居地として小田原に居宅を建設し、自身も枢密院議長

辞任の意志を表明して小田原への永住を決めていたといわれます。



○城下町・宿場町として栄えた小田原

○伊藤博文の本邸となった大磯滄浪閣

○明治時代の海浜別荘地|旧伊藤博文金沢別邸


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福岡藩主 黒田家の別邸
清閑亭

黒田長成の「清閑亭」 (神奈川県小田原市)


神奈川県の西部に位置し、戦国時代は後北条の城下町として、

江戸時代は東海道の宿場町として栄えた小田原。



明治期になると小田原城跡に御用邸が設けられたことや、

伊藤博文が別邸滄浪閣を建設したことが契機となり、

北条氏や豊臣秀吉が築いた石垣山一夜城に想いを馳せる

政財界人・文人の邸園が数多く開かれたそうです。

その一つとして黒田長成の「清閑亭」が今も残されています。



黒田長成は、筑前福岡藩主の長男として1867年に生まれ、

明治維新後は宮内省の式部官、貴族院議員を経て、

1894年から約30年間にわたり貴族院副議長を務めたといいます。

1924年に枢密顧問官に任じられると、

以後、終生その官に身を置き1939年に亡くなったとされます。



清閑亭は、旧小田原城三の丸外郭土塁の傾斜地に建てられ、

そこからは箱根の山々や一夜城、相模湾を望む景色が広がります。



長成がこの地を選んだ理由は、小田原に御用邸があったこと、

枢密院議長を務めた伊藤博文や山県有朋の別邸があったことが

影響していると考えられます。

また、長成は豊臣秀吉に仕える軍師であった黒田官兵衛の子孫にあたることから、

一夜城を望むこの地は祖先に想いを馳せる場所であったように思えます。



当時、清閑亭の隣には閑院宮別邸が設けられ、

宮家と黒田家は交流を深めたと伝えられます。

近隣には日本の電力事業に貢献した松永安左ヱ門や

日銀総裁であった結城豊太郎などの邸宅があり、

月に一度清閑亭を訪れ「閑話会」が催されていたそう。


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日本と西洋の街並み比較
建築からみる日本人の自我主張

街並みが統一されたドゥブロヴニク(世界遺産) クロアチア


日本古来の建築美を活かして造られた宮殿(皇居内)、

大日本帝国の権威を象徴した国会議事堂、

脱亜入欧を目指して建築された旧司法省庁舎、

アール・デコ様式を取り入れた目黒公邸(東京都美術館)、

イギリス・チューダー様式を取り入れた旧前田家本邸(目黒区立駒場公園)、

日本趣味のある洋風建築、神奈川県庁舎。



日本は西洋の建築を取り入れつつも、古来の建築美を融合し、

日本のアイデンティティを主張してきたかのよう。




※権力の館を考える 第10章 関西の館1 社会と建築、政治と建築
  国際日本文化研究センター教授 井上章一 先生



  日本の社会科学は、しばしば日本人の自我が弱いことを論じてきた。

  日本では、近代的な自我が、ヨーロッパのようには育たない。

  おかげで、日本人は自己の主体性が発揮できず、まわりの気配に流されやすくなる。

  空気を読むことが、民族的な性になってきた、というように。



  しかし、ヨーロッパの都市や住宅地を眺めていると、まったく違う構図も浮かんでくる。

  そこでは、ひとつひとつの建築や住居が、街並みのなかに溶け込まされている。

  まわりの街並みに合わせるようにもとめられる、その抑制は日本よりずっと強い。

  一方、日本には、地権者と建築家の主体性をたがいに敬う社会ができている。



  来日するヨーロッパの建築家たちは、口をそろえて言う。

  日本には表現の自由がある。だが自分たちの社会は、それを認めてこなかった、と。

  もちろん、日本社会の許した自由を、手放しで誉めたい訳ではない。

  それが街並みを乱していることは、私もにがにがしく思っている。

  しかし、あちらのほうが集団主義的であることも、またまちがいない。



  街並みの比較は、日本の住宅や建築のほうが、自己主張の強いことを、示している。

  自我が弱いという日本人論を唱えたいのなら、そのことも帳尻を合わせるべきであろう。



○日本人の音楽的アイデンティティ|新たな響きが奏でる未来

○みんなで創る美ら島|大切にしてきた「うちなー」のアイデンティティ

○カムイありて我あり、我ありててカムイあり|アイヌの人たちとともに

○地中海の風に誘われて宝石のような街並みへ


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日本の行政には無駄が多い?
世界と比較して公務員数が圧倒的に少ない日本

