人間的なるものの別名

愛するあまり滅ぼし殺すような悪


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訪れる死を凝視する
波の音高い 海辺の宿

複雑に入り組んだ崖や入り江からなるリアス式海岸 城ヶ崎 (静岡県伊東市)
門脇灯台(左)と吊り橋(右)|NADIEN(ナディーン)より撮影 2016.08


波の音高い海辺の宿は、すでに男ではなくなった老人たちの

ための逸楽(いつらく:気ままに遊び楽しむ)の館であった。



真紅のビロードのカーテンをめぐらせた一室に、前後不覚に眠らされた裸形の若い女―

その傍らで一夜を過す老人の眼は、みずみずしい娘の肉体を透して、

訪れつつある死の相を凝視している。



熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の名作。



※「眠れる美女」 川端康成 新潮文庫 1967 書籍案内文より



○私たちの生涯|生と死の狭間にある「時」を歩む

○美しい海と緑に囲まれた城ヶ崎・伊豆高原

○ひらり舞う蝶を追いかけ白い帆を揚げて


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日本文学を代表する作家
川端康成

1946年、鎌倉市長谷の自宅にて撮られたものだそう


「伊豆の踊子」「雪国」「山の音」「古都」などの作品で知られ、

1968年に日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した作家、

川端康成(わばたやすなり、1899-1972)。



ヨーロッパの前衛文学(革新的な文学)を取り入れた新しい感覚の文学を志し

「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、

少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った。



その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、

連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立させ、

人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も知り尽くした上で、

美や愛への転換を探求した数々の名作を遺した。



※Wikipediaより



○江ノ電に乗って古都鎌倉・湘南へ

○鎌倉文学館のバラ

○花と眺望のお寺 長谷寺


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川端康成氏を囲んで 三島由紀夫 伊藤整1|3

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訪れつつある死の相を凝視する
眠れる美女

「眠れる美女」 川端康成 新潮文庫 1967
カバー装画は平山郁夫


江口老人は、友人の木賀老人に教えられたある宿を訪れた。

その海辺に近い二階立ての館では40半ばくらいの女が出迎えてくれた。

江口老人は「すでに男でなくなっている安心できるお客さま」として迎えられ、

二階の八畳で一服する。部屋の隣には鍵のかかる寝部屋があり、

深紅のビロードのカーテンに覆われた「眠れる美女」の密室となっていた。



そこは規則として、眠っている娘にたちに悪いいたずらやをしてはいけない

ことになっており、会員の老人たちは全裸の娘と一晩添寝し逸楽(いつらく)を

味わう秘密の館だった。江口はまだ男の機能が衰えてはなく、

「安心できるお客さま」ではなかったが、そうであることも自分できた。



眠っている20歳前くらいの娘の初々しい美しさに心を奪われた江口は、

