松山賛歌

「坊ちゃん」に学ぶ日本人の精神性


| 瀬戸内海 | 四国カルスト | 松山城 | 天守 | ローブウェイ | リフト | 現存12天守 | 春や昔 |
| 正岡子規 | 秋山好古 | 秋山真之 | 坊ちゃん | 松山市駅 | 銀天街 | 大街道 | 道後温泉 |
| アルカリ単純泉 | 飛鳥乃湯泉 | 蛇口みかんジュース | えひめこどの城 | 愛媛県庁 | とべ動物園 |
| 愛媛大学 | 捕虜収容所 | 鯛めし | 道後商店街 | 口屋太鼓台 | 石手寺 | 密教 | 牛鬼 |
| 松山賛歌 | ターナー島 | 下灘駅 | 愛媛県美術館 | 松山鮓 | 夏目漱石と高浜虚子 |
| 正岡子規と夏目漱石 | 坊ちゃんスタジアム | 人生100年時代 | 多様性 | 参考情報 |

HOME


輝き続ける島と海
瀬戸内海

来島海峡大橋|しまなみ海道
亀老山展望公園 (愛媛県今治市)


※「老人と海」 アーネスト・ヘミングウェイ, 小川高義(訳)
 光文社古典新訳文庫 2014


老人にとって海とは「ラ・マール(⇒la mar)」だった。スペイン語で海を

愛して言えばそうなる。海を愛していながら海の悪口を言うこともあるが、

それでも海を女に見立てて言っている。これが若い漁師なら、例えば

ブイを釣りの浮きとして使ったり、鮫の肝臓で儲けてエンジンつきの船

を買ったりした連中なら、「エル・マール(⇒el mar)」と男性名詞で言い

もする。海のことを競争相手か、ただの場所か、あるいは敵とでも

見なすようだ。(p29)




「友と言やあ、あの魚だってそうだ」老人は声に出した。「あれだけの魚は

見たことも聞いたこともない。そいつを殺す。星を殺すんじゃないのは

ありがたい」

もし月を殺す毎日だったらどうだろう。月は逃げる。だったら太陽はどうだ。

毎日、太陽を殺そうとすることになったらどうなるか。いやはや、人間は

幸せに生まれついている、と老人は思った。(p75)



○生命の跳躍|海洋を統合的に理解する

○水と共に暮らす|いつまでも美しく安全に


トップに戻る



自然を超越する宇宙の力
もののあわれ

愛媛県・高知県にまたがる四国カルスト


※「俳句への道」 高浜虚子 もののあわれ 二


 人は戦争をする。悲しいことだ。しかし蟻(あり)も戦争をする。蜂(はち)もする。

蟇(がま⇒ヒキガエル)もする。その外(ほか)よく見ると獣も魚も虫も皆互いに

相食(あいは)む。草木の類(たぐい)も互に相侵(あいおか)す。これも悲しいことだ。

何だか宇宙の力が自然にそうさすのではなかろうか。そこにももののあわれが

感じられる。




※高浜虚子(たかはま きょし、1874年〈明治7年〉-1959年〈昭和34年〉)

  愛媛県出身の俳人。家は旧松山藩士。正岡子規に師事し「ホトトギス」
  を主宰。花鳥諷詠を提唱した。明治43年に一家で鎌倉に移住。昭和34
  年鎌倉で没する。



○人類から遠く離れた孤独の中に住む 世界の本質

○UNIVERSE|自然科学と精神科学の両側面


トップに戻る



坂の上の雲を見つめた
楽天主義

松山城


※「坂の上の雲」 一 司馬遼太郎 文春文庫 1999 春や昔 p7


 まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。

 その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、

伊予にわかれている。伊予の首邑(しゅゆう⇒その地方の中心地)は松山。

 城は、松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。その市街の

中央に釜を伏(ふ)せたような丘があり、丘は赤松でおおわれ、その赤松の

樹間(このま)がくれに高さ十丈の石垣が天にのび、さらに瀬戸内の天を

背景に三層の天守閣がすわっている。古来、この城は四国最大の城と

されたが、あたりの風景が優美なために、石垣も櫓(やぐら)も、そのよう

に厳(いかつ)くはみえない。



○潮風に導かれ開国ロマン溢れる浦賀へ

○よこすか はじめて物語|近代化の礎を築いた横須賀製鉄所


トップに戻る



家の系譜が重きをなす
松山城を築城した加藤家の末路

松山城天守


松山市の中心部、勝山にそびえ立つ松山城は、17世紀初め、加藤嘉明

(かとうよしあき)によって築城が始められました。



加藤嘉明は秀吉に仕え、賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦で活躍した七本槍

の1人といわれます。秀吉没後は徳川家康に急接近して東軍に加わり、

関ケ原の合戦の武功によって伊予二十万石の大名となり、これまでの

拠点であった松前城(現愛媛県松前町)から移り、勝山に堅牢(けんろう)

な城郭を築きます。



しかし、外様(とざま)である加藤家の堅牢な城に警戒した徳川家は、

加藤家に対して会津若松への転封(てんぽう⇒国替え)を命じます。



会津若松に移った加藤家は、嘉明(よしあき)の死後12年にして改易

(かいえき⇒家禄や屋敷が没収)となり、わずか2代で滅びます。




加藤家に代わって松山城主となったのは、徳川家康の娘を母とする

蒲生忠知(がもうただとも)。二之丸などを完成させまますが、跡継ぎ

がいなかったため在藩7年で断絶します。




その後、1635年に徳川家にゆかりのある松平定行が城主となり、それ

以降、明治維新までの235年間に渡り松山は親藩(しんぱん⇒徳川家

の子弟で大名となった藩)としての役目を担います。


トップに戻る



厳格なピラミッド組織
優位性を貫いた徳川幕府

松山城ローブウェイ乗り場


※「菊と刀」 ベネディクト, 角田安正(訳) 光文社古典新訳文庫 2008
 第3章 応分の場を占めること p113-114


手短に言えば、徳川幕府の歴代の将軍は各藩内部の身分制度の固定化

を図り、各階層が領主に対して依存する状態を保とうとした。大名は各藩

における階層の頂点に立っており、下位の者に対して特権を行使する

ことを許されていた。



したがって、将軍が国を治めるにあたって大きな問題となったのは、いかに

して大名を統制するかである。将軍はあらゆる手立てを講じて、大名が互い

手を結んだり兵を起こしたりするのを阻んだ。



国境(くにざかい)には、関所手形や荷物を改める役人が置かれ、「入り鉄砲

と出女」を厳しく見張った。それは、大名が妻女(さいじょ⇒妻や娘)を国元に

逃がしたり、武器を密かに江戸に運び込んだりするのを防ぐためである。



いかなる大名も将軍の許しを得ずに縁組をすることはできなかった。大名

が縁組を通じて政治同盟を結ぶ恐れがあったからである。

藩と藩の間の交易も妨げられた。通行禁止になった橋もあったほどである。

幕府の隠密(おんみつ⇒スパイ)も、大名の台所事情を逐一報告してきた。

金蔵(かねぐら)が一杯になってきた大名は、将軍から費用のかさむ土木

事業を押し付けられた。その結果、その大名家の財政状態はふたたび

ほかの大名並みになった。



大名を縛る決まりの中で特に有名だったのは、参勤交代である。大名は

一年のうち半分を江戸で過ごし、国元に帰るとき、妻女は江戸に残して

おかなければならなかった。残された妻女は、将軍に預けられた人質と

いった体(てい)であった。このようにして幕府は支配を維持した。

そして、ピラミッド型の上下関係における優位性を貫き通した。




※ルース・ベネディクト(Ruth Benedict、1887-1948年)

