ハプスブルク 最後の皇妃
エリザベート



絶世の美女 エリザベート皇妃の数奇な運命


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ハプスブルク家

フランツ・ヨーゼフ1世


戦争は他に者に任せておくがいい、

幸いなるかなオーストリアよ、汝は結婚すべし



13世紀に勃興して20世紀初頭まで

約650年という長きに渡ってヨーロッパに君臨したハプスブルク家は、

巧みな結婚政策によって勢力を拡大し、

神聖ローマ皇帝の皇帝位をほぼ独占したそうです。



○ハプスブルク家ゆかりの地「ウィーンの森から音楽便り」


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エリザベート皇妃

フランツ・クサファー・ヴィンターハルター作《オーストリア皇妃エリザベート》
1865年(28歳のエリザベート)



エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ。


オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。

「シシー」の愛称で知られているそうです。




運命のいたずらなのか、舞い込んで来るはずもなかった皇妃になった時から、

運命の歯車は奇妙な軋みをたて始めたそう。



○オーストリア皇后エリザベトの夏の離宮 アヒリオン宮殿



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自由闊達だったという
少女時代




エリザベートはバイエルン王家(ドイツ)である

ヴィッテルスバッハ家傍系に次女として生まれました。



王位継承権からは遠く、公務とは無縁の彼女は、

少女時代、狩にいくなど自由闊達に過ごしていたそうです。



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汝は結婚すべし

ハンガリー王妃戴冠時のエリーザベート



ハプスブルク家は、家訓「戦争は他の者に任せておくがいい、

幸いなるかなオーストリアよ、汝は結婚すべし」に倣(なら)い、

若き皇帝フランツ・ヨーゼフの后(きさき)にプロセインとの縁組を目論見ますが、

ビスマルクの横槍が入ってあえなく挫折してしまったそう。



次にバイエルン王国のプリンセス、エリザベートの姉である

ヘレーネとの縁組を画策したそうです。



○江戸時代、離婚する為に女性が駆け込んだ鎌倉・東慶寺



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嫁ぐのは姉ではなく
次女のエリザベート



シシー15歳。



姉のヘレーネとオーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフとの

お見合いのため、母とつきそいのシシーは、

オーストリアのバート・イシュルに向かったそう。



ところが、フランツ・ヨーゼフは自由闊達にのびのび振舞う愛らしい

シシーに一目ぼれしてしまったそうです。



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ヒステリーを起こした
お后教育



皇妃となるための詰め込み教育が始まると、

狩やサーカスが大好きで勉強嫌いだったら彼女は、

ストレスから何度もヒストリーを起こしたそうです。



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嫁姑戦争の勃発

フランツ・ヨーゼフ1世の母 ゾフィー大公妃


ハプスブルク家の一員になるも、さしたる覚悟も準備もなく、

社交界も知らず、宮廷で規則ずくめの毎日、山ほどの公式行事に、

たちまち悲鳴をあげたそう。



皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の母ゾフィからしてみれば、

皇妃となった以上、個を殺して帝国の安定第一と心得なければ

この動乱のヨーロッパを乗り切れない。



おしゃれや遊びを優先させる嫁に自覚を促そうと必死だったようです。



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子供が生まれるも...



結婚翌年、早くも長女が生まれます。

ゾフィにしてみれば、大事な孫をこんな未熟な嫁に預けられない...



しかし、エリザベートはゾフィの反対を押し切り、

無理やりその娘をハンガリーの長旅へ連れ出し、病死させてしまったそうです。



それ以来、エリザベートは子育てを諦め、

ゾフィはますます嫁への不信感を募らせていったそう。



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モデルさながらの
プロポーションを維持するには




エリザベートは3人も子供生みながら、

身長170cm、体重50Kg、ウエスト50cmという

ファッションモデルのようなプロポーションを維持していたそうです。



このプロポーションを維持する為、

過激なダイエットに励み、乗馬、フェンシング、吊り輪、

鉄アレイなどもの凄い運動量をこなしたそうです。



また髪の毛は、卵入りコニャックで毎回3時間もかけて手入れしていたそうです。


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絶大なる美の力
最大の敵は「時」



絶大なる美の力。



1年の大半を国外で暮らし、いわば職場放棄をしていても

民衆のエリザベート人気は揺るがませんでした。



しかし、美には時間という敵が...



エリザベートは若さを失っていくにつれて人前に

顔をさらすのを極端に嫌がったそうです。



○生と死のはざ間にある「時」を歩む

○美しい女性を象徴する花 ピオニー


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息子のピストル心中



エリザベートの息子ルドルフは、

ゾフィーのもとで次期皇帝として手塩に育てられました。



エリザベートは我が子でありながらわが子のように思えず、

互いの感情はすれ違ったままだったそうです。



ルドルフは、

 母から拒絶されていると感じたこと、

 肉体的に頑健でなかったこと、

 結婚したベルギー王女との関係は不和であったこと、

 そして父親と政治的に対立するようになったこと などがあり、



 31歳、マイヤーリンクの狩猟館で、

 17歳の男爵令嬢とピストル心中をはかりました。



エリザベートは旅先から駆けつけ、柩にとりすがりって悲観にくれ、

その後、死ぬまで喪服を脱がなかったそうです。



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エリザベート暗殺

暗殺される前の最後の写真だそう



1898年、初秋のスイス。

エリザベートが蒸気船に乗るために湖畔を歩いていると、

男が体当たりして彼女をたおした。



細いヤスリで心臓を一突きされたため、ほとんど出血はなかったそうです。



犯人は、イタリア人アナーキスト。

男は犯行理由を「王族なら誰でも良かった」。



エリザベート享年61歳。



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参  考  情  報


○ハプスブルク帝国 加藤雅彦 河出書房新社

○ハプスブルク家12の物語 中野京子 光文社新書

○THE ハプスブルク展 2009年9月25日(金)〜12月14日(月) 国立新美術館

○フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

○Princess & Prince みいなさんのホームページ


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