未来へつなぐ道のり 日系カナダ移民の歴史と 日本人の精神性 |
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| ヴィクトリア | ブッチャートガーデン | バンクーバー | 白人のカナダ | ファーストネーション | 永野万蔵 | | すばらしい生活を求めて | 成長するコミュニティ | 白人の恐れ | アジア人に対する暴動 | 写真花嫁 | | 義勇軍 | 敵性外国人 | 家畜厩舎 | コミュニティの根絶 | 内陸部収容所 | 薄れていった日本人の精神性 | | リドレス運動 | 未来へつなぐ道のり | 天皇皇后両陛下 | ロスベイ墓地 | 平均年齢20.2歳 | キリスト教 | | 神道 | 仏教 | 神仏習合 | 日本人の精神性 | アイヌの精神性 | 世代間伝承 | 日本人が失ったもの | | 日本人は自信をもつ主張を | 参考情報 | |
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ブリティッシュ・コロンビア州の州都 ビクトリア |
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インナーハーバーを見下ろすフェアモント・エンプレス (The Fairmont Empress Hotel) |
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ブリティッシュ・コロンビア州(BC州)の州都ビクトリア。 カナダでも特に温暖な気候に恵まれ、1年を通して過ごしやすい街だそうです。 歴史的な背景から英国の影響が色濃く残る街並みには花が溢れ、 別名「ガーデンシティ」とも呼ばれています。 ○大英帝国の黄金時代 ヴィクトリア朝 |
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ガーデンシティ・ビクトリアの名所 ブッチャートガーデン |
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ガーデンシティ・ビクトリアを象徴する広大な庭園、 ブッチャートガーデン(butchartgardens)。 季節ごとに花壇が植え替えられ、四季折々の花々を楽しむことができます。 ○Life in Green|「時」を知りに小石川植物園へ ○花びらが幾重にも重なる魅力的な花 ラナンキュラス |
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カナダ 第3の都市 バンクーバー |
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青白く光るドーム型の建物は、 2010年バンクーバー冬季オリンピックの会場 BCプレイス・スタジアム |
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ビクトリアがあるバンクーバー島からジョージア海峡を挟んで カナダ本土にある風光明媚な港町、バンクーバー(Vancouver)。 トロント(500万人)、モントリオール(350万人)に続くカナダ第3の規模(210万人)を もつ大都市でありながら、海と山、そして森と、自然を身近に感じられる環境は、 「世界で最も住みやすい都市」と呼ばれているそうです。 ○変わりつつある世界のスタジアム動向 |
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世界のみんなが住みたい街、バンクーバー (前編) | |||
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「白人のカナダ」の維持を目指す 移民政策 |
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地名となった イギリス海軍のジョージ・バンクーバー船長 |
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バンクーバーという名称は、1792年にジョージア海峡一帯の測量調査を行った イギリス海軍のジョージ・バンクーバー船長に由来するそうです。 ヨーロッパ人の定住が始まったのは19世紀後半。 最初の移住者は1867年にイギリスからやって来たジョン・デイトン。 デイトンが開いた製材所と宿を中心とした集落は、 彼のニックネーム「Gassy(騒々しい)」からとって「ギャスタウン」と呼ばれます。 カナダが白人国家となった背景には、 移民に関して英国からの生物学的距離(髪の色・目の色など)、 文化的距離(宗教など)によって優先順位が定められていたことが挙げられるそう。 @英国・米国のアングロサクソン系 A上記以外の西欧人・北欧人 B農業志向の強い東欧人 C南欧人 ・ ・ ・ |
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カナダ先住民族 ファーストネーションズ |
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カナダの先住民族 | |||
