平安で平等な社会を築く意志
世界に広がるイスラーム

共存に向けて橋を渡し、お互いを知る


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平安で平等な社会を築く意志
世界に広がるイスラーム

大巡礼 ハッジ(Hajj)
イスラームの聖地 カーバ神殿(Kaaba Temple) メッカ


7世紀の初め、アラビア半島のメッカ(マッカ:Makkah、現サウジアラビア)

に誕生したという「イスラーム」。



イスラームはアラビア語で「唯一の神アッラーに絶対的に服従すること」を意味し、

その信者はムスリム(Muslim)と呼ばれます。



「服従」というと窮屈な印象がありますが、人間一人一人が神の教えに従うことで、

平安で平等な社会を築いていこうという意志の表明であるそう。



2008年現在、世界のムスリム人口は16億人ともいわれ、

世界人口67億人の1/4近くを占めているそうです。



ムスリムの住む地域は、アラビア半島を中心に中東と呼ばれる地域から、

アフリカ、中央アジア、東南アジアに広がり、

中国では新疆(しんきょう)のウイグル人、回族などのムスリムが2000万人いるといわれ、

フランス、ドイツ、オランダ、イギリス、米国などには数百万単位で住んでいるそうです。



○カムイ(神々)ありて我あり、我ありててカムイあり|釧網線の旅


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イスラム教の大巡礼「ハッジ」、世界中の信者がメッカに

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最大のムスリム国
インドネシア

インドネシアの首都 ジャカルタ
The capital city of Indonesia Jakarta


赤道直下にあり熱帯雨林気候に属するインドネシア。

一国で最大のムスリム人口2億人を有するそうです。


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第二のムスリム国
パキスタン

カラチ(Karachi) パキスタン


インドとイラン、アフガニスタン、

中国に挟まれたインダス川の流域にあるパキスタン。



およそ1億8000万人のムスリムが、

日本の2倍近くある国土に暮らしているそうです。


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Education First
マララ・ユスフザイ

パキスタン出身 2014年ノーベル平和賞受賞


2007年、パキスタンはTPP(武装勢力パキスタン・ターリバーン運動)によって

統治権を奪われたそう。



TPPは女性の教育・就労権を認めず、多くの女子学校を爆破したといい、

当時11歳(2009年)だったマララは、英BBC放送のブログにタリバーンの

強権支配と女性の人権抑圧を告発する「パキスタン女子学生の日記」を投稿。



その影響からTPPに狙われる立場になったマララは、2012年、

スクールバスで下校途中、武装集団に銃撃されます。



  I had really two options.

  One was not to speak and wait to be killed.

  And the second one was to speak up and then be killed.

  And I chose the second one,


  私には二つの選択肢がありました。

  一つは黙って殺されるのを待つこと。

  二つ目は声を上げ、そして殺されることです。

  私は後者を選びました。声を上げようと決めたのです。



※マララ・ユスフザイ ノーベル平和賞授賞式 スピーチ 2014年12月10日 より





  One child, one teacher, one pen and one book can change the world.

  Education is the only solution.

  Education First.


  1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。

  教育こそがただ一つの解決策です。

  エデュケーション・ファースト(教育を第一に)。



※マララ・ユスフザイ 国連本部スピーチ 2013年7月12日 より



○力を入れずして天地を動かすコミュニケーションの力

○より良い社会へ変えていく人たちを育てる 文教の府 文京区


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マララ・ユスフザイ 国連での名演説(日本語字幕付)
Malala Yousafzai's Speech at the UN

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公共での宗教活動を禁止した
フランス

The Grande Mosquee in Paris


1989年、パリ郊外の中学校で起こった、いわゆる「スカーフ事件」。

フランス生まれのモロッコ系ムスリムの女生徒たちが、

教室でスカーフを外すことを拒否したことで退学処分となり、

大きな論争を巻き起こしたといいます。



その後、公共の場ではスカーフなど宗教的なものを身に着けたり、

礼拝・巡礼など宗教的行動を行うことは禁止になったそうです。


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イスラームとキリスト教の融合
アンダルス

コルドバのメスキータ(聖マリア大聖堂) 世界遺産


スペインの都市コルドバにある大聖堂、メスキータ(Mezquita)。

イスラームである後ウマイヤ朝(756-1031年)を創始した

アブド・アッラフマーン1世によって建設されたといいます。



イスラーム政権支配下にあるイベリア半島は、

アラビア語で「アンダルス(Al-Andalus)」と呼ばれ、

その支配領域は後ウマイヤ朝時代に最大になったといいますが、

キリスト教諸国によるレコンキスタ(Reconquista:再征服)によって

徐々に狭まっていったそう。



イベリア半島、最後のイスラーム政権であるナスル朝(1232-1492年)