 アメリカの文化人類学者。第二次世界大戦中、米国戦時情報局の依頼を受け、
 日本人の行動や文化の分析からその背後にある独特な思考や気質を解明。
 著書「菊と刀(The Chrysanthemum and the Sword)」において、「菊の優美」と
 「刀の殺伐」に象徴される日本人特有の複雑な性格の背景には「恥の文化」
 があるとした。


トップに戻る



秩序と階層的な上下関係を重視する日本人
自由と平等を重視するアメリカ人

松山城ローブウェイ(左)とリフト(右)


※「菊と刀」 ベネディクト, 角田安正(訳) 光文社古典新訳文庫 2008
 第3章 応分の場を占めること p78



いやしくも日本人を理解しようとするなら、それに先立って確かめておく

べきことがある。それは、日本人が「応分の場を占める」という言葉の

意味をどのように解釈しているのか、ということである。日本人は秩序

と階層的な上下関係に信を置き、一方、わたしたちアメリカ人は自由と

平等に信を置く。両者の間には天と地ほどの隔たりがある。



…日本人は階層的な上下関係に信頼を寄せており、それは人間関係

や、人と国家の関係における基本になっている。



○破壊と再生|日本型うつ病社会に別れを告げて


トップに戻る



江戸時代に建設された天守
現存12天守

松山城が建つ勝山(標高132m)からみた松山市街


かつて、日本全国に約3万の城が存在していたといわれますが、

徳川幕府の一国一城令、明治政府の廃城令、太平洋戦争の

空襲などによって、江戸時代以前に建設された天守は全国に

12ヵ所しか残っていないそうです。



○現存天守12城と国宝5城

  (1) 弘前城 (青森県)
  (2) 松本城 (長野県)    国宝
  (3) 丸岡城 (福井県)
  (4) 犬山城 (愛知県)    国宝
  (5) 彦根城 (滋賀県)    国宝
  (6) 姫路城 (兵庫県)    国宝
  (7) 松江城 (島根県)    国宝
  (8) 備中松山城 (岡山県)
  (9) 丸亀城 (香川県)
 (10) 伊予松山城 (愛媛県)
 (11) 宇和島城 (愛媛県)
 (12) 高知城 (高知県)



○黒を基調とした天守が魅力の国宝「松本城」

○日本最北の天守 弘前城


トップに戻る



春や昔
故郷を慈しむ

春や昔十五万国の城下かな 正岡子規|JR松山駅前


※「坂の上の雲」 一 司馬遼太郎 文春文庫 1999 春や昔 p7-8


 この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになる

かもしれないが、ともかくもわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない。



そのうちのひとりは、俳人になった。俳句、短歌といった日本のふるい短詩型

に新風を入れてその中興の祖になった正岡子規である。子規は明治二十八

年、この故郷の町に帰り、



  春や昔十五万石の城下かな



 という句をつくった。多少あでやかすぎるところが難かもしれないが、子規は、

そのあとからつづいた石川啄木のようには、その故郷に対し複雑な屈折を

もたず、伊予松山の人情や風景ののびやかさをのびやかなままにうたい

あげている点、東北と南海道の伊予との風土の違いといえるかもしれない。



○足元に目を向けるゆとり 秋田美人


トップに戻る



短歌の世界に新しい風が吹く
正岡子規

正岡子規(まさおか しき、1867-1902)


※「歌よみに与ふる書」 正岡子規 新字新仮名
 三たび歌よみに与ふる書


前略。歌よみのごとく馬鹿なのんきなものはまたと無之(これなく)候(そうろう)。

歌よみのいうことを聞き候(そうろ)えば、和歌ほど善きものは他になき由(よし)

いつでも誇り申し候えども、歌よみは歌よりほかのものは何も知らぬゆえに

歌が一番善きように自惚(うぬぼれ)候次第に有之(これあり)候。



   前略。歌を詠む人(⇒歌人)ほど馬鹿でのんきなものは他にはない。

   歌よみの言っていることを聞けば、和歌ほど良いものは他になく、誇り

   を持っていると言うが、歌人は和歌以外のものは何も知らないので、

   和歌が一番良いとうぬぼれているだけだ。





彼らは歌にもっとも近き俳句すら少しも解(げ)せず、十七字でさえあれば

川柳(せんりゅう)も俳句も同じと思うほどののんきさ加減なれば、まして支那

の詩を研究するでもなく西洋には詩というものがあるやらないやらそれも分か

らぬ文盲浅学、まして小説や院本(いんぽん⇒浄瑠璃の台本)も和歌と同じく

文学というものに属すと聞かば定めて目を剥(む)いて驚き可申(もうすべく)候。



   歌人は和歌に近い俳句すら少しも理解せず、17文字でさえあれば、

   川柳も俳句も同じと思うほど、いい加減なので、まして中国の詩を研究

   するでもなく、西洋に詩というものがあるのかないのかも分からない

   浅はかな知識、まして小説や浄瑠璃の台本も和歌と同じく文学という

   のに属するのかと聞けば、目を剥いて驚くほどだ。



トップに戻る



日本陸軍 騎兵の父
秋山好古

秋山兄弟(秋山好古・秋山真之)生誕の地 (復元) (松山市歩行町)


※「坂の上の雲」 一 司馬遼太郎 文春文庫 1999 春や昔 p8-9, p43


「信さん」

 といわれた秋山信三好古(よしふる)は、この町のお徒士(かち)の子に

うまれた。お徒士は足軽より一階級上だが、上士とは言えない。秋山家

は代々十石そこそこを家禄として殿様から頂戴している。


…信さんが十歳になった時の春、藩も秋山家もひっくりかえってしまう

という時代がおこった。

 明治維新である。(p8-9)




…この秋山好古という若者は、のちに軍人になり、日本の騎兵を育成し、

日露役(にちろえき)のとき、世界でももっとも弱体とされていた日本の

騎兵集団をひきい、史上最強といわれるコサック師団をやぶるという

奇跡を遂げた。(p43)



○日露戦争の英雄 乃木希典大将

○SO HAPPY 大連|北方の良港と呼ばれる港街


トップに戻る



日本海軍の参謀
秋山真之

秋山真之(あきやま さねゆき、1868年-1918(大正7)年)