18世紀、当時のバンクーバー一帯には、 インディアンのマスクェム族やスコーミッシュ族をはじめとする コースト・セイリッシュ語族が住んでいたといわれます。 2006年カナダの出身地別民族構成では、欧米は全体の83%を占め、 アジア・中南米などが13%、先住民族は4%となっています。 先住民の人口は約117万人で、うち約60%がファースト・ネーションズ(北米インディアン)、 33%がメティス(先住民とヨーロッパ人の両方を祖先とする人々)、 4%がイヌイット(北極地方の人々)。 現地に住んでいる方の話によると、 先住民族と白人の関係はアメリカ以上に難しさがあると言います。 ○アメリカ合衆国最大の先住民族ナバホの渓谷 アンテロープ・キャニオン |
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最初の日本人移民といわれる 永野万蔵 |
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永野万蔵とその家族(1910年頃) JICA横浜 | |||
カナダへ最初に移民したといわれるのは長崎県出身の永野万蔵。 1877年、イギリス船でブリティッシュ・コロンビア州に上陸したといいます。 フレーザー川でのサケ漁とともに製材所やレストラン、ホテルなどの 経営に手腕を発揮し、特に日本向けの塩鮭の製造で成功しますが、 火災で財産を失ってしまい晩年には帰国したそうです。 ※横浜・バンクーバー姉妹都市50周年記念企画展示 TAIKEN 体験 −日系カナダ人 未来へつなぐ道のり− JICA横浜 海外移住資料館 2015.10.24〜2016.2.7 ○横浜とバンクーバーをつないだ氷川丸 |
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日本での苦しい生活を逃れ 「富」と「すばらしい生活」を求めて |
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ロイストン木材伐採会社 バンクーバー島 1920年頃 JICA横浜 | |||
一世は「富」と「素晴らしい生活」を求めてカナダに移住したそうです。 明治元年にあたる1868年、日本では劇的な変化が起こり、 明治政府は世界に学び、様々な技能、産業そして資本を 持ち帰るよう人々に奨励します。 その頃のカナダは、世界中から来る多くの移民にとって、 成功の機会に恵まれた国に見えたといいます。 日本から移民した人々は漁村や農村の出身者で、 貧困や重労働あるいは兵役から逃れてやってきたのです。 一世は人種的偏見と辛抱強く闘い、彼らを保護する公正な法律のない 状況にあっても、様々な産業で尊敬される地位を勝ち取るために懸命に働きました。 ○よこすか はじめて物語|近代化の礎を築いた横須賀製鉄所 ○命から生まれた嘆き・希望・美しさ|世界の民族音楽 |
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成長する 日系コミュニティ |
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バンクーバー日本語学校 アレキサンダー街 1906年頃 JICA横浜 旗は日本国旗とユニオンジャック。当時カナダ国旗は制定されていませんでした |
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1890年代になると、日本人労働者を多く雇っているヘイスティング製材所に 隣接するパウエル街で、一世は雑貨店や宿屋などの仕事を始めました。 当初その居住地に住む人々の大部分は、 日本での貧しい生活を逃れて移住してきた若い独身男性で、 その多くは広島、滋賀、和歌山そして鹿児島県の出身者だったといいます。 しだいに女性もやってくるようになり、家族でカナダへの永住を決断するようになります。 1907年、ブリティッシュ・コロンビア州の日系人人口は18,000人を超え、 日系コミュニティはバンクーバー、ビクトリアおよびスティーブストンを 中心として拡大し、専門店や日本語学校、仏教寺院や日本語新聞などの 様々なサービスが利用できるようになってゆきます。 |
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白人から恐れられた 日系人 |
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カナダ野球の殿堂入りを果たした日系人チーム「バンクーバー朝日」 JICA横浜 |
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白人からみると、日本人が船から大量に降りたち、 日系コミュニティが拡大していくことに驚きがあったよう。 また、日系人は識字率が高く、休日も取らず働く勤勉さ、教育熱心な姿に映り、 ゆくゆく自分たちの仕事が奪われてしまう恐れを抱いたといわれます。 |
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閉ざされた道 アジア人に対する暴動 |
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1907年のバンクーバーにおける暴動で被害を受けた日系商店 | |||
