はてなき光景をもった絶類の美

武蔵野


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はてなき光景をもった絶類の美
武蔵野

武蔵野図屏風(左隻) 六曲一双 江戸時代17世紀
サントリー美術館


※万葉集東歌 作者未詳 3377

  「武蔵野の草葉もろ向きかもかくも君がまにまに我は寄りにしを」

  「武蔵野の草葉が、あちらこちらへなびくように、私はあなたに寄り添いましたのに」



※新古今和歌集 藤原良経 422

  「ゆく末は空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月影」

  「行く先は空とひとつに交わる武蔵野の草の原から月がのぼる」




古くから歌に詠まれてきた武蔵野。

明治の小説家、国木田独歩(くにきだ どっぽ、明治4年-明治41年)は、

武蔵野について以下のように述べています。



  昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも

  及ばんほどであったに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさは

  かかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。

  自分は武蔵野の美といった、美といわんよりむしろ詩趣(ししゅ)といいたい、

  そのほうが適切と思われる。


  ※「武蔵野」 国木田独歩 明治31年 「一」より




  昔の武蔵野は萱原(かやはら)のはてなき光景をもって絶類の美

  (ぜつるいのび⇒他に類をみないほどの美しさ)を鳴らしていた

  ようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である。

  林はじつに今の武蔵野の特色といってもよい。

  すなわち木はおもに楢(なら)の類(たぐい)で冬はことごとく落葉し、

  春は滴(したた)るばかりの新緑萌(も)え出ずるその変化が

  秩父嶺(ちちぶね、埼玉県)以東十数里の野いっせいに行なわれて、

  春夏秋冬を通じ霞(かすみ)に雨に月に風に霧に時雨(しぐれ)に雪に、

  緑蔭に紅葉に、さまざまの光景を呈(てい)する…


  ※「武蔵野」 国木田独歩 明治31年 「三」より




国木田独歩によると武蔵野の範囲は、現・東京23区の西部と埼玉県の一部、

神奈川県川崎市の一部のエリアを指すようです。



  武蔵野はまず雑司谷(ぞうしがや、豊島区)から起こって線を引いてみると、

  それから板橋の中仙道の西側を通って川越(埼玉県)近傍(きんぼう)まで達し、

  君の一編に示された入間郡を包んで円(まる)く甲武線の立川駅に来る。

  この範囲の間に所沢、田無(西東京市)などいう駅がどんなに趣味が多いか……

  ことに夏の緑の深いころは。

  さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。

  八王子はけっして武蔵野には入れられない。

  そして丸子(まるこ、大田区・川崎市)から下目黒(しもめぐろ、目黒区)に返る。

  この範囲の間に布田(ふだ、調布市)、登戸(のぼりと、川崎市)、

  二子(ふたこ、川崎市)などのどんなに趣味が多いか。

  以上は西半面。

  東の半面は亀井戸(江東区)辺より小松川へかけ木下川から堀切(葛飾区)を

  包んで千住(足立区)近傍へ到って止まる。この範囲は異論があれば取除いてもよい。

  しかし一種の趣味があって武蔵野に相違ないことは前に申したとおりである――


  ※「武蔵野」 国木田独歩 明治31年 「七」より



○多摩川に沿った街々の生活を感じながら

○安心して暮らせる街づくり 世田谷区

○未来に夢をのせて|持続可能な最幸のまち かわさき


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池と雑木林がかもしだす武蔵野の面影
井の頭公園

井の頭公園 (武蔵野市・三鷹市)


大正6年に開園した井の頭恩賜公園。2017年は100周年にあたるそうです。

池と雑木林が醸し出す武蔵野の面影を残す公園は、

三宝寺池(石神井公園)・善福寺池と並び、武蔵野三大湧水池として知られます。



○大井埋立地にみる森里海のつながり


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心がやわらかくなる美術館
三鷹の森ジブリ美術館

ロボット兵(天空の城ラピュタ) 三鷹の森ジブリ美術館


※三鷹の森ジブリ美術館 館主のことば|こんな美術館にしたい


  おもしろくて、心がやわらかくなる美術館

  いろんなものを発見できる美術館

  キチンとした考えがつらぬかれている美術館

  楽しみたい人は楽しめ、考えたい人は考えられ、感じたい人は感じられる美術館

  そして、入った時より、出る時ちょっぴり心がゆたかになってしまう美術館!



  そのために、建物は…

  それ自体が一本の映画としてつくりたい

  威張った建物

  立派そうな建物、豪華そうな建物、密封された建物にしたくない

  すいている時こそ、ホッとできるいい空間にしたい

  肌ざわり、さわった時の感じがあたたかい建物にしたい

  外の風や光が自由に出入りする建物にしたい



  運営は…

  小さな子ども達も一人前にあつかいたい

  ハンデをもっている人にできるかぎり配慮したい

  働く人が自信と誇りを持てる職場にしたい

  道順だの、順路だのと、あまりお客さんを管理したくない

  展示物に埃がかぶったり、古びたりしないよういつもアイデア豊かに、

  新しい挑戦を続けたい

  そのために投資を続けるようにしたい


  (中略)


  こういう美術館にはしたくない!

  すましている美術館

  えらそうな美術館

  人間より作品を大事にしている美術館

  おもしろくないものを意味ありげに並べている美術館



  三鷹の森ジブリ美術館 館主 宮崎 駿



○日本の権力を表象してきた建造物|日本人の自我主張


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自己に誠実に生きた太宰治
生まれて初めての「心の平和」

太宰治文学サロン (三鷹市)


3回の自殺未遂を経て、昭和23年6月13日、山崎富栄と玉川上水に投身自殺を

遂げた太宰治。数々の著作の中で自己への洞察が赤裸々に綴られています。



そんな太宰にも心が安らいだ体験はあったようです。小説「津軽」には、

久しぶりに故郷に帰った際に幼少時代の育ての親である「たけ」を訪ね、

運動会の会場で30年ぶりに再会します。



※「津軽」 太宰治 昭和19年 「第五章 西海岸」


  「修治だ。(⇒太宰治の本名)」私は笑つて帽子をとつた。

  「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。

  でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、へんに、

  あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、

  たけの小屋(臨時にこしらえたもの、今日でいえばテント)に連れて行き、

  「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、

  きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、

  子供たちの走るのを熱心に見てゐる。



  けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。

  足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思ふ事が無かつた。

  もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。

  平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。

  もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。



  先年なくなつた私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であつたが、

  このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。

  世の中の母といふものは、皆、その子にこのやうな甘い放心の憩ひを与へて

  やつてゐるものなのだらうか。

  さうだつたら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまつてゐる。

  そんな有難い母といふものがありながら、病気になつたり、

  なまけたりしてゐるやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。



○絶望から美しさを見い出す|太宰治「人間失格」

○行くたび、あたらしい 活彩あおもり


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人生の賛美・人間愛を語り続けた
武者小路実篤

旧・武者小路実篤(むしゃこうじ さねあつ)邸
現・実篤公園 (調布市)