ゆさぶっても起きない娘を観察したり触ったりしながら、

昔の若い頃の回想に耽り、枕元の睡眠薬で眠った。



半月ほど後、江口は再び「眠れる美女」の家を訪れた。

今度の娘は妖艶で娼婦のように男を誘う魅力に満ちていた。

江口は禁制をやぶりそうになったが、娘の生娘のしるしを見て驚き、

純潔を汚すのを止めた。



まぶたに押し付けられた娘の手から椿の花の幻を見た江口は、

嫁ぐ前に末娘と旅した椿寺のことを思い出す。

2人の若者が末娘をめぐって争い、

その1人に末娘は無理矢理に処女を奪われたが、もう1人の若者と結婚したのだった。



8日後、3回目に宿を訪れて添寝した「眠れる美女」は、

16歳くらいのあどけない小顔の少女だった。

江口は娘と同じ薬をもらって、自分も一緒に死んだように眠る誘惑をおぼえた。

老人に様々な妄念(もうねん)や過去の背徳を去来させる「眠れる美女」は、

遊女や妖婦が仏の化身だったという昔の説話のように、

老人が拝む仏の化身ようにも江口には思われた。



次に訪れて添寝した娘は整った美人ではないが、

大柄のなめらかな肌で寒い晩にはあたたかい娘だった。

江口の中で再び「眠れる美女」と無理心中することや悪の妄念が去来した。



5回目に江口が宿を訪れたのは、正月を過ぎた真冬の晩だった。

秘密の館の会員であった福良専務は、この宿で亡くなった際、

死骸は近くの温泉街に運ばれ、世間的にはそこで急死したこと

になっているのを江口は木賀老人から聞いていた。



その晩、江口の床には娘が2人用意されていた。

色黒の野性的な娘と、やわらかなやさしい色気の白い娘に挟まれて、

江口は、白い娘を自分の一生の最後の女にすることを想像した。

江口は自分の最初の女は誰かとふと考え、

なぜか結核で血を吐き死んでいった母のことを思い出した。

深紅のカーテンが血の色のように見えた江口は、睡眠薬の眠りに落ちていった。



母の夢から醒めると、色黒の娘が冷たくなり死んでいた。

江口は眠っている間に自分が殺したのではないとふと思い、ガタガタとふるえた。

宿の中年女は医者も呼ばず平然と対処し、「ゆっくりとおやすみなさって下さい。

娘ももう1人おりますでしょう」と言って、眠れないと訴える江口に白い錠剤を渡した。

白い娘の裸は輝く美しさに横たわっているのを江口は眺めた。

死んだ黒い娘を温泉宿へ運び出す車の音が遠ざかった。



※Wikipediaの文章を元に一部編集



○人間の幸不幸を凝視する物語文学|源氏物語


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退廃・虚無を特色とした
デカダンス文学

 前列一番左はヴェルレーヌ、その隣はランボー
「テーブルの片隅」 1872年 アンリ・ファンタン=ラトゥール


19世紀末にフランスを中心に興(おこ)ったデカダンス文学は「退廃・虚無」を特色とし、

ロマン主義からモダニズム文学への過渡期に位置づけられるそうです。



デカダンス文学の代表としては、ポール・ヴェルレーヌ、アルチュール・ランボー、

シャルル・ボードレール、オスカー・ワイルドらが挙げられるそう。



18世紀後半から19世紀前半に興ったロマン主義は、

17世紀以来の古典主義を人間精神の内奥の力を否定したものと捉え、

なによりも個性や自我の自由な表現を尊重し、知性よりも情緒を、

理性よりも想像力を、形式よりも内容を重んじます。



20世紀前半に興ったモダニズム文学は、都市生活を背景として

伝統を否定した前衛的(革新的)な運動を指し、日本にも影響を与えたそうです。



・17世紀〜 古典主義 (形式美・統一的・調和)
・18世紀後半〜19世紀前半 ロマン主義 (感情・個性・自由)
・19世紀後半 デカダンス文学(退廃・虚無)
・20世紀前半 モダニズム文学 (反伝統)


