ポール・ゴーギャンの最高傑作

我々はどこから来たのか、我々は何者か、
我々はどこへ行くのか


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    我々はどこから来たのか
       我々は何者か
          我々はどこへ行くのか




■ゴーギャンの最高傑作


 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」


 ○日本初公開!

 ○1936年にボストン美術館に所蔵されてから、
  この作品がアメリカ合衆国外で公開されるのは今回が3例目だそうです。

 ○1897-1898年製作 ボストン美術館所蔵



■作品製作の背景


 ゴーギャンは1回目のタヒチ滞在からパリに戻りましたが、

 タヒチ時代の作品は理解されず、絵は売れませんでした。


 また一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、

 パリに居場所を失ったゴーギャンは、再びタヒチに渡航します。


 しかし健康状態の悪化と財政の逼迫した日々が続き、

 そんな中、最愛の娘の死を知ります。


 自ら死を決意したゴーギャンは遺言としての大作

 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の

 製作に着手します。



○自然の美しさ、ゆったりと流れる時間 タヒチ




■ゴーギャンの言葉


 ●私は、死を前にしての全精力を傾け、ひどい悪条件に苦しみながら、

  情熱をしぼってこれを描いた。


  そのうえ訂正の必要がないくらいヴィジョンがはっきりしていたので、

  早描きのあとは消え、絵に生命が漲ったのだ。


  これには、モデルだの、技術だの、規則だのと言ったものの匂いはない。

  このようなものから、私は、いつも自分を解き放ってきた。


  ただし、時には不安を覚えながらね。



  「タヒチからの手紙」岡谷公二 訳 昭森社 1980年より抜粋



 ●私は12月に死ぬつもりだった。

  で、死ぬ前に、絶えず念頭にあった大作を描こうと思った。

  まるひと月の間、昼も夜も私はこれまでにない情熱をこめて仕事をした。



  「モンフレー宛書簡 1898年2月」



 ●私はこの作品が、これまでに描いたすべてのものよりすぐれているばかりか、

  今後これよりすぐれているものも、これと同様のものも、決して描くことは

  できないと信じている。



  「モンフレー宛書簡」



○人生終焉の美 「お世話になった方の散骨式」



■絵画の特徴


 ●人間の生の様々な局面が、一連の物語のように展開



 ●ゴーギャンは自身を犬に例えて、

  これまで何点かの作品で登場させている。



 ●画面右下には大地に生まれ出でた子供



 ●左上の紫色の着物の二人の女性と下の裸の女性は、

  文明人と野蛮人の対比?(パリとタヒチの対比?)

  (ゴーギャンは自らを文明人ではなく野蛮人だと言っている)



 ●中央には果実を取る若い人物は、

  旧約聖書に記される最初の女性エヴァが禁断の果実を取る姿を模している?


 ●左部分には死に近い老いた老婆

  この姿勢をゴーギャンは他の絵でも何度か描いている。


  題材は実在しているペルーのミイラ?(ケ・ブランリー博物館所蔵)



 ●老婆の足もとにいる、トカゲをつかんだ白い鳥は、

  言葉の不毛さを表している?



 ●背後にはポリネシアの月の神ヒナ(再生を司る)の偶像が立ち、

  彼岸を指し示している?



 この大作の発するメッセージは何なのか。

 ゴーギャン自身はそれについて明確な説明を残していないそうです。



○国立西洋美術館にあるゴーギャンの絵画


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かぐわしき大地

大原美術館



○倉敷美観地区にある大原美術館

○オルセー美術館展で展示されていた「黄色いキリストのある自画像」



かぐわしき大地
1892年
大原美術館
浅瀬(逃走)
1901年
ブーシンキ美術館
洗濯する女たち、
アルル
1888年
ニューヨーク近代美術館
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ポール ゴーギャンの生涯


■ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン
■1848年〜1903年(54歳)
■フランス人




●幼少期

 ○1848年二月革命の年、パリに生まれる

 ○革命後の新政府弾圧を恐れ南米ペルーへ

 ○父ちゃん急死

 ○パリに帰国(1855年)



●10代

 ○帰国後は新学学校へ通う

 ○航海士になる

 ○その後、数年間は海軍に在籍



●20代

 ○株式仲介人として成功

 ○絵画を始める

 ○印象派の画家カミーユ・ピサロとお友達に



●30代

 ○1833年、株大暴落により34歳にして画家に専念する。

 ○南仏アルルでゴッホと共同生活



●40代

 ○タヒチへ渡る(1回目)

 ○健康状態の悪化や経済的困窮のために一度帰国

 ○タヒチでの作品を売るも理解されず

 ○家族にも受け入れられず再びタヒチへ(2回目)

 ○娘アリーヌの死によって深い悲しみと絶望に襲われる。

 ○遺言的な大作
  「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」
  を仕上げる



●50代

 ○1903年、心臓病によって死去



○今を生きる...


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東京国立近代美術館




○国立近代美術館 常設展の絵画

○近代美術館のレストラン「アクア」



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参 考 情 報


○東京国立近代美術館

○フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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