人生の賛美・人間愛を語り続けた小説家・画家、

武者小路実篤(むしゃこうじ さねあつ、1885(明治18)年-1976年(昭和51)年)。



調布市仙川にある旧邸宅は、昭和30(1955)年から晩年の20年間を過ごした場所だそう。

旧邸宅の隣には、実篤の本、絵や書、原稿や手紙、集めていた美術品などを所蔵した

武者小路実篤記念館があります。


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個人主義や生命の賛美を理想にした
白樺派

武者小路実篤(むしゃこうじ さねあつ、1885(明治18)年-1976(昭和51)年)


武者小路実篤(むしゃこうじ さねあつ)は、

公家出身で明治維新後は華族(子爵)となった家に生まれます。

6歳で学習院初等科に入学、17歳で中等科、18歳で高等科に進み

21歳の卒業まで、学習院には15年間かかわったそうです。

卒業後は東京帝国大学に進みますが翌年に中途退学。

学習院時代に知り合った志賀直哉や有島武郎らと明治43年に「白樺」を創刊。

それ以後、精力的に文学活動を続けたそうです。



当時の学習院は、旧宮内省の外局として設置された官立学校であり、

その目的は「専(もっぱ)ら天皇陛下の聖旨(せいし⇒天皇のおぼしめし)に

基(もとづ)き華族の男子に華族に相当せる教育を施す所とす」と定められていました。

(※学習院学則・第一条、1890(明治23)年、
  カナ表記はひらがなに変更、学習院の歴史 | 成り立ちより)

学習院に一般の人が入学できるようになったのは戦後になってのことです。



「白樺」は、学習院出身の文学者・芸術家が中心となり刊行した同人誌。

個人主義や生命の賛美を理想とし、そのような人々は白樺派と呼ばれています。


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白樺派の志賀直哉
太宰治との論争

志賀 直哉(しが なおや、1883年(明治16年)-1971年(昭和46年))


武者小路実篤とともに白樺派の中心人物であった志賀直哉。

昭和22年から23年にかけて太宰治と激しい論争となります。

当時、志賀直哉64歳、太宰治38歳でした。



昭和22年、「志賀直哉・広津和郎両氏と現代文学を語る」と題した座談会で

志賀直哉は太宰治に対して以下のように述べます。



  若い人のを最近になって少し読んでるんだけど、中村(眞一郎)君のは

  なかったから読んでない。松崎春生という人のを三つ読んだかな。

  それから太宰君の「斜陽」なんていうのも読んだけれど、閉口したな。

  閉口したというのは、貴族の娘が山だしの女中のような言葉を使うんだ。

  田舎から来た女中が自分の方に御の字をつけるような言葉を使うが、

  所々にそれがある。





  あの作者のポーズが気になるな。ちょっととぼけたような。

  あの人(太宰)より若い人には、それほど気にならないかもしれないけど、

  こっちは年上だからね。もう少し真面目にやったらよかろうという気がするね。

  あのポーズは何か弱さというか、弱気から来る照れ隠しのポーズだからね。



※太宰治文学サロン企画展示 2017
  最晩年作「犯人」と「如是我聞(にょぜがもん)」


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家と序列という神
太宰治に致命傷を与える

太宰治(だざい おさむ、1909(明治42)年-1948(昭和23)年)
銀座のBAR「ルパン」にて (林忠彦撮影)


志賀直哉の指摘を受け、太宰治は著書「如是我聞(にょぜがもん)」において

強烈な批判を行います。 (如是我聞⇒このように私は聞いた、仏教の言葉)



太宰の死と志賀直哉の発言の因果関係は定かではありませんが、

他者との関わりを思慮し、第三者の鏡に自分がどのように映し出されているのか

人目を気にする繊細な太宰にとって、志賀や評論家の言葉は重く、

致命傷をおわせるものであったことは確かなようです。



※「如是我聞」 太宰治


  他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。

  敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。

  ひとは、自分の真の神をよく隠す。


  (中略)


  一群の「老大家」というものがある。私は、その者たちの一人とも面接の

  機会を得たことがない。私は、その者たちの自信の強さにあきれている。

  彼らの、その確信は、どこから出ているのだろう。所謂(いわゆる)、

  彼らの神は何だろう。私は、やっとこの頃それを知った。

  家庭である。家庭のエゴイズムである。それが結局の祈りである。

  私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。

  ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。

  私は、或(あ)る「老大家」の小説を読んでみた。何のことはない、

  周囲のごひいきのお好みに応じた表情を、キッとなって構えて見せている

  だけであった。

  軽薄も極まっているのであるが、馬鹿者は、それを「立派」と言い、

  「潔癖」と言い、ひどい者は、「貴族的」なぞと言ってあがめているようである。


  (中略)


  何も、知らないのである。わからないのである。優しさということさえ、

  わからないのである。つまり、私たちの先輩という者は、私たちが先輩をいたわり、

  かつ理解しようと一生懸命に努めているその半分いや四分の一でも、

  後輩の苦しさについて考えてみたことがあるだろうか、ということを私は

  抗議したいのである。


  (中略)


  この頃、つくづくあきれているのであるが、所謂(いわゆる)「老大家」たちが、

  国語の乱脈をなげいているらしい。キザである。いい気なものだ。

  国語の乱脈は、国の乱脈から始まっているのに目をふさいでいる。

  あの人たちは、大戦中でも、私たちの、何の頼りにもならなかった。

  私は、あの時、あの人たちの正体を見た、と思った。

  あやまればいいのに、すみませんとあやまればいいのに。

  もとの姿のままで死ぬまで同じところに居据ろうとしている。


  (中略)


  これだけ言っても、やはり「若い者」の誇張、或(ある)いは気焔(きえん)としか

  感ぜられない「老大家」だったなら、私は、自分でこれまで一ばんいやなことを

  しなければならぬ。脅迫ではないのだ。私たちの苦しさが、そこまで来ているのだ。


  (中略)


  太宰君の「斜陽」なんていうのも読んだけど、閉口したな。なんて言っているよう

  だが、「閉口したな」などという卑屈な言葉遣いには、こっちのほうであきれた。

  どうもあれには閉口、まいったよ、そういう言い方は、ヒステリックで無学な、

  そうして意味なく昂(たかぶ)っている道楽者の言う口調である。

  ある座談会の速記を読んだら、その頭の悪い作家が、私のことを、

  もう少し真面目にやったらよかろうという気がするね、と言っていたが、

  唖然(あぜん)とした。おまえこそ、もう少しどうにかならぬものか。


  (中略)


  貴族がどうのこうのと言っていたが、

  (貴族というと、いやにみなイキリ立つのが不可解)或る新聞の座談会で、

  宮さまが、「斜陽を愛読している、身につまされるから」とおっしゃっていた。

  それで、いいじゃないか。おまえたち成金の奴(やっこ)の知るところでない。



※太宰治文学サロン企画展示 2017
  最晩年作「犯人」と「如是我聞(にょぜがもん)」



○絶望から美しさを見い出す|太宰治「人間失格」


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思考を巡らせ、ふと腑に落ちた時に
創造は生まれる

国立国語研究所(NINJAL) (立川市)