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眠れぬ夜
その人に夜が用意してくれるもの

「Girl in a yellow drape」 1901 John William Godward


ふだん江口は洋酒を少し使って寝つくのだが、眠りは浅く、悪い夢を見がちだった。

若くて癌で死んだ女の歌読みの歌に、「眠れぬ夜、その人に

夜が用意してくれるもの、蟇(がま:カエル)、黒犬、水死人のたぐい」

というのがあったのを、江口はおぼえると忘れられないほどだった。



今でもその歌を思い出して、隣の部屋に眠っている、いや、眠らされているのは、

「水死人のたぐい」のような娘ではないのかと思うと、

立って行くのにためらいもあるのだった。



※「眠れる美女」 川端康成 新潮文庫 1967 その一 p13-14


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老いの絶望に耐えられなくなった時に
訪れる場所

「悲しむ老人」 1890年 フィンセント・ファン・ゴッホ
クレラー・ミュラー美術館


決して目覚めぬ女こそが、「安心のできるお客さま」の老人どもにとって、

安心のできる誘惑で、冒険で、逸楽(いつらく:気ままに遊び楽しむ)なのにちがいない。



木賀老人などは、眠らせられた女のそばにいる時だけが、

自分で生き生きしていられると、江口に言っていた。



木賀は江口の家をたずねて来た時、座敷から庭の秋枯れた苔(こけ)に

落ちている赤いものを見て、「なんだろう」と、さっそく拾いにおりた。

青木の赤い実だった。いくつもぼつぼつ落ちている。

木賀は一つだけつまんで来て、それを指のあいだにいじくりながら、

この秘密の家の話をしたものだった。



老いの絶望にたえられなくなると木賀はその家に行くのだと言った。



※「眠れる美女」 川端康成 新潮文庫 1967 その一 p22


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悪をおかしてかち得、悪を重ねて守り続けた
成功者

「仮面に囲まれた自画像」 1899年 ジェームス・アンソール
「Self-Portrait with Masks」 James Ensor メナード美術館(愛知県小牧市)


この「眠れる美女」の家へひそかにおとずれる老人どもには、

ただ過ぎ去った若さをさびしく悔いるばかりではなく、

生涯におかした悪を忘れるための者もあるのではないかと思われた。


(中略)


そしてその老人たちは、世俗的には、

成功者であって落伍者(らくごしゃ)ではないことも察しがつく。

しかし、その成功は悪をおかしてかち得、

悪を重ねてまもりつづけられているものであろう。

それは心の安泰者ではなく、むしろ恐怖者、敗残者である。



眠らされている若い女の素肌にふれて横たわる時、

胸の底から突きあがって来るのは、近づく死の恐怖、

失った青春の哀絶(あいぜつ⇒とても悲しい様)ばかりではないかもしれぬ。

おのれがおかして来た背徳の悔恨(かいこん)、

成功者にありがちな家庭の不幸もあるかもしれぬ。



老人どもはひざまずいて拝む仏をおそらくは持っていない。

はだかの美女にひしと抱きついて、冷たい涙を流し、よよと泣きくずれ、

わめいたところで、娘は知りもしないし、決して目ざめはしないのである。

老人どもは羞恥(しゅうち)を感じることもなく、自尊心を傷つけられることもない。

まったく自由に悔い、自由にかなしめる。

してみれば「眠れる美女」は仏のようなものではないか。そして生き身である。

娘の若いはだやにおいは、そういうあわれな老人どもをゆるしなぐさめる

ようなものであろう。



※「眠れる美女」 川端康成 新潮文庫 1967 その三 p83-84



○破壊と再生|日本型うつ病社会に別れを告げて


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深い眠りにおちる薬
自分の死をみつめる

「眠れる森の美女」 ジョン・メイラー・コリア
「Sleeping Beauty」 1921 John Maler collier


※「眠れる美女」 川端康成 新潮文庫 1967 その三 p87-88


  「ゆうべ、呼鈴を鳴らしたの気がついた?

  娘とおなじ薬を僕もほしかったんだ。あんなに眠ってみたいもの。」


  「それは禁制です。だいいち、御老人にはあぶのうございますよ。」


  「僕は心臓が強いから心配ないよ。

  もし永遠に目がさめなかったところで、僕はくやまないね。」


  「たった三度いらっしていただきますと、

  もうそんなわがままをおっしゃるようにおなりですのね。」


  「この家で言って通してもらえる、いちぱんのわがままはなんなの?」


  女はいやな目で江口老人を見て、薄ら笑いを浮かべた。





※「眠れる美女」 川端康成 新潮文庫 1967 その五 p122-123


  しかし、「あぶない」とは寝入ったまま死ぬことであろか。

  江口は平俗な境涯(きょうがい≒立場)に過ぎないけれども、

  人間であるからには、時には孤独の空虚、

  寂寞(せきばく)の厭世(えんせい:世はいやなものとの思い)

