山形の不易流行

「変わらないもの」と「変わりゆくもの」


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陸奥と出羽の国境
険しい中山越え

紅葉が美しい鳴子峡(なるこきょう) 宮城県大崎市


※「奥の細道」 松尾芭蕉 二十五 尿前(しとまえ)


南部道遥かに見やりて、岩手の里に泊まる。小黒崎・みづの小島(⇒

現宮城県大崎市)過ぎて、鳴子の湯より尿前(しとまえ)の関にかかり

て、出羽(⇒現山形・秋田県)の国に越えんとす。



この道旅人まれなる所なれば、関守(せきもり⇒関所の番人)に怪しめ

られて、やうやうとして(ようようとして⇒やっとのことで)関を越す。大山

を登って日すでに暮れれば、封人(ほうじん⇒国境の番人)の家を見か

けて宿を求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留(とうりゅう⇒滞在)

す。



蚤虱馬(のみしらみうま)の尿(しと)する枕もと



あるじのいは(わ)く、これより出羽の国に大山を隔てて、道定かならざれば、

道しるべの人を頼みて越(こ)ゆべきよしを申す。「さらば(⇒それならば)」と

いひて人を頼みはべれば、究竟(くっきょう⇒究極)の若者、反脇指(そりわ

ぎさし⇒刀)を横たへ(え)、樫(かし)の杖を携へて、われわれが先に立ちて

行く。今日こそ必ず危(あやう)ふきめにもあふべき日なれと、辛(から)き思

ひをなして後に付いて行く。



あるじのいふにたがわず(⇒主人が言ったことと違わず)、高山森々として

一鳥声聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし。雲端(うんたん)に

つちふる心地して、篠(しの)の中踏み分け踏み分け、水(⇒渓流)を渡り、

岩に躓(つまず)いて、肌に冷たき汗を流して、最上(もがみ)の庄(しょう⇒

地区)に出(い)づ。



かの案内せし男のいふやう、「この道必ず不用のことあり。恙(つつがの)

なう、送りまゐ(い)らせて、仕合はせしたり」と、喜びて別れぬ。後に聞き

てさへ、胸とどろくのみなり。



○日本人の心を形成してきたもの|これからを生きる指針となるものを探る

○美しい日本に生まれた私|天地自然に身をまかせ


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長旅を癒し
旅の情を知る

銀山温泉 山形県尾花沢市(おばなざわし)


※「奥の細道」 松尾芭蕉 二十六 尾花沢


尾花沢にて清風(せいふう)といふ者を尋ぬ。かれは富める者なれど、志卑

(こころざしいや)しからず。都にをりをり(折々)通ひて、さすがに旅の情を知

りたれば、日ごろとどめて、長途(ちょうど)のいたはり、さまざまにもてなし

はべる。



 涼しさをわが宿にしてねまる(⇒くつろぐ)なり

 這ひ出でよ飼屋(かいや⇒蚕を飼う小屋)が下の蟾(ひき⇒ひきがえる)の声

 眉掃き(まゆはき⇒女性の化粧道具)を俤(おもかげ⇒思い浮かべる)にして紅の花

 蚕飼ひ(こがい)する人は古代の姿かな


 曾良(そら⇒芭蕉の旅に同行した門人・河合曾良)



○日本人の精神性を探る旅

○松山賛歌|「坊ちゃん」に学ぶ日本人の精神性


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閑(しず)かさや岩にしみ入る
蝉の声

天台宗 宝珠山立石寺(りっしゃくじ:山寺) 山形市


※「奥の細道」 松尾芭蕉 二十七 立石寺


山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師(じかくだいし)の開基(かいき

⇒創設)にして、殊(こと)に静閑(せいかん)の地なり。



一見すべきよし、人々の勧(すすむ)るによりて、尾花沢よりとつて返し、

その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麓(ふもと)の坊に宿借り置きて、

山上の堂に登る。



岩に巌(いわお)を重ねて山とし、松柏年旧り(しょうはくとしふり⇒松と柏は

年をとり(老木))、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて(⇒山の

上の寺院らは扉が閉じられ)物の音聞こえず。岸(⇒崖の端)を巡り、岩を

這ひて、仏閣を拝(はい)し、佳景寂寞(けいしゃくじゃくまく⇒静寂につつま

れた景色)として心澄(こころす)みゆくのをゆぼゆ。



閑(しず)かさや岩にしみ入る蝉(せみ)の声



○精神自由の再生|ルネサンス都市フィレンツェ


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周囲を山々に囲まれた
山形

文翔館(ぶんしょうかん)
大正5年から昭和50年まで利用された旧山形県庁舎(2代目)


東北地方の日本海側に位置し、東京から概ね北に300km、山形新幹線で

約3時間の距離(2018年現在)にある山形県。周囲は、蔵王・月山・鳥海・

吾妻・飯豊・朝日と秀麗な山々に囲まれ、日本一のブナ林が広がります。



日本有数の米どころである山形には「はえぬき」や「つや姫」「雪若丸」

といったブランド米のほか、さくらんぼ、ラ・フランス(西洋梨)といった

特産品が知られます。



山形県の人口は約110万人(2017年)。

山形市の人口は約25万人(2018年)となっています。


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東京から約3時間
さくらんぼの里 山形へ

 山形新幹線 つばさ E3系 東京駅


※「奥の細道」 松尾芭蕉 一 深川


月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、

馬の口とらへて老をむかふる者は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。

古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、

漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへて、去年の秋江上(こうしょう)の破屋

(はおく)に蜘の古巣をはらひて、やや年も暮、春立る霞の空に白川の関

こえんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神のまねきにあひて、

取もの手につかず、もも引の破をつづり、笠の緒付かへて、三里に灸すう

るより、松島の月先心にかかりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、



草の戸も住替る代ぞひなの家



面八句(おもてはっく)を庵の柱に懸け置く。



○はてなき光景をもった絶類の美 武蔵野

○日本の伝統文化を受け継ぐ街 秋葉原

○大井埋立地にみる森里海のつながり


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【鉄道PV】山形新幹線 “冬” 2018

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福島からは在来線を走る
つばさ

奥羽本線に入り山岳区間に向かう「つばさ」


1992年に開業した山形新幹線。東京から山形まで約3時間でつなぎます。

1982年の東北新幹線開業まで首都圏から山形へ直接アクセスしていた

特急「つばさ」は、上野-山形間を5時間以上かけてつないだそうです。



山形新幹線は、福島駅から奥羽(おうう)本線に入り、板谷峠を越えて奥羽

山脈の西側を北上します。



奥羽本線は、福島から山形・新庄・横手の各盆地を通り、秋田平野から

青森に至る約500kmの路線。1905年(明治38年)に全線が開業し、2015年

に150周年を迎えています。



○進化するテクノロジー|人間のフロンティア


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日本最長の山脈
東北を東西に二分する奥羽山脈

吾妻山から見る蔵王連峰 (奥羽山脈)


東北地方を太平洋側と日本海側に分かつ奥羽山脈。北は青森県から

南は栃木県に至る全長約500kmに及ぶ日本最長の山脈だそうです。



永きにわたり、東北地方を自然的・文化的に二分してきましたが、現在

では鉄道や道路が普及し、山形から奥羽山脈を越えて東北最大の都市

である仙台(約110万人:2018年)に通勤・通学する人も少なくないといい

ます。



○奥羽山脈の主な山

八甲田山(青森)、岩手山(岩手)、駒ヶ岳(秋田)、栗駒山(岩手・秋田・宮城)、

蔵王山(山形・宮城)、吾妻山(山形・福島),安達太良山(あだたらやま:福島)、

磐梯山(福島)、那須岳(栃木)