国立国語研究所は、言語研究の観点から人間及び人間の文化の解明に

寄与することを目的とした日本語学・言語学・日本語教育研究の研究所。



言語は、社会における人と人とのコミュニケーションの手段としての働きと、

思考・論理・認知・創造性など人間の知的活動の基盤としての働きを兼ね備えた、

ヒト(人類)のみに与えられた素晴らしい資質です。

この素晴らしい資質を解明するため、国語研はウチ(日本語使用者)の観点と

ソト(諸外国語との比較)の観点を合わせた複合的観点をとり、日本語内部の

多様性と変容、並びに世界諸言語から見た日本語の特質と普遍性を総合的

に明らかにしようとしています。



グローバル化が進む今日の世界において、環境問題や異文化対立などの諸問題

が激化しています。それらの幾つかは、言語が持つ2つの機能―すなわち、

コミュニケーション機能と思考・認知機能―の研究を関連諸分野との学際的連携に

よって深化させ、研究成果を社会に応用することで解決の糸口が見出されるのでは

ないかと考えられます。言語の研究は、決して、漢字や言葉遣いの調査に留まりません。

諸学問の基盤として社会の多方面に役立つ可能性と発展性を秘めているのです。



※「国語研が目指すもの」 国立国語研究所 所長 影山太郎 先生より引用(部分)



○最も進んでいないイノベーション|人間に関する知識

○イノベーションは内生的・自発的に生まれる|健全な経営を目指す会社


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大人とは
裏切られた青年の姿

太宰治旧宅に植えられていたサルスベリ(百日紅)
三鷹市の和風文化施設「みたか井心亭(せいしんてい)」


※「津軽」 太宰治 昭和19年 「第一章 巡礼」


  どうだね、君も一緒に蟹田(かにた、青森の地名)へ行かないか、

  と昔の私ならば、気軽に言へたのでもあらうが、私も流石にとしを

  とつて少しは遠慮といふ事を覚えて来たせゐか、それとも、いや、

  気持のややこしい説明はよさう。

  つまり、お互ひ、大人になつたのであらう。

  大人といふものは侘しいものだ。

  愛し合つてゐても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。

  なぜ、用心深くしなければならぬのだらう。その答は、なんでもない。

  見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。

  人は、あてにならない、といふ発見は、青年の大人に移行する第一課である。

  大人とは、裏切られた青年の姿である。私は黙つて歩いてゐた。

  突然、T君のはうから言ひ出した。

  「私は、あした蟹田へ行きます。あしたの朝、一番のバスで行きます。

  Nさんの家で逢ひませう。」

  「病院のはうは?」

  「あしたは日曜です。」

  「なあんだ、さうか。早く言へばいいのに。」

  私たちには、まだ、たわいない少年の部分も残つてゐた。



○子どもたちに会いにいく旅|遊びの中に未来がある こどもの国

○行くたび、あたらしい 活彩あおもり


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森鴎外の墓の前にある
太宰治の墓

黄檗宗 霊泉山禅林寺 (三鷹市)


※「花吹雪」 太宰治 「三」 


  うなだれて、そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、

  森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下

  の三鷹町にあるのか、私にはわからない。

  けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。

  私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、

  死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も

  無いではなかったが、今はもう、気持が畏縮(いしゅく)してしまって、

  そんな空想など雲散霧消(うんさんむしょう)した。私には、そんな資格が無い。

  立派な口髭(くちひげ)を生やしながら、酔漢(すいかん⇒酒に酔っぱらった男)

  を相手に敢然(かんぜん⇒危険を覚悟の上)と格闘して縁先(えんさき)から

  墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。

  お前なんかは、墓地の択(え)り好みなんて出来る身分ではないのだ。

  はっきりと、身の程を知らなければならぬ。

  私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、

  あわてて帰宅したのである。



○困難を伴う自我の開放|森鴎外「舞姫」にみる生の哲学


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自己を見つめ他者に資する願い
願文

天台宗別格本山 浮岳山昌楽院 深大寺 (調布市)


天台宗の別格本山である深大寺(じんだいじ)。



天台宗を開いた最澄(さいちょう)は、比叡山の麓、滋賀の里に生まれたとされ、

東大寺において具足戒(ぐそくかい⇒僧として出家するための修行)を受けるも

南都仏教(奈良時代に興った仏教)界の腐敗を見たのか、

その年のうちに比叡山に入り、そこで独り修行をはじめます。



20歳のとき、自己のありようを真摯に見つめ、深い考察のもとに

自らの仏道の理想を掲げた「願文(がんもん)」を著します。




※「願文」 最澄 現代語訳解釈文
 『願文(がんもん)』を読む - 悠悠三界(ゆうゆうさんがい)、制作・天台典籍勉強会より


  はるか限りないこの世界は、ただ苦しみばかりで安らかなことは無く、

  乱れ騒がしい生き物たちは、ただ思い悩むことばかりで安らぐことはない。


  (中略)


  風に吹き消される灯火のようにはかない命は保ちがたく、

  朝露のようなこの体は消えやすい。

  草葺きの葬送を執り行うお堂には楽しみは無いのに、

  老いも若きもここに白骨を散じさらし、墓の中は暗くて狭いにもかかわらず、

  どのような身分や職業の人であれ相争ってここに魂を宿らせるようなものである。

  他人を仰ぎ見て、自分を省みるに、この理は確かである。


  (中略)


  ここにおいて、愚か者の極みであり、狂っている者の極みであり、

  徳のないつまらない僧侶であり、最低である最澄は、仏弟子としては

  ほとけのおしえに違反し、国民としては天皇の定めた法に背き、

  子供としては親孝行を欠いている。

  謹んで迷い狂える心に随(したが)いながらも、ここに五つの誓いを起こした。

  全てのものにとらわれないことを手段とし、最高の真実のおしえのために、

  壊れたり退いたりすることのない、堅い決意の心からの願いを起こしたのである。


  (中略)


  もしこの心からの願いが叶って相似の位に至り、5種の不思議な力

  (見えないものを見る・聞こえない声を聞く・他人の心を知る・過去を知る・

  どこへでも自由に行く)を身につけたときは、必ず、自分だけがほとけの

  智慧を得ることなく、ほとけと同等の存在にはならず、あらゆる物事に

  とらわれることはなすまい。



○苦しみぬき、人のためにする天地|より偉大なる人格を懐にして

○日本人の心を形成してきたもの|これからを生きる指針となるものを探る


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武蔵野の自然に囲まれた散策路
深大寺の門前街



深大寺の門前には、多くのお蕎麦屋さんが軒を連ねています。

隣接する神代植物公園とあわせて、武蔵野の自然に囲まれた散策路になっています。


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先人たちのくらしの知恵
穀物の精白・製粉と水車

深大寺水車館 調布市郷土博物館


田や畑でとれた米、麦、粟(あわ)、蕎麦(そば)などは、

粒のまま貯えておくことができるので、早くから主な食料となっていました。

しかし、これらが食べられるようになるまでには、臼(うす)と杵(きね)でついて

殻やヌカなどをふるい分けたり、粉ひき臼で粉にするという仕事が必要でした。

とても手間がかかり、人の力も要りました。



そこで、身近に川や用水、湧水の流れのあるところでは、水の力を利用した

水車が作られ、穀物の精白(せいはく)、製粉も手軽にできるようになりました。



米や麦、蕎麦などは、虫に食われたり傷みがこないように当面の食事に使う

分量だけ精米したり、製粉したりして、余分は米びつや桶(おけ)などの容器

に入れて保存しておきました。



※調布市 深大寺水車館|調布市郷土博物館 案内文より



○食・農・里の新時代を迎えて|新たな潮流の本質


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自我を否定しないのは怠惰
水木しげる出征前手記

鬼太郎茶屋 深大寺の門前街 (調布市)