の首都グラナダ周辺は、今でもアンダルシア地方と呼ばれ、

その名残を留めているそうです。



○イスラム王国の城 アルハンブラ宮殿


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イスラームと中国の融合
回族

回族の街


秦、漢から隋、唐などの首都であった中国・西安(長安)にある

約500m程度の通り「北院門街」。



中国の少数民族の一つで、中国最大のムスリムである

回族(かいぞく、ホウェイ族あるいはフェイ族)のストリートだそう。



通りには、回族の人たちの飲食店が集まっており、

朝から晩まで賑わっているそうです。



○ローマから続くシルクロードの中継点 西安

○中国最大の経済圏 上海

○SO HAPPY 大連|北方の良港と呼ばれる港街


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イスラームと日本の融合
東京ジャーミイ

東京ジャーミイ(Tokyo Camii) 東京都渋谷区大山町


代々木上原にあるモスク「東京ジャーミイ」。

2000年に建て替えられたという建物は、

オスマン朝古典期(1501-1703)の様式を再現しているそうです。



○東京散策 晴れの日は散歩

○未来を創るつながりのはじまり|臨海副都心

○東京湾・京浜運河シーカヤック・ツーリング|大田・品川ノスタルジア


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日本最大のモスク「東京ジャーミイ」 | nippon.com