○足元に目を向けるゆとり秋田美人

○行くたび、あたらしい 活彩あおもり

○アルプスの風が立つ|厳しくも美しい山岳景勝地 甲信


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急こう配の上に豪雪地帯
板谷峠

板谷峠にある峠駅 山形県米沢市
左側はスイッチバック用折り返しトンネルの遺構


福島県から山形県へは吾妻山の麓、板谷峠(いたやとうげ)を通り抜けます。

板谷峠は急こう配の為、かつて車両が折り返し登るスイッチバックが行われ

ていたそうです。駅は豪雪に対応するためスノーシェッド(snowshed:雪除け)

が設置されています。


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実り豊かな
山形盆地

山形盆地の耕作地


※イザベラ・バードの日本紀行(上) イザベラ バード. 時岡啓子(訳)
 講談社学術文庫 2008 第23信 上山(かみのやま)にて p320


好天の夏の日でしたが、とても暑く、会津の雪を冠した連峰も陽光を受けて

ぎらぎらと輝き、あまり涼しくは見えませんでした。米沢の平野は南に繁栄

する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉の町、赤湯があって、申し

分のないエデンの園で、「鋤(すき)ではなく画筆で耕されて」おり、米、綿、

とうろこし、たばこ、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、瓜、きゅうり、あんず、

ざくろをふんだんに産します。微笑みかけてくるような実り豊かな地です。

自立した東洋のアルカディア(⇒ギリシアの地名、理想郷)です。



※イザベラ・ルーシー・バード(Isabella Lucy Bird, 1831-1904年)
 イギリスの女性冒険家。1878(明治11)年、横浜に上陸したのち、
 欧米人では初めて東京から東北の内陸を経て北海道を巡り、
 各地の文化・習俗・自然を記した。



○食・農・里の新時代を迎えて|新たな潮流の本質


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山形県の名前の由来
山方

山形市街 (七日町)


山形県の「山形」は、平安初期の資料「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」

に今の山形市の南側を「山方(やまがた)郷」と言ったことに由来があると言わ

れています。なぜここを山方と言ったかは不明ですが、今の山形市より見て

南のほうには、山岳信仰で知られた蔵王、瀧山(りゅうざん)の山々があります。



そののちこの山方という地名は、いったん資料から見えなくなるのですが、

南北朝時代に斯波兼頼が政治の拠点をこの地に置き政治が安定してくると、

土地売買の文書などに山形という地名が改めて見えてくるようになります。



※山形県の名前の由来|山形県ホームページ


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日本列島が形成された時代
山形で発掘された土偶

山形県舟形町で発掘された土偶 「縄文の女神」(国宝)
山形県立博物館 (霞城公園)


平成4年に山形県舟形町で発掘され「縄文の女神」と名づけられた土偶。

肩からW字に張り出した胸、突き出た腹部、腰のくびれから背後に大きく

せり出したお尻から、妊娠した女性を象徴していることがうかがえます。



縄文時代は、発掘された土器に縄目の文様があることから分けられた時代

区分だそうで、今からおよそ13,000年前から2,300年くらい前まで約1万年間

を指します。その後の時代は、弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉と続きます。



縄文初期は、氷河期が終わり海面が上昇して現在の日本列島が形成され

た時期だといわれ、四季がはじまり、人々は狩猟や漁労、植物の採取とい

った現代の生活に通じる基本的な活動が行われるようになります。

そのような活動に伴い土器や石器といった実用的な道具に加え、装身具

そして土偶や石棒(せきぼう)といった祭祀の道具を作り出されるようになり

ます。



土偶は、動物をかたどった土製品で、特に女性を表現した物が多いといわ

れます。一方、石棒(せきぼう)は男性の象徴で、土偶・石棒ともに子孫繁栄

や豊穣のために作られたと考えられています。



※縄文の女神とは|縄文の女神ホームページ
※特別展「縄文―1万年の美の鼓動」
 東京国立博物館 平成館 2018年7月〜9月、他より



○日本最大級の縄文集落跡 三内丸山遺跡


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平安時代
和歌に初めて登場する最上川

最上川 最上峡(もがみがわ もがみきょう) 山形県戸沢村


※古今和歌集 巻20, 1092

 「最上川上れば下る稲船(いなふね)の いなにはあらずこの月ばかり」

 (読み人知らず)



稲舟(いなふね)は、国に納める租(そ⇒収穫した米を一定の割合で納め

る制度)を積んだ船を指し、最上川を上り下りする船に男女の恋愛が託

されています。

男性の求愛に対して女性は「いな(否)にはあらず⇒嫌ではないが」、

「この月ばかり⇒今月は」待って欲しいという相思の想いが込められ

ているそうです。



古今和歌集は、平安の前期905年に醍醐天皇の命によって編纂された

最初の勅撰和歌集。全20巻・約1100首から成り、巻20には東歌(あずま

うた⇒都から見て東の国の歌)が収められています。



※最上川電子辞典|国土交通省 山形河川国道事務所
※最上川と文学 尾花沢市歴史文化専門員 梅津保一、他より



○水と共に暮らす|いつまでも美しく安全に


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江戸時代
譜代大名が頻繁に入れ替わった山形藩

二ノ丸東大手門 (復元)
国指定史跡山形城跡「霞城(かじょう)公園」


山形県の村山・最上・庄内地方と秋田県の由利地方を領主とした初代

山形藩主・最上義光(もがみよしあき, 1546-1614)。

関ヶ原の合戦で徳川家康に味方して、領地はそれまでの3倍にあたる

57万石となります。



最上氏改易(かいえき⇒身分や財産の没収)の後も鳥居氏・保科氏と

徳川幕府の信頼の厚い大名が配置され、東北の軍事上の押さえとして、

山形藩は重要視されました。



しかし、それ以降は、藩としての石高は徐々に減っていき、また譜代大名

(ふだいだいみょう⇒関ヶ原合戦前から徳川家に臣従していた大名)など

が頻繁に入れ替わるようになりました。



最後の大名、水野氏(1845-1869)の時は石高が五万石にまで減り、山形

城の三の丸の一部は田畑として利用されるようになっていました。



○山形藩の歴代藩主 (年代・藩主名・石高・移転先)

  (1)1600〜 (21年) 最上氏    57万石 改易
  (2)1622〜 (14年) 鳥居氏    22万石 断絶
  (3)1636〜 ( 7年) 保科氏    20万石 会津(福島)へ
  (4)1643〜 ( 1年) 幕府領
  (5)1644〜 ( 4年) 松平氏(結城) 15万石 姫路(兵庫)へ
  (6)1648〜 (20年) 松平氏(奥平) 15万石 宇都宮(栃木)へ
  (7)1668〜 (17年) 奥平氏     9万石 宇都宮(栃木)へ
  (8)1685〜 ( 1年) 堀田氏    10万石 福島(福島)へ
  (9)1686〜 ( 6年) 松平氏(結城) 10万石 白河(福島)へ
 (10)1692〜 ( 8年) 松平氏(奥平) 10万石 福山(広島)へ
 (11)1700〜 (46年) 堀田氏    10万石 佐倉(千葉)へ
 (12)1746〜 (18年) 松平氏(大給)  6万石 西尾(愛知)へ
 (13)1764〜 ( 3年) 幕府領
 (14)1767〜 (78年) 秋元氏     6万石 館林(群馬)へ
 (15)1845〜 (24年) 水野氏     5万石 版籍奉還