「ゲゲゲの鬼太郎」の著者である水木しげるさん(1922-2015年)。

1959(昭和34)年に調布に移り住んで以来、亡くなるまで住まれたそうです。



水木しげるさんは妖怪漫画家として知られる一方、戦争漫画を数多く残した

ことでも知られます。太平洋戦争時に激戦地となったラバウル(パプアニュー

ギニア)に赴き、左腕を失うも九死に一生を得た経験から、「ラバウル戦記」、

「総員玉砕せよ!」などの著作があります。



戦争に赴く前に記した原稿用紙38枚にも及ぶ「出征(しゅっせい)前手記」には、

これから戦地に送られる青年の不安や率直な思いが赤裸々につづられています。



※「戦争と読書 水木しげる出征前手記」 水木しげる 荒俣宏 角川新書 2015
  p18-19


  二日(昭和十七年十月)  (水木しげる 20歳)


    今日も恥じ多き日だった。結局人間は馬鹿だ。

    人間を去れば恥じも失せるだろう。


    深く知らなければ救われない。

    広く浅くでは駄目だ。


    自我を否定する時は今だ。

    この環境がこぞつて吾を滅ぼさんとする時、

    泣かずわめかず自我を否定して怠けざるべく努めるのは今だ。

    耐えるのは今だ。

    自分はこうした事件(召集状)にその強さを発揮する。

    平常の考へは、あとかたもなく吹き飛んでしまつて怠惰(たいだ)な、

    苛々(いらいら)した、世界が現れる。

    思ふに結局自我を否定しないのは怠惰だ。



○破壊と再生|日本型うつ病社会に別れを告げて

○人類から遠く離れた孤独の中に住む 世界の本質


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自らへの確信があるからこそ
他者との対話が可能となる

ルーテル学院大学のチャペル (三鷹市)


宗教改革(16世紀)は、宗教的にも世俗的にもヨーロッパ史にとって重大な出来事でした。

しかし、グローバル化、世界規模のコミュニケーション・システム、深刻な政治的・経済的

緊張の中にある現代世界において、宗教改革は意味を持つのでしょうか。また、

ルターの聖書観は、キリスト教以外の諸宗教や無神論と対話する上で有効でしょうか。

宗教改革が残した遺産のうち、現代でもなお意義を持つものとは何でしょうか。

マルティン・ルターとの対話は、刺激的で生産的なものとなるでしょう。



※「現代世界における宗教改革の意義」 2017.09
 講師 ハンス=マルティン・バルド 先生 (ドイツ・マールブルク大学名誉教授)
 司会 廣石望 先生 (立教大学文学部キリスト教科教授)
 宗教改革500年 記念ウィーク「宗教改革が問いかけるもの」記念講演会
 主催 一般財団法人 日本聖書協会
 会場 有楽町朝日ホール




アドルフ・フォン・ハルナック(ドイツの自由主義神学者)の父テオドシウスが言うように、

ドイツ人にとってルターは、「彼を批判する者であっても、また賞賛する者であっても、

他と比べようもない偉大な人物である」。



だからこそ、ルターの生涯や思想を論じることは、ドイツの歴史やナショナリズムと

切り離すことはできないし、政治の側でもルターの宗教運動や思想を、自らの立場

を正当化するために利用してきた。

そのためであろう、一方ですべての歴史は偉大なるルターへと流れ込み、

すべてはルターから始まったのだ、というようなルター像が描かれたりする。

他方で、そのようなルター解釈にうんざりした歴史家たちが、

ルターの仕事を執拗に相対化し、非神話化してみせる。



ハンス=マルティン・バルト教授は、ルターと対話しながら自らの思想を構築して

きた神学者である。バルト教授のルター研究の特徴は、ルターの思想を相対化し、

対話するための手法であろう。



バルト教授の主張はもちろん宗教はいずれも同じだ、などというものではない。

寛容や尊敬、相互理解のための対話は当然なことである。彼の考えは、

自らの宗教的伝統への確信があるからこそ、他者と対話が可能になり、

他者を他者として受け止めることができるというものであろう。



かつてルターの改革自体がすぐに直面した、異なった宗派がどのように共存し、

ひとつの社会的共同体を作ることが出来るのか、という問題と

彼も今日の社会のコンテクストの中で取り組んでいるのである。



※宗教改革500年記念の講演によせて「マルティンがマルティンから学んだこと」
 深井智朗 先生 (東洋英和女学院副院長)
 本のひろば 2017年7月号 掲載記事より


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肝心なのは
おのれに嘘をつかぬこと

東京神学大学(Tokyo Union Theological Seminary) (三鷹市)


※カラマーゾフの兄弟(上) ドストエフスキー 原卓也(訳) 新潮文庫
 第一部・第二編 場違いな会合、年とった道化


  肝心なのは、おのれに嘘をつかぬことです。おのれに嘘をつき、

  おのれの嘘に耳を傾ける者は、ついには自分の内にも、

  周囲にも、いかなる真実を見分けがつかなくなって、

  ひいては自分をも他人をも軽蔑するようになるのです。

  だれをも尊敬できなくなれば、人は愛することをやめ、愛を持たぬまま、

  心を晴らし、気をまぎらわすために、情欲や卑(いや)しい楽しみにふけるようになり、

  ついにはその罪業(ざいごう)たるや畜生道にまで堕ちるにいたるのです。

  これもすべて、人々や自分自身に対する絶え間ない嘘から生ずるのですぞ。



○哲学からみた人間理解|自分自身の悟性を使用する勇気を持つ

○人間的なるものの別名|愛するあまり滅ぼし殺すような悪


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自らの人生に
豊かな実をもたらす

国際基督教大学(International Christian University) (三鷹市)


よくよくあなたがたに言っておく。

一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。

しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。



※ヨハネによる福音書 第12章 24節


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世界宗教を育んだ地
多様な文化が行き交い、栄枯盛衰を繰り返した中近東