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天使ジブリールから啓示を受ける
預言者ムハンマド

14世紀,エディンバラ大学所蔵『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画


メッカの有力部族クライシュ族のハーシム家に生まれたというムハンマド。



西暦610年頃、ムハンマド40歳のころに天使ジブリール(ガブリエル)の声を聞き、

多神教の崇拝をやめ、唯一神アッラーの教えに従って生きることを呼びかけたそう。



しかし、メッカの住民の多くは、先祖伝来のカーバに祀られている

神々を信じており、ムハンマドを非難したといわれます。



○こんにちは マリア 聖なる夜に捧ぐ三大アヴェ・マリア

○イングランドとの戦いの歴史を刻んできたスコットランドの首都 エディンバラ


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イスラーム国家の成立
預言者の町 メディナ

イスラーム第二の聖地


メッカの人々の非難にあったムハンマドはメディナに移住し、

ひとつの集団(ウンマ)を形成してゆき、イスラーム国家が誕生します。



その後、メッカ軍との3回の戦いを交え、630年、メッカに凱旋します。


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多神教から一神教に改めた
カーバ

イスラームの聖地 カーバ神殿(Kaaba Temple) メッカ


メッカは、イスラーム以前からの聖地であり、アラビア半島を縦断する

隊商(たいしょう:キャラバン)交易の中継地として1万人のアラブが住み、

賑わっていたといいます。



ムハンマドは複数の神々を祀っていたカーバの偶像を破壊し、

唯一の神アッラーからムハンマドにくだった啓示は、

コーラン(クルアーン)としてまとめられます。



コーランとは、読誦すべきもの(どくじゅ:声をだして経文を読むこと)を意味し、

全人類にむけて神から下った教えであり、

神自身が一人称で語りかけるイスラームの根本経典だそう。



全114章あり、第1章「開扉の章」にイスラームの教義が凝縮されているといいます。



  開扉―メッカ啓示,全七節―慈愛ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において… 


  讃えあれ,アッラー,万世(よろずよ)の主,

  慈愛ふかく慈愛あまねき御神(おんかみ),

  審きの日の主宰者。

  汝をこそ我らはあがめまつる,汝にこそ救いを求めまつる。

  願わくば我らを導いて正しき道を辿らしめ給え,

  汝の御怒りを蒙る人々や,踏みまよう人々の道ではなく,

  汝の嘉(よみ)し給う人々の道を歩ましめ給え。



※コーラン 井筒俊彦(訳) 岩波現代文庫



○唯一絶対神ではなく、様々な神が存在するゾロアスター教

○日本人の神々を祀る伊勢神宮


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3つの一神教の聖地
エルサレム

岩のドーム イスラーム第三の聖地 エルサレム


イスラームは、ユダヤ教やキリスト教と同じく、唯一の神を信じる一神教であり、

コーランには旧約・新約聖書の物語やモーセやイエスも預言者として

登場するといいます。



唯一の神から啓示を受けた、

モーセという使徒を通じて伝わったのが旧約聖書であり、

それを信じた人々がユダヤ教徒、

イエスという使徒を通じて伝わったのが福音書(新約聖書)であり、

それを信じた人々がキリスト教徒、

ムハンマドという使徒を通じて伝わったのがコーランであり、

これを信じた人々がムスリムということになるそうです。



イスラームにとってのエルサレムは、預言者ムハンマドが

メッカから空をかける馬に乗って遠隔の礼拝堂を旅し、はしごを昇って天にあがり、

神から礼拝を行うことを命じられたと伝えられる聖地だそうです。


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ムスリム信者に課せられている5つの義務
五行

Prayer in Cairo(1865)  - Jean-Leon Gerome


ムスリム信者に課せられている5つの義務、五行。



一つ目はムスリムになるときに唱える「信仰告白(シャハーダ)」で、

「アッラーの他に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒である」と

アラビア語で唱えるそう。



「信仰告白」以外に、1日5回お祈りをする「礼拝(サラー)」、

裕福なものが困窮者に施す「喜捨(ザカート)」、

ラマダーン月の日中、飲食や性行為を避ける「断食(サウム)」、

カーバ神殿に集まる「巡礼(ハッジ)」が課せられているといいます。


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相対的な存在である
カリフ

最後のカリフ(最高権威者)といわれるアブデュルメジト2世
1868年-1944年


イスラーム国家の最高権威者の称号である「カリフ(Caliph)」。

もともとは「代理」という意味だそう。



ムハンマドが死去すると、クライシュ族のアブー・バルク(573-634年)が

信者から忠誠の誓い(バイア)を受け、最初のカリフに選任されます。

アブー・バルクはカリフに選ばれると次のように演説したといいます。