  におちこむ。



  この家などは得難がたい死場所ではないだろうか。人の好奇心をそそり、

  世の爪はじきを受けるのも、むしろ死花を咲かせることではなないのか。

  さぞ知り人たちはおどろくであろう。

  どのように遺族を傷つけるか計りしけないけれども、たとえば今夜のように

  二人の若い女のなかに眠り死んでいれば、老残の身の本望ではないか。

  いや、そうはゆかない。

  あの福良老人のように死骸をこの家から見すぼらしい温泉宿に運び出されて、

  そこで睡眠薬自殺をしたということにされてしまうだろう。



○セクシュアリティとジェンダー|文学にみる女性観

○人間の心のあり方を理解する|日本人の精神性を探る旅


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愛するあまり滅ぼし殺すような悪
この家には悪はない

「カルメン」の作者 プロスペル・メリメ(1803-1870)


※「眠れる美女」 川端康成 新潮文庫 1967 その四 p92


  「この前来た時も、ちょっと言ってみたが、

  ここで老人にゆるされるいちばんのわがままは、どういうことなの。」


  「さあ、娘が眠っていることですわ。」


  「娘と同じ薬はもらえないの?」


  「この前、おことわりいたしましたでしょう。」


  「それじゃ、年寄りに出来る、いちばんの悪事はなんだろう。」


  「この家には、悪はありません。」




※解説 三島由紀夫
 「眠れる美女」 川端康成 新潮文庫 1967 p244


  眠れる美女の世界は、無力感によって悪から隔てられている、と考えるとき、

  川端氏の考える「悪」がどのようなものであるかが朧(おぼ)ろげに泛(うか)ぶであろう。



  それは活力が対象を愛するあまり滅ぼし殺すような悪であり、

  すべての人間的なるものの別名なのである。



  川端氏と同じ程の厭世家(えんせいか:世の中をいやなものみなす人⇒ペシミスト)で、

  川端氏と反対方向の世界に魅せられた作家としては、

  「カルメン」の作者メリメを挙げるだけで十分であろう。




「愛するあまり滅ぼし殺すような悪」は、男女間に限らず、

同性間、世代間、人間と人間以外の動物間、人間と自然間といったように、

広く普遍的にみられるようにも思えます。



○苦しみに満ちている人間の生からの救済|ショーペンハウアー

○持続可能な循環型社会の基盤にあるもの

○愛と死、エロスと大儀 三島由紀夫の小説「憂国」


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乙女の死
悪から隔てる無力感

「死と乙女」 1915年 エゴン・シーレ(Egon Schiele、1890-1918)
 ウィーン、オーストリア・ギャラリー


江口老人は目がさめた。首を振ったが、眠り薬でぼんやりしていた。

黒い娘の方に寝がえりしていた。娘のからだは冷たかった。

娘は息をしていない。心臓に手をあてると、鼓動がとまっていた。


(中略)


黒い娘を運び出すらしい車の音が聞えて遠ざかった。

福良老人の死体がつれ去られた、あやしげな温泉宿へ運ばれて行ったのだろうか。



※「眠れる美女」 川端康成 新潮文庫 1967 その五 p129-131



○あるがままの生の肯定|フリードリヒ・ニーチェ


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儒教にみるライフサイクル
思うままに生きても人の道を外れなくなる