※山形城跡「霞城公園」案内文より



○家の系譜が重きをなす|松山城を築城した加藤家の末路


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厳格なピラミッド組織
優位性を貫いた徳川幕府

 本丸一文字門 (復元)
国指定史跡山形城跡「霞城(かじょう)公園」


※「菊と刀」 ベネディクト, 角田安正(訳) 光文社古典新訳文庫 2008
 第3章 応分の場を占めること p113-114


手短に言えば、徳川幕府の歴代の将軍は各藩内部の身分制度の固定化

を図り、各階層が領主に対して依存する状態を保とうとした。大名は各藩

における階層の頂点に立っており、下位の者に対して特権を行使する

ことを許されていた。



したがって、将軍が国を治めるにあたって大きな問題となったのは、いかに

して大名を統制するかである。将軍はあらゆる手立てを講じて、大名が互い

手を結んだり兵を起こしたりするのを阻んだ。



国境(くにざかい)には、関所手形や荷物を改める役人が置かれ、「入り鉄砲

と出女」を厳しく見張った。それは、大名が妻女(さいじょ⇒妻や娘)を国元に

逃がしたり、武器を密かに江戸に運び込んだりするのを防ぐためである。



いかなる大名も将軍の許しを得ずに縁組をすることはできなかった。大名

が縁組を通じて政治同盟を結ぶ恐れがあったからである。

藩と藩の間の交易も妨げられた。通行禁止になった橋もあったほどである。

幕府の隠密(おんみつ⇒スパイ)も、大名の台所事情を逐一報告してきた。

金蔵(かねぐら)が一杯になってきた大名は、将軍から費用のかさむ土木

事業を押し付けられた。その結果、その大名家の財政状態はふたたび

ほかの大名並みになった。



大名を縛る決まりの中で特に有名だったのは、参勤交代である。大名は

一年のうち半分を江戸で過ごし、国元に帰るとき、妻女は江戸に残して

おかなければならなかった。残された妻女は、将軍に預けられた人質と

いった体(てい)であった。このようにして幕府は支配を維持した。

そして、ピラミッド型の上下関係における優位性を貫き通した。




※ルース・ベネディクト(Ruth Benedict、1887-1948年)

 アメリカの文化人類学者。第二次世界大戦中、米国戦時情報局の依頼を受け、
 日本人の行動や文化の分析からその背後にある独特な思考や気質を解明。
 著書「菊と刀(The Chrysanthemum and the Sword)」において、「菊の優美」と
 「刀の殺伐」に象徴される日本人特有の複雑な性格の背景には「恥の文化」
 があるとした。


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江戸前期
生活・農業用水路の建設

七日町御殿堰(なのかまちごてんぜき) 山形市


「御殿堰(ごてんぜき)」は「山形五堰」の一つで、中心街を網の目のように

流れている農業用水堰です。寛永元年(1624年)当時の山形城主・鳥居忠

政公が、城濠への水の供給と生活用水・農業用水の確保の為、築造した

とされています。



山形城の城濠に流入する堰であった事から「御殿堰」と名付けられ、城下

の形成にも深く関係し、山形市の歴史的財産となっています。



現在も市街地を流れる清流は市民に憩いと安らぎを与え、下流域の農地

には農業用水として重要な役割を担っております。この親水空間は、山形

らしい町並みと景観を再現し、生活に潤いをもたらす昔ながらの石積水路

として復元されました。



※七日町御殿堰 案内文より



○水と生命|近代水道の歩みからみる人間の営み


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江戸前期
最上川舟運の繁栄

最上川の河口に位置する酒田港 (山形県酒田市)
(クレーンの向こうに細く見える水面が最上川の河口)


最上川河口の酒田は、南は大坂や瀬戸内、北は蝦夷地・松前など

全国から船が入港し栄えていました。江戸時代半ばには、年間約

三千艘(そう)の船が入港しています。



こうした繁栄は、寛文12年(1672)の河村瑞賢(かわむらずいけん)

による西廻(にしまわり)航路の整備によってもたらされました。

この整備の目的は、最上川流域に広がる幕府領の米を安全に

江戸に運ぶことにありました。



この西廻航路の発達ととに最上川舟運も一大発展を見せます。

米の外にも、紅花(べにばな:染料として利用)や青苧(あおそ:イラク

サ科の植物、衣服の原料として利用)など内陸の生産品が最上川を

通して全国に移出され、全国の物資(塩や塩魚など)や情報が内陸

に運ばれました。



※文翔館 案内文「歴史の道最上川」より|展示室「最上川は語る」



○生命の跳躍|海洋を統合的に理解する


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江戸前期
おくのほそ道

「最上川月山遠望 (六十余州名所図会)」 歌川広重(1797-1858)
国立国会図書館


※「奥の細道」 松尾芭蕉 二十八 最上川


最上川乗らんと、大石田(現山形県大石田町)といふ所に日和(ひより⇒天気)を

待つ。ここは古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花の昔を慕ひ、芦角一声(ろかく

いっせい⇒田舎に住む人々の風流)の心をやはらげ、この道にさぐり足して)、

新古二道(しんこふたみち⇒古風・新風のどちらか)に踏み迷ふといへども、

道しるべする人しなければと、わりなき一巻(ひとまき)残しぬ。このたびの風流、

ここに至れり。



最上川は、陸奥(みちのく)より出て、山形を水上(みなかみ)とす。基点(ごてん)・

隼などいふおそろしき難所あり。板敷山の北を流て、果ては酒田の海に入る。

左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。これに稲(いね)つみたるをや、稲船といふ

ならし。白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立つ。水みなぎつて

舟危うし。



五月雨を集めて早し最上川



※松尾芭蕉(まつお ばしょう、1644-1694年)
 江戸時代前期の俳諧師。現三重県上野市出身。幼名は金作。1689年3月27日、
 46歳の時に門人の曾良を伴い「おくのほそ道」の旅に出る。1694年、大阪にて
 永眠(51歳)。


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江戸中期
豊年と凶年を繰り返してきた延沢

足湯
延沢銀山に由来する銀山温泉


※「支流」 斎藤茂吉


荒町の東に延沢(のべざわ⇒現山形県尾花沢市)といふ部落がある。

延沢は、延沢(野辺沢)能登守の旧領で、旧城址、八幡神社、竜護寺

があり、六沢には観音堂がある。銀山の盛なころは延沢銀山と称(たた)

へた程である。



かういふ部落にも興亡の小歴史があり、豊年と凶年と相交代しつつ現在

に及んで居るのである。また、部落の古文書などに、『大雨洪水、村山郡

諸川沿岸被害多し』などといふのが屡見(しばみ⇒たびたび)あたるところ

を見ると、かくのごとき小さい川といへども大雨の時には恐るべき猛威を

示すことが必定である。大石田の川口が、大雨にあたつて驚くべき姿を

呈するのを実見して、以てその源をも想像することが出来る。



…銀山温泉の人目に附(つ)いたのは正保(しょうほう⇒1644-1648年)頃

だと云はれて居る。寛永(1624-1644年)頃になり漸(ようや)く人目を牽(ひ)

き、湯治する者があつまるに至つた。温泉は銀採掘の衰ふるにつれて

盛(さかん)になつた。


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江戸後期
凶作から始まった天童の駒作り

桜の咲く春に「人間将棋」が行われる舞鶴山山頂
山形県天童市


全国の将棋駒生産量の大部分を占める天童。桜まつりの期間中に舞鶴

山で行われる「人間将棋」や「百面指(ひゃくめんざ)し⇒100人の小学生

がプロ棋士と一気に対局を行うイベント」がよく知られます。



天童での将棋駒生産の起源は江戸後期。当時、連年の凶作もあって藩

の財政は厳しい状態に陥り、家計を補うため藩士が内職として始めたこと

に由来するそうです。



※「天童と将棋駒」 天童市観光物産課 平成21年より


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JG 4K 山形 天童桜まつり人間将棋
Tendo Sakuramatsuri Ningenshogi,Yamagata