   「みなさん、私はあなたたちに指導権を託された。

   あなたたちのなかで最良のものではないのに。

   だから、私がよいことをしたら協力し、悪いことをしたら正して欲しい。」



   「…私が神とその使徒に従っているかぎり、私に従いなさい。

   私が神とその使徒に背いたなら、私に従う必要はない。」



※預言者ムハンマド伝 イブン・イスハーク, 後藤明 ほか(訳), 岩波書店




カリフは、ムハンマドのような宗教的権威をもった絶対的な存在ではなかったそう。


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異教徒に対する
生命・財産・信仰の保障

ポルトガル語で「イスラムは平和」と書かれた落書き


ムスリムの日常挨拶である「アッサラームアライクム」は、

「あなたのうえに神の平和がありますように」という意味だそう。



ムハンマドの死後に反旗を翻したアラビア半島の世界の国々に対して、

アブー・バルク以降のカリフは、武力による征服を進めますが、その一方、

降伏する場合は和平を結び、異教徒でも生命・財産・信仰を保障したといいます。


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合理化・形式化に対する思想的自由を求める
スーフィ

ダルヴィーシュ(darvish)
イスラム神秘主義(スーフィー)の修道僧


預言者ムハンマドの死後に始まった大征服は、

イスラーム教徒の上層部に莫大な富をもたらしたといいます。



さらに、ウマイヤ朝の王朝的支配が始まり、ウマイヤ家一門が

富と権力を独占するようになると、ウマイヤ朝に対する反感も手伝って、

慎ましい生活態度や控えめな欲望がムスリムの美徳となってゆきます。



その中から特に反権威的な感情が強く、イスラームの思想と

学問との形成に先駆的な役割を果たしたスフィーが誕生します。



スフィーは、羊毛(スーフ)の粗末な服を身につけていたらことから

このように呼ばれ、後にイスラーム神秘主義者を意味する言葉になったそう。




一方、政治的には8世紀末にはウマイヤ朝が滅び、アッバース朝が成立。

その頃、イスラームではさまざまな宗派・学派が分裂して争っていましたが、

しだいに神学的・法学的統一への気運が高まり、

誰が支配者になろうとも、支配の正当性をイスラーム法に基づかせようとする

スンナ派(正統派)国家体制を目指して、

イスラームの教義・思想の整備・体系化がなされてゆきます。



しかし、こうした教義・思想の整備・体系化は、反面では、

教義・思想の合理化・形式化という側面をもち、

規則を守ること自体が正しいムスリムということになり、

これに従わない教義・思想は排除されることになります。



スーフィズムとは、禁欲主義者の社会的潮流を背景にして、

イスラームの合理化・形式化に対する思想的自由を求める

運動として生まれたのだそう。



○人間は創造的に生きよ|キリスト教的価値観を根底から覆そうとしたニーチェ

○破壊と再生 日本型うつ病社会に別れを告げて

○安全で安心して暮らせる地域社会の実現|神奈川県警察の取り組み


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神学の限界
理性を超えた世界を認める

スンナ派イスラーム神学を再建した学者ガザーリー
1058-1111年


政治権力者は、スンナ派国家体制の維持をするために、言い換えれば、

既存のイデオロギーのうえに築かれた自らの権威・権力を守るために、

スーフィー(イスラーム神秘主義者)の弾圧を行ったといいます。



そのような中、イスラーム神秘主義を極めた学者ガザーリー(1058-1111年)は、

神学(スンナ派国家体制)の限界をわきまえ、

スンナ派イスラームのなかに神秘主義思想を正しく位置づけ、

政治権力者とスーフィーとの対立の克服に大きな貢献をしたといわれます。



ガザーリーの思想をあえて単純化すると以下のようになるそう。


  「イスラームの信仰の世界は、

  理性で理解できる範囲と理性では理解できない範囲からなるが、

  神学や哲学は、理性による理解や伝統的権威による解釈に限られていて、

  理性の向こう側にある世界をとらえられていない。

  神の啓示(イスラーム)を信じることは、理性のとらえる範囲をこえた存在を

  認めることであり、それが可能なのはイスラーム神秘主義である。」



○「無意識」の領域を扱った「精神分析」の創始者フロイト

○ロンドン郊外ハムステッドにあるフロイトの終の棲家


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イスラームが世界に広まった原動力
スーフィー教団

スーフィ教団の一つ メブラーナ教(トルコ・コンヤ)
音楽を聞きながらくるくる舞い、忘我の境地に達する儀式 セマー


ガザーリーがスンナ派信仰のなかに、スーフィーの修業と体験を正しく

位置づけたことにより、政治権力者によるスーフィーに対する非難は止み、

スーフィズムは組織的な教団へと発展してゆくことになります。



現在、世界中に16億人とも言われるムスリム人口の広がりは、

スーフィー教団によるところが大きいのだそうです。



○命から生まれた嘆き・希望・美しさ|世界の民族音楽


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トルコ 世界遺産・メブラーナ教の舞  聖地-コンヤの貴重な映像