湯島聖堂(東京都文京区)の孔子像


※論語 孔子

  子曰く、我十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、

  五十にして天命を知り、六十にして耳従(みみしたが)い、

  七十にして心の欲するところに従えども矩(のり⇒規則・道徳)を超えず



儒教の始祖、孔子(こうし)が晩年に人生を振り返ったとされる言葉。

私は15歳で学問を志し、30歳で自立をし、40歳になり迷うことがなくなった。

50歳にして天命を知り、60歳で人の言葉に素直に耳を傾けることができるようになった。

70歳で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった。



○日本人の心を形成してきたもの|これからを生きる指針となるものを探る

○より良い社会へ変えていく人たちを育てる|文教の府 文京区


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追憶の風景
モルトフォンテーヌの思い出

「モルトフォンテーヌの思い出」 1864 ジャン=バティスト・カミーユ・コロー
ルーヴル美術館


フランスのカミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot、1796-1875)は、

自然主義的な風景画を好んだバルビゾン派(Ecole de Barbizon)の画家。



バルビゾン派は、パリ郊外フォンテンブローの森の入口にある小さな村

バルビゾンに由来し、画家たちはここに滞在して風景画を描いたそうです。



コローの代表作の一つ「モルトフォンテーヌの思い出」は、

79年の生涯を生きたコローにとっては晩年に近づいた68歳の頃の作品。



奥に広がった湖の穏やかな湖面には森の木々が映り込み、

手前の森では3人の人物がヤドリギの実や花を摘もうとしています。



この作品はコローが実際にフォンテンブローに行って描いたものではなく、

かつて訪れた際のスケッチや記憶を基にアトリエで再構築したもので、

風景を正確に思い出すことよりも思い出に訴えかけてくる叙情性を描いたといわれます。


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死の影の下の芸術
主観を超えて共通性を認識する

アンディ・ウォーホール美術館(スロバキア)


二度の大戦を経た20世紀後半の芸術は、戦争による圧倒的な死の記憶を抱えながらも、

新たな再生に向けて様々な試行がなされた時代であり、それまでの価値観の揺らぎは、

戦後芸術の特色の一つである多様性を生み出してゆきます。



そのような時代を生きた芸術家の一人、アンディ・ウォーホル(1928-1987)は、

ポップアートの巨匠といわれ、版画技術の一種であるシルク・スクリーンを

用いた作品を制作したことで知られます。



代表作であるマリリン・モンローやキャンベルスープ缶を題材にした作品は、

一見、華やかなアメリカの消費社会を象徴するかのように見えますが、

その背景には死の影があるといわれます。



ウォーホールは、シルク・スクリーンの長所を、

アーティストの個性の印としてのスタイルから遠く離れることができる点を挙げ、

主観主義的な態度から離れて芸術創造することを追求します。




  僕が思うに、誰もが、機械(マシン)になるべきなのだ。

  僕が思うに、誰もが、誰をも好きになるべきなのだ。




ウォーホールの言葉は、操作される大衆がロボットのように

支配者の言うひとを聞くべきだと言っているのではなく、

近代の主観主義を超えた次元として、

人々が互いに自らの個性を主張しあって対立を続けるのではなく、

人々は自らの個性を超えてお互いの間の共通性を認識し、

他者と共鳴・協動・共生するべきだと主張します。



○モンロー時代の光と陰

○そう長くはない私たちの人生、多くの人を好きになれますように


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高齢期における発達課題
自我の統合性か、絶望か

発達心理学・精神分析学者 エリク. H. エリクソン
Erik Homburger Erikson、1902-1994


エリクソン,E.H. は、ライフサイクル論において

人生の発達を8段階に分け、65歳以上を「成熟期」とした。



自分の人生を振り返り、死を意識しはじめる時期であり、

人生の終わりの締め括りの時である。



自らの人生を受け入れ、自分の生涯を意味あるものとしてまとめる

ことができた者は、「自我の統合性」を獲得し、受け入れられない者は

人生をやり直すには時間がないという気持ちが「絶望」を生む。



自我の統合性とは、自我の一貫性と全体性の感覚であり、

全体を一つにまとめようとする方向を持つといえる。



ある者は死に直面して、それが回避できないことを知り、絶望する。

また、自分の一生を振り返り、何の意味も見いだせない、無価値だと嫌悪し、

希望を失い、絶望する。しかし、絶望にさらされながらも生き抜くことに価値を

見いだし、自分の一生をまとめ、その意義を認めて死を受け入れていく

統合性を獲得できた時、「英知」という徳が身に着くと考えた。



※エリクソン, E.H. の高齢期における発達課題
 齋藤高雄 先生 放送大学教授
 中高年の心理臨床 6. .高齢期の心理と課題


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心の窓が開かれて
本当の自分の姿が浮かび上がる

「ユダの接吻」 1305年頃 ジョット・ディ・ボンドーネ スクロヴェーニ礼拝堂
「Kiss of Judas」 Giotto di Bondone, Scrovegni Chapel