※「坂の上の雲」 一 司馬遼太郎 文春文庫 1999 真之 p77-79


…明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業

しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった。

この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血み

どろの対決をしたのが、日露戦争である。



…弟の真之は海軍に入った。

 「智謀湧くがごとし」といわれたこの人物は、少佐で日露戦争をむかえた。

 それ以前からかれはロシア主力艦隊をやぶる工夫をかさね、その成案を

得たとき、日本海軍はかれの能力を信頼し、東郷平八郎がひきいる連合

艦隊の参謀にし、三笠に乗り組ませた。東郷の作戦はことごとくかれが樹

(た)てた。作戦だけでなく日本海海戦の序幕の名口上ともいうべき、

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直(タダチ)ニ出動、之(コレ)ヲ

撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

 という電文の起草者でもあった。



○日露戦争にて連合艦隊旗艦を務めた「三笠」

○秋山真之終焉の地 小田原


トップに戻る



家族に愛されなかった
坊ちゃん

坊ちゃん列車(右)と2017年に導入された新型車両5000系(左)
伊予鉄 市内電車 松山市駅


※「坊ちゃん」 夏目漱石 1906年(明治39年) 一


親譲の無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分

学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜ぬかした事がある。

なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でも

ない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、

いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。

と囃(はやし)たからである。



小使(こづかい⇒お手伝いさん)に負ぶさって帰って来た時、おやじが

大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと

云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。



○創造的生命力を生み出す愛|夏目漱石「吾輩は猫である」


トップに戻る



今日でもよく見られる光景
最初に相手を威嚇する

松山の中心地・松山市駅にある「いよてつ高島屋」
松山市駅はかつて松山駅という名称でした。
国鉄松山駅が出来た際にその名を譲り、松山市駅になったそうです。


※「坊ちゃん」 夏目漱石 1906年(明治39年) 二


校長は時計を出して見て、追々(おいおい)ゆるりと話すつもりだが、

まず大体の事を呑(の)み込んでおいてもらおうと云って、それから

教育の精神について長いお談義を聞かした。



おれは無論いい加減に聞いていたが、途中からこれは飛んだ所へ

来たと思った。校長の云うようにはとても出来ない。おれみたような

無鉄砲なものをつらまえて、生徒の模範になれの、一校の師表

(しひょう⇒手本)と仰がれなくてはいかんの、学問以外に個人の徳化

を及ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。



そんなえらい人が月給四十円で遥々(はるばる)こんな田舎へくるもんか。

人間は大概似たもんだ。腹が立てば喧嘩の一つぐらいは誰でもする

だろうと思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、散歩も出来ない。



そんなむずかしい役なら雇う前にこれこれだと話すがいい。おれは嘘を

つくのが嫌いだから、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、

思い切りよく、ここで断わって帰っちまおうと思った。



到底あなたのおっしゃる通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと

云ったら、校長は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を見ていた。

やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通り出来ないのはよく

知っているから心配しなくってもいいと云いながら笑った。そのくらい

よく知ってるなら、始めから威嚇(おど)さなければいいのに。


トップに戻る



人間の悪い面を理解する
難癖つけて相手を軽蔑

松山市駅前から見た銀天街(ぎんてんがい)の入口


※「坊ちゃん」 夏目漱石 1906年(明治39年) 五


赤シャツ(⇒教頭)はホホホホと笑った。

別段おれは笑われるような事を云った覚えはない。今日(こんにち)ただ今

に至るまでこれでいいと堅く信じている。



考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励(しょうれい)している

ように思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。

たまに正直な純粋な人を見ると、坊ちゃんだの小僧だのと難癖(なんくせ)を

つけて軽蔑する。



それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えな

い方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、

人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。



赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や

真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事は

ない。大いに感心して聞いたもんだ。清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。




「無論悪い事をしなければ好いんですが、自分だけ悪るい事をしなくっても、

人の悪るいのが分らなくっちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。世の中

には磊落(らいらく⇒度量が広い)なように見えても、淡泊なように見えても、

親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断の出来ないのがあり

ますから……。」


トップに戻る



自らを認識する手がかり
外からみた日本像

大街道商店街


※「菊と刀」 ベネディクト, 角田安正(訳) 光文社古典新訳文庫 2008
 第1章 研究課題─日本 p14


日本が鎖国を解いて門戸を解放してから75年。その間、日本人を描写

するために、「その反面…」という言い回しが数えきれないほど繰り返さ

れてきた。



…「礼儀をわきまえているという点で他の追従を許さない」と述べながら、

「その反面、思い上がった、態度の大きい国民である」という一節を加える。

また、「頑固さにかけては比類がない」と述べておいて、「その半面、最先

端の思想や制度に進んで順応する」と付け足す。「従順な国民である」と

評しながら、「上からの統制に素直に応じない」との説明を併記する。

「節操があって心が広い」と述べながら、「だがその反面、二心(ふたごころ

⇒裏切り)があって執念深い」と断定する。



…これらの矛盾はいずれも日本に関する書物の縦糸と横糸であって、

すべて真実である。菊も刀も、同じ日本像の一部なのである。


トップに戻る



松山のシンボル的存在
道後温泉

道後温泉の管理は松山市が行っているそうです


※「坊ちゃん」 夏目漱石 三  1906年(明治39年)


おれはここへ来てから、毎日住田の温泉(⇒道後温泉とされる。住田は、

漱石が松山の学校に着任した時の校長の名前だといわれる)へ行く事

に極(き)めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが

温泉だけは立派なものだ。



せっかく来たものだから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かた

がた出掛る。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。

この手拭が湯に染そまった上へ、赤い縞(しま)が流れ出したのでちょっと

見ると紅色(べにいろ)に見える。おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に

乗ってもあるいても、常にぶら下げている。それで生徒がおれの事を赤手拭

赤手拭と云うんだそうだ。どうも狭い土地に住んでるとうるさいものだ。



まだある。温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で

済む。その上に女が天目(てんもく⇒茶碗)へ茶を載のせて出す。おれは

いつでも上等へはいった。すると四十円の月給で毎日上等へはいるのは

贅沢だと云い出した。余計なお世話だ。



まだある。湯壺は花崗石(みかげいし)を畳み上げて、十五畳敷ぐらいの

広さに仕切ってある。大抵は十三四人漬(つか)ってるがたまには誰も居ない

事がある。深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐ

のはなかなか愉快だ。おれは人の居ないのを見済(みすま)しては十五畳の

湯壺を泳ぎ巡まわって喜んでいた。



ところがある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗いて

みると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。

湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札はおれのために特別

に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは断念した。


トップに戻る



アルカリ性単純温泉の
かけ流し

明治27年に建てられた道後温泉本館
昭和30年代まで周辺に温泉を持つ旅館はなかったそうです


現存する道後本線本館は明治27(1894)年に建てられたものだそう。

夏目漱石が松山の愛媛県尋常中学校に英語科教師として赴任した

のは明治28(1895)年とのこと。漱石は出来たばかりの真新しい本館

を見ていたのでしょうね。



源泉は火山起源ではなく地熱で温められたもので、本館は源泉の上

に建っているそうです。泉質はアルカリ性の単純温泉で、加熱・加水

はせず、源泉かけ流しだそう。



アルカリ性単純温泉は、湧出時の泉温が25度以上で、温泉水1kgの

中の含有成分が1000mg未満、pH8.5以上の温泉を指し、無色透明

で無味無臭のものが多く、刺激が少ないので子どもやお年寄りにも

安心だとされます。「美肌の湯」や「美人の湯」などと呼ばれることが

多いようです。



道後温泉といえば聞くフレーズ、「日本書紀に記された日本最古の

温泉」や「道後温泉3000年」は推定によるものだそうです。


トップに戻る



日本人のささやかな楽しみ
入浴

2017年12月にオープンした
道後温泉別館 飛鳥乃湯泉(あすかのゆ)