パルミラ遺跡(シリア・世界遺産)でのオーケストラ・コンサート


※中近東文化センター(三鷹市) 案内文より


中近東が人類の歴史において果たした役割は、計り知れないほど大きなものでした。

農耕・牧畜がいち早く始まり、五千年以上も前に都市が存在しました。

ユーラシア大陸とアフリカ大陸、地中海とインド洋を結ぶ地理的条件によって、

多種多様な文化が行き交い、栄枯盛衰を繰り返しました。

またユダヤ教やキリスト教、そしてイスラーム教など

世界宗教の揺籃(ようらん⇒ゆりかご)の地でもありました。



「中近東文化センター」は、時間的・空間的に壮大で、内容が豊富な中近東の

歴史的文化を研究する場として、また、その成果を公開する施設として、

三笠宮崇仁殿下のご発意の下、故出光佐三氏(出光興産株式会社創業者)

の全面的な協力を得て、昭和54年(1979年)10月に開館しました。



○平安で平等な社会を築く意志|世界に広がるイスラーム

○ユダヤ教の基本となる考え方ハシディズム|Tales of the Hasidim

○命から生まれた嘆き・希望・美しさ|世界の民族音楽


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散れば咲き 散れば咲きして
百日紅

百日紅(サルスベリ)
東京都神代(じんだい)植物公園 (調布市)


※「散れば咲き散れば咲きして百日紅」

  加賀千代女(かがのちよじょ、江戸中期の女流俳人)



灼熱の日差しを浴びて赤やピンクの鮮やかな花を咲かせるサルスベリ。

新芽を伸ばしながら枝先に新たな花芽をつくり次々に開花します。

開花期が夏から秋にかけて長期にわたることから「百日紅(ヒャクジツコウ)」

とも呼ばれます。



○プリマヴェーラ|悲劇によって道義を知る「虞美人草」


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楽しんで学ぶ花の散策路
神代植物公園

バラ園と大温室 神代植物公園 (調布市)


深大寺に隣接する神代植物公園は、都内唯一の植物公園だそうです。

武蔵野の面影が残るという広大な園内には、バラ園、ツツジ園、ウメ園、

ハギ園をはじめ、植物の種類ごとに分けられており、景色を眺めながら

植物の知識を得ることができます。



○Life in Green|「時」を知りに小石川植物園へ


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植物に依存して生きる人間
日本の植物文化の継承と発展

ダリア園 神代植物公園 (調布市)


人間は植物に依存して生きています。人間にとって不可欠な酸素は

植物の光合成によってもたらされ、穀物や野菜、果物を食べることに

よって人間は生きてゆくことができます。



私たちの周りには植物が身近に存在し、

四季を通じて草木の姿や花の美しさを味わうことができます。

もし結婚式に飾る花がなかったらどんなに寂しいことか。

動物の中で植物に癒しを感じることができるのは、

おそらく人間だけではないかといわれます。



その一方で、人間と植物の関係は希薄化し、人口の増大、環境変動など

の要因により、世界中で多くの野生植物が絶滅の危機に瀕しています。

日本では野生植物の4種に1種が絶滅危惧種に指定されています。



日本の多くの植物園が加盟する日本植物園協会では、

2020年には絶滅危惧植物の75%の保全を目指して取り組まれています。



○「私たちの植物園――今そしてこれから」 2017.09
 ・21世紀の植物画
  山中麻須美 先生 (英国王立キュー 植物園 専属植物画家)
 ・21世紀における植物園の目的
  リチャード・ディヴェレル 先生 (英国王立キュー 植物園園長)
 ・日本植物園協会の震災復興支援活動
  榎本浩 先生 (東京都夢の島熱帯植物館 館長)
 ・日本植物園協会の植物多様性保全活動
  遊川知久 先生 (国立科学博物館筑波実験植物園 研究員)
 ・21世紀における公立植物園 -高知県立牧野植物園では -
  水上元 先生 (高知県立牧野植物園 園長)
 会場 東京大学農学部 弥生講堂
 主催 日本植物園協会



○大井埋立地にみる森里海のつながり

○いのち集まる流域 小網代の森|私たちが生きる地球の持続可能性


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広大な草地が広がっていた日本列島
戦後に形成された森林



江戸時代、幕府は各藩に対して国絵図(⇒地図)と郷帳(ごうちょう:年貢の

基準となった村高(むらだか)を記載する帳簿)に山の状態を記載するよう

指示したといいます。



それらの歴史資料によると、当時の日本列島には広大な草地が広がって

いました。その理由として、肥料や家畜の飼料(秣:まぐさ)として草木を

大量に得るために広大な草地が必要だったことが挙げられています。



戦国の時代が終わり太平の世を迎えた江戸時代は人口が急増したため、

食料増産の必要があり、新田開発には多くの肥料が必要とされました。



明治から大正時代にかけては、金肥(きんぴ⇒自給自足の肥料に対して、

商品として販売された肥料。干鰯(ほしか)や油粕(あぶらかす)など)や

化学肥料が導入されるようになり、草地は土砂災害防止の観点から

森林への転換が図られてゆきます。



その一方で、森林は建築・燃料・鉄道の枕木などのために伐採され、

過剰に利用されます。



天皇皇后両陛下がご臨席され、国土緑化運動の中心的行事である

全国植樹祭が最初に行われたのは、昭和25年(山梨県)のことでした。



※歴史資料から知る過去の林野利用
 講師 岡本透 先生 森林研究・整備機構 関西支所 チーム長
 会場 ヤクルトホール
 国立研究開発法人 森林研究・整備機構 森林総合研究所
 平成29年度公開講演会「木を使って守る生物多様性」 2017.10


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人間と植物の関係
武蔵野を考える

吉祥寺駅前 五日市街道 (武蔵野市)