浄土真宗の僧侶で、刑務所の教誨師(きょうかいし)や

篤志面接委員(とくしめんせついいん)も務めた吉本伊信(いしん) 先生(1916-1988)。



浄土真宗の修行法「身調(みしら)べ」から着想を得て創始した

内観療法(ないかんりょうほう)は、刑務所、少年院に留まらず、

医療や一般の場面で広く応用されています。



内観療法は、静かな落ち着いた場所で、母や父、兄弟、自分の身近な人に対して、

今までの関わりを以下の3点において具体的に思い返してゆきます。



 ○してもらったこと

 ○して返したこと

 ○迷惑をかけたこと



※内観療法の基礎から応用まで、内観の体験的学習 2014.09
 講師 真栄城輝明 先生 奈良女子大学 教授
 会場 日本大学文理学部 百周年記念館
 日本心理医療諸学会連合 第27回大会 メンタルヘルスを支えるポジティブ・サイコロジー



○接吻という親密な行為が最悪の裏切り手段となる ユダの接吻

○更生保護の原点にある思いが込められている言葉 「おかえり」


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病みながら生きる存在
聴覚障害による絶望からの立ち直り

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 1804年 34歳


※1802年、弟たちに当てて書いた「ハイリゲンシュタット(現在のウィーン)の遺書」
 新編ベートーヴェンの手紙 小松雄一郎(編訳) 岩波書店


  僕のそばに立っている者が、遠くの横笛の音を聞いているのに、

  僕には何も聞こえないとき、まただれかが牧人の歌っているのを聞いているのに、

  それも僕には聞こえないとき、それは何たる屈辱であったろう。

  たびたびこうしたことがあったので、僕はほとんど絶望し、もう少しで自殺せんとした。




20歳代後半に聴覚障害を患い、その後も悪化を続け、

さまざまな治療を試しみながらも一向に改善の兆しが見えない

不治の病と悟ったベートーヴェンは、

1802年32歳にして絶望のあまり死を選ぼうとしたと語っています。



しかし、同じ手紙の中で以下のようにも述べています。



「芸術が僕をひきとどめた」「僕には自分に課せられていると感ぜられる創造を、

全部仕上げずにこの世を去ることは、不可能だと考えられた」



その後、ベートーヴェンは交響曲第3番「英雄」を書き上げ、

その直後に「運命」の作曲に取りかかるなど、傑作の森と呼ばれる作品群を

生み出してゆきます。



1808年、ベートヴェンが38歳の時に発表した交響曲第5番「運命」の4つの楽章には、

聴覚障害による絶望から立ち直って「英雄」の作曲に至るまでの障害受容の過程が

反映しているとみられています。



※総合リハビリテーション 31 「ベートーヴェンの「ハイリゲンシュタットの遺書」
 高橋正雄 先生 筑波大学教授



○華麗なるコンチェルト|ベートーヴェン ピアノ協奏曲 全5曲

○ナポレオンに捧げようとした交響曲 「英雄」


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苦悩の人生から生まれた
傑出的な創造

夏目漱石 (1867-1916)