カナダ社会に対する日系人の多大な貢献にもかかわらず、 当時アジア人に対する人種差別は広く行われていたといわれます。 日系人には選挙権がなく、多くの職種への就業が制限され、 低い賃金しか払われませんでした。 そして1907年、人種差別の緊張は頂点に達し、 労働市場におけるアジア人コミュニティの拡大が与える影響に抗議するため、 アジア人に反感をもつ白人暴徒がバンクーバーの中国人や日本人地区を襲う 事件が発生します。 この暴動を受けて、カナダと日本の間で「林−ルミュー紳士協約」が結ばれ、 日本人移民は1年間に男性400人、そして家事使用人に制限されました。 |
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写真でしか見たことのない人と結婚するために 海外移住した「写真花嫁」 |
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写真花嫁 岡きのり(旧姓 篠原)の写真:1922年当時19才 JICA横浜 | |||
「自分が結婚した相手がどんな人なのか、どんな生活を送っている人なのか、 私はまったく知りませんでした。けれどもここに来ようと決めました。 それは私の夢でしたし、きっとうまくいくだろうと思いました。 本当に子供だったのですね。」 石川やす 1907年の反アジア人暴動の後、カナダは日本人移民の数を年間400人までに 制限する協定を日本と結びましたが、これは女性や子どもには適用されませんでした。 「写真結婚」と呼ばれた写真花嫁の制度は、伝統的な見合結婚の一種で、 写真を通して仲介し、代理人を立てて日本で結婚すれば、 妻はカナダに移住することが認められました。 結婚するために、カナダにいる独身男性は日本に手紙と写真を送ります。 男性の家族は、しばしば仲人の手助けを得て、写真を使って男性の妻を探します。 仲人は女性の家族、健康、年齢、経済状態などを考慮します。 多くの写真花嫁は、未婚のままでいることはできず他に選択肢はないと考えていました。 こうした写真花嫁がカナダに渡るようになったのは1908年で、 この制度は1928年まで続きました。 1924年までにカナダに渡ってきた写真花嫁は6,240名でした。 現実は、約束事が嘘だったりすることもしばしばで、女性たちは大変苦労しました。 多くの女性は貧しい僻地の伐採所や漁村、製材工場の町に移り住み、 過酷で孤立した生活を送りました。 女性たちは生計を立て、より良い生活を送るために必死に働きました。 彼女たちは勇気と力を振り絞り、日本からカナダにやってきたのです。 ○セクシュアリティとジェンダー|文学にみる女性観 |
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第一次大戦に参戦した 一世 |
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バンクーバー・スタンレーパークにある日系義勇兵 戦没者記念碑 | |||
1914年、第一次大戦が始まると、 多くの若い日系カナダ人男性が、カナダ陸軍に志願しましたが、 ブリティシュ・コロンビア州では入隊が認められず、 200人程の一世はお隣のアルバータ州へと渡り、 人種差別の障害を乗り越え、カナダ軍の陸軍部隊に入隊しました。 ヨーロッパに送られ、西部戦線の主要な戦場で戦い、 54人の兵士が命を落とし、生き残った兵士たちもほぼ負傷したといわれます。 彼らはカナダに帰化したとはいえ、選挙権のない二級国民でした。 義勇兵として戦った背後には、選挙権を獲得したいという想い、 コミュニティにいる日系人を守りたいという想い、 そして日本人のアイデンティティを示したいという想いがあったのかもしれません。 帰国した兵のうち13人は軍事武勇勲章を授与され、 彼らの英雄的な功績を称えるため、 1920年にはスタンレー公園に戦没者記念碑が建てられました。 日系兵士は1926年、カナダ退役軍人会の自分たちの支部 (ブリティシュ・コロンビア州第9部隊)を開設することができ、 この組織を基礎として1931年には選挙権を獲得します。 |
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第二次大戦の恐怖 敵性外国人の烙印 |
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イエローヘッド・ハイウェイ道路建設キャンプの労働者 1942年頃 JICA横浜 | |||
1939年に英国がドイツに宣戦を布告した後、カナダは直ちに戦列に加わります。 多くの日系カナダ人は日用品や缶詰工場の食糧を提供し、戦費国債を購入する ことで戦争に貢献しましたが、戦争における日本の役割が増すにつれて、 日系カナダ人に対する人種差別が激しくなってゆきます。 全ての日系人はカナダ国の正式な「敵性外国人」と宣言され、 日系カナダ人は外出禁止令の対象となりました。 1942年1月にカナダ政府は「日本人を先祖とするすべての人々」に対して 西海岸100マイルの防衛地域から内陸部に立ち退くよう命令されます。 |
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日系人の仮収容所 家畜厩舎 |
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ビルディングA 女性宿舎(家畜厩舎) ヘイスティングス・パーク バンクーバー 1942年 JICA横浜 (左右にある溝は家畜の糞尿を流すためのもの) |