「武蔵野」の名称の中には「武蔵」という文字が見られます。

「武蔵」の起源は平安時代には存在したとされる「武蔵国(むさしのくに)」

までさかのぼることができ、現在の東京都、埼玉県と神奈川県の川崎市、

横浜市あたりを範囲にした大国だったそうです。



国木田独歩(くにきだ どっぽ)によれば、明治時代の武蔵野は林であり、

その昔は萱原(かやはら)のはてなき光景をもった絶類の美であったと

伝えます。



「武蔵野」は武蔵国(むさしのくに)の美しい野原だったようですが、

今日ではその面影を残すばかりとなっています。

それは、人口の増加、都市への人口集中などの要因により

武蔵野を開発してきた背景があるといいます。



自然は人間の存在によって失われてきましたが、

自然を回復することができるのもまた人間のようです。



○丹沢の自然をもっと身近に|表丹沢三ノ塔 自然再生の現場を訪ねて


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蚕に食われた桑の葉のような
東京市

三鷹中央通り商店街


※「東京八景」 (苦難の或人に贈る) 太宰治 昭和16年


  今では、此(こ)の蚕(かいこ)に食われた桑の葉のような東京市の全形を眺めても、

  そこに住む人、各々の生活の姿ばかりが思われる。

  こんな趣(おもむ)きの無い原っぱに、日本全国から、ぞろぞろ人が押し寄せ、

  汗だくで押し合いへし合い、一寸(ちょっと)の土地を争って一喜一憂し、

  互に嫉視(しっし)、反目して、雌(めす)は雄を呼び、雄は、ただ半狂乱で歩きまわる。



  頗(すこぶ)る唐突に、何の前後の関聯(かんれん)も無く

  「埋木」という小説の中の哀しい一行が、胸に浮かんだ。

  「恋とは」「美しき事を夢みて、穢(きたな)き業(わざ)をするものぞ」

  東京とは直接に何の縁も無い言葉である。



○空高くそびえる摩天楼 西新宿

○日本の伝統文化を受け継ぐ街 秋葉原

○何でもみてやろう|多彩な顔をもつ東京メトロポリタン


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緑の回復と人間性の向上
国営昭和記念公園

立川市


国営昭和記念公園は、

昭和天皇御在位五十年記念事業の一環として設置された公園。



公園内には、プール、スポーツエリア、バーベキュー場などがあり、

四季を通して運動やレクリエーションを楽しむことができます。



豊かな緑に囲まれた園内を、水鳥の池からバードサンクチュアリー・

渓流広場・トンボの湿地・日本庭園へと散策しながら過去を振り返れば、

新たな生きがいが芽生え、新しい時代に向けた連帯が醸成されてゆく

気配を感じます。



○森と湖が広がる北欧の国 フィンランド|不屈の精神から新たな地平へ


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銀河帝国からやってきた?
ダース・ベイダー

アリストロキア・サルバドレンシス (ウマノスズクサ科)
神代植物公園 大温室


映画「スターウォーズ」に登場するダース・ベイダーに似た花、

アリストロキア・サルバドレンシス(ウマノスズクサ科)。



原産地はエルサルバドルで、名前の由来になっています。

目に見える二つの白い模様は、昆虫を引き寄せるための目印とも言われています。


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「社会へ価値提供」に政策を転換する
JAXA

JAXA本社・調布航空宇宙センター (調布市)


宇宙空間はかつて「米ソ二極構造」であったのが、今日では新興国や民間企業

が宇宙活動を急速に活発化させ、「多極構造」へ変化しているといいます。



日本の宇宙開発や利用を定める宇宙基本法(平成20年)に基づいて策定された

宇宙基本計画(平成28年4月1日、閣議決定)では、 政策の目標を以下の3つと

しています。



  @宇宙安全保障の確保
  A民生分野における宇宙利用の推進
  B宇宙産業及び科学技術の基盤の維持・強化



このような環境変化を踏まえて、JAXAでは「政府全体の宇宙開発利用を技術で

支える中核的実施機関」としての位置づけを明確にし、幅広い分野での利用、

他分野との連携を加速する政策を掲げています。その実現のため、

JAXAの技術を積極的に民間へ移管、技術開発の役割分担にも応じていくそうです。



※「JAXA活動報告及び将来に向けた検討の概要」 2017.09
  JAXA理事長 奥村直樹 先生
  JAXAシンポジウム2017 「SPACE INNOVATION −未来のその先へ−」
  有楽町朝日ホール



○UNIVERSE|自然科学と精神科学の両側面

○平和と独立を守る防衛省


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宇宙の謎に挑む
国立天文台

第一赤道儀室(だいいちせきどうぎしつ) 国立天文台 (三鷹市)


宇宙はどのように進化してきたのか。

星や銀河はなぜ生まれたのか。

私たち生命はこの宇宙とどのような関係なのか。



天文学者が夜空の星を望遠鏡で見るようになってから宇宙について分かることが

革新的に増えたといわれます。国立天文台は国内外で様々な観測装置の開発や

教育と広報・普及活動を「宇宙の謎に挑む国立天文台」の理念のもと行ってきたそうです。



○人類から遠く離れた孤独の中に住む 世界の本質


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国立天文台 紹介ビデオ 2013

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太陽を観察してきた
望遠鏡

第一赤道儀室(だいいちせきどうぎしつ)の望遠鏡 国立天文台


1921年(大正10年)に完成した第一赤道儀室は、国立天文台三鷹の中で

現存最古の建物だそう。口径20cm屈折望遠鏡と太陽写真儀(カメラ望遠鏡)

が設置された観測室となっています。



1938年(昭和13年)から61年間、スケッチによる太陽黒点の観察や、

写真儀による太陽全体の写真撮影が行われてきたそうです。


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太陽の元気度合いを測る
黒点観察

スケッチによる太陽の黒点観察
第一赤道儀室 国立天文台


太陽活動の活発さを測るバロメータとなっている黒点(太陽の表面にできる黒いシミ)。

太陽が元気な極大期には黒点が多く、反対に弱々しい極小期には黒点が少なくなる

ことが経験的に知られているそうです。



最初に太陽研究の柱として黒点観測を据えたのはガリレオ・ガリレイ。

ガリレオの観測方法は、その後400年以上にわたって連綿と受け継がれ、

国立天文台では1998年に電子的な記録方法に切り替えるまでは、

ガリレオの方法を使っていたそうです。



400年以上にわたり同じ方法で観測し続けたことに、科学的な価値があるといいます。



※太陽活動の異常と文明と生命への影響 2017.08
 講師 常田佐久 先生 JAXA宇宙科学研究所 所長
 JAXA相模原キャンパス特別公開
※太陽に何が起きているか 常田佐久 文藝春秋 2013


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先入観と常識を超えて
南極の凍らない湖に棲む生命

南極点に到達した時の雪上車
国立極地研究所 南極・北極科学館 (立川市)


「南極大陸は寒い、だからすべてのものが凍りついている。」

もしかすると、こんなことが一般の方々の先入観・常識になっている気がします。

そんな場所に「湖」なんて存在しないように思えるのですが、ごくわずか、

氷床から解放された露岩域には、季節的に氷が解けて水面が顔を

覗かせる「普通の湖」が存在します。そんな南極の湖は南極大陸の上で、

おそらく唯一「一年を通じ、液体の水がある世界」です。

大陸縁辺(えんぺん)にある湖沼(こしょう)では厚さ2m弱の氷に、

一年の4/5ほどの期間、覆われます。

けれど、水深がそれよりも深い湖盆(こぼん)ならば、

「氷点下以下にならない」安定した温度環境の世界となっています。



湖沼での潜水調査を行ってみると、湖底から水棲蘇類と微生物群集から

成る構造物が立ち上がっていることが確認でき、「コケボウズ」と命名しました。



※南極湖沼生態系の実態を探る 2017.09
 講師 工藤栄 先生 国立極地研究所 准教授
 会場 国際交流会議場 国際交流館
 第24回 自然科学研究機構シンポジウム
 極限環境における生命〜生命創成の探求に向けて〜



○地球の未来を読み解く 南極観測

○生命の跳躍|海洋を統合的に理解する


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東京都の離島と本州を結ぶ
調布飛行場

東京都営 調布飛行場 (調布市)
奥の建物は東京スタジアム(味の素スタジアム)


東京都営の調布飛行場は、東京都の離島と本州をつないでいます。

東京都の離島には、大島・利島・式根島・新島・神津島・三宅島・

御蔵島・八丈島 ・青ヶ島・父島・母島の11島があり、そのうち、

調布飛行場からは大島・新島・神津島・三宅島の4島をつないでいます。

(2017年現在)