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人々の幸福を祈り続ける即身仏
生と死が宿る霊山

 出羽三山 (でわさんざん)


山形県庄内地方にそびえる出羽三山(でわさんざん)は、月山(がっさん)・

羽黒山(はぐろさん)・湯殿山(ゆどのさん)の総称。独立した三つの山が

あると思いがちですが三山は一連の山であり、月山を主峰(1984m)に、

北に羽黒山(414m)、西に湯殿山(1504m)があります。



出羽三山は古くから生と死が宿る霊場とされ、僧が山に籠り厳しい修行

を行う修行道(しゅげんどう)の場とされてきました。



江戸時代から明治時代の初めにかけて、飢餓による社会不安が度々起

こりました。修行僧(⇒行者:ぎょうじゃ)は衆生の苦しみを代行し救済する

為に、穀物を断ち山草や木の実だけで命を繋ぐ木食(もくじき)を行い、自

らの穢れを取り除きます。その後、土中に作った石室に入り、鉦(かね)を

打ち鳴らしながら読経を行います(⇒土中入定:どちゅうにゅうじょう)。



鉦(かね)の音が地上の人に聞こえなくなると(⇒息が絶えると)、一旦掘り

起こしてから再び埋め、千日後に三世(過去・現在・未来)の人々の幸福

を祈り続ける生き仏(即身仏⇒不死)になるとされます。



日本国内には十数体の即身仏が現存すると言われますが、そのうち

7体が出羽三山周辺の寺院に祀られています。



※現存する湯殿山行者の即身仏 (即身仏名・所在・本寺・入定年)
 (1)本明海 本明寺(山形県鶴岡市) 注連寺 1683年
 (2)忠 海 海向寺(山形県酒田市) 注連寺 1755年
 (3)真如海 大日坊(山形県鶴岡市) 大日坊 1783年
 (4)円明海 海向寺(山形県鶴岡市) 注連寺 1822年
 (5)鐵門海 注連寺(山形県鶴岡市) 注連寺 1829年
 (6)鉄竜海 南岳寺(山形県鶴岡市) 注連寺 1881(明治14年)か
 (7)仏 海 観音寺(新潟県村上市) 注連寺 1903(明治36年)


※出羽三山修験道の変革−湯殿山行者とその弟子たち− 2015.01
 講師 山澤学 先生 筑波大学人文社会科学研究科 准教授
 会場 筑波大学東京キャンパス文京校舎116教室
 変革期の社会と人間U−「破壊」と「再生」の歴史・人類学− 第1回

※破壊と再生の歴史・人類学―自然・災害・戦争の記憶から学ぶ
 伊藤純郎・山澤学(編著) 筑波大学出版会 2016



○苦しみぬき、人のためにする天地|より偉大なる人格を懐にして


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メメント・モリ
汝は死を覚悟せよ

出羽三山の主峰・月山(がっさん)山頂 (1984m)


出羽三山は三つの世界にたとえられ、羽黒山は現在(今世)、月山は過去(死後)、

湯殿山は未来(来世)をあらわしているそうです。三山巡りは、この世を生きて死

に未来に蘇る三界を巡ることだとされ、死後とは、死に瀕(ひん)する(⇒今にも死

に陥るような境地)のこととされます。




ラテン語のメメント・モリ(memento mori)には、「死を記憶せよ」や「死を覚悟せよ」

といった意味があり、中世ヨーロッパにおいて死と生を表す芸術作品のモチーフ

となりました。



○私たちの生涯|生と死の狭間にある「時」を歩む


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過去・現在・未来
三世を生きるこの身に霊は宿る

羽黒山五重塔 (国宝)


※「奥の細道」 松尾芭蕉 二十九 出羽三山


六月三日(1689年)、羽黒山に登る。図司左吉(ずしさきち)といふ者を

尋ねて、別当代会覚阿闍利(べっとうだい えがく あじゃり⇒社寺の

代表代行である会覚老師)に謁(えつ)す。南谷の別院に宿(やど)り

して憐愍(れんみん)の情こまやかにあるじせらる。


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明治時代
山形県の誕生

 初代山形県庁舎 1877(明治10)年-1911年(明治44)年
(山形大火により焼失)


○イザベラ・バードの日本紀行(上) イザベラ バード. 時岡啓子(訳)
 講談社学術文庫 2008 第24信 7月16日、金山にて p330-331


人口2万1000の繁栄する町であり、県都である山形は、ちょっとした高台

のよい立地にあり、それに加えて県庁が本通りのいちばん上(かみ)という

ほかより抜きんでた位置にあるので、日本の町としてはめずらしく引き立

って見えます。どの都会も郊外は貧弱で、県庁の高くて白い新庁舎が低

い灰色の街並みの上に見えるのにはとても驚きました。



…政府の建物は相変わらずお菓子屋さんのような様式であるとはいえ、

ベランダを足して改善されています。県庁、裁判所、附属上級学校を

備えた師範学校、警察署の建物は、どれも立派な道路や見るからに

裕福な町の雰囲気にふさわしいものです。



…何人もの警官が全員洋服に身を包み、それに加えて西洋式の物腰

のまねをしており、全体としてその結果は悪趣味丸出しとなっています。



※イザベラ・ルーシー・バード(Isabella Lucy Bird, 1831-1904年)
 イギリスの女性冒険家。1878(明治11)年、横浜に上陸したのち、
 欧米人では初めて東京から東北の内陸を経て北海道を巡り、
 各地の文化・習俗・自然を記した。



○日本の権力を表象してきた建造物|日本人の自我主張

○よこすか はじめて物語|近代化の礎を築いた横須賀製鉄所


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忘れられた子どもたち
生活のために子を売る

「最上川月山遠望」 歌川広重 国立国会図書館


※「忘れられた子どもたち」 宮本常一(著). 田村善次郎(編) 八坂書房 2015
 母の悲願 子を売る p48-50


羽前(うぜん⇒山形県に相当、明治1年〜明治3年に存在)最上川地方は

ことに(⇒殊に:とりわけ)生活の窮迫(きゅうはく)の甚(はなは)だしかった

所で、その子どもを年期をきって(⇒年数を区切って)売る風があった。

しかもその子たちは磐城(いわき⇒福島県東部から宮城県南部)や常陸

(ひたち⇒茨木県北東部)の方へ連れて来られたのである。(中略)



…人売(ひとうり)の男や老婆がこれをつれて来たもので、中には逃げない

ように縄でくくって連れて来たのもあった。(中略)



…このような風習は単に奥羽や漁村にだけ見られたものではなかった

と思われ、われわれ(著者の宮本常一氏は山口県周防大島生まれ)の

郷里に伊予(現愛媛県に相当)のあたりから子どもを買ってくる風習が

あった。



※宮本常一(みやもとつねいち、1907-1981年)
 民俗学者。日本各地を調査し、表立って語られることのなかった庶民
 の生き方を研究。武蔵野美術大学教授などを務める。著書に「民俗学
 への道」「日本人を考える」「忘れられた日本人」など。


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生まれ出る生命の否定
堕胎間引き



※「忘れられた子どもたち」 宮本常一(著). 田村善次郎(編) 八坂書房 2015
 母の悲願 堕胎間引き p52-54


もっと悲惨であったのは生まれ出る生命を否定しなければならぬことであった。

(中略)