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「父と母は、病室と呼ばれる広さ約183cm×244cmのツインベットと 仕切りの付いただけの馬小屋に収容されました。 何年間も馬の尿がしみついた床の悪臭は、健康な人までもが病気になるほどでした。」 トム・タガミ ショック、不信、恐怖そして怒り、こうしたあらゆる感情が 日系コミュニティに広まっていました。 内陸部に収容所が建設されるまでの間、ヘイスティングス・パークにある 太平洋国立展示場は、日系カナダ人の仮収容所に指定されました。 この建物はもともと馬や家畜そして産業製品の展示などのために作られたものでしたが、 収容のための宿舎、食堂、診療所そして小学校へと転用されました。 どの家族も住居や全財産を残していくことを余儀なくされただけではなく、 粗末な食べ物とプライバシーもない過酷な生活条件に耐えなければなりませんでした。 |
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日系コミュニティの 根絶 |
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バンクーバーから(内陸部収容所へ)の出発 1942年頃 JICA横浜 | |||
「私たちのコミュニティは200日で破壊されました。」 ロイ・イトウ 1942年3月から11月の間、21,000人以上の日系カナダ人は老若男女を問わず、 ブリティシュ・コロンビア州沿岸から100マイルの「防衛地域」外に 立ち退くよう命じられました。 大部分の人々はゴーストタウンと、ブリティシュ・コロンビア州内陸部の過酷な 僻地に急ごしらえで建てた掘っ建小屋に移動しました。 密接なつながりをもつ日系カナダ人コミュニティは国の各地に散らばることになり、 道路建設キャンプや農場での低賃金労働、収容所での生活を強いられ、 カナダ政府の命令に抵抗した人々は戦争捕虜収容所に投獄されました。 全ての日系カナダ人の資産はそのまま保管されるという約束だったにもかかわらず、 住宅や自動車、釣り船やその設備など没収された財産は全て売却され、 日系カナダ人の収容費用にあてました。 |
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内陸部収容所の一つ タシメ |
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タール紙でできた小屋の長い列 1942年 JICA横浜 | |||
ブリッティッシュ・コロンビア州内陸部に設置された収容所の一つ、タシメ。 カスケード山脈に囲まれた起伏の多い地形と過酷な気候条件の場所に、 板とタール紙で作られた集合住宅は、断熱がされておらず、寒い冬には 室内にまで氷柱ができたといいます。 |
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急速に薄れていった 日本人の精神性 |
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道路建設 プリンストン道路建設キャンプ1号 1942年 JICA横浜 | |||
「私はカナダではカナダ人として認められていませんでした。 そして日本では日本人だと思われていませんでした。 とても混乱し、自分が一体どこに属しているのか判らなくなりました。」 メアリー・オハラ 過酷な生活を強いられる中、日本人の精神性は急速に薄れていったといいます。 日系コミュニティでは家庭内であっても日本語を話さず、 子どもたちに日本人的な振る舞いをさせず、 カナダ人としての生き方を学ばせることによってカナダに同化し、 そして日本語が失われてゆきます。 また内面的には、日本文化の核をなす日本人の精神性を 一世が十分に理解できていなかったことも挙げられるそう。 このことは、日本に暮らす私たちが、 日本人の精神性を理解できているか考えるきっかけになります。 ○人間の心のあり方を理解する|日本人の精神性を探る旅 |
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金銭による補償ではなく、不正・過ちを正す リドレス運動 |
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補償規約に署名するブライアン・マルローニー首相と アート・ミキ全カナダ日系人協会会長 1988年 JICA横浜 |
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戦後、日系人は沈黙を続けたといいます。 1960年代、アフリカ系による権利獲得運動に刺激をうけて、 1970年に若い3世たちによって収容所跡地への「巡礼の旅」が組織され、 歴史の掘り起こしが始まりました。 1978年、日系米市民協会(JACL)の年次大会で謝罪と補償を求める運動を立ち上げ、 1980年には日系人補償賠償実現連合(NCRR)が結成され行動を起こし、 二世を中心とする日系アメリカ人補償全米連合(NCJAR)は 1983年に集団訴訟による補償裁判を起こしました。 1988年9月22日、長い道のりであった補償問題が遂に決着します。 ○戦時中の不正行為を認めること。 ○資格を有するカナダ人に一人当たり21,000ドルを支払うこと。 ○コミュニティ再建基金とし、1,200万ドルを拠出すること。 ○戦時措置法に違反したとされた人々の犯罪歴を抹消すること。 ○日本に国外追放された人々にカナダの市民権を回復すること。 ○カナダ人種関係基金を設立すること(1997年に設立)。 |