航空運送の確保によって、離島の利便性、緊急時の安全性が向上しています。



○FLY TO THE WORLD 羽田空港

○厚木基地 日米親善スプリングフェスタ


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独特な盛り上がりをみせる
地元対決

味の素スタジアム (調布市)


2001年に完成した多目的スポーツ施設、東京スタジアム(味の素スタジアム)。

Jリーグに加盟するFC東京と東京ヴェルディのホームスタジアムであり、

スタジアムのこけら落とし(2001年)は両チームの対戦だったそうです。



両チームが対戦するゲームは「東京ダービー」と呼ばれ、特に盛り上がるといいます。

東京FCの応援には、「ヴェルディだけには負けられない」やヴェルディを皮肉って

かつてのチーム名である「ヴェルディ川崎」と呼ぶことがあるそうですが、

それも「東京ダービー」を盛り上げるのに一役買っているようです。



リーグ戦における「東京ダービー」は2011年以来実現していないそうです(2017年現在)。



○多摩川を挟んだ対戦「多摩川クラシコ」|川崎フロンターレのホーム 等々力

○競技スポーツと生涯スポーツの融合を目指す|スポーツクラブ・マネジメント

○闘争と叡智、畏敬が宿る ラクビー


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東京ダービー FC東京 vs 東京ヴェルディ 味の素スタジアム

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数々のビッグレースが行われる
東京競馬場

第150回天皇賞(秋) 東京競馬場 (府中市)


競馬の祭典日本ダービー(東京優駿)や、オークス(優駿牝馬)、

天皇賞(秋)、ジャパンカップなどのGI レースが行われる東京競馬場。

競馬開催日には多くの人で賑わいます。



○日本近代化の象徴 競馬


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地方自治体が主催する公営競技
競艇

「日本一の静水面」といわれる多摩川競艇 (府中市)


ボートレースは競馬・競輪と同じように、国の法律(モーターボート競走法)に

基づいて実施されている公営競技の一つであり、地方自治体が主催しています。



府中市にある多摩川競艇は、東京都青梅市と小平市・日野市・東村山市・

国分寺市から成る東京都四市競艇事業組合により主催されているそうです。

競艇場のある府中市は平和島競艇を主催し、多摩川競艇には関わっていない

といいます。



ボートレースは、6艇のボートで着順を争う競技で、それぞれ決められた

色の旗を付けたボートが、1着を目指して勝負をくり広げます。



売上はレースを開催する地方自治体の財源や、公益財団法人日本財団を

通じて福祉及び公益事業、国際協力事業などに活用されているそうです。



○海に囲まれた日本の発展に寄与してきたボートレース


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時代の変化に対応できる人材を育成する
自治大学校

立川市


地方公務員の中央研修機関である自治大学校。日本は地方分権が進展し、

地方公共団体の自己決定権と自己責任が拡大するなかで、

時代の変化に対応できる人材を積極的に育成することが求められているそうです。



自治大学校の主な役割は、地方公共団体の幹部となる地方公務員の

政策形成能力及び行政管理能力を総合的に養成することだそうです。



○財政健全化への取組み|失われた25年から学んだこと

○持続可能な循環型社会の基盤にあるもの|強さばかりでなく、弱さに目を向ける


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先人者の深き愛情
小さき者へ

多磨霊園 (府中市・小金井市)
東郷平八郎、山本五十六、古賀峯一の墓がある名誉霊域


新宿の西方約20km、緑に囲まれた武蔵野の面影を残す多磨霊園。

海外の森林墓地を参考にして作られた日本最初の公園墓地で、

広大な敷地には各界の著名人のお墓が多くあります。



白樺派の作家であった有島武郎(ありしまたけお)は多磨霊園に眠っています。



※「小さき者へ」 有島武郎 冒頭


  お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、

  ―その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが

  ―父の書き残したものを繰拡(くりひろ)げて見る機会があるだろうと思う。

  その時この小さな書き物もお前たちの眼の前に現われ出るだろう。

  時はどんどん移って行く。

  お前たちの父なる私がその時お前たちにどう映うつるか、それは想像も出来ない事だ。

  恐らく私が今ここで、過ぎ去ろうとする時代を嗤(わら)い憐(あわ)れんでいるように、

  お前たちも私の古臭い心持を嗤(わら)い憐(あわ)れむのかも知れない。

  私はお前たちの為にそうあらんことを祈っている。

  お前たちは遠慮なく私を踏台にして、高い遠い所に私を乗り越えて進まなければ

  間違っているのだ。然しながらお前たちをどんなに深く愛したものがこの世にいるか、

  或(あるい)はいたかという事実は、永久にお前たちに必要なものだと私は思うのだ。

  お前たちがこの書き物を読んで、私の思想の未熟で頑固(がんこ)なのを嗤う間にも、

  私たちの愛はお前たちを暖め、慰め、励まし、人生の可能性をお前たちの心に

  味覚させずにおかないと私は思っている。

  だからこの書き物を私はお前たちにあてて書く。



○私たちの生涯|生と死の狭間にある「時」を歩む


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小さき者は
祝福を胸にしめて人の世の旅に登る

有島 武郎(ありしま たけお、1878(明治11)年-1923(大正12)年


※「小さき者へ」 有島武郎 最後の部分


  深夜の沈黙は私を厳粛(げんしゅく)にする。

  私の前には机を隔ててお前たちの母上が坐っているようにさえ思う。

  その母上の愛は遺書にあるようにお前たちを護らずにはいないだろう。

  よく眠れ。不可思議な時というものの作用にお前たちを打任(うちまか)してよく眠れ。

  そうして明日は昨日よりも大きく賢くなって、寝床の中から跳り出して来い。

  私は私の役目をなし遂げる事に全力を尽すだろう。

  私の一生が如何(いか)に失敗であろうとも、又私が如何なる誘惑に打負けようとも、

  お前たちは私の足跡に不純な何物をも見出し得ないだけの事はする。きっとする。

  お前たちは私の斃(たお)れた所から新しく歩み出さねばならないのだ。

  然しどちらの方向にどう歩まねばならぬかは、

  かすかながらにもお前達は私の足跡から探し出す事が出来るだろう。

  小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて

  人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。

  恐れない者の前に道は開ける。行け。勇んで。小さき者よ。


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戦後の再生 豊穣を祈る
昭和天皇

昭和天皇 武蔵野陵(むさしののみささぎ) (八王子市)
平成29(2017)年1月7日


東京都八王子市にある武蔵陵墓地(むさしりょうぼち)には、

昭和天皇・香淳皇后、大正天皇・貞明皇后が眠られています。



○象徴天皇制と平和主義|国事に関する行為が行われる宮殿


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参  考  情  報


○武蔵野 国木田独歩 - 青空文庫

○〜公園に行きたくなるサイト〜 公園へ行こう!|東京都公園協会

○井の頭自然文化園公式サイト

○三鷹の森ジブリ美術館

○太宰治 - 青空文庫

○太宰治文学サロン | 公益財団法人 三鷹市スポーツと文化財団

○調布市武者小路実篤記念館

○有島武郎 - 青空文庫

○近代日本人の肖像|国立国会図書館

○深大寺ホームページ

○調布観光ナビ|調布市観光協会公式サイト

○『願文(がんもん)』を読む - 悠悠三界

○深大寺観光ガイド「深大寺散歩」

○鬼太郎茶屋 調布市深大寺 | 妖怪舎通信

○都立霊園公式サイト TOKYO霊園さんぽ

○歴史が眠る多磨霊園

○JAXA|宇宙航空研究開発機構

○国立天文台(NAOJ)