北上地方(岩手県南西部)から三戸(さんのへ⇒青森県の岩手寄り)方面など

を歩いて見ると、ワラス河原だの地獄沢だのという地名があって、そこには

このようにして死んだ子どもを藁ごも(⇒わらで編んだむしろ)などに包み

捨てたのだといわれている。



土地の人たちの言葉によると、今でも暗い夜などそういう所で子どもの霊の

泣き声を聞くことがあるとのことだが、その日の暗い悲しみがまだ人びとの

胸に生きているからであろうかと思われる。

(中略)



昭和15年の秋11月、山形県の山中を訪れた時、私のささやかな調査に

もっともよく協力して下さった老人が、「どのようなことでもいいから聞い

てくれ、決して隠すことなく申し上げよう」というので、「間引きはなかった

か」と率直に聞くと、「ありました」と答えて自らがその犠牲になろうとした

一人であったことを語った。



上にはすでに二人の男があり、三番目のことなので、トリアゲ婆(⇒助産

婦)は始末するつもりであった。しかしできたのは男の子であり、元気の

よい泣き声を聞いては、たとえどのように生活が苦しかろうとも育てよう

という気になったという。「よい母でありました」という老人の言葉に嘘は

ない。その子を育てるために人一倍の苦心もしたのである。


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昭和時代
沖縄で戦った山形県民

山形歩兵第32聯隊之跡(れんたいのあと)|山形城跡「霞城(かじょう)公園」
(陸軍歩兵第32連隊の本部があった地)


明治を迎え、山形城跡地に誕生した陸軍歩兵第32連隊。日清戦争・日露戦争を

経て太平洋戦争終結まで存在したそうです。



太平洋戦争では、戦況の急迫に伴い一個大隊をミクロネシアのメレオン島に派遣。

その後、主力は転進して沖縄防衛を担います。



沖縄防衛32連隊は、山形県・北海道・沖縄県の出身者で編成され、およそ3,000人

が投入されました。5ヶ月にわたる過酷な戦いの中で将兵の9割が戦死します。

敗北が決定的となった時点の残存兵はおよそ250名。しかし、その後も日本軍は

沖縄南部の国吉台とウテル原台に留まり戦いを続け、さらなる悲劇を生みました。

終焉を迎えた時の残存兵は100人に満たず、山形県出身の戦没者は776名に

のぼったとされます。



○平和と独立を守る防衛省|すべての国々、すべての方々に感謝の気持ちを

○みんなで創る美ら島|未来のおきなわ

○Dear Kitty|ずっと誰よりも大切なキティへ


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九州を守備した東国兵士
防人

「対馬海岸夕晴 (六十余州名所図会)」 歌川広重


※万葉集 巻20 4346

 父母が頭掻き撫で幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる  (丈部稲麻呂)

⇒父母が頭を撫でて「元気でいてくださいね」と言った言葉が忘れられない。



※万葉集 巻20 4425

 防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず  (読み人知らず)

⇒防人(さきもり)に行くのはどちらのご主人かしら」と悩みもせずに聞く

 人を見るとうらやましい。




7〜8世紀(奈良〜平安)にかけて編纂されたといわれる日本最古の歌集「万葉集」。

巻14や巻20には、東国地方を詠んだ「東歌(あずまうた)」や九州の要地を守備し

た人々が詠んだ「防人歌(さきもりうた)」が収められています。



防人(さきもり)は、飛鳥から平安時代にかけて存在した律令制のもと、大陸から

の侵入を防ぐため九州北部の沿岸や壱岐・対馬に派遣された兵士のことで、

主に東国の人びとが担いました。



任期は3年。東国から九州までの移動は個人で負担しなくてはならず、任期が

終了しても故郷に帰るのは困難であったといわれます。



○いにしえから今を生きる私たちへの伝言|奈良


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悩みもだえる人間の姿
死にたまう母

明治から昭和にかけて山形では養蚕(ようさん)が盛んに行われました


※「赤光」 斎藤茂吉 新潮文庫 2000
 6.「死にたまふ母」 大正二年 p36-56 (「其の一」から「其の四」まで全59首)


○其の一 (抜粋)

みちのくの母のいのちを一目(ひとめ)見ん一目みんとぞいそぐなりけれ (3首)

 ⇒山形に住む母の命があるうちに一目会おうと急いでいる



吾妻やまに雪かがやけばみちのくの我が母の國に汽車入りにけり (8首)

 ⇒吾妻山に輝く雪が見えると母のいる我が故郷に汽車は入った



朝さむみ桑の木の葉に霜ふれど母にちかづく汽車走るなり (9首)

 ⇒朝の寒さに桑の木の葉に霜が降が降っていて、母に近づく汽車が走っている




○其の二 (抜粋)

はるばると薬をもちて來(こ)しわれを目守(まも)りたまへりわれは子なれば (12首)

 ⇒はるばると薬をもってきた私を見守って下さる。私は子であるから



死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる (16首)

 ⇒死に近い母に添い寝して、静まり返った遠い田んぼのカエルの声が
  天まで聞こえそうだ




桑の香のくただよふ朝明に堪へがたければ母呼びにけり (17首)

 ⇒桑の青くさい香りが漂う朝方に耐えきれず母の名を呼んだ



死に近き母が額を撫(さす)りつつ涙ながれて居たりけるかな (20首)

 ⇒死に近い母の額をさすりながら涙が流れていた



母が目をしまし離(か)れ來て目守(まも)りたりあな悲しもよ蚕(かふこ)のねむり
(21首)

 ⇒母を離れて見守ってみれば、ああ悲しい、蚕が眠っているようだ



我が母よ死にたまひゆく我が母よ我(わ)を生(う)まし乳足(ちた)らひし母よ
(22首)

 ⇒私の母よ、死んでししまわれた私の母よ、私を生んでお乳を飲ませてくれた
  母よ




ひとり來て蚕(かふこ)のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり (25首)

 ⇒一人で蚕の部屋に来て立てば、私の寂しさは極まっていった




○其の三 (抜粋)

うらうらと天に雲雀(ひばり)は啼きのぼり雪斑(はだ)らなる山に雲ゐず (38首)

 ⇒うらうらとひばりが鳴きながら天にのぼり、まだらになった雪山は雲が見えない




○其の四 (抜粋)

かぎろひの春なりければ木の芽みな吹き出(いづ)る山べ行きゆくわれよ (40首)

 ⇒がげろうがたつ春には木の芽が吹き出す山をゆく私



遠天(をんてん)を流らふ雲にたまきはる命(いのち)は無しと云へばかなしき (56首)

 ⇒遠い空を流れる雲に、命がないといえばかなしい


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雲が赤くなった、血のように
人間の魂の叫び

「叫び」(1910?) エドヴァルド・ムンク オスロ市立ムンク美術館


夕暮れに道を歩いていた

一方には町とフィヨルドが横たわっている

(※フィヨルド:fjord、ノルウェイ語ほか⇒氷河によってできた複雑な入り江)

私は疲れていて気分が悪かった

立ちすくみフィヨルドを眺める

太陽が沈んでゆく

雲が赤くなった 血のように

私は自然をつらぬく叫びのようなものを感じた

叫びを聞いたと思った

私はこの絵を描いた

雲を本当の血のように描いた

色彩が叫んでいた

この絵が<生命のフリーズの<叫び>となった



※「生命のフリーズ」はムンクの連作。フリーズ(Frieze)は建築の装飾帯のこと。
※ムンク展―共鳴する魂の叫び(Munch: A Retrospective)
 東京都美術館 2018年10月27日〜2019年1月20日