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言葉によって教えることのできない教え
世尊拈花

スノードロップ


スーフィズムから、ふと思い出したのですが、

中国宋代の禅僧・無門慧開(むもんえかい, 1183-1260年)が

まとめたとされる48の公案集「無門関(むもんかん)」に

以下のような教えがあったので一部引用します。



※「無門関」を読む ひろ さちや 四季社  第六則 世尊拈花(せそんねんげ)
※平成23年 第76回円覚寺夏期講座 無門関 横田南嶺 管長


  「世尊、昔、在靈山會上拈花示衆。

  是時、衆皆默然。

  惟迦葉尊者破顔微笑。

  世尊云、吾有正法眼藏、涅槃妙心、実相無相、微妙法門、

  不立文字、教外別伝、

  付囑摩訶迦葉。」




  世尊、昔、霊山会上(りょうぜんえじょう)に在(あ)って、花を拈(ねん)じて衆に示す。

  是の時、衆皆な黙然たり。

  惟(た)だ迦葉(かしょう)尊者のみ、破顔微笑(はがんみしょう)す。

  世尊伝く、吾に正法眼藏、涅槃妙心(ねはんみょうしん)、実相無相、微妙の法門あり。

  不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)、

  摩訶迦葉(まかかしょう)に附嘱(ふしょく)す。





  釈迦世尊(お釈迦様)が昔、霊鷲山で説法されたとき、

  一輪の花を手に持って人々に示された。

  人々はみな黙っているだけであったが、

  ただ摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)だけは顔を崩してにっこりと笑った。

  そこで世尊が言われた、正しい仏法を読み取ることのできる智慧の眼(まなこ)を

  おさめた蔵があり、それは妙(たえ)なる涅槃(ねはん)の境地に導く教えであり、

  存在と無の両面にわたる教えであり、不思議の法門である。

  摩訶迦葉よ、これらをそなたに託すから、言葉や文字によらずに、

  経典の教えの外で後世に伝えてもらいたい。




一同がお釈迦様の振る舞いに唖然としている中、

迦葉尊者だけは「言葉では教えることのできない教え」があることに気がついたようです。



○目を覚ましているか|無門関 第十二則 巌喚主人(がんかんしゅじん)

○小さな想いを秘めるスミレ


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奴隷身分から統治者になることができた
マムルーク



13世紀から16世紀にかけて、カイロを首都とし、

エジプトからシリア・ヒジャーズまで支配したというマムルーク朝。



マムルークは、アラビア語で「所有されたもの」を意味し、

「奴隷身分出身の軍人」を指す言葉だそう。



奴隷商人を通じて中央アジアなどから購入した15歳未満の少年たちは、

コーランやアラビア語、イスラームについて学び、

弓や槍などの訓練を受けたそうです。



マムルークは修行を終えると、主人である君主から卒業と奴隷身分からの

解放を示す証明書、武具や馬が授与され、

兵士となったマムルークは働きぶりによって軍団長や総督などの行政職、

中央政府の大臣、スルタン(統治者)にまで出世することができたといいます。



他地域の歴史と比較してみると、奴隷は総じて虐(しいた)げられる存在であり、

奴隷を兵力の主軸におくことはなかったそう。


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交流するイスラーム世界
十字軍遠征

 十字軍のコンスタンティノープルへの入城
ウジェーヌ・ドラクロワ、1840年


1095年、クレルモン(フランス)で開かれた宗教会議において、

教皇ウルバヌス2世は、エルサレムへの十字軍遠征を呼びかけたそう。



日夜、戦乱の炎が燃え上がる一方で、

ヨーロッパとイスラームとの交易が始まり、文化面でも大きな影響を受けたといいます。


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他国の伝統を引き継ぎつつ
自国の風土に合わせたムガル朝

タージ・マハル 世界遺産


北インドに成立したムガル朝(16世紀〜18世紀後半)は、

インド在地の人々に加えて、西アジアや中央アジアから人的資源を調達し、

多民族からなる帝国であったといいます。



ムガル王朝を象徴するタージ・マハルは、第5代君主シャー・ジャハーン

(在位1628-58年)がイラン系の妃のために建てた墓廟(ぼびょう)だそうです。



タージ・マハルは、イランや中央アジアの伝統を引き継ぎつつも、

インドという風土にあわせてきたムガル王朝の性格を表しているといいます。



○新たな絆から夢が膨らむグローバル人材

○個性を出し合いともに暮らせる街 いちょう団地


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植民地化とナショナリズム
西洋列強の植民地となったイスラーム国家