※「菊と刀」 ベネディクト, 角田安正(訳) 光文社古典新訳文庫 2008
 第9章 「人間の楽しみ」の領域 p283-284


日本人がこよなく愛するささやかな肉体的享楽の一つに、温浴がある。

日本人は毎日風呂に入る。湯加減をできる限り熱くして。それは毎晩

の日課である。その点では、水呑み百姓ゆ下っ端の奉公人ですら、

裕福な華族とまったく変わらない。



…人々は湯船に入る前に前身を隈(くま)なく洗い流す。その後で楽しみ

に見をゆだねる。つまり、湯に身を浸し、体を温めてくつろぐ。湯船では、

胎児のように膝を抱えてしゃがみ、顎(あご)のところまで浸かる。



…都市部には、水泳用のプールを思わせる公衆浴場がある。そこに

出かけていき、湯に浸かる人もいる。そして、浴槽の中でたまたま隣り

合った人と歓談することもある。



…日本人は慎み深いけれども、入浴中に恥ずかしがって人目を避け

るということはしない。


トップに戻る



日本人の倫理規範の要
恩の貸借関係

蛇口みかんジュース|蛇口をひねるとみかんジュースがでるんよ!
えひめ愛顔(えがお)の観光物産館


※「坊ちゃん」 夏目漱石 1906年(明治39年) 六


  ここへ来た時第一番に氷水を奢(おご)ったのは山嵐(⇒数学の先生)だ。

  そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。

  おれはたった一杯ぱいしか飲まなかったから一銭五厘しか払はらわし

  ちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、

  死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。




※「菊と刀」 ベネディクト, 角田安正(訳) 光文社古典新訳文庫 2008 解説 p512


  ベネディクトは日本人の不可解な行動を解く鍵を、恩の貸借という概念の中

  に発見した。それはロバート・ハシマによれば、夏目漱石の「坊ちゃん」を読

  んだときに閃(ひらめ)いたのだという。



  同僚の告げ口を真に受けたことから坊ちゃんは、勤務先の旧制中学で唯一

  まともな教師だと思っていた山嵐との仲が悪くなる。関係が悪化すると、

  山嵐から以前おごってもらったわずか一銭五厘の氷水のことが異常に気に

  かかり始める。そしてある日、山嵐に一銭五厘を返すことを決意する。

  日本人なら、まともでない人間から恩を受けたまま放っておくわにいかない

  からである。恩にとなう借りを返そうと躍起になる坊ちゃんの心理は病的だ。

  そう思った瞬間にベネディクトは、恩の貸借関係が日本人の倫理規範の要

  となっていることに思い至る。



※「菊と刀」本部の中で「坊ちゃん」への言及されている部分は、
  第5章 「過去と世間に負い目のある者」 p171-175


トップに戻る



幼少期に学ぶ
のけ者にされる恐怖

えひめこどもの城 マスコットキャラクター コシロちゃん|公式facebookより
愛媛県松山市


※「菊と刀」 ベネディクト, 角田安正(訳) 光文社古典新訳文庫 2008
 第12章 子どもは学ぶ p452-453


子ども時代の後期になると、個人的な満足のうち、あきらめろと命じられる

ものが多くなる。だが、見返りが約束される。それは、「世間」に認められ、

受け入れられるということである。罰は、「世間」から笑い物にされるという

ことである。言うまでもなく大半の文化では、子どものしつけに際してこう

した強制力に頼っている。



だが日本では、その強制力がことのほか重くのしかかってくる。「世間」

からのけ者にされるという状況は、子どもの目には、両親から「よそに

やってしまう」と申し渡される一幕を通じて大いに強調される。



子どもはその後の一生を通じて、のけ者にされることを、暴力をふるわ

れること以上に恐れる。嘲笑されたり、のけ者にされたりする怖れに

対して過剰な反応を示す。自分の頭の中にそのような有様を想像する

だけでも同様の反応が起こる。



日本の共同生活の場には個人のプライバシーはほとんどない。

そのような事情もあって、やることなすことすべて「世間」に知れ渡る。

また「世間」から失格の烙印を押されれば爪弾きされる。



○子どもたちに会いにいく旅|遊びの中に未来がある こどもの国

○Dear Kitty|ずっと誰よりも大切なキティへ


トップに戻る



集団の期待に応えようとしてきた
日本人

愛媛県庁


※「菊と刀」 ベネディクト, 角田安正(訳) 光文社古典新訳文庫 2008
 第12章 子どもは学ぶ p461-462


日本人は自分自身に対して過大な要求を突きつける。

村八分に遭ったり後ろ指をさされたりしたら大変なことになるので、

それを避けるために個人の楽しみはあきらめなればならない。



…人生の重要な事柄に臨む場合、楽しみに身を任せたくなる衝動は、

封じ込めなければならない。この習(なら)わしに背(そむ)く一握りの

人々は、やましい気持ちに襲われる危険すらある。



一方、自分自身を尊重する(自重する)人は、善と悪のどちらかを選ぶ

のではなく、「期待どおりの人間」と「期待を裏切る人間」のどちらかを

選ぶ形で人生行路を決める。



そして、自分自身の個人的な欲求を集団の「期待」の中に埋没させる。

このような人は立派である。すなわち、「恥を知る」人、際限なく用心深

く振る舞う人である。そして一家にも、村にも、国にも名誉をもたらす。



…だが緊張は、個人にとっては耐えがたい重圧となる。用心を怠るわけ

にはいかない。油断しようものなら、失敗するかもしれない。また、

せっかく克己(こっき⇒自分に打ち勝つ)に克己を重ねて成し遂げた

成果を侮(あなど)られるかしれない。



人はときとして、この上なく攻撃的な行動をとって鬱憤(うっぷん)を爆発

させることがある。日本人がこのような攻撃的な行動に駆り立てられるのは、

アメリカ人の場合と異なり、自分の原則や自由が侵されそうになったとき

ではない。むしろ、侮辱や中傷に気づいたときである。そうなると、危険な

自己が噴出する。



○権力を表象してきた建造物|日本人の自我主張

○イノベーションは内生的・自発的に生まれる

○困難を伴う自我の開放|森鴎外「舞姫」にみる生の哲学


トップに戻る



坊ちゃんの倫理規範
善は正直に生きること・悪はだまして生きること

愛媛県立とべ動物園 ゾウストリート 愛媛県砥部町


※「坊ちゃん」 夏目漱石 1906年(明治39年) 七


世の中はいかさま師ばかりで、御互(おたが)いに乗せっこ(⇒だましいあい)

をしているのかも知れない。いやになった。

世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並にしなくちゃ、遣(や)り

切れない訳になる。巾着切り(きんちゃくぎり⇒すり)の上前(うわまえ)をはね

なければ三度の御膳(ごぜん)が戴(いただ)けないと、事が極まればこうして、

生きているのも考え物だ。



…こうして田舎へ来てみると清はやっぱり善人だ。あんな気立きだてのいい

女は日本中さがして歩いたってめったにはない。婆さん、おれの立つときに、

少々風邪を引いていたが今頃いまごろはどうしてるか知らん。先だっての

手紙を見たらさぞ喜んだろう。それにしても、もう返事がきそうなものだが

――おれはこんな事ばかり考えて二三日暮していた。



○善と悪を兼ね備える人間|善の基礎となる個人性の実現

○あふれる力でともに未来へ|植民地化されてきたアフリカ


トップに戻る



山嵐が免職されるきっかけとなった
日露戦争の祝勝会

旧陸軍の演習場(歩兵第22連隊城北練兵場)があった場所に建つ
愛媛大学


※「坊ちゃん」 夏目漱石 1906年(明治39年) 十


祝勝会で学校はお休みだ。練兵場(れんぺいば⇒現在の駐屯地)で式が

あるというので、狸(⇒校長先生)は生徒を引率して参列しなくてはならない。

おれも職員の一人としていっしょにくっついて行くんだ。町へ出ると日の

丸だらけで、まぼしいくらいである。学校の生徒は八百人もあるのだから、

体操の教師が隊伍(たいご)を整えて、一組一組の間を少しずつ明けて、

それへ職員が一人か二人ふたりずつ監督として割り込こむ仕掛しかけ

である。



仕掛だけはすこぶる巧妙なものだが、実際はすこぶる不手際である。

生徒は小供の上に、生意気で、規律を破らなくっては生徒の体面に

かかわると思ってる奴等(やつら)だから、職員が幾人(いくたり)ついて

行ったって何の役に立つもんか。



命令も下さないのに勝手な軍歌をうたったり、軍歌をやめるとワーと訳も

ないのに鬨(とき)の声を揚あげたり、まるで浪人が町内をねりあるいてる

ようなものだ。軍歌も鬨の声も揚げない時はがやがや何か喋舌(しゃべ)