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死と愛、孤独と憂鬱
生の不安

舞鶴山山頂より 天童市


  「物心がついてから、生の不安が僕から離れたことはない。

  僕の芸術は自己告白だった。

  生の不安も病もなければ、僕はまるで舵のない船だったろう。」




ノルウェイを代表する画家、エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch, 1863-1944年)。

幼少期に母を、青年期には姉を共に結核で失います。



20歳を過ぎた頃には、画家クリスチャン・クローグを通じて、作家ハンス・イェ

ーゲルを中心に集まった芸術家や知識人グループと知り合い、ノルウェイの

因習(いんしゅう⇒古くから伝わり、弊害となっているしきたり)と抗(あらが)う

急進的なボヘミアンの活動に参加します。イェーゲルは「汝、自らの人生を

記せ」と唱え、古い価値観を捨てるよう促しました。



ムンクは生涯を通じて、死と愛、孤独と憂鬱、不安や絶望といった魂の叫び

を絵のモチーフとしました。



※ムンク展―共鳴する魂の叫び(Munch: A Retrospective)
 東京都美術館 2018年10月27日〜2019年1月20日
※ムンク展 Edvard Munch:The Decorative Projects
 国立西洋美術館 2007年10月6日〜2008年1月6日



○森と湖が広がる北欧の国フィンランド|不屈の精神から新たな地平へ


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平成時代
多様化するスポーツ・レクリエーション

山形県総合運動公園 天童市


山形県総合運動公園は、広域公園として、平成4年に開催された第47回

国民体育大会(べにばな国体)を契機に県民のスポーツ活動や多様化

するレクリエーション活動の場として整備されたそうです。



敷地内には、競技場や野球場・テニスコート・プール、いこいの広場など

があり、スポーツ・レクリエーション・散策・植物観賞など、様々な利用が

できる公園です。



○競技スポーツと生涯スポーツの融合を目指す|スポーツクラブ・マネジメント

○Discover Tomorrow|新たなスポーツ文化の確立


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出羽三山に由来する
モンテディオ山形

NDソフトスタジアム山形 山形県天童市


Jリーグに加盟するモンテディオ山形。チーム名の「MONTEDIO」はイタリア語

の造語だそうで「MONTE」は「山」、「DIO」は「神」を意味し、山形を代表する霊

山・出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)にちなんでいるそうです。



○春の訪れを告げるカーニバル|祭りに託した人間の願い


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情報が氾濫する現代
情報の嘘を見抜くために

山形市街


昨今、インターネット上で商品やグルメなどに関する口コミや評判を目に

する機会が多くなりました。



口コミや評判を書くライターと企業をつなぐサイトには約100万人以上の

登録があり、記事を書くにあたっての経験は不問で、報酬をもらって

書いているそうです。(一方、日本で記者を専門としている人は約2万人

といわれてます)



また、某ショッピングサイトの「おすすめ」の順番は、出展者の広告料

の多い順に掲載するステルス・マーティング(消費者に宣伝と気づかれ

ないように宣伝するステマ商法)であったことが知られています。



○情報の嘘を見抜くために

 (1)鵜呑みにしない (批評する精神を持つ)
 (2)情報源を確認する
 (3)この情報はどの立ち位置なのか考える
  保守的なのか、リベラル的なのか
  事実(確定情報)なのか、見立て情報(推測、評論、意見)なのか
  ⇒ 事実と見立てを分けて捉える
 (4)複数の情報を突き合わせる
 (5)行間を読む (構造的に捉える)



※情報の嘘を見抜くために 2018.10
 講師 徳山喜雄 先生 立正大学文学部教授
 平成30年度 立正大学文学部 公開講座「氾濫する情報の接し方」



○善と悪を兼ね備える人間|善の基礎となる個人性の実現


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関心ある情報にしか触れず
知らぬ間に偏見に陥る



※「閉じこもるインターネット グーグル・パーソナライズ・民主主義」
 イーライ・パリサー. 井口耕二(訳) 早川書房 2012
 訳者あとがき p297-299


インターネットにおける検索の結果や各種サイトで提示されるニュースなどは、

ユーザー個人の嗜好や興味関心とは関係がないと考えるのが普通だろう。

いわば辞書を引いたり新聞を読んだりするのと同じであり、誰がやっても同じ

結果が得られるはずだと。



…ところが最近のインターネットは、いつのまにか、自分が興味を持っている

ことや自分の意見を補強する情報ばかり見えるようになりつつあるらしい。

たしかにインターネットの世界にはあらゆる情報が存在しているが、その情報

と我々のあいだにフィルターが置かれ、そのフィルターを通過できる一部の

情報だけが我々に届く状態になっているのだ。しかも、このフィルターは一人

ひとりに合わせてパーソナライズされている。つまり、いま、我々が見るインタ

ーネットは一人ひとり違っていることになる。本書の著者は、これを「フィルタ

ーバブルに包まれている」と表現する。



…フィルターバブルの登場でインターネットの体験は大きく変化した。まず、

自分の興味関心に関連のある情報が得やすくなったことが挙げられる。



…もちろん、落とし穴となるデメリットもある。…まず、思わぬモノとの出会い

がなくなり、成長や革新のチャンスが失われる。知らないモノと出会うと知的

好奇心が刺激され、人間はそれを原動力に成長や革新を実現する。ところ

がフィルターバブルはさまざまなものをいつのまにか隠してしまうため、知ら

ないことを知りたいという強い気持ちが生まれない。



さらに、自分の言動をもとにフィルターがパーソナライズされると、パーソナラ

イズのもととなった言動を強化する情報ばかりがはいってくるようになり、その

情報で強化された言動をもとにパーソナライズが強化され…という具合にル

ープしてしまう。フィルターバブルの膜は厚くなる一方なのだ。


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言葉の裏にある潜在的な意味
コノテーション

鶴岡公園の桜 鶴岡市


平安時代語として現在残されているのは、文学作品が中心である。「古今集」

「源氏物語」と様々な作品があり、現代人にも鑑賞されている。しかし、それら

の作品に使われている語彙(ごい)を本当に我々が理解できているかというと、

そこにはかなり怪しい部分がある。なにしろ1000年前の言葉である。



ただ、その中には、現代語と通じる部分も明らかに存在する。たとえば、

<桜の花は命が短くて、はかない>という潜在的な意味(含意、コノテーション)は、

平安時代の作品によく見られる。これは偶然、現代語にまで同じ意味が連続

しているために、古典語を理解しやすいのであるが、そうでない場合がある。



「宿りして春の山辺に寝たる夜は、夢の内にも花ぞ散りける」(古今集、春下、紀貫之)



これは男性が女性と一夜の契りを交わす(⇒同衾:どうきん)というイメージを

表現するために「春の山辺」を女性のメタファー(暗示的な例え)として用いた

ものであるいう(※王朝和歌研究の方法 近藤みゆき 笠間書院 2015 p314)。

だとしたら、「春の山辺」は、男性から見た「女性」なのであり、男性歌にしか

使われないことは納得できる。



※平安時代語の話し手の言語感覚
 講師 近藤泰弘 先生 青山学院大学教授
 主催 国立国語研究所
 共催 NHK放送文化研究所
 会場 一橋大学 一橋講堂
 NINJALフォーラム第13回「日本語の変化を探る」 2018.11