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未来へつなぐ道のり 先人たちが植えた木 |
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桜の記念植樹をする年長者 1977年 JICA横浜 | |||
1977年、一世のパイオニアたちによって オッペンハイマー公園に21本の曙桜が植樹されました。 それは、100年間にわたる日系カナダ人の勤勉さと困難な体験を振り返り、 将来の世代の繁栄を祈る象徴的な行為でした。 一世は、抑圧を受けながらも、耐え忍び、立ち直り、そして思い遺る心を教えてくれました。 私たちは日系カナダ人であることに誇りを持ち、 彼らの遺産を継承し続けることができるように望んでいます。 ○日本人の音楽的アイデンティティ|新たな響きが奏でる未来 ○新たな息吹に包まれる桜舞う頃 ○あとから来る者のために |
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天皇皇后両陛下 カナダ国御訪問 |
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天皇皇后両陛下の日系センターご訪問 2009年7月14日 JICA横浜 | |||
2009年7月、日本とカナダの外交関係樹立80周年を迎え、 相互理解と友好関係の増進に資するため、カナダをご訪問された天皇皇后両陛下。 御訪問中に、戦前・戦中に厳しい状況に耐えつつ、移住先の国の発展に資され、 日本との友好親善の基礎作りに多大の貢献をしてきた日系コミュニティを訪ね、 その労をねぎらったそうです。 ※宮内庁より ○象徴天皇制と平和主義|国事に関する行為が行われる宮殿 |
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日本人移民153名が眠る ロスベイ墓地 |
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ビクトリアの南端,Ross Bayに面する一角に子ども56名を含む 初期日本人移民153名が眠るRoss Bay Cemetery(ロスベイ墓地)があります。 戦争や災害で荒れた墓標が1990年代に日本人・日系人有志による 「太平洋懸け橋グループ」の手で再建整備され、合同慰霊碑も建立されました。 日本では墓地は宗教施設ですが,ここRoss Bay Cemeteryは すでにカナダの文化遺産となっており、 初期日本人移民の墓もその重要な一部となっています。 ※Japanese Canadian Community Organization of Victoriaより ○秋を聴く|移ろいゆくコントラスト |
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平均年齢20.2歳 若くして亡くなった日本人 |
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1900年、23歳の若さで亡くなった「KAKEUCHI」さんのお墓。 墓標には桜のマークが刻まれています。 ロスベイ墓地に眠る人々の平均年齢は20.2歳で、 乳幼児・学童期の死者が多いそうです。 |
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欧米人の精神性の根底にある キリスト教 |
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「太陽、月、植物の創造」 ミケランジェロ システィーナ礼拝堂 1511年 |
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欧米人の精神性の根底にあるといわれるキリスト教は一神教(≒唯一絶対神)であり、 死生観に関しては「生」は一回限りと捉え、 死後の世界は天国に行くか地獄に行くかの審判を受けると 二度と変えることができない特徴があるそうです。 天国は現世より幸せな場所であり、地獄は出ることのできない場所と 考えられていることから、キリスト教ではお墓参りの習慣はないのだそう。 欧米人の根底には、唯一絶対である「厳格さ」や一回限りの「生への強い関心」 があるように思え、イギリス系アングロサクソンが持ち合わせているという精神性 「計画性とそれを実現する執念」の意味が腑に落ちてきます。 ○システィーナ礼拝堂のフレスコ画、ミケランジェロの「最後の審判」 |
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日本人の精神性の根底にある 神道 |
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伊勢神宮 御正殿(外宮) | |||
日本人の信仰の一つである神道は、八百万(やおよろず)の神といわれるように あらゆるものに神が宿り、神を畏れ敬い、神に感謝するところに特徴があるそう。 ○日本人の神々を祀る伊勢神宮 ○唯一絶対神ではなく、様々な神が存在するゾロアスター教 |
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日本人の精神性の根底にある 仏教 |