明治元年の1年前に生まれ、大正5年に胃潰瘍の大出血で亡くなったという

夏目漱石は、49年の生涯の中で何度か幻聴や妄想をする精神状態に

陥ったといいます。



20代後半には、自分が下宿していたお寺の尼たちが

自分のことを探偵していると思い込み、妄想から逃れるかのように松山に戻ったそう。



30代にも神経衰弱を患った後、40代となり、

三たび幻聴や妄想を中心とする精神状態に襲われた漱石。

武者小路実篤に宛てた手紙では以下のように述べているそうです。



  気に入らない事、癪に障る事、憤慨すべき事は塵芥の如く沢山あります。

  それを清める事は人間の力では出来ません。

  それと戦うよりもそれをゆるす事が人間として立派なものならば、

  できるだけそちらの方の修行をお互いとしてしたいと思いますがどうでしょう。



病や障がいによって苦悩の人生を歩んだという夏目漱石。

しかし、その一方で病があるがゆえに

傑出した創造的活動を行えた面があったといいます。



○障がいを越えて共に生きる


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サクセスフル・エイジング
今を大切に生きる

シテール島の巡礼 1717 アントワーヌ・ヴァトー
左から右に向かって一組の男女の愛の道程が描かれているといいます


自分にとって大切なものは何か、高齢期は歩んできた過去の人生の意味と

次の世代のあり方を考える時期といえる。人は皆、いずれ老いて死す。

不安を先取りすることなく、死と対面しつつ、一日一日を心豊かに生きる。



高齢期では死の問題は避けて通れない。死を考えることは、

死に至るまでの生を考えることであり、人生そのものを考えることに繋がる。

死をみつめつつ、老いを生きるということは、

その人の人生そのものを受け止めることでもある。



○光は闇の中で輝く|世代とジェンダーを越えて発展する


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人間の普遍性を内に含む
眠れる美女

ベルギーでオペラ化され、2009年に王立モネ劇場(ブリュッセル)にて
初演されたオペラ「眠れる美女」


1961年に刊行された「眠れる美女」(新潮社、初出「新潮」1960-1961)は、

「翻訳書目録(川端康成全集35)」(1983年、新潮社)によれば

1965年の英訳を皮切りに韓国語・オランダ語など13ヵ国に翻訳されている。



海外においてこの作品に影響を受けた芸術家は少なくなく、たとえば映画では、

1994年にフランスで「眠れる美女」にインスパイアされた「オディールの夏」が、

2007年にはドイツで原作に近い形で構成された「眠れる美女」が、

2011年にはオーストラリアで逆に原作をほとんど留めない形で

「スリーピング・ビューティ 〜禁断の遊び〜」が制作された。



また文学では、ノーベル賞作家のバルガス・リョサのエッセイ

「La verdad de las mentiras」を読んで「眠れる美女」を知ったという

やはりノーベル賞作家のガルシア・マルケスは

「わが悲しき娼婦たちの思い出」(2004)を書き、

本の扉に「眠れる美女」の本文を引用している。



※福田淳子 先生 昭和女子大学准教授



○人類から遠く離れた孤独の中に住む 世界の本質

○日本人の音楽的アイデンティティ|新たな響きが奏でる未来

○森と湖が広がる北欧の国 フィンランド|不屈の精神から新たな地平へ


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参  考  情  報


○公益財団法人川端康成記念会

○鎌倉文学館

○川端康成文学館/茨木市

○クレラー・ミュラー美術館(オランダ)

○メナード美術館−公式ホームページ - MENARD ART MUSEUM

○健康長寿ネット

○FUYUKO MATSUI

○blossom lovely

○GATAG|フリー絵画・版画素材集

○WikiArt.org - Visual Art Encyclopedia

○フリー百科辞典Wikipedia

○眠れる美女 川端康成 新潮文庫 1967

○川端康成―蒐められた日本の美 羽鳥徹哉 別冊太陽 日本のこころ157 2009

○東京文化会館会館55周年・日本ベルギー友好150周年記念
 オペラ「眠れる美女」 2016.12
 原作 川端康成(『眠れる美女』1961年、新潮文庫刊)
 台本 ギー・カシアス、クリス・デフォート、マリアンヌ・ヴァン・ケルホーフェン
 ドラマトゥルク マリアンヌ・ヴァン・ケルホーフェン
 作曲 クリス・デフォート
 指揮 パトリック・ダヴァン
 演出 ギー・カシアス
 振付 シディ・ラルビ・シェルカウイ・伊藤郁女
 老人(バリトン) オマール・エイブライム
 女(ソプラノ) カトリン・バルツ
 老人(俳優) 長塚京三
 館の女主人(俳優) 原田美枝子
 眠れる美女(ダンサー) 伊藤郁女
 眠れる美女たち(コーラス) 原千裕・林よう子・吉村恵・塩崎めぐみ
 管弦楽 東京藝大シンフォニエッタ
 会場 東京文化会館