○人間の幸不幸を凝視する物語文学|源氏物語

○新たな息吹に包まれる桜舞う頃


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現代日本語の変化
「上下関係」から「相手への丁寧さ」へ

鳴子峡のトンネルを通る電車(鳴子温泉駅-中山平温泉駅間)
東北本線・小牛田駅と奥羽本線・新庄駅を結ぶ「奥の細道湯けむりライン(奥羽東線)」


世の中が多様化し、人々の生活や文化が変わる中で、ことばも変化していく。

ことばの新しい使い方は、初めは「日本語の乱れ」とされるが、人々が認識

するようになると「ゆれ」となり、定着すると「変化」として受け入れにれるよう

になる。



慣用句やことばによっては、もともとその語がもってた意味とは、異なる

解釈での使用が広がることがある。例えば「やばい」は、元々「身に危険

が迫るさま。あぶない」の意味であったが、近年では「すごい」といった良

い意味で使われるようになってきている。



また、「あげる」は本来謙譲語であるが、近年、丁寧語としての使用が

増えてきている。「花に水をあげる」という表現を使う人は増加の傾向

にある。これは敬語が「上下関係」を表すものから「相手への丁寧さ」

を示すものへと変化していることをうかがわせる。



※ことばの調査に見る現代日本語の変化
 講師 滝島雅子 先生 (NHK放送文化研究所 主任研究員)
 主催 国立国語研究所
 共催 NHK放送文化研究所
 会場 一橋大学 一橋講堂
 NINJALフォーラム第13回「日本語の変化を探る」 2018.11


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実現していない
民主主義

山形県旧県会議事堂 議場ホール 文翔館


※日本国憲法 前文

 …ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。



昭和21(1946)年11月に交付された日本国憲法の前文にて、民主主義が

日本の歴史上初めて宣言されました。民主主義は国民すべてに等しく

政治的な権利を認め、国民全員で政治を行い、みずから統治すること

を指します。



民主主義が始まってから70年が過ぎた現在。しかし、その実態は懐疑的

で、実現していないと考える政治学者は少なくないといわれます。



民主主義を測る視点としては「政治的腐敗がおこっていないか」「軍部支配

から自由であるか」「政権交代ができるか」「一党独裁が続いていないか」

といった項目が挙げられますが、日本において戦後に政権交代したのは、

1947年(1年足らず)と1993年(1年足らず)、2008年(3年)の3回。



日本では政権交代にかかるコスト(⇒民主化のコスト)を支払うより、開発

や経済成長のために長期政権を容認してきた風潮があるといわれます。




一方、有権者の方に目を向けると、有権者が政策を合理的に判断する

ことは難しい側面があるといわれます。



政党や候補者を選択するにあたっての判断基準には、「政策の争点を

認知しているか」、「その政策の争点が有権者にとって重要であるか」

といった項目が挙げられますが、このような基準で判断している有権者

はわずか3%に過ぎないといわれます。



1940年のアメリカ大統領選において、有権者の投票行動を科学的に分析

したエリー調査(オハイオ州エリー郡における調査)では、有権者の投票を

大きく左右するのは候補者の公約ではなく、社会経済的な地位や宗教、

居住地などであり、誰に投票するかは選挙を行うずっと以前から決まって

いると指摘されています。



このようなことから、投票にあたって政党や候補者の公約を合理的に判断

するというよりは、有権者の過去の家庭環境や現在の社会的な立場、候補

者の知名度や見た目、キャッチコピーといった要素が大きな決め手となっ

ています。



※日常課題としての民主化問題 2018.11
 講師 椛島洋美 先生  (横浜国立大学 教授)
 会場 横浜国立大学 教育文化ホール
 主催 横浜国立大学大学院国際社会科学研究院
 公開講座「現代の経済政策と民主主義的決定の再考」