エジプト革命 1919年


近代から20世紀初頭まで、西欧列強により植民地化されたイスラーム国家。



帝国主義諸国による植民地をめぐる利害対立は深まり、1914年、

サラエヴォでのオーストリア皇太子の暗殺をきっかけに

英・仏・露・日など協商側と独・墺(オウ:オーストリア)・オスマン帝国など

同盟側による第一次世界大戦が始まります。



イギリスは、オスマン帝国に対する戦況を有利にするため、

カイロ駐在のマクマホンを通じてメッカのシャリーフ=フサインと書簡を交わし、

オスマン帝国に対する参戦を呼びかけ、アラブの独立を認め、

それを支援する用意があることを約束します(フサイン=マクマホン書簡)。



フサインは、オスマン帝国に対してアラブの独立を宣言し、英軍と連携しますが、

英仏露は、事前に戦後の勢力圏を決めたサイクス=ピコ協定を秘密裏に結んでおり、

シリア・レバノンはフランス、イラクとヨルダンはイギリス、パレスティナは国際管理と

定めていたことが暴露されます。



アラブ側からは大きな批判が起きたにも関わらず、

戦後は協定に沿った領土分割が承認されます。



大戦に勝利したイギリスはオスマン帝国からエジプトを分離して保護国とし、

エジプト独立を要求するリーダーを国外追放にしたことから、

各地で抗議行動が頻発。



その後、イギリスは一方的にエジプトの独立を宣言します。



○共に居ること、創ること|影響を受け、影響を与えてきたイギリス


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オリーブと自由の戦士の銃
パレスティナ問題

パレスチナ自治区及びヨルダン川西岸地区の事実上の首都
ラマッラー


1974年、国連総会にて演説したパレスチナ解放機構(PLO)議長

ヤーセル・アルファートは、パレスチナ紛争の原因と経過、

パレスチナ人の現状を説明し、パレスチナ人の民族自決権と

PLOの正統性を強調したうえで、

「キリスト教徒もユダヤ教徒も、イスラム教徒も、正義と平等、

兄弟愛と進歩のなかで共に生活する民主的国家」を建設しようと訴えたそう。



そして、「今日、私はオリーブの枝と自由の戦士の銃をもって来ました。

どうかオリーブの枝を私の手から落とさせないでください。

繰り返します。オリーブの枝を私の手から落とさせないでください。

戦火はパレスチナの地に燃え上がります。しかし、平和が生まれるのもパレスチナです」

と訴えます。




1897年、スイスのバーゼルで開催されたシオニスト会議において、

「ユダヤ人のためにパレスティナに公法により保証された一つの郷土を創設すること」

の決議に始まるというパレスティナ問題。



背景には、ヨーロッパのアラブ世界に対する無知と思い込み、

外交政策の矛盾があったといい、

パレスティナ問題を引き起こした原因はヨーロッパにあり、

決してアラブとユダヤの宿命の対決ではないといいます。



○アメリカ国章に掲げられる 平和の象徴「オリーブ」と戦争の象徴「矢)」


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国境分割によって分断された
クルド人問題

Kurdish boys in Diyarbakir
(トルコの都市Diyarbakirに住むクルド人)


クルド人は、クルド語を母語とするムスリムを指し、現在の国では

トルコ・イラク・イラン・シリアに住み、推定2500〜3000万人いるといいます。



17世紀のオスマン帝国とサファヴィー朝の国境分割によって居住地が分断され、

第一次世界大戦後に独立を主張しますが、旧オスマン帝国領のクルド居住地域

はトルコ共和国とイラク王国とシリアに分断されます。



新生国家のトルコ、イラク、イランでは、それぞれ国民国家としての統合を進めた結果、

クルドは少数派となり、母語であるクルド語による教育や出版が制限されます。



クルド人はこのような同化や差別に対する抵抗運動や

独立や自治を求める反政府運動を展開してきています。



○衰退したアイデンティティを取り戻す チェコ民族復興運動

○韓国と北朝鮮に分断された非武装地帯(DMZ)


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ヨーロッパによってもたらされた
イスラーム女性の否定的イメージ