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曹洞宗大本山總持寺 大祖堂(横浜市鶴見) 二祖 峨山韶碩禅師 650回大遠忌 正当 2015.10 (曹洞宗は単独の宗団で最も傘下の寺院が多いそう) |
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538年に朝鮮半島を経て日本に伝えられたといわれる仏教。 あらゆる我欲を超越して完全なる自由・平等を得ようとする「解脱(げだつ)」、 死後は「輪廻(りんね)」して次に生まれるまでの一時的な居場所、 強い関心はないと考えるところに特徴があるそうです。 ○一人一人の音色を大切にしてきた仏教声楽曲「聲明」 ○元気な日本を知ろう|京浜工業地帯をつなぐ鶴見線 |
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固有の神祇信仰と外来の仏教信仰との融合 神仏習合 |
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お寺の中に鳥居がある通称「豊川稲荷」 曹洞宗の寺院 妙嚴寺 (愛知県豊川市) |
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日本仏教固有の特質として、本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想などに基づいて、 神仏一体の形態がごくふつうにみられたことが挙げられるそうです。 仏教というとインドが最も中心であると考えられがちですが、 実はインド仏教や中国仏教を学ぶこと以上に、 日本仏教を学ぶことの哲学的・思想的意義は深いものがあるといい、 この思想に出会うなかで、自己と他者の救いを真剣に考えられる ようになったことは私たちにとって大きな財産なのだそう。 現代のように多元化した社会において、 日本人は異なる立場とそこに立つ人々の人格を、 敬意をもって尊重できる素地があることを知り、うれしく思います。 ※仏教と儒教−日本人の心を形成してきたもの− 竹村牧男 先生 放送大学客員教授・東洋大学教授 ※本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想 ・本地 ⇒ 根本 ≒ 仏、垂迹 ⇒ 化身 ・眼に見えない本体(≒根本)としての仏が、目に見える形で、神として現れているとする思想。 ⇒神様と仏様がいるが根本は仏様であり、神様の後ろに仏様がいるとする考え方。 ・かつて伊勢神宮にはお寺があり、その神様の後ろ(本地仏)は大日如来であった。 ・後に神道側は、仏様の後ろに神様がいると主張した(反本地垂迹)。 ○平安で平等な社会を築く意志|世界に広がるイスラーム |
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日本人の精神性 他者への敬意 |
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日系センターのオープニングにて伝統舞踊の踊り手 2000年 JICA横浜 |
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日本人の精神性は、八百万の神や神仏習合にみられるように、 周囲と影響しあう「寛容さ」や自己のみだけでなく他者の救いを求める 互助精神にあるように思えます。 ○日本人の音楽的アイデンティティ|新たな響きが奏でる未来 ○明日への架け橋|新しい芸術 アール・ヌーヴォーの時代 |
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北海道アイヌ民族にみる 精神性 |
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シャマンの仮面 北海道立北方民族博物館 | |||
3つの顔が描かれているシャマンの仮面。一番上の小さい顔は人間の世界を表し、 真ん中のフクロウは動物の世界、下の大きな顔は精霊を表しているといいます。 シャマンとは、超自然的存在と直接接触する役割を担う 呪術者や巫(かんなぎ≒神主)、祈祷師のことだそう。 アイヌは「人間」を意味し、アイヌ民族の祖先は、 北海道の地をアイヌモシリ(人間の静かなる大地)と呼んだといいます。 自然界をカムイ(神々)として謙虚に祈り、自然の恵みに感謝をし、 「カムイありて我あり、我ありててカムイあり」との互助精神で、 自然を改造・破壊・汚染することなく生活してきたそうです。 そこには、自然への畏敬、ヒトや生き物への愛情、自らのアイデンティティ、 共生への想いが込められているように思えます。 ○鶴の舞|釧路川キャンプ & カヌーツーリング ○釧路と網走をつなぐ釧網線の旅 |
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精神性の 世代間伝承 |
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バリ島の葬儀。葬列では賑やかなガムランが演奏され、 晴れやかな儀式であるため人々の表情は一様に明るいそう |