経済産業省別館 中小企業庁


「日本の行政には無駄が多い」。

このようなイメージは、昔から多くの人々に共有されてきました。

市場競争に晒されず、特権的な地位を享受する公務員が、

自分たちの予算や人員を増やすのに明け暮れ、

民間では考えられないような無駄遣いを続けた結果、

日本の財政はますます悪化し、社会の活力を殺している。

そんなメッセージを発する政治家や評論家の発言がテレビや新聞を

通じて皆さんの耳に入るととことも、決して珍しくないと思います。



しかし、実際にデータを見てみると、日本の官僚制の規模は、

他の先進国に比べて極めて小さいことが分かります。

特に、人口に占める公務員の数は、日本と比較対象となることの多い

欧米諸国に比べて、圧倒的に少ないのが現実です。

※アメリカの約1/2、イギリスの約1/3、そして韓国よりも少ない規模
 OECD 図表でみる世界の行政改革 労働力人口に占める公務員の割合(2005)



その意味で、世間で信じられているような日本の官僚制の権力や、

その結果として生じる無駄は、その組織の規模には反映されていないのです。



それでは、このような公務員数が少ないということが、

日本の行政の効率の良さを示しているのかというと、そうとも言えません。

公務員数が少ないということは、他の国に比べて中央省庁や地方自治体の

職員が何倍も働いているということではなく、民間企業やNPO、あるいは

外郭団体などを通じて、公共サービスが間接的に提供されていることを

意味するに過ぎないからです。



日本は、「市民を雇わない国家」なのです。

むしろ、他の国では多くの女性に働き口を提供してきた公共部門の雇用の規模が

抑制されたことで、日本の女性の社会進出が遅れたという側面もあります。



このような時代が生じた理由を知るためには、

歴史を遡って他の国々と日本を比較する必要があります。

国家が市民を公務員として大規模に雇い始めたのは、

早い国でも19世紀の後半からに過ぎません。

つまり、それ以降のどこかで、他の国は公務員の数が多くなり、

日本は公務員の数が少なくなったのです。

むしろ、第二次世界大戦以前、日本は経済発展の水準の割には

公務員数の多い国でした。



ところが、戦後の高度成長期になったあたりで、日本はほとんど公務員数を

増やさなくなったのです。これまで、日本の公務員数の増加が止まった

時期としては、他の先進国が新自由主義的改革に乗り出した1980年代の

行政改革の影響が強調されてきましたが、実はこの時期には既に日本は

先進国でも最も公務員の少ない国になっていました。



つまり、それよりもかなり早い段階で、日本は行政改革に乗り出していたのです。

それでは、日本が他の国々よりも早くから行政改革を開始した理由は何なのでしょうか。

この問題に対する答えは、意外なところにあります。

それは公務員の給与制度です。

日本の公務員制度の下では、他の多くの国々のように労使の団体交渉で

公務員の給与が決まるのではなく、人事院による勧告に基づいて給与が

設定されています。



つまり、政府がその時の財政的な都合で公務員の給与を削減しにくい

仕組みになっているのです。そのため、高度経済成長によって民間部門

の賃金の水準が急速に上昇し、それに連動して人事院が大幅な公務員の

給与の引き上げを行うようになると、財政の硬直化を避けたい政府としては、

定員を抑えることで人件費の膨張に対応するしかなかったのです。



こうした高度成長期の改革は、政治家のリーダーシップによってではなく、

公務員制度のもたらす制約に対応するために始まったため、

その経緯はこれまで忘れられていました。

しかし、行政改革において公務員数を抑制する傾向は、

今日まで絶えることなく続いてきたのです。



現在の日本において、これ以上公務員数を削ることで市民が得られるものは、

決して多くはありません。それでも行政を改革するべきだというのであれば、

何か別の方法を考える時に来ているのではないでしょうか。



※第123回(平成28年春季)東京大学公開講座 2016.06
 行政と無駄 前田 健太郎 先生 法学政治学研究科 准教授
※市民を雇わない国家: 日本が公務員の少ない国へと至った道
 前田健太郎 東京大学出版会 2014