イスラーム世界に対する、男女が不平等で、女性は男性に従属し、

家の中に押し込められ、外出するときに不自由なヴェールをかぶらされているという

否定的なイメージは、ヨーロッパ人の描いた絵画や写真や著作によって世界中に

振りまかれてきたといいます。



イスラームの女性については、コーランでは、

「誰でも善い行いをし信者ならば、男でも女でも、われは必ず幸せの生活を

送らせるであろう(16章97節)」と述べられ、信徒としての女性は男性と対等で

善行を行えば天国に行くことが保証されているそうです。



1990年代以降は、イスラーム復興の潮流のなかで、女性のヴェール着用が復活し、

増加してきているとの事。そこでは、西洋的な文明や生活様式に触れるなかで

それに対して疑問をもち、ムスリムとしてのアイデンティティのシンボルとして

ヴェールを着用する傾向が見られるのだそう。



イランやサウディアラビアなどのいくつかの国では、女性のヴェール着用が

義務づけされているそうですが、エジプトをはじめ多くの国では着用するか

どうかは個人の判断に委ねられているそうです。



○セクシュアリティとジェンダー 文学にみる女性観


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イスラムの法律
シャリーア

第一の法源 コーラン


アラビア語で「シャーリア」と呼ばれるイスラーム法。

シャーリアは「道」を意味し、ムスリムの日常の宗教儀礼から

家族関係や商取引、政治行政までを規定しているといいます。



法源は大きく4つあるといい第1の法源は、

アッラー(神)自身が語った教え「コーラン」を基にすること。

しかし、コーランに書かれていない問題が発生することがあり得ることから、

その場合の基準となる第2の法源は、

ムハンマドが語った言葉や行為を基準とする「ハディース」。

コーランにもハディースにも明確な規定がない場合の第三の法源は、

ウラマーと呼ばれる法学者の解釈に依存する「イジュマー(合意)」。

そして第四の法源は、合理的な類推を指す「キヤース」によって判断するそうです。



イスラーム法は、「神の授けた絶対の法」という立場をとっていますが、

実際には、4つの法源から法学者が導き出し解釈を積み上げてできた結果なのだそう。



○法をもっと身近に|縁遠いようでとても身近な法律に触れて


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不正がなければ公正を知ることもない
アドルとズルム

第三のムスリム国(1.3億人) バングラディシュの首都 ダッカ
スンニ派ムスリムによる金曜日の礼拝
Friday prayer for Sunni Muslims in Dhaka, Bangladesh


「アッラーは、アドル(公正)とともにズルム(不正)をつくった、

なぜなら、人間はズルム(不正)という影がなければ、

アドル(公正)という光の存在や価値を知ることはできない。」




イスラーム法学書によると、「都市」は統治者によって不正(ズルム)から救済され、

職人がその仕事によって一年中生活でき、他の職に移る必要がない場だといいます。



しかし、実際には統治者が過酷な徴税を行ったり、

外敵の攻撃を受けたり、民衆の間での争い事は起きてきたそうです。



統治者の支配権力が弱体化すると、

普段は略奪や殺人などの暴力行為を生業としていた「ならず者」は、

保護料をとるかわりに住民やその財産を守る役割を果たしたといいます。



統治者は、アドル(公正)を実現することを掲げて、ならず者などを取り締まり、

住民には安全を保障することと引き替えに税を徴収する一方、

統治者が違法な徴税などを行い、アドル(公正)を実現できない事態になれば、

逆にならず者が民衆の安全を保障し保護料を徴収したのだそう。



イスラームの政治観では、公正や不正は絶対的・固定的なものではなく、

相対的な価値と考えられているそうです。



○光は闇の中で輝く|光と闇を知り、世代とジェンダーを越えて発展する

○画家ゴヤが見つめてきた人間の光と影

○庶民に愛される悪党 国定忠治


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実質的な正義を重視する
裁判



イスラーム法における裁判では、訴えの正当性を証明する挙証責任は

原告の側にあり、証人の証言により判決が行われてきたといいます。



原告は被告が訴えを否認したとしても、証人2名を出して証言すれば勝訴でき、

原告が証人を出せない時は、被告に対して宣誓が求められ、

被告が神に誓って提訴事実を否認すれば被告が勝訴できたのだそう。



イスラームの裁判では、物証よりも口頭での陳述が決定的な意味をもち、

実際に原告が証人を得て勝訴する場合がほとんどだそうで、

証人の証言に依拠するイスラーム法の構造的な弱点だといえるそうです。



その一方、公開される裁判は、原告にせよ、証人にせよ、

嘘をつけばそれが表情や口ぶりに現れて聴衆や裁判官によって察知され、

その存在が予防となり、また嘘を突き通して訴訟に勝つことができたとしても、

信用を失ってしまうことになるよう。



また、賄賂の禁止規定の但し書には、不正(ズムル)の恐れがあるときには、

裁きを彼らの正当な権利に導くために、贈賄することは許されるとされ、

原告・被告の双方を納得させるような実質的な正義を重視する考え方があるそうです。


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近代日本とイスラームの関係
カメレオンのように態度を変えた日本