ってる。喋舌らないでも歩けそうなもんだが、日本人はみな口から先へ

生れるのだから、いくら小言を云いったって聞きっこない。喋舌るのも

ただ喋舌るのではない、教師のわる口を喋舌るんだから、下等だ。



○個性化の過程|自分が自分になってゆく

○私が私になってゆく|ハイデガー「存在と時間」


トップに戻る



全国初の捕虜収容所が置かれた
松山

日露戦争時のロシア兵


日露戦争が始まった1904年(明治37年)に全国初の捕虜収容所が松山に

設けられ、捕虜が収容されました。



捕虜は市公会堂や 建長寺、大林寺などの寺院に収容され、かつて松山市

文京町にあった第22連隊城北練兵場(現愛媛大学・松山大学・松山赤十字

病院周辺)には26棟の病棟が建てられました。



110数回に及ぶ捕虜輸送船により松山に収容された捕虜の数は、延べ6000

人に達したと言われ、多い時には4,000名を超える捕虜が松山にいたと言

われています。(当時の松山市の人口は約30,000人)



捕虜兵の博愛処遇は県民に徹底されており、外出は自由で道後温泉、観劇、

伊予市海岸での海水浴などを楽しみました。その噂はロシア兵の間で広まり、

ロシア兵が投降するときには、“マツヤマ”と叫んだとも伝えられています。



捕虜の中で、負傷し懸命の看護の甲斐なく異国の地で生涯を終えたワシリー・

ボイスマン大佐、以下捕虜97名を埋葬しているのがロシア兵墓地です。墓碑

は祖国を望むように北向きに建てられています。なお、埋葬者の出身地は、

当時の広大なロシア帝国の各地におよんでおり、ロシアやポーランドに限らず、

現在のウクライナ、ベラルーシ、バルト諸国、中央アジア諸国が含まれています。



※ロシア兵墓地 松山市・松山市教育委員会



○日系カナダ移民の歴史と日本人の精神性


トップに戻る



風土にあった食べ物
郷土料理

愛媛の郷土料理 鯛めし


※「死せる魂」 ニコライ・ゴーゴリ 1842年


チチコフが振りかえって見ると、いつの間にか、蕈(きのこ)だの、ピロシキだの、

早焼麺麭'(パン)だの、パイだの、薄焼(ブリン)だの、いろんな物を入れた厚焼

(レピョーシカ)、例えば葱を入れたり、芥子を入れたり、凝乳を入れたり、石斑

魚(うぐい)を入れたり、その他あらゆる混ぜものをした厚焼(レピョーシカ)が、

テーブルの上に堆(うずた)かく盛りあげてあった。



「これは玉子入りのあっさりしたピローグでござんすよ!」と女主人が言った。

で、チチコフはそのあっさりした玉子入りのピローグに手をつけて、いきなり半分

の余(よ)も食ってから、それを褒めそやした。実際ピローグそのものも美味かっ

たが、殊に老婆を相手に、すったもんだの一芝居うった挙句なので、一入(ひと

しお)美味しく思われたのである。



「薄焼(ブリン)は如何で?」と女主人がすすめた。

それに答える代りに、チチコフは薄焼(ブリン)を三枚いっしょに丸めて、それに

溶かしたバタをべっとり塗まぶして口の中へ押しこむなり、ナプキンで唇と手を

拭った。



○食・農・里の新時代を迎えて|新たな潮流の本質


トップに戻る



粗にして野だが卑ではない
学校を辞めて松山を離れる

道後商店街
かつて道後温泉の周辺には松ヶ枝(まつがえ)遊郭があったそうです


※「坊ちゃん」 夏目漱石 十一  1906年(明治39年)


「教頭の職を持ってるものが何で角屋へ行って泊った」と山嵐は

すぐ詰(なじ)りかけた。


「教頭は角屋へ泊って悪いという規則がありますか」と赤シャツ

(⇒教頭)は依然として鄭寧(ていねい)な言葉を使ってる。顔の色

は少々蒼い。




…「芸者をつれて僕が宿屋へ泊ったと云う証拠がありますか」

「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て云う事だ。

胡魔化せるものか」

「胡魔化す必要はない。僕は吉川君と二人で泊ったのである。

芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知った事ではない」



「だまれ」と山嵐は拳骨(げんこつ)を食わした。赤シャツはよろよろした

が「これは乱暴だ、狼藉(ろうぜき)である。理非を弁じないで腕力に訴

えるのは無法だ」

「無法でたくさんだ」とまたぽかりと撲(な)ぐる。「貴様のような奸物(かん

ぶつ⇒腹黒い人)はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」とぽかぽかなぐる。

おれも同時に野だを散々に擲(たた)き据えた。しまいには二人とも杉の

根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともし

ない。




…貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに懲りて

以来つつしむがいい。いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さん

ぞ」と山嵐が云ったら両人共(ふたりとも)だまっていた。



○プリマヴェーラ|悲劇によって道義を知る「虞美人草」

○苦しみぬき、人のためにする天地|より偉大なる人格を懐にして


トップに戻る



嘲笑されたり拒絶されることを恐れる
恥の文化

新居浜・口屋太鼓台|愛媛各地の祭りが一挙に集まる
「松山秋祭り 大神輿総練(おおみこしそうねり)2018」(城山公園)


※「菊と刀」 ベネディクト, 角田安正(訳) 光文社古典新訳文庫 2008
 第10章 徳目と徳目の板ばさみ p353


異なるさまざまな文化を対象とする人類学の研究においては、二種類の

文化を区別することが重要である。一方は、恥を強力な支えとしている

文化(⇒日本)。他方は、罪を強力な支えとしている文化(⇒アメリカなど)

である。



…わたしたちは、告白が安らぎをもたらすということを心得ている。ところが、

恥が主たる拘束力となっている場においては、おのれの過ちを打ち明けて

も心は休まらない。たとえ、告白の相手が懺悔聴聞司祭であったとしても。

逆に、不行跡(ふぎょうせき⇒悪い行い)が「世間の知るところ」とならない

限り、心を悩ます必要はない。告白などしようものなら、また一つ余計に

厄介なことが増えるだけのような気持ちに駆られる。というわけで、たとえ

相手が神であろうと、恥の文化には告白する習慣はない。あるのは、贖罪

の儀式よりも、幸運を願う儀式である。



良いおこないを引き出そうとするとき、純然たる恥の文化は外部の強制力

を頼る。内面化された罪の意識を頼ることはない。その点で、純然たる罪

の文化とは異なっている。



恥は周囲の人々の批判に対する反応であり、人前で嘲笑されたり拒絶

されたりするか、そうでなれば、嘲笑されたと思い込むことが恥の原因と

なる。



○春の訪れを告げるカーニバル|祭りに託した人間の願い


トップに戻る



罪を背負って生きる
人間

 真言宗豊山派 石手(いして)寺の山門 二王門 (国宝)
四国八十八箇所霊場の第五十一番札所 (愛媛県松山市)


四国88ヵ所の霊場を巡るお遍路は、自らを非日常の世界に置き、真言宗

の開祖・弘法大師(空海)ゆかりの地を巡りながら悟りの境地に近づこうと

する旅だといわれます。お遍路の心得としては「三信条」と「十善戒」が挙

げられています。



○三信条(さんしんじょう)