○調布飛行場|東京都の離島・空港|東京都港湾局公式ホームページ

○味の素スタジアム

○ボートレース多摩川オフィシャル

○国際基督教大学(ICU)

○ルーテル学院大学

○東京神学大学/Tokyo Union Theological Seminary

○公益財団法人 中近東文化センター

○総務省|自治大学校

○国立国語研究所

○国立極地研究所

○国営昭和記念公園

○無料の写真 - Pixabay

○パブリックドメインの写真 - フリー写真素材

○Imagebase: 100% Free Stock Photos

○フリー百科辞典Wikipedia

○みたか散策マップ|NPO法人みたか都市観光協会

○太宰治文学サロン企画展示
 最晩年作「犯人」と「如是我聞(にょぜがもん)」

○愛と死 武者小路実篤 新潮文庫 1952

○小僧の神様・一房の葡萄 志賀直哉, 武者小路実篤. 有島武郎
 21世紀版・少年少女日本文学館5 2009

○戦争と読書 水木しげる出征前手記 水木しげる 荒俣宏 角川新書 2015

○JAXAシンポジウム2017
 「SPACE INNOVATION −未来のその先へ−」 2017.09
 ・来賓あいさつ
 毛利衛 先生(日本科学未来館 館長/宇宙飛行士)
 ・−JAXA活動報告及び将来に向けた検討の概要−
  奥村直樹 先生(JAXA理事長)
 ・基調講演
 −日本の有人活動について−(仮題)
  若田光一 先生
  (JAXA有人宇宙技術部門 国際宇宙ステーションプログラムマネージャ)
 ・パネルディスカッション「宇宙開発利用の将来展望」
  コーディネータ
   山崎直子 先生(内閣府宇宙政策委員会 委員/宇宙飛行士)
  パネリスト
   角南篤 先生
   (政策研究大学院大学 副学長/
    内閣府参与 科学技術・イノベーション政策担当)
   クリストファー・ブラッカビー 先生(株式会社アストロスケールCOO)
   小田健児 先生(株式会社電通宇宙ラボ代表)
   國中均 先生(JAXA宇宙探査イノベーションハブ長/
            宇宙科学研究所 副所長)
   松浦直人 先生(JAXA新事業促進部長)
 ・会場 有楽町朝日ホール

○太陽活動の異常と文明と生命への影響 2017.08
 講師 常田佐久 先生 JAXA宇宙科学研究所 所長
 会場 東京国立近代美術館フィルムセンター
 JAXA相模原キャンパス特別公開

○太陽に何が起きているか 常田佐久 文藝春秋 2013

○第24回自然科学研究機構シンポジウム
 極限環境における生命〜生命創成の探究に向けて〜 2017.09
 ・開会挨拶 小森彰夫 先生 自然科学研究機構 機構長
 ・クマムシはどのようにして生と死のはざまを生きるか
  荒川和晴 先生 慶應義塾大学 准教授
 ・極限環境微生物が支えるバイオテクノロジー
  石野園子 先生 九州大学 特任准教授
 ・南極湖沼生態系の実態を探る
  工藤栄 先生 国立極地研究所 准教授
 ・地球生命(圏)の限界探査とその先にある野望
  高井研 先生 海洋研究開発機構
 ・放射線に耐える奇妙な球菌が極限環境で生きる仕組み
  鳴海一成 先生 東洋大学 教授
 ・閉会挨拶 
  竹入康彦 先生 自然科学研究機構 副機構長(広報担当)/
            核融合科学研究所 所長
 ・会場 東京国際交流館 国際交流会議場

○現代世界における宗教改革の意義 2017.09
 講師 ハンス=マルティン・バルド 先生 (ドイツ・マールブルク大学名誉教授)
 司会 廣石望 先生 (立教大学文学部キリスト教科教授)
 宗教改革500年 記念ウィーク「宗教改革が問いかけるもの」記念講演会
 会場 有楽町朝日ホール
 主催 一般財団法人 日本聖書協会

○仏教と儒教−日本人の心を形成してきたもの−
 武村牧男 先生 (放送大学客員教授・東洋大学教授)
 高島元洋 先生 (放送大学客員教授・お茶の水女子大学大学院教授)

○ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ
 ―ロシア文学の鬱蒼たる森を探索する 2017.06
 講師 沼野充義 先生 東京大学人文社会系研究科・文学部教授
 会場 東京大学本郷キャンパス法文2号館1番大教室
 第8回文学部公開講座

○「私たちの植物園――今そしてこれから」 2017.09
 ・21世紀の植物画
  山中麻須美 先生 (英国王立キュー 植物園 専属植物画家)
 ・21世紀における植物園の目的
  リチャード・ディヴェレル 先生 (英国王立キュー 植物園園長)
 ・日本植物園協会の震災復興支援活動
  榎本浩 先生 (東京都夢の島熱帯植物館 館長)
 ・日本植物園協会の植物多様性保全活動
  遊川知久 先生 (国立科学博物館筑波実験植物園 研究員)
 ・21世紀における公立植物園 -高知県立牧野植物園では -
  水上元 先生 (高知県立牧野植物園 園長)
 会場 東京大学農学部(弥生キャンパス)弥生講堂
 主催 日本植物園協会

○国立研究開発法人 森林研究・整備機構
 森林総合研究所 平成29年度公開講演会
 木を使って守る生物多様性 2017.10
 ・司会 田中浩 先生 理事
 ・開会挨拶 沢田治雄 先生 理事長
 ・招待講演
  森が育む日本の生物多様性と私たちの生活
  五箇公一 先生 国立環境研究所 生物・生態系環境研究センター室長
 ・基材を使うことと、生物多様性を守ることの両立をめざす森林管理
  尾崎研一 先生 研究ディレクター
 ・歴史資料から知る過去の林野利用
  岡本透 先生 関西支所 チーム長
 ・ポスター発表
 ・生物多様性の鍵となる渓畔林の役割と管理
  吉村真由美 先生 研究評価科 研究評価室長
 ・生物多様性に配慮した人工林施業を考える
  佐藤保 先生 森林植生研究領域 領域長
 ・生物多様性の保全に向けて−今後の展望−
  岡部貴美子 先生 生物多様性研究拠点 拠点長
 ・閉会挨拶 桂川裕樹 先生 理事
 ・会場 ヤクルトホール
 ・後援 土木学会・日本建築学会・日本森林学会・日本生態系学会・
      日本木材学会

○日本の草地面積の変遷 - 京都精華大学 小椋純一 先生
 「京都精華大学紀要」第30号 2006年刊行


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