神戸ムスリムモスク


明治初期、幕末に江戸幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約の

改正が明治政府の外交課題であったそう。



政府は、同様の条約を先に結んでいたエジプトやオスマン帝国の

法改正に関心をもち、調査員を派遣したそうです。

その時の日本のリーダーたちは中東諸国に対して、

同じ東洋の被圧民族としての共感をもって接したといいます。



ところが、日露戦争に勝利した日本は、朝鮮や満州に対する進出を強めてゆきます。

イギリスによるエジプトの植民地統治は、日本の朝鮮・台湾統治の模範と

考えるようになり、列強の仲間入れを目指す日本は、

西洋の立場から中東をみるように方向転換してゆきます。



日中戦争から第二次大戦期には、

日本が中国や東南アジアで戦争を遂行するうえで、

現地のムスリムと連携工作を進めるという「大東亜共栄圏」の政策により、

多くのイスラーム研究がなされたといいます。



日本はカメレオンのように東洋から西洋へ、そしてまた東洋へと立場を変えたわけで、

中東との関係の変化は、近代日本の姿を写し出しているといいます。



○急激な近代化を遂げてきた日本|近代化の象徴 競馬

○よこすか はじめて物語|近代化の礎を築いた横須賀製鉄所


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橋を渡し、お互いを知る
共存に向けて

ショッピングモールとメトロ「シェリ駅」の入口
イスタンブール トルコ


パレスティナ人で米国大学教授のエドワード・サイードは、

西洋世界には、イスラームや東洋を異質の世界ととらえる「オリエンタリズム」が

根強くはびこっていることを批判したそう。



2001年9月11日の「アメリカ同時多発テロ事件」以降、西欧では世界を

「自由とテロ」に二分する政策や「文明の衝突」ととらえる思想が広まり、

イスラーム側では、敵対する不信仰信者は殺害されるべきという主張が

なされるようになってきたといいます。



これらに共通していることは、自分と他者、自国と他国とを

絶対的に違うものとして区別する考え方が根底にあるのだそう。



イスラームは7世紀から今日に至るまで、多様な人材を包み込みながら

社会をつくってきたことからも、決して固定的ではなく、多様で変化に富んだ

姿をもち合わせているといいます。



相互理解を基軸に、新たに進む道がみえてくることを心より願います。



○混迷の中から新たな絆を紡ぐ

○新たな絆から夢が膨らむグローバル人材

○新たな響きが奏でる未来|先人者に感謝を込めて


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参  考  情  報


○イスラーム文化センター

○イスラームの道しるべ

○東京ジャーミー・トルコ文化センター

○神戸ムスリムモスク

○日本国際問題研究所

○世界史の窓

○名著27 『アラビアンナイト』:100分 de 名著

○フリー百科辞典Wikipedia

○コーランを読む 井筒俊彦 岩波現代文庫

○預言者ムハンマド伝 イブン・イスハーク, 後藤明 (訳)ほか, 岩波書店

○言葉から文化を読む: アラビアンナイトの言語世界 西尾哲夫 臨川書店

○イスラーム世界の歴史的展開 放送大学
 主任講師 三浦徹 先生 お茶の水女子大学教授

○ハラルビジネスセミナー 2016.12
 第50回アジア開発銀行(ADB)年次総会【横浜開催】記念セミナー
 ・ハラルビジネスの基本について
  非営利一般社団法人ハラル・ジャパン協会 代表理事
  佐久間朋宏 先生
 ・横浜市のインバウンド対応について
  横浜市 文化観光局 観光MICE振興部 観光振興課 課長
  吉田雅彦 先生
 ・共催 横浜銀行・浜銀総合研究所・横浜商工会議所・国際協力機構
 ・後援 横浜市・横浜企業経営支援財団(IDEC)・国際機関日本アセアンセンター

○「無門関」を読む ひろ さちや 四季社


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