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キリスト教では、死後の天国は現世よりも幸せな場所であり、 地獄は一度落ちたら二度と出られないと考えられていることから、 墓参りの習慣はないという話は、 無意識的・形式的に墓参りをしてきた私にとって、 その意味を考えるきっかけになります。 先日、遠方に住む関係者に不幸があり18年ぶりに訪れる機会がありました。 私にとっては儀礼的な会話しか交わしたことのない故人でしたが、 故人の妻からは「お父さんはこんなことをしてくれた」という話や、 故人の子どもたちからは「父は仕事に力を注ぎ、町のために貢献してきた」という話、 故人の孫からは「おじいちゃんは、部活でやっている野球の試合を いつも見に来てくれていた」という話をお聴きしました。 私にとって、改めて故人を知る機会になったと伴に、家族や親戚、 住んでいる町とのつながりを意識する場となりました。 冠婚葬祭は、日本人の精神性を世代間伝達する場になっているように思えます。 ○不妊にまつわる社会問題を暗示|インドネシアに住むある夫婦の日記 ○最大のムスリム国 インドネシア |
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Semara Ratih / Spirit of Bali | |||
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高度経済成長で 日本人が失ったもの |
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2011年3月をもって終了したグランドプリンスホテル赤坂 | |||
食糧不足の解消や焼け野原の復興に始まったという戦後。 その後の高度成長期では、大量生産に追われ大都市での労働力不足が深刻になり、 農村の中学卒業者は「金の卵」と呼ばれ集団就職が盛んになったそう。 大組織化する中で仕事は細分化され、自分の仕事に集中するようになり、 経済的価値を基準とした効率化が求められていったようです。 先日、ある方が私に「表向きは周囲に合わせて、本音は隠して対応すれば良い」 との意の発言をされていましたが、バブル崩壊後の状況は、 自分を守るのが精一杯となり、他者のことなど考える余裕がない側面もあるようです。 日本人のもつ良い面を保つためには、日本人がもってきた信仰や 歴史に学ぶこと、日本と違う世界の文化に触れることが有効だと感じます。 それらを鏡として自己に向き合い、 他者理解が促進していくことを心より願っています。 ○破壊と再生|日本型うつ病社会に別れを告げて ○光は闇の中で輝く|世代とジェンダーを越えて発展する ○「個」を消して集団として日本を支えた世代|先人者に感謝を込めて |
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韓国人はなぜ日本を嫌うのか 日本人は自信を持ち主張を |
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新大久保のコリアンタウン (新宿区) | |||
※韓国人はなぜ日本を嫌うのか 2015.11.21 拓殖大国際学部教授 呉善花 先生(オ・ソンファ:韓国生まれ、日本帰化) 講演 「韓国は甘えている」「日本人は自信持ち主張を」「韓流ドラマに価値観の違い」 産経ニュース ○敬語の使い方 来日して30年がたちました。韓国人が日本にいて、 なかなかなおらないものがあります。発音の濁音と敬語の使い方です。 濁音はなかなか直らない。敬語は日本では『ウチの社長は…』と言いますが、 韓国では『ウチの社長様は…』と身内に敬語をつかいます。 日本のように『社長は…』と言うと、 韓国人は『この人は自分の社長を軽蔑しているか』と感じるのです。 ○子どもに対して使う言葉に似ている、日本で非常に発達した「敬語」 ○母性、母系社会 日本で韓流が人気になった最初は何でしょうか。『冬のソナタ』ですね。 日本では無くなった姿、そして何よりもヨン様、ペ・ヨンジュンが大人気になりましたね。 でも韓国人にはヨン様の魅力がわからないのです。 韓国では、もっとがっちりした男性が好まれます。 日本の女性はヨン様のように間の抜けたような男性を、守ってあげたいというか、 コントロールしたいのでしょうか。 女性が強い社会、母性、母系社会ですね。 日本のように『カカア天下』に相当する言葉は韓国の儒教社会ではありえない。 日本では天照大神や木花咲耶姫のように女神の多い国です。 政治家が新年に女神を拝みに伊勢へ行く国です。 韓国では国をあげて拝むような女神はありません。 韓国人にとって日本社会はわかりにくい社会で、表面だけは似ているが、 日本の深い精神性は理解できていない。 ○おとぎ話で語り継がれてきた母性の否定的側面 ○八百万の神 私も反日教育を受けた世代です。『日本人は野蛮人』と教えられました。 しかし、日本に来ると、思いやりがあり、親切で貧富の格差も少ない。 自然が美しい。治安が世界で最もいい国で平和ボケしている。 だが、実際の日本人の心のあり方がつかめない、精神の根本がつかめないため、 反日感情をぶつけるのです。 日本人は八百万(やおよろず)の神々の信仰を尊んでいます。 ヨーロッパのような一神教、韓国のような儒教、朱子学の国では自然の神を 拝むのは未開人とみます。 韓国では『八百万(はっぴゃくまん)の邪鬼を追い出せ』といいます。 自然信仰のままでは、科学は発展しない。なぜ、日本は発展したのか? 日本人に聴いても答えられない。日本人は答えをもっていない。 自信を持っていない。 価値観をはっきりさせないといけないというのは韓国人の考え。 韓国人は『日本人はおかしい』と感じる。 日本人自身が日本のことをわかっていないのは問題。 日本人は自信を持たないといけない。 ○日本人の心を形成してきたもの|これからを生きる指針となるものを探る ○人間の心のあり方を理解する|日本人の精神性を探る旅 |