○財政健全化への取組み|失われた25年から学んだこと

○社会目的に貢献できない「無駄」とされる人々

○東京散策|晴れの日は散歩 街で見つけた小さな発見


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参  考  情  報


○宮内庁

○衆議院トップページ

○参議院

○旧首相官邸バーチャルツアー|首相官邸ホームページ

○新首相官邸バーチャルツアー | 首相官邸ホームページ

○財務省広報誌 「ファイナンス」 : 財務省

○法務省:法務省だより あかれんが

○裁判所トップページ

○法令データ提供システム|電子政府の総合窓口e-Gov イーガブ

○日本国憲法を口語訳したものが面白くて分かりやすい - NAVER まとめ

○東京都庭園美術館|TOKYO METROPOLITAN TEIEN ART MUSEUM

○鎌倉文学館

○歴史を訪ねて 旧前田家本邸 目黒区

○大磯城山公園 公式サイト -

○東山旧岸邸【公式サイト】

○国際日本文化研究センター|日本文化に関する国際的・学際的な総合研究所

○RCAST | 東京大学 先端科学技術研究センター

○T M L | 御厨貴研究室

○レストランモア

○THE POWER SNAP 1990 YouTube
 1990年に大ヒットとしたダンス・ミュージック「The Power」。
 日本はバブル経済真っ只中。
 「I get the power!」と叫ぶ歌詞はインパクト抜群でした。

○フリー百科辞典Wikipedia

○天皇陛下傘寿記念 宮殿特別参観 宮内庁 2015.10
 ・皇居 桔梗門より入門、窓明館
 ・宮殿
  北車寄、北溜
  石橋の間
  春秋の間
  豊明殿
  正殿 梅の間
  正殿 松の間
  正殿 竹の間
  回廊
  南溜、南車寄
 ・東庭
 ・中門、鉄橋

○さかい学 財務副大臣との意見交換会 財務省 2016.06
 ・訪問先
  ・財務省 さかい学副大臣室
  ・衆議院第二議院会館
  ・国会議事堂
   ・衆議院議場
   ・衆議院議長応接室
   ・衆議院第一委員会室
   ・議員食堂
 ・主催 (公社)戸塚法人会青年部 6月移動例会・ビジネス研修会

○社会保障と税の一体改革に向けて 2016.03
 ・講師 川瀬透 先生 財務省 関東財務局総務部長
 ・会場 神奈川県民センター
 ・主催 神奈川県政モニターOB会

○地域企業の活性化に向けて〜金融行政の展開〜 2016.04
 ・講師 川瀬透 先生 財務省 関東財務局 総務部長
 ・会場 横浜シンポジア
 ・横浜商工会議所 青年交流会 通常総会・ビジネスセミナー・交流会

○これからの日本のために財政を考える 財務省 平成28年2月

○法の日フェスタ 2011.10
 ・法務省・最高検察庁
 ・最高裁判所
 ・弁護士会館
  日本弁護士連合会会長 宇都宮健二氏
  作家 宮部みゆき氏

○権力の館を考える('16) 放送大学客員教授 御厨 貴 先生

○権力の館を歩く 御厨貴 ちくま文庫

○知の格闘: 掟破りの政治学講義 御厨貴 ちくま新書 2014

○安倍内閣はどこまでやれるか! 〜官高党低の貫き方〜 2014.07
 ・講師 御厨 貴 先生 放送大学教授・政治学者
 ・会場 横浜シンポジア
 ・主催 横浜商工会議所 金融部会講演会

○第123回(平成28年春季)東京大学公開講座 2016.06
 行政と無駄 前田 健太郎 先生 法学政治学研究科 准教授

○市民を雇わない国家: 日本が公務員の少ない国へと至った道
 前田健太郎 東京大学出版会 2014

○THE POWER SNAP 1990



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