 (1)弘法大師が最後の一人まで救ってくださることを信じ、同行二人(どう
  ぎょうににん⇒弘法大師が一緒に付き添ってくれる)の精神で巡拝する

 (2)道中で困ったことや苦しいことがあって愚痴をいわず、修行と考える

 (3)現実の世の中にて救われることを信じ、悟りが得られることを願い
  巡拝する



○十善戒(じゅうぜんかい)

 (1)不殺生(ふせっしょう)  生物を殺さない
 (2)不偸盗(ふちゅうとう)  盗みをしない
 (3)不邪淫(ふじゃいん)  ふしだらなことをしない
 (4)不妄語(ふもうご)  嘘をつかない
 (5)不綺語(ふきご)  お世辞を言わない
 (6)不悪口(ふあっく)  悪口を使わない
 (7)不両舌(ふりょうぜつ)  二枚舌を使わない
 (8)不慳貪(ふけんどん)  異常な欲を持たない
 (9)不瞋恚(ふしんに)  ねたまない
 (10)不邪見(ふじゃけん)  誤った見解を持たない



このようなスタイルのお遍路は、弘法大師信仰の広まりとともに、

江戸時代に原型が確立されたようです。



○人間の弱さと限界、そこからの可能性パスカル「パンセ」

○善すなわち美|自己内対話によって培われる無私の精神


トップに戻る



すべてを包み隠さず明らかにした
密教

 「絹本著色(けんぽんちゃくしょく) 弘法大師像」
真言宗智山派 太山寺(たいさんじ) (愛媛県松山市)


真言宗の開祖・空海(弘法大師)は、讃岐(香川県)に生まれ、幼少期の名前

は「佐伯眞魚(さえきのまお)」。京都で儒教を学び、奈良で南都仏教を学ん

だ後は唐へ渡り密教を修め、儒教・仏教・芸術・文学・土木技術・教育・語学

といった多面的な能力を持った人物だったといわれます。



空海が記したとされる「弁顕密二教論(べんけんみつにきょうろん)によると、

釈尊が説いた経典はすべて顕教(けんきょう)の仏教であり、密教は、仏が

相手をおもんばかることなくすべてを包み隠さず明らかにしたもので顕教

の限界を超える優れた教えなのだそうです。



空海の思想が記されているという「秘密曼荼羅十住心論」は、人間の心を

10段階に分け、それぞれ当時の代表的な思想を配置することによって

体系化を行い、真言密教こそが人間の心の到達できる最高の境地として

います。



○秘密曼荼羅十住心論

 第一住心 異生羝羊心 (いしょうていようしん)  煩悩にまみれた心
 第二住心 愚童持斎心 (ぐどうじさいしん)  道徳の目覚め・儒教的境地
 第三住心 嬰童無畏心 (ようどうむいしん)  超俗志向・インド哲学、老荘思想の境地
 第四住心 唯蘊無我心 (ゆいうんむがしん)  小乗仏教・声門の境地
 第五住心 抜業因種心 (ばつごういんしゅしん)  小乗仏教・縁覚の境地
 第六住心 他縁大乗心 (たえんだいじょうしん)  大乗仏教・ 法相宗の境地
 第七住心 覚心不生心 (かくしんふしょうしん)  大乗仏教・三論宗の境地
 第八住心 一道無為心 (いちどうむいしん)  大乗仏教・天台宗の境地
 第九住心 極無自性心 (ごくむじしょうしん)  大乗仏教・ 華厳宗の境地
 第十住心 秘密荘厳心 (ひみつしょうごんしん)  真言密教の境地



第一住心の「心異生羝羊心(いしょうていようしん)」は、

人間であるにもかかわらず、ただ食事やセックスのことしか考えていない

本能のままに生きるあり方で、人間以外の動物と変わらない状態を指し、

第二住心の「愚童持斎心(ぐどうじさいしん)」は、日頃の自己の生き方を反省し、

社会のために役立つ人間になりたいと思い立つようなあり方だとされます。



○日本人の心を形成してきたもの|これからを生きる指針となるものを探る


トップに戻る



捨てるべきものも、取るべきものも存在しない
煩悩を肯定する

宇和島の牛鬼(うしおに)|背後は松山城
「松山秋祭り 大神輿総練(おおみこしそうねり)2018」(城山公園)


真言宗において最も重要な経典の一つとされる理趣経(りしゅきょう)は、

さとりの真実の知恵(⇒般若)の完成に至る道すじ(⇒理趣)を17の教え

から説いたもので、密教における永遠の理想像というべき世界を明らか

にします。



そこでは一切万物の本質が本来清らかなものであると説き、知恵の極致

は現実の愛欲や欲望をそのままの形で汚れないものとして肯定する立場

(⇒一切法自性清浄)であり、この苦楽を超越した絶対境(⇒大楽)が悟り

だとします。



※「密教経典 大日経・理趣経・大日経疏・理趣釈」 宮坂宥勝 講談社学術文庫 2011
 理趣経 第十七 神秘の教え p164


トップに戻る



人間の善だけでなく
人間の悪をも表現する「文化」

「松山賛歌」 藤城清治 2008


元外交官で元文化庁長官であった近藤誠一 先生。

「文化」のもつ役割には以下のようなものがあると指摘します。


  ○感動、悩み、祈り、感謝の念の表現・共有

  ○感動の持つ力、人間はロボットとは違う

  ○コミュニケーションや連帯といった社会的役割

  ○経済的効果、地域振興、観光資源

  ○個人に生きる力と幸福を与える



人間の善だけでなく、人間の悪をも表現する「文化」に触れることで、

人間は無心となり、自然体でいることができるよう。



日本再生のカギは「文化」にあるといいます。



※私にとっての日本文化−その魅力と普遍性− 2011.07
  講師 近藤誠一 先生 文化庁長官
  第76回 円覚寺夏期講座



○精神自由の再生|ルネサンス都市フィレンツェ


トップに戻る



結局は敗退した
坊ちゃん

愛媛県松山市の沖合いにある四十島|夏目漱石の小説「坊ちゃん」では
青嶋と呼ばれ、赤シャツと野だいこがターナー島と名づけた島


※「坊ちゃん」 夏目漱石 十一  1906年(明治39年)


 清の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、

革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、

早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、

もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。



 その後ある人の周旋(しゅうせん⇒取り持ち)で街鉄(現東京都交通局)の技手

になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても

至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしま

った。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃん

のお寺へ埋うめて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待って

おりますと云った。だから清の墓は小日向(こびなた)の養源寺にある。



○ターナーの作品が展示されるテート・ブリテン


トップに戻る



人間は殺されることはある
しかし、敗北するようにはできていない

JR四国・予讃線 下灘駅 (愛媛県伊予市)