○藝大21 藝大アーツ・スペシャル2016
 障がいとアーツ 東京藝術大学 2016.12

○鍵・瘋癲老人日記(ふうてんろうじんにっき) 谷崎潤一郎 新潮文庫 1968

○西洋芸術の歴史と理論
 青山昌文 先生 放送大学教授
 14. 現代の芸術 −死の影の下の芸術−

○怖い絵 死と乙女篇 中野京子 角川文庫 2012

○コロー 光と追憶の変奏曲
 国立西洋美術館 2008年6月14日−8月31日

○中高年の心理臨床
 齋藤高雅 先生 放送大学教授
 高橋正雄 先生 放送大学客員教授・筑波大学教授
 5. 病みながら生きるという生き方
 6. 高齢期の心理と課題
 15. 老いを生きる−まとめにあたって

○精神医学的にみた夏目漱石-没後百年によせて- 2016.01
 講師 橋正雄 先生 筑波大学教授
 主催 放送大学渋谷学習センター

○ゆかいに漱石〜100年読まれ続ける魅力を探る〜 2016.07
 講師 茂木健一郎 先生(脳科学者)
 会場 早稲田大学大隈記念講堂大講堂
 主催 朝日新聞社・岩波書店・一般財団法人出版文化産業振興財団(JPIC)

○文学とイニシエーション〜漱石とマンを手がかりに〜 2015.07
 講師 姜尚中 先生 東京大学名誉教授
 主催 放送大学文京学習センター

○悩む力 2012.07
 講師 姜尚中 先生 東京大学名誉教授
 第77回円覚寺夏期講座

○小泉八雲と夏目漱石の鎌倉 2015.07
 講師 池田雅之 先生 早稲田大学社会科学総合学術院教授
 第80回円覚寺夏期講座

○夏目漱石の美術世界展 2013.06
  東京藝術大学大学美術館

○メンタルヘルスを支えるポジティブ・サイコロジー 2014.09
 ・第一部
  ・メンタルヘルスを支えるポジティブ・サイコロジー
  ・認知行動療法とポジティブ・サイコロジー
  ・「幸福追求」とポジティブ心理学
  ・健康増進と能力発揮のポジティブ心理学
  ・コミュニケーションスキル教育とポジティブ・サイコロジー
 ・第二部(選択)
  ・内観療法の基礎から応用まで
  ・内観の体験的学習
  講師 真栄城輝明 先生(奈良女子大学)
 ・会場 日本大学文理学部 百周年記念館

○「人生100歳時代の設計図」を考えるキックオフシンポジウム 2016.07
 第一部 基調講演
  ・人生100 歳時代の設計図 黒岩祐治 先生(神奈川県知事)
  ・人生はいつも「今から」 〜一歩一歩登りつづければ頂上に立てる
   三浦雄一郎 先生(プロスキーヤー)
 第二部 パネルディスカッション
 ・パネリスト
  加藤忠相(株式会社あおいけあ代表取締役社長)
  塩澤修平(慶応義塾大学経済学部教授)
  藤原瑠美(ホスピタリティ☆プラネット代表)
  黒岩祐治(神奈川県知事)
  原良枝(フリーアナウンサー) コーディネーター
 ・会場 横浜市教育会館

○高齢社会を美しく生きる 介護を通じて美しい生き方を考える 2013.09
 ・基調講演 小山明子 先生(女優)
 ・パネル討論
  中村寿美子 先生 有料老人ホーム・介護情報館館長
  内田善生 先生 介護老人保健施設グリーンビレッジ安行 施設長
  山田穣氏 先生 潟潟nビリデザイン研究所 代表
  宮城まり子 先生(コーディネーター) 法政大学キャリアデザイン学部教授
 ・ビューティフルエイジング協会シンポジウム
 ・法政大学市ヶ谷キャンパス

○当ページ、タイトル左右にある絵画
 右:「Biblis」 (1884) William Adolphe Bouguereau
 左:「Ophelia」 (1851-1852) Sir John Everett Millais


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