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参 考 情 報 | |||
○公式サイト | ブリティッシュ・コロンビア州観光局(カナダ) ○Japanese Canadian Community Organization of Victoria ○NAJC | National Association of Japanese Canadians ○Nikkei National Museum and Cultural Centre ○JICA - 国際協力機構 ○ブッチャートガーデン ○日本カナダ学会【公式】ホームページ ○ファースト・ネーションズ (先住民族インディアン)|在日カナダ大使館 ○Musqueam | カナダの先住民マスキーム族 ○外務省: わかる!国際情勢 Vol.38 多文化主義と多国間主義の国、カナダ ○先住民は非先住民より20年寿命が短い、国連報告書:AFPBB News ○国際人権NGO アムネスティ日本 AMNESTY ○映画『バンクーバーの朝日』公式サイト ○海外旅行・観光の最新情報 地球の歩き方 ○宮内庁 ○神社本庁 | HOME ○曹洞宗大本山總持寺 ○豊川稲荷公式ホームページ TOP ○神々の故郷とその神話・伝承を求めて 小澤克彦-岐阜大学名誉教授 ○フリー百科辞典Wikipedia ○日系移民の歴史と日本人の精神性 2015.11 ・講師 岩瀬 章良 先生 エルクリサーチインタナショナル所長 (NPO)ビクトリア日系コミュニティ協会代表理事 ・テーマ カナダ日系移民の歴史:繁栄と排斥 日系コミュニティの消滅と取り残された墓地群 カナダ日系移民が失ったもの 戦前移民と戦後移住者 神道・仏教・キリスト教と日本人の精神性 日本人の霊魂観・死生観 日本人の精神性の変容 日本人の精神性の回復 ・放送大学東京渋谷学習センター ○横浜・バンクーバー姉妹都市50周年記念企画展示 TAIKEN 体験−日系カナダ人 未来へつなぐ道のり− JICA横浜 海外移住資料館 2015.10.24〜2016.2.7 ○特別講演「二つの母国〜カナダ社会における日系人の歴史と現在〜 講師 ゴードン門田 先生 日系文化センター初代理事長 会場 JICA横浜 2015.11 ○ムンバイ・マニラ・オデッサ・バンクーバー姉妹都市提携50周年記念フォーラム 〜都市間連携で開く次代の成長〜 2015.06 場所 パシフィコ横浜 主催 横浜市 ○在日ニューカマー:在日ブラジル人を中心に 2015.10 講師 アンジェロ・イシ 先生 武蔵大学教授 会場 JICA横浜 ○在日オールドカマー 2015.12.05 講師 季洙任(リースーイム) 先生 龍谷大学教授 会場 JICA横浜 ○移民研究の現状と展望 2016.02.27 講師 飯野正子 先生 津田塾大学名誉教授 会場 JICA横浜 ○福岡移民企画展示 隠れキリシタンから国会議員まで〜海を渡った福岡弁と炭坑節〜 2016.03.01〜2016.05.08 JICA横浜 ○第122回(平成27年秋季)東京大学公開講座 「心」 東京大学本郷キャンパス安田講堂 2015.11 ○心と社会 ・開講のあいさつ 大和裕幸 理事 ・文学と想像力 塚本昌則 人文社会系研究科教授 ・「こころ」と「からだ」と「くらし」の三角関係 近藤伸介 医学部附属病院 特任講師 ・精神障害者と罪と罰 樋口亮介 法学政治学研究科 准教授 ・総括討議 橋爪隆 法学政治学研究科 教授 ○進化と心 ・動物の心 武内ゆかり 農学生命科学研究科 准教授 ・ヒトの心はどのように生れ、進化してきたか? 長谷川寿一 総合文化研究科 教授 ・ロボットは心を持つか? 國吉康夫 情報理工学系研究科 教授 ・総括討議 榎本和生 理学系研究科 教授 ○コミュニケーションと心 ・脳から見る人間の言語と心 酒井邦嘉 総合文化研究科 教授 ・子どものことばを育む心 針生悦子 教育学研究科 准教授 ・インターネットと心の健康 下山晴彦 教育学研究科 教授 ・総括討議 寺田寅彦 総合文化研究科 教授 ・閉講のあいさつ 大桃敏行 教育学研究科企画委員長/教育学研究科長 ○認知行動療法('14) 放送大学 主任講師 下山晴彦 先生 (東京大学大学院教授) 神村栄一 先生 (新潟大学教授) ○仏教と儒教―日本人の心を形成してきたもの 放送大学 主任講師 竹村牧男 先生 (東洋大学教授) 高島元洋 先生 (お茶の水女子大学大学院教授) ○『古事記』と『万葉集』 放送大学 主任講師 多田一臣 先生 (二松学舎大学特別招聘教授) ○哲学への誘い 放送大学 主任講師 佐藤康邦 先生 (東京大学名誉教授) ○文化人類学 放送大学 主任講師 内堀基光 先生 (放送大学教授) 奥野克巳 先生 (立教大学教授) ○世界の中の日本 放送大学 主任講師 高橋和夫 先生 (放送大学教授) ○棄民たちの戦場―米軍日系人部隊の悲劇 橋本明 新潮社 2009 ○日系カナダ移民の社会史 太平洋を渡った近江商人の末裔たち 末永國紀 ミネルヴァ書房 2010 ○韓国人はなぜ日本を嫌うのか 2015.11.21 拓殖大国際学部教授 呉善花(オ・ソンファ)先生 講演 「韓国は甘えている」「日本人は自信持ち主張を」「韓流ドラマに価値観の違い」 産経ニュース |
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