※「老人と海」 アーネスト・ヘミングウェイ, 小川高義(訳)
 光文社古典新訳文庫 2014 p120-121


ついに負けた、挽回はない、と思った。船尾に寄っていって、ぎざぎざに

なった梶棒の折れ口を見たが、うまく舵の穴に押し込めば一応は使い物

になりそうだ。また袋を肩の当て布にして、舟の進路を戻した。



もう船足は軽い。考えることはない。どうという感情もでない。すべてを

通り越して、ただ舟をうまく操って帰港しようとするだけだ。



夜半からまた鮫が来たが、いわば食べこぼしたパン屑を拾うようなもので、

骨になった魚を突いていたにすぎない。老人はもう鮫にはかまわず、ひた

すら舵をとっていた。くくりつけた重荷が軽くなって、いかにも軽快に進んで

いるとしか思わない。いい調子だ、と彼は思った。


トップに戻る



自分の小さい影が映し出される
あざやかな天の河の大きさ

愛媛県美術館 企画展
巨匠が愛した美の世界|川端康成と東山魁夷


※雪国 川端康成 岩波文庫 緑81-3 p173


ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ

体がふうと浮き上がってゆくようだった。天の河の明るさが島村

を掬(すく)い上げそうに近かった。

旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このようにあざやかな天の河

の大きさであったか。裸の天の河は夜の大地を素肌で巻こうとして、

直ぐにそこに降りて来ている。恐ろしい艶(なま)めかしさだ。

島村は自分の小さい影が地上から逆に天の川へ写っていそう

に感じた。天の河にいっぱいの星が一つ一つ見えるばかりでなく、

ところとごろ光雲の銀砂子(ぎんすなご)も一粒一粒見えるほど

澄み渡り、しかも天の河の底なしの深さが視線を吸い込んで行った。



○美しい日本に生まれた私|天地自然に身をまかせ

○人間的なるものの別名|愛するあまり滅ぼし殺すような悪


トップに戻る



天から与えられた幸福
自然と共にいる余裕

愛媛松山の郷土料理 松山鮓(まつやまずし)


※「俳句への道」 高浜虚子 三


 人類の始めはどんな状態であったか。とにかく生活しなければならない

ということが第一の条件であったのでありましょう。暑さ寒さを凌(しの)ぎ、

雨露を凌ぐという事も大事な条件であったでありましょうが、何よりも大事

なことは食物を得るという事であったに相違ありません。



それには田畑に物を作るということもありますが、そんなことを考えつく前

に木の実を食い獣を狩り魚を獲るということが先まず第一に為(な)された

ことでありましょう。…そういう風にして生活しなければならなかった時代は、

花鳥(かちょう⇒花や鳥)を諷詠(ふうえい⇒歌に詠む)し風月(ふうげつ⇒

自然の景色)を楽しむというような事は縁遠いものであったでありましょう。



 衣食に営々(えいえい⇒せっせと働く)としておるということは原始時代も

今もなお変りがないとも言えましょう。現代の人も一握の米、一片の肉を

得るためには血みどろの戦いを続けているとも言えるのであります。



がしかしそれは考え様であります。現代の人間の生活は昔の人の生活とは

違って、一方には営々として衣食を得るために働き、一方には花鳥風月と

共に嬉遊(きゆう⇒楽しみ遊ぶ)しておる余裕を持つようになっておるので

あります。それが天から与えられた人間の幸福な半面と言えない事もない

と思うのであります。



 人によると、花鳥諷詠(かちょうふうえい)は閑事業である、そんな事をして

いる暇があるならば、もっと他に為すべきことがある、苦しい人世を逃避しよう

として徒(いたず)らに易(やす)きに就(つ)くものである、もっと苦しまねばならぬ、

若くして老人の真似をしてはならぬ、と言うものがありますが、それは一を知っ

て二を知らぬ言であります。



 花鳥諷詠ということは原始生活を離れて段々文明の進んで来るに従って、

自然に生れ来った人間の余裕であります。この余裕があればこそ、人間の

眉(まゆ)は常に苦渋の顰(ひそ)みを見せていないで済むのであります。



 魚が泳いでいるのを見ればすぐこれを漁獲せん事を思い、鳥の飛んで

おるのを見ればすぐ狩猟せんことを思い、また樹木があればそれを伐採せん

事を思う人はあわれむべきであります。我らはそれらのものに依よって衣食住

の材を得る事は承知しておりますが、また同時にそれらに依って遊楽(きゆう)

の天地を形造る事も知っております。ひとり汗ばかりを流すのが人間なのでは

ありません。涼風を満喫するのもまた人間であります。花鳥と共におり、風月

と共に居る、これが人間の一面の姿でもあります。



○ルソー「人間不平等起源論」


トップに戻る



正岡子規の実家で出会った
夏目漱石と高浜虚子

高浜虚子(たかはま きょし、1874〈明治7〉年-1959〈昭和34〉年)


※「漱石氏と私」 高浜虚子 1917(大正6)年


 私が漱石氏に就いての一番古い記憶はその大学の帽子を被(かぶ)

っている姿である。時は明治二十四、五年の頃で、場所は松山の中の

川に沿うた古い家(うち)の一室である。それは或る年の春休みか夏休み

かに子規居士(こじ⇒在家の修行者)が帰省していた時のことで、その

席上には和服姿の居士と大学の制服の膝をキチンと折って坐った若い

人と、居士の母堂(ぼどう⇒他人の母に対する敬称、正岡子規の母の

名は八重)と私とがあった。



母堂の手によって、松山鮓(まつやまずし)とよばれているところの五目

鮓が拵(こしら)えられてその大学生と居士と私との三人はそれを食い

つつあった。



他の二人の目から見たらその頃まだ中学生であった私はほんの子供

であったであろう。また十七、八の私の目から見た二人の大学生は遥

かに大人びた文学者としてながめられた。



○江ノ電に乗って古都鎌倉・湘南へ


トップに戻る



寄席の話をきっかけに交際が始まった
正岡子規と夏目漱石

夏目漱石 (1867-1916(大正5)年)


※「正岡子規」 夏目漱石  1908(明治41)年


…非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。

僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わして

居ったので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかったから、

まあ出来ていた。



こちらが無暗に自分を立てようとしたら迚(とて)も円滑な交際の出来る

男ではなかった。例えば発句などを作れという。それを頭からけなしちゃ

いかない。けなしつつ作ればよいのだ。策略でするわけでも無いのだが、

自然とそうなるのであった。つまり僕の方が人が善よかったのだな。



今正岡が元気でいたら、余程二人の関係は違うたろうと思う。尤(もっと)も

其他、半分は性質が似たところもあったし、又半分は趣味の合っていた

処もあったろう。も一つは向うの我とこちらの我とが無茶苦茶に衝突も

しなかったのでもあろう。



忘れていたが、彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話

をした時、先生も大に寄席通を以(もっ)て任じて居る。ところが僕も寄席

の事を知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう。それから大

(おおい)に近よって来た。


トップに戻る



新しいスポーツ文化の創造と
地域社会への貢献

四国アイランドリーグplusに所属する
愛媛マンダリンパイレーツの本拠地 坊ちゃんスタジアム


※「ベースボール」 正岡子規 1896(明治29)年 冒頭


ベースボールに至りてはこれを行う者極めて少くこれを知る人の区域も

甚(はなは)だ狭(せま)かりしが近時第一高等学校と在横浜米人との間

に仕合(マッチ)ありしより以来ベースボールという語ははしなく世人の耳

に入りたり。



されどもベースボールの何たるやはほとんどこれを知る人なかるべし。

ベースボールはもと亜米利加(アメリカ)合衆国の国技とも称すべきもの

にしてその遊技の国民一般に賞翫(しょうがん⇒珍重)せらるるはあたか

も我邦(わがくに)の相撲、西班牙(スペイン)の闘牛などにも類せりとか

聞きぬ。



○競技スポーツと生涯スポーツの融合を目指す|スポーツクラブ・マネジメント


トップに戻る



人生100年時代に向けて
変わりつつある高齢者像

亀老山(きろうさん)|愛媛県今治市


1959(昭和34)年、国連によって高齢者は65歳以上と区分されました。

当時(1955年)の日本の平均寿命は、男性が63.60歳、女性は67.75歳。

人口に占める高齢者(65歳以上)の割合は5.3%でした。



一方、現在(2016年)の平均寿命は、男性が80.98歳、女性は87.14歳。

人口に占める高齢者の割合は27.3%。1955年当時の高齢者割合(5.3%)

を現在にあてはめるてみると「83歳以上」になるそうです。



高齢者の特徴の一つとして、若い頃に比べて心身に不都合が生じる

点が挙げられますが、この点では障がい者と類似する面があります。

しかし、現行の法制度では高齢者と障がい者では対応に違いがある

といいます。



生活保護法では、高齢者が生活保護を申請した場合、稼働能力の活用

(⇒働くこと)は求められませんが、障がい者が申請した場合、まず働く

ことが求められる運用になっています。



このような背景もあり、高齢者の生活保護受給者は約86万世帯と

全体約164万世帯の半数を占めています(2017年)。



○高齢者は働かなくても良いか?
○生活保護を受けながら、社会貢献に時間を割いても良いか?
○高齢者と障がい者との違いは何か?
○高齢者は尊敬される存在か?
○個性の承認は高齢者以外には認められないのか?