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私が欺かれるなら
私は存在する

蔵王エコーラインの紅葉


※「神の国」 アウグスティヌス 第11巻 第26章


私たちは存在し、私たちの存在を知り、そのように存在し、知っていること

を愛している。いま述べた、三つのことがらにおいては、真なるものに似た、

どのような虚偽も、私たちを惑わすことがない。私たちがこれら三つのこと

がらに触れるのは、外界に在るものの場合にはそうであるように、なんらか

の身体的な感覚によってではないからである。



私たちはたとえば見ることで色を、聞くことで音を、嗅ぐことで匂いを、味わう

ことによって味を、触れることで堅いものと柔らかいのを知る。私たちはまた、

そうした感覚的なものについては、それらに類似していながら物体的ではな

い像をもち、その像を思考によって思いをめぐらし、記憶で保持し、またそう

した像によってそれらのもの自体を欲求するように刺激もされるものである。



私が存在し、私がそれを知り、愛していことは、私にとってもっとも確実で

ある。そこには表象や、表象によって想像された像の、ひとを欺く戯れが

介在しないからである。これらの真なるのにかんしては、「きみが欺かれて

いれば、どうか?」というアカデメイア派のひとびとの反論も私は恐れない。

私が欺かれるなら私は存在するからである。存在しない者は、欺かれる

ことありえない。だから、私が欺かれるなら、私は存在するのである。



※「西洋哲学史 古代から中世へ」 熊野純彦 岩波新書 2006
 第11章 神という真理 p173-174



○絶望から美しさを見い出す|太宰治「人間失格」

○苦しみに満ちている人間の生からの救済|ショーペンハウアー


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神という真理
内面への帰還、自己の超越

 蔵王の樹氷


※「真の宗教」 アウグスティヌス 39/72節


外に出てゆかず、きみ自身のうちに帰れ。真理は人間の内部に宿っている

そしてもしも、きみの本性が変わりゆくものであることを見いだすなら、きみ

自身を超えてゆきなさい。しかし覚えておくがよい、きみがじぶんを超えて

ゆくとき、きみは理性的なたましいをも超えてゆくことを。だから、理性の光

そのものが点火されるところへ向かってゆきなさい。



…きみが真理それ自身でないことを告白しなさい。真理は、自己自身を探

し求めないけれど、きみは探しとめることで真理に達するからである。



※「西洋哲学史 古代から中世へ」 熊野純彦 岩波新書 2006
 第11章 神という真理 p178



○善すなわち美|自己内対話によって培われる無私の精神

○イノベーションは内生的・自発的に生まれる


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世の移ろいを超えたもの
循環する水

天台宗 宝珠山立石寺(りっしゃくじ:山寺) 山形市


春につぼみが芽吹き、夏には葉のみどりが盛りを迎えて、秋とともに

年老い、冬が訪れるうちに、みどりは死に絶えて、まためぐりくる新た

な春に、いのちはふたたび甦る。

植物ばかりではない。動物もまた生まれ、成長して、やがては死を

迎える。すべては移ろい、変わってゆく。とどまるものはなにもない、

かにみえる。



とはいえ、誕生し、成長して、老いて死を迎えることの繰り返しそのもの、

動物や植物の成長や繁栄であり、衰退や枯死(こし)であれ、そのような

ことがが反復してゆく、循環それ自身、ひいては、季節の移り変わりや

太陽の経年変化、天体の運動そり自体は移ろうものではない。

繰り返しは繰り返され、反復は反復し、循環自身は、いつまでも循環する。



…植物や動物の誕生と成長、死滅に目を向けるなら、このような反復と

循環はそれ自身、水の存在と深くかかわっているように思われる。植物は

水によって育てられ、水を失うことで動物は老い、植物は死んでゆく。

老いた人間の男女は、体内の水分を喪失することで、ひとまわりちいさく

なり、荒廃した森の木々は、水気を亡くして枯死している。

水は、たしかに、それら「いっさいの存在者の構成要素(ストイケイア)」

である。

−そればかりではない。水が、くりかえし循環することが、おそらくは、

反復と循環のいわば「範型」(パラデイグマ)である。



※「西洋哲学史 古代から中世へ」 熊野純彦 岩波新書 2006
 第1章 哲学の始原へ|世の移ろいを超えたもの p7-8



○人類から遠く離れた孤独の中に住む 世界の本質

○生命の跳躍|海洋を統合的に理解する


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自然と人間の共生
人間力を育てる山形大学

山形大学 小白川キャンパス 山形市


3つの使命「地域創生」「次世代形成」「多文化共生」を掲げる山形大学。

山形市・米沢市・鶴岡市の3地区に4つのキャンパスがあり、創立は

明治11年の山形県師範学校までさかのぼるといいます。



山形大学では「自然と人間の共生」をテーマとして、教育・研究及び

地域貢献に取り組み、国際化に対応しながら、地域変革のエンジン

としての存在感のある大学を目指しているそうです。



2017年度からは、総合大学の利点を生かした幅広い教養教育と学問

の実践に必要な学習技能・知識・能力の修得、及び社会に出たときに

力強く生きる力「人間力」の基盤をつくることを目的とした基盤教育プロ

グラムがスタートしています。



○UNIVERSE|自然科学と精神科学の両側面

○個性化の過程|自分が自分になってゆく


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参  考  情  報


○鳴子温泉郷観光協会公式サイト/宮城県大崎市鳴子温泉

○銀山温泉 〜 大正浪漫の郷愁を感じるノスタルジックな町並み 〜

○宝珠山 立石寺

○山寺観光協会

○山形県旧県庁舎及び県会議事堂(文翔館) - 山形県ホームページ

○山形県郷土館「文翔館」|公益財団法人 山形県生涯学習文化財団

○山形県立博物館

○縄文の女神ホームページ|山形県舟形町

○山形美術館

○最上義光歴史館

○山形市役所

○山形県天童市公式ホームページ

○てんどう観光物産ナビ|天童市観光物産協会

○羽黒町観光協会 | Haguro Tourist Association

○日本遺産 出羽三山 生まれかわりの旅 公式WEBサイト

○湯殿山 注連寺

○徳川将軍家祈祷寺 湯殿山総本寺瀧水寺大日坊

○出羽三山神社 公式ホームページ

○やまがたへの旅/山形県観光情報ポータルサイト

○消えた山形 〜 黄昏の風景

○最上川電子大事典|国土交通省 東北地方整備局 山形河川国道事務所

○光のことば、言葉のひかり--見つけた歌を書き継ぎます - 短歌のこと

○ninjal国立国語研究所

○山形県の歴史散歩 山川出版 2011

○おくのほそ道 全訳注 久富哲雄 講談社学術文庫 1980

○芭蕉「奥の細道」内なる旅 立松和平 佼成出版社 2007

○芭蕉の旅はるかに 海野弘 アーツアンドクラフツ 2005

○菊と刀 ベネディクト, 角田安正(訳) 光文社古典新訳文庫 2008

○歌集 赤光 斎藤茂吉 新潮文庫 2000

○山形 志賀直哉

○イザベラ・バードの日本紀行(上・下) イザベラ バード. 時岡啓子(訳)
 講談社学術文庫 2008

○忘れられた子どもたち 宮本常一(著). 田村善次郎(編) 八坂書房 2015

○出羽三山修験道の変革−湯殿山行者とその弟子たち− 2015.01
 講師 山澤学 先生 筑波大学人文社会科学研究科 准教授
 会場 筑波大学東京キャンパス文京校舎116教室
 変革期の社会と人間U−「破壊」と「再生」の歴史・人類学− 第1回

○破壊と再生の歴史・人類学―自然・災害・戦争の記憶から学ぶ
 伊藤純郎・山澤学(編著) 筑波大学出版会 2016

○ドキュメンタリー 即身仏の科学|Discovery Channel

○東歌・防人歌 近藤信義 コレクション日本歌人選 2012

○読み継がれる千二百年の歴史 万葉集と日本人 小川靖彦 角川選書 2014

○西洋哲学史 古代から中世へ 熊野純彦 岩波新書 2006

○閉じこもるインターネット―グーグル・パーソナライズ・民主主義
 イーライ・パリサー. 井口耕二(訳) 早川書房 2012

○劣化するオッサン社会の処方箋
  なぜ一流は三流に牛耳られるのか 山口周 光文社新書 2018

○特別展「縄文―1万年の美の鼓動」
 東京国立博物館 平成館 2018年7月3日〜2018年9月2日

○ムンク展―共鳴する魂の叫び(Munch: A Retrospective)
 東京都美術館 2018年10月27日〜2019年1月20日

○NINJALフォーラム第13回「日本語の変化を探る」 2018.11
 ・東北アジア言語地域の一言語としての上代日本語 ⇒変更
  ジョン・ホイットマン 先生 (コーネル大学 教授)
 ・平安時代語の話し手の言語感覚
  近藤泰弘 先生 (青山学院大学 教授)
 ・コーパスで見る現代語の確立過程 ―江戸・明治・大正―
  小木曽智信 先生 (国立国語研究所 教授)
 ・録音資料から知る,20世紀の日本語の変化
  丸山岳彦 先生 (専修大学 准教授)
 ・ことばの調査に見る現代日本語の変化
  滝島雅子 先生 (NHK放送文化研究所 主任研究員)
 ・パネルディスカッション
  塩田雄大 先生 (NHK放送文化研究所 主任研究員)
・主催 国立国語研究所
・共催 NHK放送文化研究所
・会場 一橋大学 一橋講堂

○「氾濫する情報の接し方」 2018.10
 ・右傾化の時代における情報の見分け方
  青木理 先生 ジャーナリスト、ノンフィクションライター
 ・情報による“分断”をどう防ぐか〜福祉番組の視点から〜
  熊田佳代子 先生 NHK「ハートネットTV」編集長
 ・"情報過多時代"、今何が問われているのか
  浅岡隆裕 先生 立正大学文学部社会学科准教授
 ・SmartNewsから見えるインターネットをめぐる課題
  〜フェイクニュース・低品質コンテンツ、フィルターバブルを考える〜
  藤村厚夫 先生 スマートニュース株式会社フェロー
 ・情報の嘘を見抜くために
  徳山喜雄 先生 立正大学文学部社会学科教授
・平成30年度 立正大学文学部 公開講座
・会場 立正大学品川キャンパス石橋記念講堂
・共催 立正大学文学部、品川区

○現代の経済政策と民主主義的決定の再考 2018.11
 ・「社会の意志決定ルール」を考える
  佐野隆司 先生  (横浜国立大学 准教授)
 ・国家の経済政策と「私たち」−財政社会学の観点から−
  茂住政一郎 先生 (横浜国立大学 准教授)
 ・日常課題としての民主化問題
  椛島洋美 先生  (横浜国立大学 教授)
・横浜国立大学大学院国際社会科学研究院

○国際協力−現場からの発信6 2018.11
 ・メディア情報の課題、対立の要因、イスラエル現地レポート
  辻岡政男 先生 JICA東京・横浜センター講師
 ・政府開発援助(ODA)とJICA事業
  石亀敬治 先生 JICA横浜市民参加協力課長
 ・異文化適用、お雇い外国人、南インド・ペルー現地レポート
  辻岡政男 先生 JICA東京・横浜センター講師
 ・エジプト、世界文化遺産と日本の協力
  中村三樹男 先生 大エジプト博物館合同保存プロジェクト統括
 ・国際交流のすすめ、モロッコ・バルト三国現地レポート
  辻岡政男 先生 JICA東京・横浜センター講師
 ・タンザニアの教育事情
  中村悠 先生 横浜市立上の宮中学校 主幹教諭
 ・パラグアイにおける格差解消にかかる取り組み
  藤掛洋子 先生 横浜国立大学大学院教授
 ・体験的国際協力から21世紀を見つめて
  山田保 先生 松陰大学客員教授
 ・放送大学神奈川学習センター


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