人生100年時代を控え高齢者像は変わりつつあるようです。



※高齢者法の可能性 2018.10
 講師 関ふ佐子 先生 横浜国立大学大学院 国際社会科学研究院 教授
 2018年度横浜国立大学公開講座「高齢社会を支える法制度」



○財政健全化への取組み|失われた25年から学んだこと

○障がいを越えて共に生きる

○私たちの生涯|生と死の狭間にある「時」を歩む


トップに戻る



ごちゃ混ぜで支え合い
多様性のある社会

性的マイノリティ啓発冊子「みんなちがって いいんだよね」|愛媛県


今日の日本の潮流は、「都合の良いところを発信して、不都合は発信しない

フェイク(まやかし)」や「統一・伝統性」を重視する保守派と、「真実」や

「多様性」・「人権」を重視するリベラル派とのぶつかり合いのようです。



※情報による“分断”をどう防ぐか〜福祉番組の視点から〜
 講師 熊田佳代子 先生
   NHK「ハートネットTV」編集長・立正大学社会福祉学部非常勤講師
 平成30年度 立正大学文学部 公開講座「氾濫する情報の接し方」



○人間の心のあり方を理解する|日本人の精神性を探る旅


トップに戻る



参  考  情  報


○SHIMAP しまなみ海道観光マップ

○今治市サイクリングターミナル サンライズ糸山

○四国瀬戸内松山|松山市公式観光Webサイト

○巡るめく四国

○松山城

○子規記念博物館

○愛媛県美術館

○坂の上の雲ミュージアム

○秋山兄弟生誕地 公式ホームページ

○【公式サイト】道後温泉

○道後公園湯築城跡

○松山銀天街商店街公式ホームページ

○大街道商店街公式ホームページ

○愛媛県立とべ動物園

○四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページ

○お遍路のススメ

○愛媛FC公式サイト

○愛媛マンダリンパイレーツ公式サイト

○四国アイランドリーグplus 公式サイト

○愛媛オレンジバイキングス

○えひめこどもの城

○えひめこどもの城(@ehime_koshiro)さん | Twitter

○松山秋祭り 大神輿総練(おおみこしそうねり)

○和霊大祭・うわじま牛鬼まつり - 公式ホームページ(愛媛県宇和島市)

○夏目漱石 坊っちゃん - 青空文庫

○正岡子規 作品リスト - 青空文庫

○ニコライ・ゴーゴリ 死せる魂 - 青空文庫

○「人生100年時代」に向けて - 厚生労働省

○NHKハートネット 福祉情報総合サイト

○Find your inspiration. | Flickr

○Wikipedia

○坊ちゃん 夏目漱石 新潮文庫 1929

○愛媛・松山の歴史と文学を歩く 森本繁 アトラス出版 2013

○正岡子規 言葉と生きる 坪内稔典 岩波新書 2010

○老人と海 ヘミングウェイ, 小川高義(訳) 光文社古典新訳文庫 2014

○菊と刀 ベネディクト, 角田安正(訳) 光文社古典新訳文庫 2008

○文化の型 ルース・ベネディクト. 米山俊直(訳) 講談社学術文庫 2008

○日本の村-須恵村 ジョン・F.エンブリー, 植村元覚(訳) 日本経済新聞社 2005

○雪国 川端康成 岩波文庫 緑81-3 1952 (2003改訂)

○巨匠が愛した美の世界 川端康成と東山魁夷
 愛媛県美術館 2018.9.1〜10.21

○明治青年 秋山真之
 坂の上の雲ミュージアム 2018.2.27〜2019.2.17

○秋山真之と村上海賊
 今治市村上水軍博物館 2018.9.22〜10.21

○仏教と儒教―日本人の心を形成してきたもの('13)
 竹村牧男 先生 放送大学客員教授・東洋大学教授
 高島元洋 先生 放送大学客員教授・お茶の水大学大学院教授
 3.平安時代の仏教 空海の思想 武村牧男 先生

○密教経典 大日経 理趣経 大日経疏 理趣釈
 訳注 宮坂宥勝 講談社学術文庫 2011

○私にとっての日本文化−その魅力と普遍性− 2011.07
  近藤誠一 先生 文化庁長官(当時)
  第76回 円覚寺夏期講座

○死せる魂(上) ゴーゴリ, 平井肇・横田瑞穂(訳) 岩波文庫 2007

○知られざるレーニン ニコライ・ヴァレンチノフ. 門倉正美(訳)
 風媒社現代史選書 1972

○成蹊大学公開講座 2017年度後期「ロシア」
 ・ロシア革命はクーデタか革命か、スムータ(動乱)か −論争史を整理する−
  講師 富田武 先生 成蹊大学名誉教授
 ・ロシアと第二次世界大戦の記憶
  講師 立石洋子 先生 成蹊大学法学部助教
 ・花よりダンゴ、ダンゴより花? −ロシア文学における恋愛と料理の関係−
  講師 沼野恭子 先生 東京外国語大学総合国際学研究院教授
 ・国民学派の実態−「ロシア・ファースト」を唱えざるえなかった彼らの事情−
  講師 一柳富美子 先生 東京藝術大学音楽学部講師
・会場 成蹊大学6号館401教室

○「氾濫する情報の接し方」 2018.10
 ・右傾化の時代における情報の見分け方
  青木理 先生 ジャーナリスト、ノンフィクションライター
 ・情報による“分断”をどう防ぐか〜福祉番組の視点から〜
  熊田佳代子 先生 NHK「ハートネットTV」編集長
 ・"情報過多時代"、今何が問われているのか
  浅岡隆裕 先生 立正大学文学部社会学科准教授
 ・SmartNewsから見えるインターネットをめぐる課題
  〜フェイクニュース・低品質コンテンツ、フィルターバブルを考える〜
  藤村厚夫 先生 スマートニュース株式会社フェロー
 ・情報の嘘を見抜くために
  徳山喜雄 先生 立正大学文学部社会学科教授
・平成30年度 立正大学文学部 公開講座
・会場 立正大学品川キャンパス石橋記念講堂
・共催 立正大学文学部、品川区

○「高齢社会を支える法制度」 2018.10
 ・高齢者法の可能性
  関ふ佐子 先生
  横浜国立大学大学院 国際社会科学研究院 教授
 ・高齢者の雇用問題
  石崎由希子 先生
  横浜国立大学大学院 国際社会科学研究院 准教授
 ・高齢者を巡る契約問題
  渡邉拓 先生
  横浜国立大学大学院 国際社会科学研究院 教授
・2018年度横浜国立大学公開講座
・会場 横浜国立大学教育文化ホール
・主催 国際社会科学研究院


トップに戻る

Copyright (C) 2018 MOON WATER All rights reserved